ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

これはなかなかすごい記事だと思う(まさに「サバイバーズ・ギルト」ではないか)

2024-03-11 00:00:00 | 東日本大震災他災害関係

あ、すみません。今日はまずは、こちらの記事に目をお通しください。

「見殺しにしてしまった」「たまたま助かった」津波恐れず家に留まった2人の男性、後悔の13年間

お読みいただけたでしょうか。で、衝撃的な部分を引用します。


「手、離せー!」その場に残し、逃げた

薄磯地区。おばあさんを背負った大谷さんは家を出て、高台の神社に向かって走り始めた。神社につながる石段はすぐ目の前、自宅から5,6メートルほど。しかし、バランスを崩してしまった。もう一度背負い直そうと腰を落とした瞬間だった。

「すぐ後ろの家が津波で壊されて、砂埃が勢いよく舞った…」。

津波は大谷さんたちのすぐ後ろまで迫っていた。おばあさんの手を妻ともう一人の女性が握っていた。このままではみんなが波の飲まれてしまう…。大谷さんは叫んだ。

「ばっぱ(おばあさん)の手、離せーーー!!!!」

大谷さんは石段を駆け上った。

「結果的には私の家内ともう一人の女性(77)は助かりました、私が背負ったおばあちゃんは亡くなっています。私自身が発見しています。3日後に…」

前にこんな記事を書いたことがあります。

このような場合どう判断し行動すべきか本当に難しい

その記事から、当時の事件についての報道を引用します。


祖母を助けに?中学生も… 住宅火災で2人死亡 葛飾

2017年11月17日11時25分

 17日午前4時55分ごろ、東京都葛飾区金町3丁目で火事があり、木造2階建て住宅の2階部分約30平方メートルが焼けた。警視庁などによると、住人の赤津和枝さん(72)と孫で中学生の理紗子さん(15)が2階から救出されたが、いずれも搬送先の病院で死亡が確認された。理紗子さんは赤津さんを助けようとして巻き込まれた可能性があるという。

 亀有署によると、赤津さんは理紗子さん、理紗子さんの母親(42)との3人暮らし。母親も煙を吸って病院に運ばれたが、命に別条はない。赤津さんは足が不自由だったという。

 出火当時、赤津さんは2階の部屋で1人で寝ていた。理紗子さんと母親は2階の別の部屋で寝ていて火事に気づき、1階に避難しようとしたが、理紗子さんは下りてこずに赤津さんを助けにいったとみられるという。(後略)

上の火災の真相は不明ですが、上の記事で私の書いた記事を引用しますと、


津波てんでんこの話にもあるように、津波とかの場合は、ともかく自分が助かることを第一に考えろとよく言われます。これは、家族などを助けようとして、それで死ななくてもいいあまたの命が失われたという過去の教訓からのものです。飛行機とか客船の事故の際、乗組員とかが率先して逃げるというのではお話になりませんが、ともかく自分の命最優先で一般の人間は逃げるしかありません。それはもう当然のことです。

ということになります。

そういうわけで、私は、最初の記事での「大谷さん」の行動を責める気は全くありません。責める人もいないでしょうが、ともかくここは、大谷さんほかの方々は助かったので良しとするべきです。

が・・・そういった「正論」はともかくとして、やはりこれは、大谷さん自身としては、何とも様々な複雑な思いが交差するでしょうね。読者の皆さまもどこかで聞いたことがあるかもですが、「サバイバーズ・ギルト」という言葉があります。Wikipediaから引用すれば、

サバイバーズ・ギルト (Survivor's guilt) は、戦争災害事故事件虐待などに遭いながら、奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のこと。「サバイバー」 (survivor) は「生き残り・生存者・遺族」を、「ギルト」(guilt) は「罪悪感」を意味する英語。

というものであり、さらに「概説」として、

ナチスによるホロコーストを生き延びた人々などに見られたケースが有名である。日本においては、2001年6月8日に発生した附属池田小事件や、2005年4月25日に発生したJR福知山線脱線事故において、生存者の間にこの種の感情が見られると報道されたこともあって認知度が高まった。また、太平洋戦争中に行われた特別攻撃隊本土空襲沖縄戦広島市への原子爆弾投下、および長崎市への原子爆弾投下で生き残った高齢者が当時を回想するとき「あの状況で見殺しにするしかなかった」「助けられた命を見捨てた」など証言する場合も、このサバイバーズ・ギルトに当たる。心的外傷後ストレス障害 (PTSD) を起こして心理的な援助を必要とする場合もある。

とあります。大谷さんの証言も、まさにこの「サバイバーズ・ギルト」になります。で、私も戦艦大和 が沈んだ際に生存者の方が非常にそれを負い目に感じたという話を読んだことがあります。大谷さんの場合、最高に重度の「サイバーズ・ギルト」にはからずも陥ってしまったということになりそうです。

これは話の次元が異なりそうですが、調教師の西塚十勝は、ばんだい号墜落事故で、

1971年7月3日に、西塚と同じ北海道出身の同僚で友人だった柏谷富衛調教師と共に東亜国内航空63便函館行に搭乗予定で、車で待ち合わせ場所の丘珠空港へ向かった。直前に知人と立ち寄った料理屋で女将が白米を炊き忘れたことから出発が遅れ、「これは(飛行機に)間に合いそうにないな」と、宿泊する宿のことを考えた。10分遅れで丘珠空港に到着した際、偶然にも飛行機はまだ離陸していなかった。西塚は最初は搭乗しようとしたが(チケットは二人分、柏谷が持っていた。)、航空会社が既にキャンセル待ちの人を乗せたのを見て「一度乗せてあげた人を降ろしたらかわいそうだから」と搭乗を辞退した。「札幌で一泊しないか」と柏谷を誘うも、カウンターでずっと待ち続けていた柏谷は「俺はお前ほど暇じゃねぇんだ!」と怒り(この時、自厩舎の主な管理馬に天皇賞リキエイカンがおり、柏谷の仕事が忙しいのは事実だった。)、一人で乗り込んだ。「ばんだい号」は函館を前にして横津岳に墜落し、柏谷を含む乗員・乗客全員が死亡した。西塚は命拾いしたが、「あの時、柏谷をもっと強く引き止めておけば……。」と終生悔やんだ。

