柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

思想

2008-12-26 13:59:14 | Weblog
朝トラブルで、昼に書いてます。久しぶりです。
 年が暮れます。と言っても、いつもと同じように日は昇り日は沈みます、日常些事は当たり前に昨日と同じように流れていきます。やるべき事をこなすだけ。やるべき事を残さぬだけ。そして日が暮れ、朝を待つ。人の暮らしは繰り返しです。止まるまでの繰り返しです。倦まず飽かず。何故?生きねばならぬから。結果から眺めればそれも正しい。逆から見れば。いかにリセットできるか、この装置は大きいのです。即ち睡眠。人は眠るから繰り返せる。何回も何回も繰り返せる。まるで毎回違う出来事のように対応できる。十分な睡眠(もちろんその人にとって、です。何時間という話ではありません)と早寝早起き。せめていい状態を保つことくらいしか自らを処せないのですから、多くを望まず、地道に確実に繰り返すのです。時間の移ろいを愛でましょう。そして任せるしかない流れに棹さすのです。年が暮れます。心新たに。年に一度の大リセットですから。
 大阪橋下知事が文科省はバカだなんてやってます。それに同調する地域が出てきました、秋田県知事も先に行われた全国一斉(でしょう?)学力調査の市町村結果を公開すると言ってます。この知事が文科省や文相をバカ呼ばわりしたかどうかは知りません。が、教育委員会だけが結果を握るんじゃなくて広く公開せよ、そうして学力向上に資せよというのが橋下知事の言い分で、全くの正論なんですが、反対勢力(教育委員会、今の文相もそうです)はステレオタイプに同じセリフです、過度の競争を誘発する、学校間の序列化を助長する、これはいけないことだと。何がいけないんでしょうね。あなた方が過熱した受験戦争を是正するが為に(それはあくまで大義名分でしたが)ゆとり教育などと言うぬるま湯に子供たちを放り込んで以来、現状がもたらされているのです。そういう反省もなく、問題意識もなく、単純な横並び礼賛、胸の悪くなるような「結果の公平」強制が現代の教育崩壊をもたらしているのです。ソ連が潰れたことで証明された社会主義共産主義の人間社会運営体制、思想としての不適切さと同じように、この平等公平至上イデオロギーは文化文明の発展には寄与しないばかりか社会を破壊することがこの何十年の実験で判明しているのです。どこの学校が優れていると知らせることがどうしていけないことなのでしょう。人には才能の差はつきものなのです。集団全体のレベルを上げようとするとき、あなたならどうしますか。十年前、高校のPTAやっていたときに教務主任とやり合ったことがあります、彼はこう言いました(こういう対策を講じました)赤点の基準を引き上げますと。平均点の40%を50%にしますとかなんとか言ってました。びっくりするでしょう?しません?下をひっぱり上げようと言うわけです。私は言いました、気持ちはわからぬではないが、下を持ち上げても上が変わらなければ全体の話にはならない。全体を上げるには、トップクラスの連中の尻をもっと叩いて、褒めてそやして煽ってもっともっと勉強させる。すればその下にいる連中達にも火がつく。潜在的に能力のある連中にその気を起こさせねば全体は上がっていかない。その為には下の者達じゃなく(全体の平均点を引き下げているところをなんとかしようという考えなんでしょうが)、上をもっと押し上げることだと。格差社会じゃないですが、全体のレベルを上げるというのはピンとキリとの間が大きく開いていくことです、そして多数群が段々好成績方向に寄っていくこと。ピンとキリとの構成比はどの集団でも大概一緒です。だからその間の群をどう引っ張り上げるかなのです。成績公表する、自分に位置を確認する、さらに上をめざす。そう言う動機なくしてやる気が生まれますか?より厳しい場所を選んで行くも良しです。その為の学力考査でしょう。レベルアップを図るためのものでしょうに。毎日新聞は社説で言います(不思議に朝日も日経も今朝は知らん顔でした、明日辺り書いてくるんでしょうが)数字や順位がかつてのように独り歩きし、現場に再び混乱や萎縮、偏見を生む恐れを懸念せざるを得ないと。現場に混乱があったんですか?萎縮や偏見があったんです?成績公表して偏見を生んだ?なにくそ!と思ったものでしたがねぇ。あいつに負けられるかと思って勉強したものですがね。それが萎縮や偏見を生む?この人達にかかると、自分が一番に一般人を差別しているくせに、あくまで弱者の味方を気取ってます。どちらが正しいですか?橋下知事でしょう?秋田県知事でしょう?
 
コメント
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