ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

意外な名字が本名だった(映画評論家の佐藤忠男)

2022-03-25 00:00:00 | 映画

映画評論家の佐藤忠男氏が亡くなりましたね。彼の出身県である新潟県の地元紙の記事を。やっぱり地元紙ですと、記事の熱さが違いますね。

>映画評論家の佐藤忠男さん死去 新潟出身
91歳 アジア映画発掘、紹介に尽力
2022/3/22 0:05
(最終更新: 2022/3/22 18:38)

 新潟市中央区出身で日本を代表する映画評論家の佐藤忠男(さとう・ただお、本名飯利忠男=いいり・ただお)さんが17日午後6時40分、胆のうがんのため死去した。91歳。葬儀は近親者で営んだ。

 海軍の少年兵として終戦を迎えた。戦後に見た米国映画の華やかで楽しげな世界に感動し、新潟市で電電公社などに勤務しながら、映画雑誌への評論の投稿を重ねた。注目されて上京し、雑誌「映画評論」「思想の科学」の編集長を務めた。

 1970年代後半、当時はほとんど知られていなかった東南アジアなどの映画を発掘。80年代以降、国内外に紹介する取り組みをライフワークとした。

 「日本映画史」(全4巻)、「黒澤明の世界」など多数の著書を発表。日本映画学校(現・日本映画大)の学校長などを歴任して後進育成に力を注ぎ、新潟市の安吾賞の推薦人にも名を連ねた。旭日小綬章のほか、2019年には文化功労者に選ばれた。

 11年4月からは本紙朝刊に映画評「週刊シネマスコープ」を連載。20年1月から7月まで、コラム「映画と来た道」を執筆した。

 平易な語り口で映画の魅力を発信し続けるとともに、アジア映画研究の第一人者として欧米以外の映画に光を当て、国際交流に努めた功績は高く評価されている。文化功労者に決まった後、新潟日報社の取材に「映画は世界がすてきだということを教えてくれる。評論執筆はそのことを広く知らせる職業」と語っていた。

◆映画へ人へ愛あふれ 県内関係者悼む
 「映画評論は、見る人が自分なりの答えを探す手掛かりとなるように」-。新潟市出身の映画評論家佐藤忠男さんは、生涯映画を愛し、魅力を伝え続けた。映画を見る人、作る人を支え続けた歩みに、家族や県内の映画関係者から悼む声と感謝の言葉が聞かれた。

 近年、佐藤さんの仕事をサポートしためいの林友実子さん(46)=横浜市=によると、佐藤さんは胆のうがんを患いながらも、ことし1月半ばまで評論を書き続けた。

 「常に自分に問い掛け、考え抜いて言葉をつづっていた」と林さん。「批判したり、押し付けたりするのではなく、人それぞれの考えでいいんだよという広い心で、映画にも人にも向き合っていた」と佐藤さんのまなざしを振り返った。

 講演などで佐藤さんが訪れた新潟市中央区の市民映画館「シネ・ウインド」支配人の井上経久さん(54)は「映画評論のパイオニア。日本映画学校や日本映画大学を通じて、後進の指導にも努め、日本映画界を長い間、サポートしていただいた」と功績をたたえる。

 佐藤さんと長年の付き合いがある同館代表の斎藤正行さん(72)は昨年11月、佐藤さんが帰郷した際にも親交を深めた。「お元気そうだったが、新潟に来るのは最後という思いがあったかもしれない」と語る。「佐藤さんの仕事を継承していくのが残された者の務め」と悼んだ。

彼も90歳を超えているので、大丈夫かなと思っていましたが、お亡くなりになりましたね。この記事も、やや予定稿めいている感があります。あまり健康がすぐれないという情報は伝わっていたのでしょう。私も彼の本は何冊も読んでいます。ご冥福をお祈りいたします。

さて以降はどうでもいいネタですが、佐藤忠男というのは、本名ではなかったわけです。

>本名飯利忠男=いいり・ただお

というのが彼の本名だったわけです。そういえば、どこで聞いたのかは覚えていませんが、佐藤忠男って本名ではないというのを何かで読んだことがあります。あるいは、2019年の文化功労者になった際だったかな。映画評論家でそれになったのは、佐藤氏が初めてのはず。また科研費の関係では、本名が記載されていましたね。こちらを参照してください。

それにしても「飯利」ってのもあまり聞かない名字ではありますね。こちらによると

>【名字】飯利
【読み】いいり,いいとし

【全国順位】 16,208位
【全国人数】 およそ330人

同名字は、東京都、新潟県、神奈川県などにみられる。
この名字について情報をお持ちの方は「みんなの名字の由来」に投稿いただくか(※無料会員登録が必要です)、「名字の情報を送る」よりお寄せください。

とのことです。佐藤氏こと飯利氏は、都内在住で(たしか引っ越していなかったら世田谷区に住んでいたはず)新潟出身ですから、たぶん東京や神奈川の飯利さんも、新潟がルーツの人が多いのかもですね。

「飯利」という名前が佐藤氏のもともとの名前なのか、奥さんのほうの名字を継いだのかそのあたりは当方知りませんが、たとえば早逝した格闘家の山本徳郁も、本名は、岡部徳郁というものでした。「山本」は旧姓だったとのことですが、Wikipediaの注釈にリンクされているこちらの記事を見ると、診断書の名前は確かに「岡部」となっていますね。これまたどういう事情で岡部姓なのかは定かでありませんが、よくわからんこともたくさんあります。「人民日報」の下にリンクする記事はコンパクトにまとまっていて読みやすいので、興味のある方はお読みになってください。

日本人の名字は30万種類 「鼻毛」や「御手洗」も

この記事ぜんぜん映画と関係ないじゃん、なんで「映画」のカテゴリーなんだよと思われる方もいるかもですが、「映画」のカテゴリーの記事を最大限増やしたいための便宜的な措置です。映画評論家の方についての記事なのでというデタラメな理由です。乞うご容赦。なお珍名さんについては、過去いくつか記事を書いていますので、興味のある方はお読みになってください。

肝付兼太氏の死でちょっと考えたこと

珍名さんているんだなと思った

これはかなりの珍名だと思う(大したことのない犯罪者の実名を書くのはどうかだが、警察官なのですこし厳しく)

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「天使にラブ・ソングを…」を観てちょっと考えたこと(本日から通常の1日1記事更新に復帰)

2022-03-16 00:00:00 | 映画

タイトル通り、本日(3月16日)から通常の1日1記事更新となります。

それでは本題の記事に。今日の記事は、評論とか批評でない単なるエッセイです。それを最初に断っておきます。

「午前十時の映画祭」で「天使にラブ・ソングを…」が、「シカゴ」とのカップリングで公開されていました。観ていまして、ちょっと印象に残ったところを。なおストーリーの決定的な部分は書きませんが、ネタバレもありますので、知りたくない方は以下お読みにならないでください。

 

 

 

 

 


いいですか? 書きますよ。今日書きたいことは3つです。

まず最初は、この映画でのウーピー・ゴールドバーグの扮する歌手は、作り手が、つまり監督や脚本家、プロデューサー、出演者らが意識したかどうかはともかく、たぶんなんらかの発達障害のたぐいがありそうだということです。閉ざされた生活で、実に無意味にギャーギャー騒ぎまくる。主人公に限らず登場人物が無意味に騒ぐというのは、特にコメディ系のアメリカ映画あるいはテレビドラマやネット配信のドラマなどのお約束に近いものがあるかと思いますが、たぶんああいうのって、発達障害の人間の騒ぎまくる態度や、非常識な行動、衝動的な行動を、「発達障害」という概念を認識していたかどうかはともかく(今は違うでしょうが、昔はたぶんそうではないのではないか)、けっきょくそういったことを「面白い」と考えて、ネタにしているということでしょう。実際、すごい映画監督というのは、発達障害や精神障害がありそうなところはあります。溝口健二黒澤明はそっちの系統だし(黒澤はそこまでいかないかもですが、溝口は完全にある種の精神障害があったと私は考えています)、スピルバーグジョージ・ルーカスもそういうたぐいの人たちです。ヒッチコックなども相当な変人だったらしい。脚本家や俳優なども、その種の人間数知れず。そう考えると、たぶんですが、映像作家というのは、騒ぐような人間と親和性が強いのでしょう。まあこれは、映画評論家・映画批評家・映画ライターとかも、そのようなところがあるでしょうね。淀川長治とか水野晴郎らには、明らかにそのような部分を感じます。ちなみに私の個人的な意見を書きますと、あの種の無意味な騒ぎ方というのは好きでありません(苦笑)。きいていて不快になるだけです。私も自分を相当に発達障害の要素の強い人間だと考えていますが、たぶん本当の発達障害の人たちと比較すれば、私の発達障害など大したことはないのでしょう。