ということがあり、やはり人間このような場合は、「自分は運がいい」と喜んでばかりもいられないもののようです。なお西塚氏は、ほかにも関東大震災洞爺丸事故ホテルニュージャパン火災でも奇跡的に難を逃れているすさまじい強運の持ち主として知られます。

ともかく「サバイバーズ・ギルト」と私たちは無縁であり得ません。そう考えると、羽田空港地上衝突事故で、海上保安庁のクルーは5名もの命が奪われましたが、日本航空516便は乗客乗員に死者が出なかったことは本当に幸いだったと思います。

関係者のご冥福を祈ってこの記事を終えます。

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災害時、自閉症ほかの人間への対応も、非常に大変だと思う

2024-01-16 00:00:00 | 東日本大震災他災害関係

1月1日、バンコクのホテルで寝そべっていたら、突然iPhoneに入れている防災アプリが反応しはじめました。なんだなんだと思いみてみると、「令和6年能登半島地震」の発生その他を報じるものでした。日本中幅広く揺れたらしい。私は遠い地でグータラ過ごしていましたが、これは大変なことになったなと思いました。その翌日、羽田空港で「日本航空516便衝突炎上事故」が発生したのには、これまた絶句にもほどがあるというものでした。それで本日は、地震の話を。このような記事が流れました。同趣旨の記事は、いろいろ流れています。


「自閉症で避難所に行けない」“災害弱者”のケアが課題 輪島市の「福祉避難所」は2か所のみ【news23】

TBSテレビ
2024年1月10日(水) 12:13

避難生活が長引く中、“災害弱者”のケアの必要性が高まっています。自閉症の息子を持つ母親は「団体生活が難しく、避難所に行けない」。ただ、こうした家族らを受け入れる「福祉避難所」は輪島市内で2か所に止まっています。課題が山積する現場から、藤森キャスターが報告します。

福祉避難所が不足…希少な支援施設では「スタッフが1人倒れている」

住民の孤立に加え、対策が必要なのが災害弱者のケアです。

自宅が被災した岩崎香さん(46)と、小学6年の息子・佑輝さん(11)。自閉症の佑輝さんは生活環境の変化に敏感。親の判断で避難所は諦め、一家は崩れかけた自宅で過ごしていました。

岩崎香さん
「飛んだり跳ねたりもするし、大声も出しちゃうし。団体での生活は難しいかなと思ってはいますけど、周りの理解と…みんな大変な時なので(難しい)」

特に配慮が必要な人を受け入れるのが、福祉避難所。障害のある人や高齢者、乳幼児や妊産婦などが対象です。

余震が続く中、自宅での生活に危険を感じた岩崎さん。受け入れ先を探し辿り着いたのが、現在、福祉避難所となっている、障害者のグループホームです。避難後、佑輝さんは少し落ち着きを取り戻したといいます。

岩崎香さん
「比較的おとなしくしてくれているのかなとは思うんですけど、こだわりとかもあって、すぐにはなじんでくれなくて。ご飯とかも好き嫌い、偏食もあるし、お皿が違うだけでも駄目なので。この子なりに頑張っていると思うんですね。慣れない環境なので」

輪島市には福祉避難所が25か所ありますが、現在、受け入れができているのは、この施設を含め2か所だけ。職員や施設そのものが被災しているためで、3か所目が開設されるめどは立っていません。

こちらの女性は当初、障害のある息子たちと通常の避難所に身を寄せましたが、2日後、その避難所を出ました。

母親
「もう一人の子は色んなことに興味があるもので、次から次から触ろうとするんですよね。物をちぎったりとか、そういうことがあるもので、触ったりできないというと、余計にパニックになってしまって。

“障害があるということはわかっているんですけど、しっかり見とらな駄目や”と言われて、それがやっぱり結構ショックで…」

今、親子が避難しているこちらの施設は福祉避難所ではありませんが、自主的に障害のある避難者を受け入れています。しかし、施設側もギリギリの状態です。

支援施設「一互一笑」管理者 藤沢美春さん
「スタッフが1人倒れていますし、1日から不眠不休で、皆さん自分の家をほっておいて来ているので。

ただやっぱり皆さん、使命感ですかね。障害のある方や高齢の方だったり、災害の時にきちんと逃げられる、避難できる場所を、全国で色んな地域で支援してあげてほしいなと思います」

(以下略)

以前こんな記事を書いたことがあります。

緊急事態の際の迅速な避難の重要性を考え、またその困難さをも考える(3月12日19時15分ごろ更新)

その記事で引用しましたこちらの記事を再引用します。


津波迫る中、部屋から出てこなかった次男…元校長が不登校の子どもたちに「居場所」
2022/03/11 07:09

 津波が迫る中、ひきこもりだった次男は部屋から出て来なかった。最後まで避難を呼びかけた妻は波に消えた。岩手県陸前高田市の佐々木善仁さん(71)は東日本大震災で2人を失い、息子に向き合ってこなかったことを後悔し、2人の苦しみを知った。自宅を再建するはずだった場所を、ひきこもりや不登校の子どもたちの「居場所」にしようと決めた。(黒山幹太)

 災害公営住宅などが立つ陸前高田市の中心部。佐々木さんが、生きづらさを感じる人たちが集える施設を作ろうとしているのは約200平方メートルの所有地だ。「ひきこもりの子どもたちの心が晴れるような場がほしい」。妻・みき子さん(当時57歳)の願いだった。

