柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

反戦思想

2006-12-10 09:54:06 | Weblog
しつこいですけど陸上アジア大会、なかなか勝てないですね。おしいとか残念とか、果ては天候や気候、環境、コンディションの所為にする論調。こんな事じゃぁ、百年河清を待つばかり。所詮は個人の資質におんぶするだけで、関係団体の力というのはどこにあるのよ?人ばっかり(運動バカばっかり)抱え込んで金ばっかり食う何ちゃら協会の多いこと。日本が強い種目は、他の国がやらない(女子レスリングが典型)か、あるいはたまたま何十年に一度の優れ物がぽっといる(水泳、男子体操、女子マラソン)だけのことです。悲しいかな日本では優れ物でも世界の舞台に出るとボロボロなんです、昔の瀬古宗兄弟がそう、ちょっと前までの競泳陣しかりでしょう。マスコミ報道もいい加減に素直にやれと言うんです、いい例がサッカー、バレーボール。格上の格下ののと言い募って挙げ句に格下の相手に大負け。「思わぬ惜敗、油断!」なんてね、大本営発表なんですよいつまでたっても。で、それで済ませてしまうんでしょうよバカ幹部連中が。「ま、ええか。次だ次だ!」なんてね。英才教育とやらで才能を潰してきた愚はいつまで繰り返されるのでしょうか。「頭が筋肉」とスポーツ畑出身の芸能人を揶揄しますが、いいえ、一番のスポーツ馬鹿は協会の幹部にずらりと雁首並べているのでしょう。若い頃の歴々たる戦績こそがバカの証拠ですから。嗚呼・・
 NHK朝ドラ「芋たこなんきん」見ておられますか。前作が朝ドラのいわば王道、若い女性の健闘成長物語でしたが、今回も主流の一つ関西弁こってこての大阪物語、主役に藤山直美を持ってきての気合い十分ものです。彼女は仕草や喋り口、間の取り方、その随所に父藤山寛美を登場させながら嫌味の一歩手前まで引っ張り行きます。さすがだと思いながら、多くの人が私と同じように彼女見ながら藤山寛美を見ているんだろうなぁと思いながら観ています。今、まさに大阪が大空襲に合う前後の場面で進行しています。軍国主義がきしみ、形式ばかりが強要される、つまり精神で勝つなんて方向しか残されていなかった時代です。知識で知っていたこと、各校に必ず設置されていた教育勅語と御真影とを奉納しておく社(名称忘れました)が焼失して、その責任をとって校長が自殺するという話が出てきます。教育勅語を読み間違えただけで自殺した校長もいたとの話を聞いたことがあります。形式至上主義ここに極まれりですが、日本人とすればありがちなことでもあります。この流れの中で、甥を戦死させて自分は身重の女性に「おなかの子が男なら戦争に持って行かれてしまう」とよよと泣き崩れさせる場面を作ります。そして、どうせ今に動員されて勉強なんかできはしないと学校に行かない男子中学生に「こんなけったいな時代、何で早う終わらへんのや」と言わせます。別に戦争礼賛するのではありませんし、北朝鮮で言う先軍体制、天皇絶対、軍事最優先体制のきしみがぎしぎし聞こえているし、前にも後戻りもできない時代の断末魔が聞こえているのですが、でも、この時代に日本人は生きていたのです。主人公を軍国少女に描いて、その葛藤を通して反戦を訴えるという手法なんでしょうが、いつものことながら思います、正論振りかざして否定してばかりでは何も進みません。脚本家の思想の問題でもあるのでしょうが、NHKの方針でもあるわけです。身重の女やら子どもやらに喋らせるは、マスコミという大宣伝媒体を利した洗脳手段でもあるわけですが、まぁ、そういう咎めはその強い手段を持たない者の小唄でしかないので情けないのはこっちの方なんですが、繰り返し繰り返し飽かず倦まず反戦反体制を刷り込もうとする手口にはうんざりします。誰もが反戦なんです。でも、やむない理由があればこその選択であったのです。何故、そう考えないのでしょうか。クーデターやら革命が起こったのではないのです、選択すべき人が選択して、允可すべき人が允可した戦争なのです。この考え方、決して私だけがとんがりすぎているのではないと思います。でも、昨日の話、女が政治を為していれば、戦争、殺し合いという事態だけは回避できたかも知れませんね。こう話を進めてきても、そう思います。
コメント
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