それはともかく、その次は、映画の途中の次のようなところです。殺されそうになる尼僧姿の主人公を、組織の殺し屋が大要「シスターは殺せない」とか言い出して殺すのを躊躇します。これはもちろん映画ですから、大げさには描いています。しかしこのくだりは、人間の奥底にある心理を物語っていることも間違いないでしょう。

なんだかんだ言って人間、自分が何らかの形でかかわっている宗教に対しては、それ相応の思いがあるものです。これは特定の教義を持つ宗教に限りません。たとえばアニミズムなんかも、特に日本人には、相当強い影響があるかと思います。一例を出しますと、宜保愛子なんて人が出てきて、人形にはなんとかかんとかというようなことを述べて一世を風靡した背景には、日本人の根強いアニミズム信仰があるでしょう。私も正直、普段は彼女なんて馬鹿にしていますが、やはりそういった心理を完全に払しょくするにはいたっていません。

たぶんですが、キリスト教原理主義者でなくても、ごく一般のキリスト教信者に「イエスが復活したとかいう話は、全くのウソデタラメの宗教的フィクションだ」とかそういうたぐいのことを話したら、先方少なくともいい顔はしないでしょうね。あからさまに「そうではない」とは言わなくても、「お前みたいな非信者からそんなこと言われたくない」くらいの対応ではないか。おなじようなことをたとえばイスラム教徒に、酒は飲まないとか豚肉は食べないとかいう戒律はまったくもってナンセンスだかとか話せば、あらぬトラブルが起きそうです。複数の奥さんを持てるなんて、現代社会に通用するものではないとか言っても、やっぱり嫌な顔をされるのではないか。

なおここで断っておきますと、複数の配偶者を男性が持っていいというのは、もともとは戦争における寡婦救済の意味合いがありました。そういう事情を当方も理解しないではないですが、さすがにこれは、法律という枠組みでは不可にしたほうがいいんじゃないんですかね。今の時代そうそう戦争が起きるわけでもないし。また事実そういう扱いにだんだんなっています。

そして最後が、映画にでてくる「ローマ法王」(現在はもっぱら「ローマ教皇」。ここでは都合により、映画の字幕標記にのっとります)が、遠い姿と後ろ姿のみの登場だということです。

ベン・ハー』(1959年のヴァージョン)で、イエス・キリストが正面から顔を出していないのと似たようなものですかね。もちろん映画としては、まったくコンセプトの違うものではありますが、どちらもあまりにえらすぎて、顔を出せないというところはあるのでしょう。なおトリビアを書いておきますと、この映画でイエスを演じたのは、オペラ歌手のクロード・ヒーターという人です。ごく最近までご存命で、2020年に亡くなっています。彼の素顔はこちら

ただイエスは、実在の人物ではあるが過度に伝説化されているという側面がありますが、ローマ法王(教皇)は、我々と同時代の実在の人物です。で、ここで登場する法王(教皇)は、映画の当時のヨハネ・パウロ二世という実在の人物というわけではなく、架空の法王(教皇)です。映画に出てくる大統領や首相みたいなものか。そういう存在であっても、やはり姿を直接出すというのは、映画の製作者たちははばかったということです。

もちろんいろんな映画で、イエス・キリストは表面から描かれているし、『ローマ法王の休日』なんて映画もあります。またエリザベス女王が、対独戦勝利の日に、一般人にまぎれて外出したなんて話映画になっています(『ローマの休日』の元ネタです)。そうでなくったって英国王室の話はいろいろドラマ化されているし(エリザベスを演じた女優たちのリストを参照)、日本の天皇も、ちょいちょい映画に登場しています。私は観ていないのですが、南北朝時代や明治維新のドラマなんか(NHKの大河ドラマなど)でも、天皇がでてくることもあるんですかね? Wikipediaで調べればいいのですが、今日はそこまではしません。ただ日露戦争とか太平洋戦争の話とかでないと、天皇を映画に登場させる意味合いが乏しいので、近現代(ポスト明治維新)の天皇が映画やドラマに登場するのは、明治天皇昭和天皇以外は、よほど政治情勢が変わらない限りもはやないでしょうね。過日の小室某氏と眞子さんの結婚の話をドラマ化したら、あるいは前天皇(上皇)

現天皇が出てくるかもですが、そんなドラマは作られないだろうし、たぶん作っても天皇は出ないのではないか。

話が飛びましたが、たとえば『明治天皇と日露大戦争』や『日本のいちばん長い日』といった映画で前者は明治天皇(嵐寛寿郎)、後者は昭和天皇が出てきます。松本幸四郎(八代目→のちの初代松本白鸚)が、67年のバージョンに出演しましたが、Wikipediaから引用すれば、

>エンディングの配役クレジットタイトルは、昭和天皇役の八代目松本幸四郎以外は登場順で表示されている。昭和天皇(演:松本幸四郎)については、重要な登場人物かつ存命で在位中の時代ということもあってか、クレジットもパンフレットにも紹介されていないなど、扱われ方に特別な配慮がされている。

という扱いだし、また

> 遠景と手や後姿、および声などで出演しており、その表情が画面上に映し出されることはない。

というわけであり、このあたり天皇へのタブーの踏襲ということでしょう。2015年のバージョン2015年のバージョンでは、これもWikipediaから引用すれば

>1967年(昭和42年)公開の前作では主要人物でありながら、公開時がいまだに本人の存命・在位中ということもあり「特別な扱われ方」がなされた天皇であったが、本作では「ひとりの人物」として描かれている。

>大東亜戦争を扱った映画の中で、昭和天皇の姿を明確に描いた最初の日本映画とされる

とのこと。演じているのは本木雅弘です。なおWikipedia「昭和天皇#昭和天皇を扱った作品

に、フィクションのドラマ(映画・テレビドラマ)で昭和天皇を演じた人物がリストアップされていまして、それを見ると、映画は歌舞伎の関係者が目立ちます。ドラもそうですが、こちらは、北大路欣也加藤剛といった人たちも出演しており、やはりテレビドラマの方が幅広いキャスティングをしています。イッセー尾形が昭和天皇を演じているのは、外国映画で、日本の映画会社やテレビ局などの持つタブー意識がないこともあるのでしょう。明治天皇も、アラカン以外の人はやはり歌舞伎関係者が多い。テレビドラマそうですが、中国制作の「走向共和」では矢野浩二が演じています。矢野は、中国では明治天皇や日本兵を演じて有名になりました。これもタブー意識がないからでしょう。最近では、NHK大河ドラマ 『西郷どん」で、野村万之丞が演じました。NHK大河ドラマに天皇が出てきたのも、やはりある程度天皇タブーが緩んできたということなのかと思います。なお1987年に年末時代劇として鳴り物入りで制作された『田原坂』には、明治天皇は登場していません。また『西郷どん』には、孝明天皇役で、中村児太郎が演じています。やはり能楽師の野村といい、歌舞伎とかそっちの系統の役者が演じることが望ましいと考えられているのですかね?

他はどうかとみてみると、かの藤島泰輔原作の『孤獨の人』では、当時の皇太子(現上皇)は、正面から顔は映されません。つまり扱いとしては、1967年ヴァージョンの『日本のいちばん長い日』と同じです。演じたのは、Wikipediaによれば、公募によってえらばれた黒沢光郎です。これは同時代(『日本のいちばん長い日』より、この点では、より配慮を必要とするということになります)の実在の人物という配慮でしょうが、これよりはるかにさかのぼる神話上の人物ですと、『日本誕生』では、三船敏郎ヤマトタケルを演じたり、二代目中村鴈治郎景行天皇(ヤマトタケルの父親)を演じ、さらには天照大神原節子が演じたわけです。これは、日本映画絶頂期の映画(観客動員のピークだった1958年の翌年59年の公開)であり、さすがに現在ではこのような日本神話を前面にとりあげた映画は企画もされないし制作もされないでしょうが、これも日本が何はともあれ民主化されたからのものではあります。

だいぶ話が飛びましたが、ともかく現在といってもだいぶ昔の映画ですが、その時代では、ローマ法王(教皇)をあからさまに出すことを映画会社はしなかったわけです。そう考えると『ゴッドファーザー PART III』で、ローマ法王(教皇)の暗殺事件(もちろん真相は定かでありませんが)が描かれたのは、あれは相当に映画のみならず社会のタブーに踏み込んだのだろうなと思います。あの映画を私はそんなに出来がいいとは思いませんが、その件は確かにすごい。