 11年前まで住んでいた自宅跡はここから数百メートル。かさ上げ工事が行われ、今は土の下だ。家族4人の生活に異変が起きたのは、次男・ 仁也じんや さん(当時28歳)が中学2年の時。佐々木さんは教員で、2人の息子は幼い頃から転校が続いた。中学の部活動でテニスに打ち込んでいた仁也さんは転校を嫌がった。「もう学校に行かないからね」。部屋にひきこもるようになった。

 佐々木さんは管理職になったばかりで、早朝から深夜まで仕事に追われた。家庭はみき子さんに任せきり。「せめて退職後は子どもと向き合って」と言われていた。2011年3月、市内の小学校校長を務め終えれば、退職だった。「そろそろ息子と」と考えていた。

 17メートル超の津波が同市を襲った時、自身は小学校にいて無事だったが、海から約600メートルの自宅には、みき子さんと仁也さん、長男・陽一さん(41)がいた。みき子さんは一緒に避難するよう仁也さんを説得したが、自室にこもったままだった。津波が迫り、陽一さんと隣家の屋根に逃れた後、波にのまれた。別の家の屋根に移った陽一さんに「生きろ」と言葉を残した。佐々木さんが、みき子さんと仁也さんに再会したのは遺体安置所だった。

(後略)

これもねえ、inti-solさんもご指摘のように、


これは、正解のない問いですね。
もちろん、動かない子どもを置いて逃げるべき、とは思いますけど、親としてそれができない、子どもを捨てて逃げたという罪の意識を背負って生き続けるよりはここで、と考えてしまう人も一定数いるるかもしれません。この方が、そこまで考えていたのかどうかは分かりませんが。

ということになりそうですね。これはまさにケースバイケースということになりますので、個々の事例はいろいろあるでしょうが、そういうことを考える親(特に母親)がいるというのも事実でしょうし、そして子どもとともに遠い世界に去ってしまう人もいるのでしょう。今回の地震では、上のような事例があったかどうか私は情報を入手していませんが、それはたまたまなかったのかもしれませんが、あっても不思議でない。

それで上のような「究極の状況」とまではいわずとも、最初の記事でご紹介したような自閉症者等の避難所生活というのも、大変な苦労ですよね。

さらにこのような記事も。


「福祉避難所」人手不足で疲弊 存在知らず、車中泊も―障害者ら向け・能登地震
2024年01月14日07時09分

 能登半島地震の被害が大きかった石川県内で、障害者やリスクのある高齢者ら特別に配慮が必要な避難者を受け入れる「福祉避難所」が、思うように稼働できていない。「職員も被災し、人手不足が深刻」との声が上がる一方、特別支援学校の児童生徒の家族が存在自体を知らずに車中泊するケースもあり、「周知が足りない」との指摘も出る。

 津波の被害を受けた石川県能登町。高齢者施設など5カ所が福祉避難所として指定されているが、実際に稼働しているのは2カ所にとどまる。
 その一つ、特別養護老人ホーム「第二長寿園」の施設長、橋本淳さん(71)は「家に住めない方を受け入れているが、ベッド数などの設備や人員から最大10人まで」と語る。家族1人の付き添いも必要で、現在は要配慮者6人を収容する。
 働ける職員は通常の半数以下の40人足らず。橋本さんは「20人は自宅が被災して帰れない。宿直室や面会室で寝泊まりしながら対応しており、寝不足で疲れ切っている」と訴える。
 「町は開設しているつもりでも、とにかく認知されていない」と話すのは、県内の特別支援学校に勤める女性教諭(54)だ。地震発生後、生徒の安否確認をしたところ、誰も福祉避難所を利用していないことが判明した。「利用していないどころか、そんな場所があることすら知られていなかった」と言う。
 中には、わが子に知的障害があると知られたくないため、一般の避難所を避けて自宅にとどまったり、車中泊したりする家庭もあるという。教諭は「障害のある人への理解を進め、啓発や避難訓練を通じて地域に福祉避難所の存在を知ってもらうことが大切だ」と語った。

もちろん精神ばかりでなく人工透析を受けている方も大変です。肉体的な障害と精神的な障害というのは、また障害の次元がちがうので、各々対応していかないと仕方ないので、これまた大変です。そういえば東日本大震災の時は計画停電まであり、その際人工呼吸器を使っている人はどうなるかと大騒ぎになったこともありましたね。幸いその時は何とかなったのかもしれませんが、今回は能登半島に地理的な部分も障壁になりますので、これまた非常に大変にもほどがあるというものです。

こういうこともある程度蓄積されたノウハウがあってこそ的確な対応ができるというものですから、東日本大震災ばかりでなく阪神・淡路大震災新潟県中越地震熊本地震、 北海道胆振東部地震 などのさまざまな地震における災害救助の問題点などが今後にフィードバックされて的確な対応を可能とするものであると考えます。たとえば新潟県中越地震における災害関連死の多さ(死者68名のうち、52名が関連死とのこと)が、その後の地震災害時におけるケアの重大さを認識するきっかけになったのも事実ではあります。もちろん関連死されたかけがえのない命を失った犠牲者の方々にとってはそうばかりも言っていられませんが、ただ遺憾ながら災害関連死についての関心が世間一般に共有されるためには、このようなことが起きないとなかなか難しいということも事実ではあるでしょう。もちろん海外の事例などもありますが、地理的な要因、住宅事情、社会インフラの問題など、日本国内ですらもいろいろ状況が異なるわけで、外国の事例はなかなか日本に当てはめるのが難しいところはあるかと思います。

それにしてもほんと、災害というのは、忘れたころにやってきます。最大限の注意を払っていきたいと思います。

なお「東日本大震災 2011」というカテゴリー名を、この記事より「東日本大震災ほか災害関係」というカテゴリー名へ変更しますことをご報告します。

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緊急事態の際の迅速な避難の重要性を考え、またその困難さをも考える(3月12日19時15分ごろ更新)

2022-03-14 00:00:00 | 東日本大震災他災害関係

震災と同じ日ではありませんが、「東日本大震災 2011」のカテゴリーの記事を書きます。あらためて、タイトルの件について考えさせられる記事を読んだので。

まず最初に。「日刊スポーツ」の記事です。

>津波で亡くなった三男は誘い断り母の帰りを待っていた…11年目のお盆に知らされた本当の最後
[2022年3月11日5時1分]

<忘れない3・11 あれから11年(10)>

100人以上が犠牲になった石巻市長面地区で三男泰寛さん(当時17)を津波で亡くした三條すみゑさん(63)が、一瞬にして消え去った地元の風景や、息子が生きた証しを語り継いでいる。昨夏、息子が津波にのまれた状況が新たに判明。避難中に被害に遭ったと思われていたが、自宅で母の帰りを待っていたことを知った。

   ◇   ◇   ◇

「おかん、映画見ておいで」。高校の卒業式を終えたばかりの泰寛さんは、自動車学校の帰りに迎えに来るはずだった母にそう告げ、自らはバスで帰宅した。

「忘れもしません」。三條さんは悔しそうに振り返る。大地震後、唯一通じたメール。午後3時過ぎ「ガスの元栓は閉めた」というメッセージを最後に、連絡が取れなくなった。

津波で陸地が水没するほどの大被害を受けた長面に、その日は到達することができなかった。13日、父経三郎さん(70)がやっとの思いで現地に赴くと、寺に並べてあった遺体に、息子を発見した。「3月13日、父が三男泰寛発見」と書いたガムテープを亡骸の腕に巻き付け、その場を後にするしかなかった。

300人ほどが身を寄せた避難所の体育館。「子どもが助かった地域と、助からなかった地域の住民が入り交じっていた」。その環境下もあって息子の死を聞いてもすぐには泣けない。三條さんは消灯後、布団を被って「声を殺して泣きました」。

震災から11年目となった昨夏、お盆で実家に戻っていた長男智寛さん(35)が新事実を口にした。当時、泰寛さんが隣人からの避難の誘いを断り「家の片付けをしてから出る」と話していたという。

母の心情を察し、あえて隠してきたが10年の節目を越え「おっかあが帰ってくるのを待っていたんじゃないか」と家族で話した。つらいが愛息の本当の最後を知れた。

自慢の息子だった。「バレーボール部だけど体操の内村航平選手に似ててね。166センチと小柄だったけどジャンプ力があって、バックアタックが得意だった」とうれしそうに語る。

取材した日も語り部活動をした。相手は高校生。どうしても息子の姿と重なる。あの日押し殺した涙が、今は自然とほおを伝った。【三須一紀】

いかがでしょうか。読んでいて、母親の方の悲痛な思いに胸が打たれますね。

状況からすると、たぶんですが、迅速に非難をしていれば、ご次男は助かっていた可能性が高いのではないか。母親の立場からすれば、そんなことにこだわって死ななくていい状況だったのに死んでしまったというのは、この女性に何ら落ち度のある話ではないが、彼女からすれば自分を責めるまさに痛恨の事態としかいいようがない。

以前このような記事を書きました。

このような場合どう判断し行動すべきか本当に難しい

その記事の中で私は、このようなことを書きました。

津波てんでんこの話にもあるように、津波とかの場合は、ともかく自分が助かることを第一に考えろとよく言われます。これは、家族などを助けようとして、それで死ななくてもいいあまたの命が失われたという過去の教訓からのものです。飛行機とか客船の事故の際、乗組員とかが率先して逃げるというのではお話になりませんが、ともかく自分の命最優先で一般の人間は逃げるしかありません。それはもう当然のことです。

というのはあくまで机上でPCにて文章を打っている時に考えられる話であり、現実にその場に直面したら、はたして人間どう行動するものか。私は、自分はそういう時は助けに行く人間でなく、助けに行こうとする人間を押しとどめる人間だと考えていますが(それで一生うらまれても仕方ないと思います)、もちろん現実にそのような事態になったとしてどう行動するかは分かりません。

ただ上の話ですと、たぶん津波の危険性を理解していれば、一目散に逃げだしていた可能性が高いのではと思います。実際のところはわかりませんが、おそらく逃げているのではないかと思います。ある意味即死とかちょっと避けるのが難しい事態ならまだ仕方ないとして、このケースは、本人しだいで助かることができたというものであり、身内の方々からすれば、残念にもほどがあるというものではないか。

ところで今度はこのようなケースはどうか。自分がその立場になったら、と考えると、本当に考えさせられます。

>津波迫る中、部屋から出てこなかった次男…元校長が不登校の子どもたちに「居場所」
2022/03/11 07:09

 津波が迫る中、ひきこもりだった次男は部屋から出て来なかった。最後まで避難を呼びかけた妻は波に消えた。岩手県陸前高田市の佐々木善仁さん(71)は東日本大震災で2人を失い、息子に向き合ってこなかったことを後悔し、2人の苦しみを知った。自宅を再建するはずだった場所を、ひきこもりや不登校の子どもたちの「居場所」にしようと決めた。(黒山幹太)

 災害公営住宅などが立つ陸前高田市の中心部。佐々木さんが、生きづらさを感じる人たちが集える施設を作ろうとしているのは約200平方メートルの所有地だ。「ひきこもりの子どもたちの心が晴れるような場がほしい」。妻・みき子さん(当時57歳)の願いだった。

 11年前まで住んでいた自宅跡はここから数百メートル。かさ上げ工事が行われ、今は土の下だ。家族4人の生活に異変が起きたのは、次男・ 仁也じんや さん(当時28歳)が中学2年の時。佐々木さんは教員で、2人の息子は幼い頃から転校が続いた。中学の部活動でテニスに打ち込んでいた仁也さんは転校を嫌がった。「もう学校に行かないからね」。部屋にひきこもるようになった。