そう考えると、肩の凝らない娯楽映画かと思いきや、さまざまな文化の状況などをいろいろと私たちに提起してくれるのが、『天使にラブ・ソングを…』という映画なのでしょう。これだから映画というのは面白いし侮れないのだと思います。

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武満徹という人も、黒澤明から大島渚にいたるまで、幅広くいろいろな映画監督に音楽を提供する作曲家だった(渋谷で、彼が音楽を担当した映画の上映がある)(3月3日0:00ごろ更新)

2022-03-08 00:00:00 | 映画

武満徹という人は、本来は現代音楽家ですが、映画音楽の作曲家としても不世出の人物でした。Wikipediaにも

>武満は多くの映画音楽を手がけているが、それらの仕事の中で普段は使い慣れない楽器や音響技術などを実験・試行する場としている。武満自身、無類の映画好きであることもよく知られ、映画に限らず演劇テレビ番組の音楽も手がけた。

とあります。武満の担当した映画音楽については、こちらをご参照ください。なにしろ武満は、映画音楽をまとめて収録した複数のCDも出ています。こちらは、それを1つにまとめたもの。

オリジナル・サウンドトラックによる 武満徹 映画音楽

Amazonの紹介から引用します。

>内容紹介
日本が世界に誇る音楽家、武満徹。早いもので2006年2月20日で没後10年を迎えます。
1990年~91年にかけてシリーズ発売された『武満徹の映画音楽1:~6:』には彼の手がけた映画音楽作品のうち主要な41曲が収録されています。どれも珠玉の名曲ばかり。映画をこよなく愛し、音楽によって映画に力強い表現力を吹き込んできた大作曲家の功績を讃えるべくCD-BOXセットとして復刻、没後10年目の命日に発売いたします。

◇ タイトル:『オリジナル・サウンドトラックによる 武満徹 映画音楽』
◇ 商品構成:CD7枚組(特典盤1枚含む)
◇ 発売日:2006年2月20日
◇ 価格:\10,500(税込)

DISC-1 小林正樹 監督作品篇
1:怪談 2:切腹 3:燃える秋 4:からみ合い 5:日本の青春 6:化石

DISC-2 篠田正浩 監督作品篇
1:化石の森 2:沈黙 3:美しさと哀しみと 4:暗殺 5:異聞猿飛佐助 6:はなれ瞽女おりん
7:あかね雲

DISC-3 大島 渚・羽仁 進 監督作品篇
1: 愛の亡霊 2:東京戦争戦後秘話 3:夏の妹 4:儀式 5:不良少年 6:充たされた生活

DISC-4 勅使河原 宏 監督作品篇
1:他人の顔 2:サマー・ソルジャー 3:おとし穴 4:白い朝 5:砂の女 6:ホゼー・トレス
7:燃えつきた地図 8:利休

DISC-5 黒沢 明・成島東一郎・豊田四郎・成瀬巳喜男・今村昌平 監督作品篇
1:どですかでん 2:青幻記-遠い日の母は美しく- 3:四谷怪談 4:乱れ雲 5:黒い雨

DISC-6 市川 崑・中村 登・恩地日出夫 監督作品篇
1:京 2:太平洋ひとりぼっち 3:古都 4:二十一歳の父 5:紀ノ川 6:あこがれ 7:女体
8:素晴しい悪女 9:しあわせ

DISC-7(特典盤)
・武満徹が映画音楽制作について語り、映画に対する深い愛情が窺える貴重な対談他を収録!
1:けものみち(須川栄三 監督) 2:最後の審判(堀川弘通 監督)
3:錆びた炎(貞永方久 監督) 4:桜の森の満開の下(篠田正浩 監督)
5:対談『映画と私』 武満徹・秋山邦晴
「天平の甍」メイン・テーマ 「天平の甍」について
デビュー作「狂った果実」と音色への実験 「狂った果実」メイン・テーマ
「他人の顔」その録音風景 日本のヌーベルバーグの人たち
伝統音楽と「一音構造」 「切腹」より 映画音楽は演出された音楽
ミックスの重要性と作曲家の責任 「乾いた花」の録音エピソード
「乾いた花」のファースト・シーン 私の音楽と映画の関係

1990~91年にかけて発売された『オリジナル・サウンドトラックによる 武満 徹 映画音楽』
1:~6:(当時価格:各\2,500)に当時の全巻購入特典盤(貴重な対談音源ほか)1枚をプラスした7枚セットです。

武満の映画音楽の最初は、Wikipediaによれば、1955年の千葉泰樹監督『サラリーマン 目白三平』で、これは 芥川也寸志との共作でした。現在参照できるクレジットも、もっぱら芥川が出ています。遺作が、篠田正浩監督の『写楽』です。これが1995年の作品で、テレビも1955年から93年まで手がけています。武満は1996年2月20日に亡くなっているので、まさに死の直前まで映画音楽家であり続けたわけです。

そして武満がすごいのが、彼が音楽を引き受けた映画監督の幅広さです。私がタイトルにしたように、黒澤明から大島渚までの映画で音楽を担当しました。

黒澤作品で彼が音楽を担当したのが、『どですかでん』『』の2本です。『影武者』で黒澤映画常連の佐藤勝が途中で音楽を降りたので、黒澤は武満に代わりを打診しましたが、当時国外にいた武満はかわりに池辺晋一郎を黒澤に推薦、その後『乱』をのぞく黒澤作品を池辺は担当します。佐藤が『影武者』を降板したのは、黒澤が自分の音楽のイメージを佐藤に要求して納得しない佐藤が降りたということでした。これと同じことが『乱』であり、武満も降板直前まで行きましたが、なんとかそれは免れました。しかしその後武満が黒澤と一緒に仕事をすることはありませんでした。

大島作品は、初期は真鍋理一郎が作曲、1965年の『悦楽』を湯浅譲二が担当、その後はもっぱら林光が曲を手がけましたが、70年の『東京战争戦後秘話』から78年の『愛の亡霊 』までの音楽を担当しました(『愛のコリーダ 』は三木稔)。

儀式』や『愛の亡霊』での荘重な音楽から、『東京战争戦後秘話』でのモダン・ジャズ、『夏の妹』でののんびりした曲調のポピュラー系(フュージョンぽい?)の音楽など、大島映画での武満の音楽も、どれも幅広くヴァラエティに富んでいます。そして言うまでもなく、黒澤と大島の2人の映画監督の主要スタッフとして働いた人は、あまりいません。映画の方向も、所属していた映画会社も、映画の制作のありかたもまるで違った監督でしたから、ある意味当然です。その中でも、音楽については、武満徹が、黒沢映画は2作だけですが、共通のスタッフとして活躍したわけです。

あまり長々と文章を書いてもしょうがないので詳細は上のCD解説の引用、Wikipediaほかをご参照していただくとして、彼は同時代に活躍した実に様々な映画監督の音楽を担当しました。これは、彼自身が部類の映画好きであるが故の部分もあるかと思いますが、ともかくすごいものです。武満徹のようなまさに戦後日本の作曲の第一人者が精力的に映画音楽を担当してくれたことは、日本映画界にとっても最高の強運だったのかもしれません。

それで前置きが長くなりましたが、渋谷の映画館「シネマヴェーラ渋谷」で武満徹の映画特集があります。詳細はこちら。上述の黒澤、大島監督の映画は今回上映されませんが、篠田正浩監督、羽仁進監督、吉田喜重監督、恩地日出夫監督、勅使河原宏監督ほか武満が常連で音楽を担当した監督たちの映画を観ることができます。特にドナルド・リチーの映画(「熱海ブルース』)を武満が作曲していたなんて当方知らなかったので、これは「え!」です。なおこの映画は、この記事を執筆時点(2022年3月2日21時50分ごろ)では、上にリンクした武満の作品リストには掲載されていません。

武満が作曲した映画の上映会自体は、わりと定期的に催されているとは思いますが、やはりこういった催しでないとなかなか鑑賞するチャンスのない映画もありますので、こういったチャンスは逃したくありません。私も、成島東一郎監督の『青幻記』などは、絶対鑑賞する所存です。3月26日から4月15日まで。上映スケジュールはこちら。なお3月26日に、武満の娘さんである武満真樹さんの、4月2日に、ピアニストの高橋アキさんがゲストのトークショーがあるとのこと。行けるかどうかはわかりませんが、楽しみです。こちらの記事も参照してください。

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祝!!! 日活児童映画の上映特集がある(2022.4 /3~5/21まで7作品。都内の「ラピュタ阿佐ヶ谷」にて)(3月2日PM5:10 ごろ更新)