 佐々木さんは管理職になったばかりで、早朝から深夜まで仕事に追われた。家庭はみき子さんに任せきり。「せめて退職後は子どもと向き合って」と言われていた。2011年3月、市内の小学校校長を務め終えれば、退職だった。「そろそろ息子と」と考えていた。

 17メートル超の津波が同市を襲った時、自身は小学校にいて無事だったが、海から約600メートルの自宅には、みき子さんと仁也さん、長男・陽一さん(41)がいた。みき子さんは一緒に避難するよう仁也さんを説得したが、自室にこもったままだった。津波が迫り、陽一さんと隣家の屋根に逃れた後、波にのまれた。別の家の屋根に移った陽一さんに「生きろ」と言葉を残した。佐々木さんが、みき子さんと仁也さんに再会したのは遺体安置所だった。

(後略)

個人的には、いくら引きこもりだって、そういう事態だったら逃げろよと思います。こういう場合、それは仕方ないから親は子どもを見捨てて逃げても私は非難するには値しないと考えますが、この件のように、子どもと一緒に死んでしまうということもたしかにあるのでしょう。親が「子どもと一緒に死んでも仕方ない」と考えたかどうかはともかく。そう考える人もいるし、何とか助けようと思っていたら間に合わずに死んでしまった人もいるでしょう。

この件は、子どもが精神に問題があって動かなかったというものですが、例えば重度身体障害者、あるいはALSほかの重病で動かすことが非常に困難な患者など、個人での移送が難しい人もいます。で、私の読んだ記事のURLを記録しなかったので、それをここに明記できませんが、重度の身体障害者の娘を持つ男性(すでにお年寄りです)が、津波のような事態が起きても、娘を置いて逃げることはするつもりはないという記事を最近読みました。同じようなことを考える人、特に親でしょうが、そういう人は多いでしょう。

個人的な意見を言うと、子どものほうは、親にそのような形で自分に寄り添うことを必ずしも希望しているわけではない場合が多いのではないかと考えますが、精神の問題があればそういう意思を持つ以前の可能性もあるし、生き死ににかかわることですと、そのような意志を表明していてもその通りになるかはわかりません。もちろんこれは、助けてくれと表明してそうならないということも常にあり得ます。

ただこの記事ではそのようなことは書いてありませんし、また佐々木さんもそのようなことは(当然)語っていませんが、当然ながらご次男へはそうとうな怒りがあるでしょうね。それは怒りを覚えて当然です。そういうことで怒りを覚えなかったら嘘というものでしょう。「仕方ない」と考えることはあっても、積極的には子どもをかばう気にはならないでしょう。恐らくですが、状況からみて仕方ないのだから、奥さんは早く非難してくれればよかったという想いもあるのではないか。 

こういう時、いろいろ自分なりの思考実験をしてみるといいかもしれません。私(あなた)は、上の2記事での次男、あるいは母親の立場だったら、どのように行動したか。あるいは、大川小学校の教諭だったら、あなたはどのように行動したか。私はどう行動したか。

あまりに事態が重大すぎて、滅多なことは言えませんが、大川小学校の対応は確かに非常によろしくないものでしたが、悪い偶然が重なるとこのようにきわめて悪い事態になりかねないということなのでしょう。大川小学校以外のところでは、ここまでひどい事態にはなっていないので特に大川小学校が悪かったのは確かでしょうが、まさにその時あなた(私)ならどう行動したかというのは、いろいろ考えるべきでしょう。

過日『ゲッベルスと私』という映画を観ました。ナチス・ドイツの宣伝相をしていたヨーゼフ・ゲッベルスの秘書をしていたという女性は、

>今思うに、私も卑怯者のひとりだったのです

という趣旨のことを述べて、大要「今の人たちはその状況になったら抵抗するというけど、とてもできない」という趣旨のことも語っていました。上の引用は、こちらより。なお引用した記事は、秘書だった女性が亡くなった際に書かれたものであり、この映画の日本上映に際してのものではありません。

もちろん国家権力の暴虐ぶりと地震が起きて津波が来そうな際の行動とではまた話は違いますが、どちらにせよ自分の考えであるべき方向を決めるということは共通しているでしょう。後者は、まさに時に瞬間の判断を必要とする。国家権力の暴虐なら、最悪地下に潜行するとか海外に亡命することもできなくはない。しかし後者は、その程度の選択肢もないのです。そういったことは常に考えておく必要があるでしょう。

最後に、引用した記事の方々ばかりでなく、お亡くなりになった被害者の方々のご冥福をお祈りします。

 

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2011年3月11日午後2時46分にどこでどうしていたというのは、多くの日本人にとって忘れられない経験となってしまった

2021-03-11 14:46:00 | 東日本大震災他災害関係

東日本大震災が起きたのは、2011年3月11日14時46分18.1秒だそうです(Wikipediaより)。

すみません、今回の記事は、あえて地震が起きた時間と秒に合わせて更新される設定としました。あらためてお亡くなりになった方、ご遺族の方々への哀悼とお悔やみをのべますと同時に、被害にあわれた方々へのお見舞いも併せて申し上げたいと思います。

それで、その時日本にいないとか、まだ生まれていない、物心がついていないとかなら仕方ないですが(「生まれていない」「物心がついていない」というのは、このブログの読者の方には少ないでしょう)、あなたは2011年3月11日の地震が起きた瞬間、どこで何をしていたでしょうか。たいていの方は、記憶に残っているんじゃないんですかね。

私は、当時の勤務先であるビルの18階にあるオフィスにいました。18階でしたので、免震構造ではあるのでしょうが、よく揺れました。なかなか怖い気分を味わいました。

これは前にも書きましたが、その日カウンター越しに図面を見せて説明をしていたのですが、あまりに揺れがひどい、しかし私が対応している客が帰らないので、ついに私は、その人に大要「今日はこういう状況なので帰っていただきたい」ということを申し述べました。わが人生でこんなことを言ったのは最初で今のところ最後です。その人も別に何も言わずに帰りました。

そのあと同僚みんなでテレビを見始めたところ、津波が来襲して、ヘリコプターからの空撮映像で、津波から逃げている人(たぶん男性)が、津波に飲み込まれる寸前に、NHKのカメラが「まずい」と切り替わったのを今でも覚えています。あの人が助かった可能性は、万に一つもないかと思いますが、思い出すたびに暗い気分になります。

そしてその後自宅や家族に連絡を取ることもできませんでした。固定電話も携帯も、このような場合はなかなか大変だなと改めて思いました。そして18階から歩いて降りたことも思い出します。

災害ですから、もうこのようなことが起きないということはないし、またいつの日かすごい災害が来るのでしょう。阪神淡路大震災の直後に神戸に行ったことがありまして(東日本では、まだそういうことはしていません)、大阪から神戸に向かうと、だんだんに屋根にブルーシートがかぶさりだしてきた、神戸市役所もつぶれた、道に切れ目が入っている、その他ほんと唖然とした記憶があります。絶句とはこのことです。地震がある数日前に神戸を訪れていたので、この地震に遭遇する可能性も空想次元ではありませんでした。

まとまりのない文章になりましたが、読者の皆さまもあらためて、この地震でお亡くなりになった方々への追悼をお願いいたします。

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地震とか噴火とかの突発的に発生する災害は、発生時の月日時間がポイントになる

2021-02-16 00:00:00 | 東日本大震災他災害関係

土曜日(2月13日)の地震には驚きました。自宅にいたら、突然緊急地震速報が流れて、う、これはどうなると思っていたら、自宅ががたがた揺れ始めたわけです。けっこう長く感じました。それだけ大きな地震だったというわけです。今回の地震では、死者が確認されていないのは幸いでした。

それで私がさらに驚いた(といっても、無関係とも思いませんでしたから、「想定内」のたぐいですが)のが、今回の地震が10年前の2011年の東日本大震災の余震だったというです。

>「1週間は注意を」気象庁が呼びかけ 余震は20回超す
山岸玲

2021年2月14日 7時57分

 宮城県と福島県で最大震度6強を観測した13日夜の地震を受け、気象庁は14日未明に記者会見を開いた。2011年3月11日の東日本大震災を引き起こした地震の「余震と考えられる」といい、担当者は「今後1週間程度、同規模の地震に注意してほしい」と呼びかけた。特に発生から2~3日後は規模の大きな地震が起きることが多くあるとしている。

(後略)

10年たってこんなすごい余震があるなんて、どれだけすさまじい地震だったのだというところです。

それで今回私が印象に残ったのがこの件です。

>地震 高速道路 常磐道でのり面崩れ 相馬~亘理 通行止め
2021年2月14日 10時27分 

14日午前10時現在、
▽常磐自動車道は、相馬ICから仙台方面に3キロの地点でのり面が崩れ、けが人などは確認されていないということですが、相馬インターチェンジと亘理インターチェンジの間の上下線で通行止めになっています。

そのほかの高速道路は通行止めが解除されています。

上の写真は、こちらより。

今回は、たまたま車が通っていなかったため、けが人もいないで済みましたが、これはもちろん単なる偶然でしかありません。運が悪ければ引っかかったし、そうなればとても助からなかったでしょう。

それで世の中タイミングが悪いこともあるもので、豊浜トンネル岩盤崩落事故では、Wikipediaから引用すれば(注釈の番号は削除。以下同じ)

1996年2月10日午前8時10分頃、古平町側坑口直上の斜面において岩盤(最大高さ70m・最大幅50m・最大厚さ13m・体積11,000m3・重さ27,000tと推計)が崩落。落石防護のために設けられていたトンネル巻き出し部の天井を突き破り、トンネル内を走行中だった北海道中央バスの積丹町余別発小樽駅前行き路線バス(乗客18名、運転手1名)と、後続の乗用車(1名乗車)、対向の乗用車1台(1名乗車)の計3台が直撃を受けた。間一髪で脱出した乗用車運転の女性1名を除く20名が死亡した。

という事態になったわけです。なにも路線バスが走っているときに崩落しなくてもいいだろうと思いますが、そうなってしまいました。笹子トンネル天井板落下事故

では、

>2012年12月2日午前8時5分ごろ(JST)、東京方面に向かう上り線トンネルの大月市側出口から約1,700メートル付近で、トンネルの天井である横5メートル、奥行1.2メートル、厚さ約8センチと9センチ、重さ約1.2トンほどのコンクリート板およそ270枚(中壁を含む) が138メートル にわたってV字型に折り重なるように崩れ落ちた。事故発生時に走行中であった自動車3台が下敷きとなり、うち2台から発火した。トンネル内で火災が発生して黒煙が上がったうえ、天井板崩落でトンネル内の煙除去装置も機能しなくなったため火災による煙の排出ができず、トンネル内部の現場にレスキュー隊が向かえないほどの高温の煙が充満した。

崩落現場で下敷きとなっていたレンタカーのワゴン車からは20代の男女5名の焼死体が発見されたほか、普通乗用車(車種不明)から70代の男女と60代の女性が焼死体となって発見された。また、トラックを運転していて崩落に巻き込まれた食品卸売会社勤務の50代の男性は携帯電話で同僚に助けを求めていたが、救出時にはすでに死亡していた。

事故発生翌日の12月3日まで救助活動が行われ、計9名の死亡が確認された。また、重軽傷者は2人となった。

という状況でした。もちろんこれも大変な重大事故ですが、事故の時間ほかを考えれば、むしろ被害は少なくて済んだというところかもという気がします。よくわかりませんが。なおこの事故について私も記事を書いています。