2022-03-07 00:00:00 | 映画

このブログでは、1970年代半ばから90年代にいたるまで制作された「日活児童映画」についてちょっとこだわっています。過去関連する記事として、次のような記事を発表しました。

昔、日活児童映画というのがあった

「透明ドリちゃん」についての情報、あと柿崎澄子についての話

情報(松田優作の駆け出し時代出演作にして、原田美枝子のプレデビューの映画である日活児童映画が、DVD化されていた)(追記あり)

立石涼子が亡くなった(たぶん彼女の唯一の映画主演作が、日活児童映画の『四年三組のはた』だと思う)

いまはそうでもないですが、2012年発表の上の記事は、2018年くらいまでは、検索サイトのかなり上のほうで拙記事が表記されていました。つまりは、日活児童映画について触れた記事などというものがあまりなかったということです。

それでタイトルにもしたように、今年の4月初旬から5月半ば過ぎまで7作品が都内杉並区阿佐ヶ谷にある「ラピュタ阿佐ヶ谷」で上映されます。日活児童映画の特集ページはこちら。

みんなの日活児童映画

抜粋して引用します。あらすじの紹介のくだりは割愛します。

>【上映日程】
4.3[日]-9[土]
新 どぶ川学級
1976年(S51)/日活/カラー/113分
■監督・脚本:岡本孝二/原作:須長茂夫/脚本:勝目貴久/撮影:森勝/美術:土屋伊豆夫/音楽:石川鷹彦
■出演:森次晃嗣、山本由香利、高野浩幸、熊谷俊哉、丘みつ子、夏純子、山本圭、吉永小百合

4.10[日]-16[土]
四年三組のはた
1976年(S51)/日活/カラー/86分
■監督:藤井克彦/原作:宮川ひろ/脚本:勝目貴久/撮影:水野尾信正/美術:徳田博/音楽:石川鷹彦
■出演:立石凉子、南美江、柿崎澄子、沢木由里子、岩本和弘、桑山正一、八木昌子、前田昌明、樋浦勉

4.17[日]-23[土]
先生のつうしんぼ
1977年(S52)/日活/カラー/93分
■監督:武田一成/原作:宮川ひろ/脚本:加藤盟、吉原幸夫/撮影:仁村秀信/美術:渡辺平八郎/音楽:八木正生
■出演:渡辺篤史、大橋伸予、木村政彦、中田光利、瀬島みつき、玉川良一、宇野重吉

4.24[日]-30[土]
お母さんのつうしんぼ
1980年(S55)/にっかつ児童映画/カラー/97分
■監督:武田一成/原作:宮川ひろ/脚本:勝目貴久、熊谷禄朗/撮影:前田米造/美術:菊川芳江/音楽:寺島尚彦
■出演:藤田弓子、久保田理恵、斉藤喜之、二宮さよ子、佐野浅夫、桜むつ子、宮下順子

5.1[日]-7[土]
ボクのおやじとぼく
1983年(S58)/にっかつ児童映画/カラー/90分
■監督:中原俊/原作:吉田とし/脚本:勝目貴久/撮影:森勝/美術:菊川芳江/音楽:石川鷹彦
■出演:飛高政幸、夏木勲、東山明美、三條美紀、葛西円、志喜屋文、花澤徳衛、井上肇、水島涼太

5.8[日]-14[土]
まってました転校生!
1985年(S60)/にっかつ児童映画/カラー/97分
■監督:藤井克彦/原作:布勢博一/脚本:佐藤繁子/撮影:鈴木耕一/美術:菊川芳江/音楽:石川鷹彦
■出演:皆川鉄也、蟹江敬三、入江若葉、佐藤愛、新井康弘、麻生えりか、中田喜子、佐野浅夫

5.15[日]-21[土]
夏のページ
1990年(H2)/にっかつ児童映画/カラー/92分
■監督・脚本:及川善弘/原作・音楽:みなみらんぼう/脚本:市川靖/撮影:野田悌男/美術:斎藤岩男
■出演:飯泉征貴、松田正信、近藤大基、三浦浩一、佐野史郎、小林かおり、桜金造、宮城千賀子

松田優作が出演したことでしられる『ともだち』は、おそらくDVDが発売された(ただし現在プレミア付き価格)こととあと動画サイトにアップロードされている(URLはここで明記しないので、興味のある方はご自分でお調べください)ので上映見送りかもです。実写映画で上映されないのは、あと1972年制作の『大地の冬の仲間たち』と1975年制作で八千草薫が主演したという『アフリカの鳥』、1978年制作『走れトマトーにっぽん横断300キロ』が今回は上映されませんね。正直日活児童映画は、VHS化も不十分であり、ましてやDVD化は『ともだち』くらいしかされておらず、日活系のCS放送会社であるはずのチャンネルNECOでも滅多に放送されない(昔は、たまには放送されてみたいです。最近では、滅多にありません)。VHSも、ネットオークションなどでも出回ることが少なくなっています。

そういうわけで、日活児童映画の鑑賞は、このような特集上映がねらい目です。興味のある読者の皆さま、同好の士、この記事を読んで興味を持ったかもしれないあなた、ぜひ観に行ってください。私は、全作品鑑賞する所存です。どの映画も楽しみですが、まだ30歳を過ぎたばかりの中原俊が監督した(当時にっかつの助監督から監督に昇進したばかりでした)『ボクのおやじとぼく』は、残念ながらあまり評価が高くないようですが、ぜひ観てみたいですね。それから、なぜかWikipediaの「日活児童映画」のリストにはありませんが、『新どぶ川学級』は吉永小百合の最後の日活映画出演じゃないですかね。特別出演としてのわずかな出演シーンだと思いますが、一番楽しみなのはこの映画ですかね。この映画は、VHSにもなっていないはず。ほかの映画も、若き日の佐野史郎が出演していたりと、興味深いにもほどがあるというものです。読者の皆さま、この機会を逃すのはもったいないよ。ぜひどうぞ。

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岩波ホール閉館のニュースを知り、あらためてミニシアターの運営の大変さを痛感する

2022-01-12 00:00:00 | 映画

昨日報じられて「おいおい」と思ったニュースを。

>東京・岩波ホール、7月29日で閉館へ コロナによる経営悪化で
小原篤、佐藤美鈴、編集委員・石飛徳樹2022年1月11日 17時11分

 ミニシアターの先駆けで、半世紀以上の歴史を持つ「岩波ホール」(東京都千代田区)が7月29日に閉館する。同ホールが11日、公式サイトで発表した。「新型コロナの影響による急激な経営環境の変化を受け、劇場の運営が困難と判断いたしました」という。

 本の街・神保町に1968年に開館した。200席ほどの規模で当初は多目的ホールだったが、知られざる名画を上映する「エキプ・ド・シネマ(映画の仲間)」運動を74年に始め、全国一律のロードショーではなく単館で芸術色の強い作品をかける興行スタイルをつくった。その成功にならい、後に続く館が生まれ、80年代にはミニシアターブームが起きた。

 インドのサタジット・レイ、ギリシャのテオ・アンゲロプロス、ポーランドのアンジェイ・ワイダ、日本の小栗康平や羽田澄子らの監督作など、上映作品は65カ国・地域の271本に上る。

 全国のミニシアターなどでつくる「コミュニティシネマセンター」の岩崎ゆう子事務局長は、突然の閉館発表に「日本の映画文化を担ってきた伝説のような場所。岩波ホールというブランドは観客、映画作家、配給会社、地方のミニシアターからも信頼が厚い。衝撃は大きい」と話した。

 長年通う元外交官の高倍宣義さん(79)は「とても寂しい。女性監督作品の旗振り役でもあった。コロナ禍の中で岩波ホールの灯がともっていることが希望だったのに」と残念がった。(小原篤、佐藤美鈴、編集委員・石飛徳樹)

正直私も、昨今岩波ホールには、あまり足を運んでいなかったのですが(違う映画館での鑑賞が多かった)、やはりこれも時代ですね。そういうことを書いてはいけないのかもですが、私は、ほかはともかく、岩波ホールはそうそう閉館という事態にはならないのではないかと考えていたのですが、どうもそうはいきませんでした。

新型コロナの影響とかいろいろありますが、私には、建物の建て替えとかでなく、経営が厳しいから閉館したというのはやはり残念ですね。ミニシアターの運営が容易なわけはないということは百も承知ですが、「岩波ホールは別格」という私の考えは、間違ってはいなかったのでしょうが、しかし別格だから閉鎖などないという私の考えは、まるっきり的外れだったというわけです。