インフラの整備よりも既存分の維持管理のほうが優先される時代なのかもしれない

それで、これも私が記事を書いているもので、まさに考えられる中で最悪のタイミングでの自然災害というのが、こちらでしょう。

最悪のタイミングで起きた噴火

当時(2014年9月30日付の記事)の私の記述を引用すれば

>御嶽山の噴火は、実に最悪のタイミングで起きたと思います。なにしろ、①紅葉シーズンの②週末土曜日の③正午近くです。これにおまけに④天気が良かったから、まさに最悪です。

(中略)

当たり前ですが、登山というのも年がら年中山が込んでいるということはないわけで、込むシーズンがあり、込む曜日があり、込む時間があります。そして、その日の天気があります。今回は、山頂に人が多くいる要素が、片端からそろってしまっています。こうなるとどうしようもありません。亡くなったか、ケガをしたか、何とか無事に下山できたかは、正直運でしかありません。今回の噴火は、たぶん山岳遭難の規模としては戦後史上最悪でしょう。

(中略)

それでNHKのカメラが、ちょうど噴火の直後の映像を撮影したというのがまさに上に書いたタイミングを象徴しているわけで、つまりNHKは、紅葉を撮影しようと考えてこの取材をしていたわけです。そういう時期にこのような噴火が起きるというのも、全く予想がつかない(いくら群発地震が起きていたとはいえ、それは気象庁の判断でも「危険」という認識ではなかったわけですから、これまたどうしようもありません)ことです。悪天候の遭難とかなら、冬山は避ける(あるいはそれなりの覚悟をして行く)、悪天候なら無理をしない(トムラウシ山の遭難は、つまりは悪天候で無理に出発して、それでどうにもならなくなったケースです)という判断もできます。天候だったらネットなりラジオなりで天気図もわかりますから、低気圧が接近しているとかは分かるし、あとは自分の判断で小屋にとどまるとかそもそも登山を中止することもできます。

ということになります。トムラウシ山遭難事故にしても、あれで最もまずかったのは、非常に悪い天候であることをよくわかっていなかったツアーガイドが小屋を出発したからです。小屋にとどまっていれば、あのような事故は起きませんでした。

台風とかなら、事前の予想がつきますからまだいいですが、地震とか噴火なんてのは、いつ起きるかわからない。だから予言者(?)とかが富士山が噴火するとか地震があるとかいうわけですが、本当に噴火する際は、できたら非登山シーズンの平日、最大限登山者がいない時間に噴火してくれればですが、そんなことはもちろんコントロールできるわけがありません。地震でも、東日本大震災の発生は14時46分、阪神・淡路大震災は、5時46分でした。阪神のほうは、早朝でしたので就寝中で圧死、あるいは動きが取れず火事に巻き込まれての焼死が多かったようです。Wikipediaの死因というところでは、9割程度が圧死ではなかったかという推測が記載されています。これが昼などで、オフィスビルがつぶれたり、新幹線が脱線したり、高速道路が崩壊したりしたら、住宅での圧死者は減ったかもですが、そちらの方で相当目も当てられない事態になっていた可能性もあります。

地震ですと、地域の特性(住宅地かオフィス街か工業地帯か)でいろいろ危険な時間がちがうでしょうから、どの時間が災害に際して都合がいいかなんてことも言えたものではないですが(そういうのは、相当綿密なシミュレーションをしないとめったなことは言えません)、ともかく地震というのも危険な時間というのがあります。学校が休みの日だったり夜間での発生だったら、大川小学校の悲劇は起きませんでした。

いずれにせよこのような時間の予測が立たない、いつ起きるかわからない災害というのは、まさに起きる時間によって死者の数に強い影響がでます。こういうのもほんと運ですね。私としては、せめて自分は、そういう不運には巻き込まれたくありません。当たり前ですけどね。今回は、犠牲者が(確認されている限りでは)いなかったらしいことは、大変な幸いでした。

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災害時ほかの緊急事態には、鬼にならなければいけないこともある

2015-11-25 00:00:00 | 東日本大震災他災害関係

私が直接見た話ではありませんが、ずいぶん昔私の家の奥の部屋に、ネコが上がって居座ったことがあります。置いてあった布団の上にネコが乗っかっていたというのです。

で、私の親が、ネコを追い出そうとして、手で払ったら、絶対動きません。しまいには、ほうきで頭をたたくことまでしたそうですが、やはりじっと親のほうをにらんでいます。

ここまでしてネコが逃げないというのは、もしかしたら・・・というので、1度外して、ネコがいなくなった(餌でも探しにいったのでしょう)隙に布団をみてみたら・・・。いました、ネコの子3匹。

母は私に、大要「動物の愛情というか、本能ってすごい」と語りました。それはそうですよね。もちろん我が家はネコを殺したりはしませんが、ネコはそんなことを判断できないもんね。

けっきょく布団は外に出しておいたそうですが、その後ネコは子ネコを連れて去ったそうです。

子どもをつれた動物は必死です。小グマをつれた母グマに遭遇したりしたらやはり危険です。

さて、以上は動物の話ですが、一説によると本能が壊れた動物ともいわれる人間も、子どもについてはやはり必死になります。子どもに関しては、必ずしも合理的対応ができない。そういうことの関連で、この間、災害の対応についての講演会をきく機会がありまして、講師の人がくりかえし力説したのが、ともかく逃げろということです。他人よりも自分の命を優先させろということです。

すると、ここで大きな難問が出てきます。親子の問題です。

他人なら、さすがに自分の命を犠牲にして助けるというのは現実性に欠けますが、親子ですとそういうことがありえます。親が子どもを捜して津波にやられたということは2011年の災害の時も指摘されたことです。