もちろん現在は、岩波ホール以外にもいろいろな映画が上映される体制は、以前よりは整っていますが、それでも岩波ホールの力は偉大ですからね。私も小学生の時からここには行っていましたのでわが映画人生にぽっかり穴が開いたといっても言い過ぎでもありません。早稲田松竹や池袋の文芸坐みたいに、1度閉鎖しながらもしつこく復活した映画館もあるわけですが、名画座とミニシアターの違いはあるのは当然として、これからは他の映画館と配給会社、そして私たち観客が、積極的にミニシアターを盛り上げて、その灯をともし続ける必要があるわけです。しかし新型コロナのような事態になると、観客の支援も限界がありますし、なんともはやです。最後に、昨年のNHKの記事を引用してこの記事を終えます。渋谷のアップリンクが閉館した際のものです。

>「アップリンク渋谷」閉館 コロナ禍影響 ミニシアターの代表格
2021年5月21日 7時04分 

いわゆる「ミニシアター」の代表格として独自に選んだ作品を上映してきた東京 渋谷の「アップリンク渋谷」が、コロナ禍の影響で20日閉館し、上映作品に出演した俳優らがファンとともに閉館を惜しみました。

平成7年に開業した「アップリンク渋谷」は、大手の映画配給会社が扱わない作品を独自に選んで上映する「ミニシアター」の代表格として26年にわたってファンに親しまれてきましたが、コロナ禍で資金繰りが厳しくなり、20日閉館しました。
最終日となった20日は14本の作品が上映され、このうちコロナ禍での映画撮影の舞台裏を追ったドキュメンタリー作品「裏ゾッキ」の上映後には、監督や出演した竹中直人さんなどによるトークショーが開かれました。

このなかで竹中さんは「きょう皆さんと共有した時間はずっと残っていくし、思い出なんかにしたくありません。またいつか渋谷のアップリンクで会えることを願っています」と語りました。

アップリンク渋谷は去年、およそ2か月にわたって休業したあともコロナ禍の影響が続き、先月ウェブサイトに掲載した「閉館のお知らせ」には、「昨年はぎりぎり生き延びることができましたが、ことしはさすがに限界を超える状態で、先が見えない状況」などと記していました。

10年以上通い続けていたという30代の女性は「いちばん通った映画館なので、閉館してしまうと聞いてショックでした。家と映画館の間のような場所で、ここのいちばん前の席で映画を見るのがいつも楽しみでした」と残念そうに話していました。
ミニシアターの現状は
ミニシアターの全国団体、「コミュニティシネマセンター」によりますと、「ミニシアター」は、全国におよそ130館あり、多くがコロナ禍で厳しい経営に直面しています。

今回の緊急事態宣言で東京都は、床面積が合わせて1000平方メートル以下の小規模な映画館に対して、独自に休業の協力を依頼しています。

都は中小企業が運営するミニシアターが協力に応じた場合、1日2万円を支給するとしていますが、コミュニティシネマセンターなどによりますと、多くのミニシアターが感染対策をとりながら営業を継続しているということで、「アップリンク渋谷」も20日まで営業を続けてきました。

これについて、ミニシアターなどを支援する団体「SAVEthe CINEMA」は、「協力金は、とても事業規模に合致しているとは言い難く、このままでは興行の継続が困難に陥ることは時間の問題」などとする声明を発表しています。

一方、苦境のミニシアターを支援する取り組みも広がり、映画監督が発起人となって去年立ち上げた「ミニシアター・エイド基金」では目標としていた1億円の3倍以上となる3億3000万円余りが集まり、全国のミニシアターに配られたということです。

また、文化庁は、映画館で特集上映などのイベントを開催する際の補助金の1次募集の申請を、今月24日まで受け付けています。

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ローリング・ストーンズの1968年のレコーディングを記録した『ワン・プラス・ワン』(ジャン=リュック・ゴダール監督)が順次公開されている

2022-01-06 00:00:00 | 映画

記事にするのが遅くなりましたが、なにしろ都内の上映は今日までのようですが、ジャン=リュック・ゴダール監督で、ザ・ローリング・ストーンズの「悪魔を憐れむ歌」のレコーディング風景と当時のゴダール夫人であるアンヌ・ヴィアゼムスキー 主演のエピソードをからめた映画『ワン・プラス・ワン 』が順次公開されています。公式HPはこちら。予告編も。

12/3(金)公開『ワン・プラス・ワン』予告篇

今回公開された事情は、昨年ストーンズのドラマーであるチャーリー・ワッツ が亡くなったことによります。記事を。

>「ザ・ローリング・ストーンズ」のドラマー、チャーリー・ワッツさん80歳で死去…公式インスタ発表
2021年8月25日 2時21分スポーツ報知 # 芸能# 訃報・おくやみ

 英ロックバンド「ザ・ローリング・ストーンズ」の公式インスタグラムは日本時間25日(英国時間24日)、ドラマーのチャーリー・ワッツさんが80歳で死去したと伝えた。

 広報担当者のコメントとして「我々の愛するチャーリー・ワッツが亡くなったことを発表するのは、非常に悲しいことです。本日、ロンドンの病院で家族に囲まれて静かに息を引き取った」と発表した。

 声明では、ワッツさんは「大切な夫、父、祖父」であり、「同世代で最も偉大なドラマーの一人」であったと説明した。

 そして「この困難な時期に、彼の家族、バンドメンバー、親しい友人のプライバシーを尊重していただくこと願う」としている。

 また英公共放送BBCも訃報を速報。同電子版によると、ワッツさんが治療に専念するため、バンドの米国ツアーを欠席すると発表されてから数週間後にこの訃報があったとしている。またBBCによると、ワッツさんは2004年に咽頭がんの治療を受けたことがあるという。

もう1つ。こちらも。

>2021-11-15 21:40       
ストーンズの名ドラマー、チャーリー・ワッツさん追悼『ワン・プラス・ワン』リバイバル上映

 巨匠ジャン=リュック・ゴダール監督がザ・ローリング・ストーンズのレコーディング風景を撮影した伝説の音楽ドキュメンタリー『ワン・プラス・ワン』が、12月3日より新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町(東京)ほか全国で順次リバイバル上映される。ロック史に残る名曲 「悪魔を憐れむ歌」レコーディング風景の舞台裏を追ったドキュメンタリー。今年8月、80歳で亡くなった偉大なドラマー、チャーリー・ワッツさんのリズムを劇場で体感できる。

 ローリング・ストーンズが1968年に発表したアルバム『ベガーズ・バンケット』。ストーンズが考案したトイレの落書きのジャケットがレコード会社から不採用となり、デザインを巡ってリリースが遅れたのは有名なエピソードだ。そんな紆余曲折を経て発表された同アルバムの1曲目が「Sympathy for the Devil」こと「悪魔を憐れむ歌」。本作は、この曲のレコーディング風景を撮影したもの。

 キース・リチャードは当時ゴダールとの仕事について「俺たちの曲作りと共通するものを感じる」と語っており、ミック・ジャガーは「制作過程をよく記録している」と評価していたという。ゴダールが手がけるドキュメンタリーめいたフィクション映像が交差しながらも、ロック史上に残る名曲と言われる「悪魔を憐れむ歌」誕生の瞬間が、克明に描かれている。

 本作は、ミックとブライアンが向かい合い音を合わせているところから始まる。ボブ・ディラン調のフォークソングから始まり、着々と音ができてくる中、ドラムが刻むリズムはなかなか定まらない。ミックから「まともに叩いてくれよ!」と言われながらも、試行錯誤を繰り返し、ドラムのリズムが徐々に変化していく。最終的にたどり着いたのは、ジャズとサンバが合わさった独特のリズムだ。ここに呪術的な歌詞や叫びなどが重なり、いつ聞いても褪せることのない名曲が誕生した。

 チャーリー・ワッツのドラムスのルーツはジャズにあり、ドラマーを目指すきっかけとなったのは、サックス奏者ジェリー・マリガンがチコ・ハミルトンをドラムに迎えて演奏した1952年の「Walking Shoes」だったという。14歳でドラムセットを親に買ってもらい、16歳からは、街中で演奏をしていた。1980年代後半にはストーンズで演奏する傍ら、スケジュールが許せばジャズのソロアルバムを出すなど、精力的に活動を続けていたという。

 メンバー内では控えめな存在で、ライブのメンバー紹介の時に、隠れてしまいドラムセットだけがそこにある、というほどシャイだったというチャーリー。しかし、本作で奏でる唯一無二のドラムのグルーヴ感は圧倒的な存在感を放ち、メンバー内の核となる存在だったことは一目瞭然。バンド黄金期を迎える若き日のストーンズのレコーディング風景と「悪魔を憐れむ歌」誕生の瞬間を観る貴重な機会となる。

この映画の中では、(元)リーダーのブライアン・ジョーンズ がまるっきり影が薄く、事実彼は撮影されてからほぼ1年後にストーンズを脱退、それからまもなく死を遂げます。事故死か自殺かは不明。

それにしても映画にも出てくるニッキー・ホプキンス も90年代にすでに亡くなっていますが、ついにヤク中や自殺、あるいは事故死などでなく一般の病気でストーンズのメンバーも亡くなる時代になったなあとおもいます。事実脱退メンバーですがビル・ワイマン など今年の誕生日で86歳だしね。ビートルズのジョージ・ハリソンももう21年も前に亡くなっています。彼は、1943年生まれで、ミック・ジャガー とキース・リチャーズ も同じ年の生まれです。下の写真のヴィアゼムスキーもすでにこの世の人でありません。ゴダールは、昨年91歳の誕生日を迎えました。

ビートルズの『レット・イット・ビー 』はすぐ公開されましたが、この映画は78年まで日本で公開されることはありませんでした。いずれにせよこの映画を大きなスクリーンで見ることができるのは大変うれしいことなので、興味のある方は是非どうぞ。ちなみに撮影は、『レット・イット・ビー』と同じ アンソニー・B・リッチモンドが担当しています。DVDも発売中です。

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『大島渚全映画秘蔵資料集成』が、昨年末についに発売された

2022-01-03 00:00:00 | 映画

今回の記事は書評ほか書籍関係のカテゴリーもありですが、映画のカテゴリーの記事を増やしたいのでそうすることとします。

以前にこのような記事を書きまして、その本をようやく昨年末に入手することができました。

高額な本だが、大島渚研究家(を自称しているの)なら、やはり購入しなければね

昨年12月23日、国書刊行会から『大島渚全映画秘蔵資料集成』が発売されました。

この本自体は、もっと早めに出るはずだったのですが、大島家に調査が入るに従い、どんどん貴重な情報が出てきて、発売日がおそくなり、またページ数もどんどん増え、さらに価格もぐっと上がりました(苦笑)。消費税10%込みで13,200円です(おいおい)。というわけで、何らかの方法で割安に買える可能性があるのなら、そのように購入することをお勧めします。私はもちろん購入しました。

そしてこの本がすごいのは大島渚監督の秘蔵ショットばかりでなく、独立後の「創造社」や「大島渚プロダクション」での契約書類といったものも見せてくれるところです。さらにこれもものすごく貴重なのは、大島監督の最大(といっていいと思います)の側近スタッフであった美術監督の戸田重昌氏(大島監督の妹である大島瑛子氏夫人の夫でもありますので、大島監督の義弟でもあります。年齢は、1927生まれなので1933年生まれの大島監督より年上)の作成した『戦場のメリークリスマス』のセットの貴重な図面なども収録されていることです。戸田氏は、映画が終わるとそういった書類も徹底的に破棄した人だということで、実のところまったく,戸田氏の仕事の軌跡は極端な話戸田氏が設計した大島渚邸だけなそうですが、その大島邸に戸田氏のたぶん唯一の破棄されなかった戸田氏の遺産が残っていたのは、考えてみれば「それしかない」という話ではありますが、まったくもって僥倖なことではあります。戸田氏と違って大島監督は記録魔で資料は捨てられない人物でした。

それで私もまだこの本の読み込みは足りないのですが、本としては1ページ目から読むというものではなく、自分の好きな映画、好きなページから読めばいいものでして、現段階で私が一番印象に残っているのが、『愛のコリーダ』に出てきた男性器の小道具の契約書です。つまり映画のラストで、藤竜也の石田吉蔵が、松田暎子阿部定に絞殺されて、男性器を阿部定が切り取ります。そして切り取られたペニスがアップで写ります。作り物のペニスを、70,000円で「雑費」として制作されました。デザイナーに50,000円、作った業者に10,000円、モデル(ペニスのです)代が10,000円だとのこと。当たり前ですが、あのペニスは藤のものではなく特定されていない誰かのものをモデルとして作成されていたわけです。

実は、このブログでも記事にした大島監督の『少年』が、主演の阿部哲夫氏がゲストで登場して上映された際、この本の著者である樋口尚文氏が、予定よりだいぶ遅くなるが、この映画館(シネマヴェーラ渋谷)で注文していただければ割安で入手できるとうまい宣伝をしたので、どっちみち買うつもりだったのと、その時はめずらしく金があったので、さっそく注文しました。

大島渚監督の『少年』で主人公の少年を演じた阿部哲夫さんのトークショーがあった(追記あり)

上の記事で引用した記事では、本は4月中に出版の予定とありますが、トークショーでは「遅れることになる」という話でした。その後音沙汰がなく「どうしたものか」と考えていましたら、9月に電話があり、国書刊行会の担当の人が、「大変申し訳ございません」と陳謝しました。「もうしばらく待っていただきたい」とのことで、しょうがないから待っていたら、12月になってから、正確には7日に連絡があり、23日に発売が決定しましたというので、映画館に取りに行くという約束だったのですが、遅れて大変申し訳ないので、送料はこちら負担でご自宅へ送らせていただきますというのです。普段の私なら丁重に遠慮するところですが、その時は「じゃあそうするか」と思い送ってもらいました。これが24日に届きました。その本の厚さと大きさに圧倒され、これは送ってもらって正解だったなと思いました。すごいボリュームです。つまりはそれだけ大島監督という人物が、映画ばかりでなくさまざまな表現活動に長きにわたって携わったわけです。たとえば『少年』は、制作時に予算が徹底的に足りなかったので、大島夫人の小山明子が時には地方企業のCMに出たりして金を作り、完成後は地方では興行されにくいATG映画であるため、公開前にこの映画のロケ地でもあった群馬県高崎市を皮切りに地方都市で興行をしたりするなどしました。それらの記録も本に収録されています。大島監督と同じ年に松竹の助監督になった山田洋次では全く経験しなかった苦労(もちろん山田には、山田の苦労があったわけですが)を大島はしたわけで、それ自体映画が大手の制作だけではやっていけなくなった、映画の監督をも営業をせざるを得なくなった、そんな時代を大島監督はまさに最先端で経験することとなったわけです。そしてテレビのコメンテイターなどとしても活躍する。「映画作れよ」という大きな声にもかかわらず彼はそういった道をも進みました。独立プロに進んだ監督はほかにもたくさんいますが、大島監督ほど映画以外の世界で活躍した映画監督は現段階空前絶後です。彼が学生運動家としても幹部、大物だったことなど彼自身の特異なパーソナリティもありましたし、そういった大島監督の全体像を理解するにも必読書ということになりそうです。高い本ですので、図書館に入れてもらってぜひご一読いただければよろしいかと思います。

長い記事になりましたが、これだけすごい映画の本は、そうそう出るものではないと思います。大島監督でなければ出はしない。興味のある方は是非どうぞ。

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2021年7月~12月に劇場で鑑賞した映画

2021-12-31 00:00:00 | 映画

2021年7月1日から12月31日までに映画館等の劇場(公民館などをも入れる)で鑑賞した映画作品をご報告します。映画の並べ方は、五十音順です。映画には、Wikipediaに記述のあるもの(私が記事に追加した時点のものですので、その後書き加えられたものもあるかもしれません)はそれを、ないものは公式HPを、古い映画などでそれもないものは、各映画会社(後継の会社もふくむ)のHP、確認できないものは映画サイトからのものをリンクしました。それも難しい映画は、googleでの映画題名による検索結果をリンクしています。なお複数回観た映画については、(×回目鑑賞)と注記しました。

愛について語るときにイケダの語ること

愛のコリーダ【修復版】

愛のコリーダ【修復版】(2回目鑑賞)

愛の昼下がり

愛の亡霊

アウシュヴィッツ・レポート

アナザーラウンド

アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン

アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン(2回目鑑賞)

アルジェの戦い

アンデスの花嫁

アンナ

生きろ 島田叡戦中最後の沖縄県知事

偽りの隣人 ある諜報員の告白

田舎司祭の日記ー4Kデジタル・リマスター版

異邦人

ヴェロニクと怠慢な生徒

海辺の家族たち

海を渡る友情

お吟さま

女と男のいる舗道

隠し砦の三悪人

祇園祭

キッド哀ラック

キネマの神様

去年マリエンバートで

クーリエ:最高機密の運び屋

グッドフェローズ

クリミナル・ラヴァーズ

5月の花嫁学校

ココ・シャネル時代と闘った女

5時から7時までのクレオ

国境を超える北朝鮮の子どもたち

ゴルゴ13 九竜の首

コレクションする女

再会 

座頭市物語

Summer of 85

サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)

サンドラの小さな家

サンマデモクラシー

幸せの答え合わせ

獅子座

シャイニング(北米公開版)

シャン・チー/テン・リングスの伝説

シュザンヌの生き方

ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュー4K完全無修正版

17歳の瞳に映る世界

シンプルな情熱

スーパーノヴァ

絶唱母を呼ぶ歌 鳥よ翼をかして

007/ノー・タイム・トゥ・ダイ

戦場のメリークリスマス 4K修復版

戦争と青春

ターミネーター

ターミネーター2

脱獄遊戯

テーラー 人生の仕立て屋

デュー あの時の君とボク

凍河

東京大空襲 ガラスのうさぎ

憧憬

父ちゃんのポーが聞える

TOVE/トーベ

動脈列島

トゥルーノース

ナイトメアー・ビフォア・クリスマス

逃げた女

2001年宇宙の旅

バージンブルース

パリのナジャ

ビースト

東ベルリンから来た女

ブータン山の教室

ファイト・クラブ

ベレニス

真昼の決闘

水を抱く女

MINAMATA-ミナマタ-

未来世紀ブラジル

無宿 

モスラ

モロッコ、彼女たちの朝

モンソーパン屋の女の子

モンフォーコンの農婦

約束の宇宙

やすらぎの森

ユージュアル・サスペクツ

宵待草

甦る三大テノール 永遠の歌声

ライトハウス

2021年後半は、わりといいペースで映画を鑑賞できたのですが、10月にハイペースで観た反動で、11月と12月はすっかりペースダウンしてしまいました。このあたりは、来年の映画鑑賞をする上での反省点の1つです。1年トータルで169本の鑑賞本数にとどまりましたので、2022年は200本を観たいと思います。

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新潟へ遠征して、北朝鮮人権映画祭を観てきた(初日のみ)(海を渡る友情)

2021-12-27 00:00:00 | 映画

新潟へ遠征して、北朝鮮人権映画祭を観てきた(初日のみ)(絶唱母を呼ぶ歌 鳥よ翼をかして)(追記あり)

の続きです。

1960年に公開された望月優子監督の『海を渡る友情』を観ました。上の写真はこちらの記事の再掲です。カラーではなく白黒映画です。東映教育映画の制作です。

舞台は東京の足立区です。お化け煙突が写ります。昔の映画などにはちょいちょい登場する千住火力発電所の4本の大煙突です。1926年から1963年まで稼働していたので、まさに再末期の時期のそれといえます。上の写真は、Wikipediaより。

さて足立区といえば東京最貧区という話もあるくらい東京でも貧しくぱっとしない区ですが(港区や渋谷区などにあこがれる非東京居住者はいても、足立区にあこがれるもの好きは、まずいません。もちろん私もそんな人を知りません)、この映画の舞台がそういう区を舞台にしているのもそれなりの意味があるわけです。

その足立区のたぶん朝鮮人(韓国籍をふくむ)が集住していると思われる地区に、在日で食堂経営者の加藤嘉がいます。彼は、日本人の奥さん(水戸光子)と息子がいて、(朝鮮総連の?)活動家(西村晃)が熱心に北朝鮮への帰国(帰還ともいう。北朝鮮を国家と認めない人は、「帰還」といいたがる)をすすめます。加藤のほうは、西村の熱心なすすめもあり帰国に心が徐々に傾いていますが、奥さんはいい顔をしません。ようやくある程度食堂の経営も軌道に乗り始めている、北朝鮮に行ったとして日本人が差別なく生きていけるのかあてにならないと不安がります。西村は、大丈夫だと繰り返しますが、当然奥さんは乗り気でありません。

それで加藤の方はというと、たぶん朝鮮総連系の記録映画上映会で、帰国時の映画を観ます。すると、清津での帰国者大歓迎の映像を見て、なにか心に響くものがあったようです。彼は帰国を決意しますが、しかし奥さんはそれなら自分は実家に帰るという話にまで至ってしまいます。

あんまりストーリーを逐一書く必要もないので以下ややとばしますと、息子は学校(一般の公立小学校です)でおそらく朝鮮人であることをも理由としていじめられます。小学校のホームルームでは、朝鮮人であることで差別してはいけないというような趣旨のことを、いろいろな生徒が述べたりします。ほかにもいろいろあって彼は家出をしますが、彼をいじめた生徒もふくめてみな心配して彼を探します。なんとか見つかった彼は、担任の教師の勧めもあり、朝鮮学校へ転校をすることになります。そして母親も、一家そろっての北朝鮮への渡航を決意します。

子どもは、朝鮮学校へ通うこととなりますが、朝鮮語(と、ここでは表記します)で行われる授業に対応するのも大変です。前に通っていた学校にも手紙を出したりします。

そしてついに、加藤ら一家の帰国の日が来ます。品川駅(当時は、新潟から出港する帰国船に乗る帰国者専用列車は、品川から出発しました)に向かう前に、子どもが見当たらなくなります。どうしたものかと母親が探すと、子どもは日本の学校で鉄棒をしています。まさに、彼の日本における最後の軌跡だったのでしょう。

ラスト、帰国者と見送りの人たちの笑顔と歓声とともに映画は終わります。

映画自体は、きわめて端正なつくりです。非常にまともな映画で、望月優子という人がかなりの腕前の監督だったということでしょう。で、映画を観た後、この一家帰国後大変だったろうなあとかいろいろ考えますが、しかしこの映画で語られた様々な不安(日本人妻が北朝鮮でうまくやっていけるのか、財産をすべてもっていって大丈夫か、日本の暮らしを捨ててまでして行くことがよいのか)というのは、実際に北朝鮮に帰国したらまさにそれが的中したわけだし、逆に映画が作られている最中でもそれがネタになるくらい、多くの朝鮮人や日本人妻、あるいは日本人夫もいますし、またその周囲の人間も心配するものだったわけです。

日本人の奥さんである水戸光子は、映画ですから加藤らと一緒に帰国するわけですが、現実には別れる夫婦もいたわけだし、また映画の中で水戸が訴える不安は、帰国を考えている日本中の夫婦が直面する問題でした。けっきょく最終的に日本の在日の人たちで帰国したのは、9万何千人だったわけで、多くは帰国しなかったわけです。つまりはこの映画で提出されたさまざまな疑問に、朝鮮総連や朝鮮民主主義人民共和国ほかは、満足のいく回答といいますか、解決を提供できなかったわけです。

で、まさに北朝鮮への帰国(帰還)というのは、オール日本とでもいうべき体制でしたからね。自民党から共産党、朝日新聞から産経新聞にいたるまで、「よかった、よかった」の合唱だったわけです。この映画は、東映の制作です。もちろん東映が左翼の映画会社のわけがない。この映画は文部省が推薦する映画なわけで(ポスターにもその記載があります)、監督やキャスト、スタッフには左翼が多い。理由はともかく、日本中に「在日朝鮮人が北朝鮮へ帰ることは良いことである」というコンセンサスがあったわけです。これに真っ向から異を唱えていたのは、それこそ民団系の在日韓国人くらいではないか。それで彼(女)らも、けっきょくは李承晩政権が「反対しろ」といったからしただけではないか。北朝鮮は住みよい国でないからぜひ韓国へどうぞなんてことは、当時の韓国の国力ではできない相談でした。

そう考えると、やはりこれは、日本人みなが考えて、また自由往来の実現に努力しなければいけないなとあらためて思いますね。拉致被害者家族にしても、この件で「拉致最優先」という主張に固執するのはぜひやめていただけないか。できない相談でしょうが、帰国があてにならない拉致問題よりも、政治の力で何とかなる日本人妻の一時帰国のほうが、より解決が容易なわけです。たとえば次のような記事はどうか。

>北朝鮮から60年ぶりの里帰りを 日本人妻の甥、要望書

編集委員・北野隆一 2020年9月27日 15時49分

 在日朝鮮人と結婚し、その後北朝鮮に渡った「日本人妻」の多くは、半世紀以上にわたって里帰りが果たせていない。熊本県に住む林恵子さん(69)とその次男の林真義さん(40)親子は、恵子さんの姉、中本愛子さん(89)の60年ぶりの一時帰国実現を求めている。今月25日には真義さんが外務省と厚生労働省を訪れて要望書を提出し、人道問題解決のための日朝間協議の早期再開を求めた。

 中本さんは熊本県出身。1959~84年に在日朝鮮人ら計約9万3千人が北朝鮮に渡った帰還事業で60年、夫の故郷の北朝鮮東部・咸興(ハムン)に移り住んだ。恵子さんは当時9歳。姉に「寒いところに行く」と言われ「北海道?」と聞き返したが、言葉を濁されたことを覚えている。

 97~2000年には3回にわたり日本人配偶者計43人が一時帰国。中本さんも02年の第4回に参加予定だったが、日本人拉致問題による日本世論の悪化などのため直前に中止された。

 北朝鮮に詳しいジャーナリスト伊藤孝司さんらの取材で中本さんらの存在が改めて注目されたのは17年。林恵子さんは18年6月下旬、真義さんとともに初訪朝し、咸興で姉と再会。涙を流し「ごめんね」と抱き合った。翌19年7月にも再訪朝し、姉の孫の結婚式に出席した。

以下は有料会員部分です。こういったことは政治の力で何とかなることです。安倍晋三がどんだけ偉そうなことをほざいていたところで、彼はこういう基本的なことを六にしなかったのだから、まさに口先だけの男です。岸田も似たようなものでしょうが、彼が首相を降りるまでは彼の判断です。中本さんほかがなくなってしまったら、日本人も日本政府も大変薄情な民族であり行政体になるのだなと私は思います。

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情報(来年1月1日から7日まで、都内の早稲田松竹で、田中絹代の監督作品5本が上映される)(ほかにも、女優監督の話)

2021-12-24 00:00:00 | 映画

今日は情報ということで。タイトルにしたように、高田馬場の早稲田松竹で、田中絹代の監督作品5作が1月1日から7日まで公開されます。以下にスケジュールを。

早稲田松竹クラシックスvol.177/田中絹代監督特集

上のスクリーンショットでお分かりのように、彼女の監督デビュー作である『恋文』(1953年)が、モーニングショーとレイトショーで連日、『月は上りぬ』(1955年)『乳房よ永遠なれ』(1955年)が1日~3日、『女ばかりの夜』(1961年)『お吟さま』(1962年)が4日~7日の上映です。田中は生涯で6本の映画を監督し、今回は、1960年の『流転の王妃』は上映されませんが、ほかの5作品を鑑賞できるわけです。個人的な話を書いてしまいますと、私は『流転の王妃』をすでに観ていますので、もし5本観ることができれば田中絹代の監督作品を制覇することになります。

田中絹代は、1953年から62年にかけて6本の映画を監督しました。それらは公開後に話題になることもあまりなかったかと思いますが、しかし昨今ある程度その映画監督作品が回顧されるようになっていて、このような本も出版されているくらいです。2018年の出版です。本については、すみません、私は未読です。

映画監督 田中絹代

それで、この本の著者である津田なおみさんが、田中絹代の監督作品について語っています。

日本映画史に映画監督として絹代さんの名を刻むきっかけになれば。 「映画監督 田中絹代」著者、津田なおみさんインタビュー

非常に興味深いインタビューですので、読者の皆さまにもぜひお目を通していただきたいのですが、私が印象に残ったくだりがこちら。

>当時のことを知っておられる方がどんどん少なくなってしまい、あと10年早く着手できていれば、もっと多くのお話が伺えたのにと、つくづく思いましたね。

それはもちろんそうなのですが、ただ津田さん以前に、監督としての田中絹代の作品を本格的に研究する人がいなかったというのは、けっきょくそれは、田中絹代監督の映画というものが、「田中絹代が監督した」という以上の評価をされなかったということなのでしょうね。「いや、今日からすればそんな扱いではすまない」ということなのかもですが、ともかく同時代、そしてそれからも長きにわたって、忌憚なくいえば「大女優の道楽」「映画界が全面的にバックアップしただけ」「助監督のおかげ」という評価を覆すだけのものがなかったのでしょう。実は私も、『流転の王妃』を観て、「これ田中絹代の演出というより、助監督のおかげだよなあ」と思ったシーンがありました。ラスト近くの逃避行のあたりで、あれはちょっと田中の演出力では無理なシーンだったと思います。

1本しか映画を観ていない私がこういうことを書くのもなんですが、彼女の映画監督としての弱点の1つは、彼女が脚本に名前を連ねていないことだと私は考えます。実のところどれくらい彼女が脚本に参加したのかわからないところもあるのかもですが、職業監督として演出だけ担当するというのは彼女には荷が重かったでしょうし、やはり素人監督(に毛が生えた人)は、脚本を書かないとなかなかいい作品にはなりにくいのではないか。別に好きな作品のわけでもありませんが、『お葬式』や『麻雀放浪記』の脚本が、伊丹十三和田誠澤井信一郎との共作)によって書き上げられたことは、それなりの必然性があったはず。

ところで田中が、最終的に6本目で監督稼業を打ち切った事情は定かでないのですが、津田さんの調査によると、どうも6本目の『お吟さま』で撮影監督をつとめた宮島義勇カメラマンから相当に厳しくやられたこともあったようですね。以下同じサイトからの引用です。

>彼女がなぜ6作品で監督を辞めてしまったのか。私はそこがどうしても知りたかったのですが、あまり分からなかったのです。本文で触れていますが、6作目の『お吟さま』撮影当時、宮川一夫と並び撮影界の巨匠と呼ばれた宮島義勇に、監督だった絹代さんは随分絞られていたそうです。文献の裏付けは取れませんでしたが、その様子を見た、聞いたという話を多数の方から伺い、その状況なら彼女はこう思うだろうと、私なりの考察で書いています。監督を続けなかったことに関してご本人もあまり語っておらず、今回の執筆で一番苦労した部分でした。

前にも同じようなことを書いたことがありますが、宮島氏といえば神様、天皇みたいな人で、プロデューサーも監督も、「先生に撮影していただいて光栄でございます」というレベルの人物ですからね。宮島氏のWikipediaにも、

>生涯で撮影した映画は60本以上。撮影技師が照明に指示・注文をだす手法は、「撮影監督」のシステムとなった。また毒舌家で知られ、卓越した技術・裏打ちされた撮影理論に加え、監督にも遠慮なく意見をいう直言型の性格で、「天皇」「ミヤテン(宮天)」などと呼ばれた。一方、大映京都撮影所のカメラマン・宮川一夫とともに双璧をなす存在から、「西の宮川、東の宮島」とも言われた。

とあるくらいです。こういう人物なんですから、監督としての田中絹代にどういう態度で接してくるか、実に簡単に予想がつくというものであり、やっぱりそうだったのでしょう。個人的には、宮島カメラマンが、田中絹代の監督作品の撮影をよく引き受けたなという気がします。ただ田中作品は、その前作の『女ばかりの夜』の撮影を黒沢映画でおなじみの中井朝一が担当したりと、スタッフにも恵まれてはいます。

以下余談ですが、女優監督としての第2号が、左幸子です。彼女は、『遠い一本の道』を1977年に監督しています。これは彼女の制作・監督・主演というなかなか気合の入った映画で、日本国有鉄道(国鉄)の労働組合である国鉄労働組合の制作です。左のWikipediaには、

>1952年の映画デビュー以降数々の作品に出演したが、新東宝、日活大映に短期間所属したことはあるものの、五社協定をものともせず、一匹狼の女優として活動。強い信念の持ち主で、映画会社にスターとして売り出してもらうより、いい脚本、いい監督の作品を自ら選択することを重要視し続けたためである。演出や役柄の解釈について自分の意見を主張し納得するまで議論する女優だった。『遠い一本の道』の監督・主演も「男女差別をなくしたい」との主張に基づくものだった。

とあります。これは私の想像でしかありませんが、たぶん田中絹代には、そこまでの迫力はなかったのではないですかね。なおこの映画は、現在DVD化されているので、興味のある方はご覧になってください。

遠い一本の道

あ、すみません。田中絹代の映画のDVDのリンクは、次の記事でしますので、乞うご容赦。またたぶんなんですが、大映ドラマの『赤い絆』で、この映画でも夫婦役だったらしい井川比佐志と左が夫婦役で共演しているのは、やはりこの映画も関係しているのかなあ?

ちなみに女優(歌手のほうではない)の高橋洋子 は、自分の原作小説(『雨が好き』)を自分で監督・脚色・主演しちゃったのですから、すごい人はいるものです。

余談が過ぎました。私も観に行こうと思っていますので、興味のある方は、お正月ですが、ぜひどうぞ。観たら記事にはするつもりです。なおこの記事は、bogus-simotukareさんのこちらの記事に投降したコメントを基にしている部分があることをお断りします。また津田なおみインタビュー記事は、その記事からご教示いただきました。感謝を申し上げます。

コメント (3)
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