それで、講師は、そのような災害教育を児童にする際、次のように話をするそうです。

(大要)「お父さんとお母さんには、ぼく(私)は自力で逃げるから、大丈夫だ、といいなさい」

親の立場からすると、確認が可能な距離にいれば子どもを助けたいのが人情というものでしょうが、そこで子どもを捜しにいくと津波の被害にあってしまうわけです。親も、子どもを信じるしかありません。

たぶん親としては子どもが無事か確認してから自分が逃げたいというのはやまやまでしょうが、そこは心を鬼にして、自分を第一に考えて逃げなければいけません。あるいは子どもはどうにもダメで死んでしまうかもしれませんが、それは親の力でもどうにもならない場合だということです。「あの時自分が・・・」と考えたくなるのは、人情としては理解できますが、そこは残念ながら割り切らなければいけません。人間、時間的、距離的その他の制約で、どうにも助けられないこともたくさんあるのです。

ずいぶん以前ですが、ヨットだかなんだかで、子どもが1人海に落ちてしまい、それを親が飛び込んで助けようとしたら、やはり亡くなってしまったことがありました。そしてその時ヨットには、別の子どもが乗っていました。そういう場合、やはり親は、海に飛び込んではいけないと思います。その人は泳ぎに自信があったのかもしれませんが、子どもを1人(あるいは他の子どもともども)ヨットに残してはいけないでしょう。そこは、まさに心を鬼にしなければいけない瞬間だと思います(なお、いまの話は、私の記憶で書いていますので、いつのどのような事件だったかは書けません。事実と違っていたら、その点はお詫び申し上げます)。

いずれにせよ、火事で燃えさかる家に「子どもがいる」といって飛び込もうとする親がいたら、私は「やめろ」と止める人間でいようと思います。

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2011年3月11日の想い出(3月10日発表)

2015-03-11 00:00:00 | 東日本大震災他災害関係

本日は、4年前大地震があった日です。というわけで、お亡くなりになった方の冥福を祈るとともに、被災地と被災者の方々の1日も早い復興と生活の安定を祈念いたします。

さて、本日は、この地震の件で忘れられないことを。

地震のあったちょうどその時、私は当時のオフィスで、カウンター越しに、来客に図面を見せて説明をしていました。するとひどい地震が起きて、ひどく揺れました。私の勤務先は、18階だったので、よく揺れるのです。

で、揺れながらも私が対面していた客は帰らないのです。別にその日に決着をつけなければ絶対だめな仕事とかそういうものでもないのですが、彼は帰りません。

が、私の口からついに言いました。

私「申し訳ございません、本日はこのような状況ですので、お引き取り願えませんか

私、社会人になってこんなこと人に言ったことないぞ(苦笑)。もちろん言われたこともありません。その後の状況を考えれば「苦笑」ではすみませんが、しかしこの時は内心苦笑しました。

すると、その人もさすがに状況がよくないと思ったのか、何も言わずに帰っていきました。

別にそのあとその人から苦情が来たということもないようだったので、これはこれで決着がついたのですが、しかしあの地震は本当にすごいものだったのだなとあらためて思います。18階から歩いて降りて深夜に帰宅したのも、いまとなってはすさまじい思い出です。

なおこの記事は、3月11日付の記事ですが、10日午後7時40分ごろの発表です。

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今日であの日から1年たった

2012-03-11 01:51:48 | 東日本大震災他災害関係
今日、あの地震から1年たちました。

地震だけでなく原子力発電所も大きなダメージを受け、ある意味日本の今後についていろいろなことを考えさせられた1年だったと思います。

すいません、本日はあまりくどくど文章を書くことをせず、無念の死を遂げた、そしてまだ行方のつかめない方々のご冥福を祈って記事を終えます。やすらかにお眠りください。
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東日本大震災から半年、同時多発テロから10年

2011-09-11 09:11:15 | 東日本大震災他災害関係
いまやっている関口宏の番組でも最初にやっていたし、日本中のブロガーその他が書いているように、今日2011年9月11日は、東日本大震災から半年、2001年の同時多発テロから10年です。

昨年の9月11日の記事では、私が世界貿易センタービルを訪れた最初で最後の日の話を書きました。私は日本の自室で、くずれおちるビルを声も出さずに見てしまいました。10年前に物心のついている方は、たぶんだれもがそれなりの想い出があるのではないでしょうか。

そして今年の3月11日…私が働いているビルの揺れもひどく、私たちはキャビネットを抑えたりするのに必死でした。もっとも後で、キャビネットより自分の安全のほうを考えろとだれかが言っていました。

私は現在のところ直接震災復興関係の仕事をしているわけではありませんが、詳細は書きませんけど私もそのようなこととまったく無縁な立場にいるわけではありませんので、これからも東北方面に行く可能性はあります。

あの日、地震がいちおう落ち着いた後テレビをつけたら津波が襲ってきて、だれかが飲み込まれそうになった映像(飲み込まれる前に画像は変わりましたが)を見たとき、「これは大変なことになるな」と日本中だれもが考えたことを思いましたがその後の原発事故などちょっと唖然とするばかりです。

2001年の9月11日も、その後のアフガニスタンやイラクなど、大変な事態が起きました。人為的なものであるテロと自然災害の地震ではずいぶんちがいますが、どちらも多くの方が亡くなり、そしてさまざまな問題が派生しました。日本の政治にも、2001年の事件はずいぶん影響を与えましたし、今年の地震もいろいろなことで後世「あの地震が…」と語られるのではないかと思います。

いつの日かはわかりませんが、私もニューヨークのグラウンド・ゼロに行き、地震の被災地に脚を運ぶかもしれません。その日には、私なりに「あの日」のことを想いだして、犠牲者その他の方々を追悼したいと思います。

追記:本当の偶然ですが、「9時11分」の更新になりました…。
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いまとなっては何ともむなしいものがある

2011-06-28 05:34:10 | 東日本大震災他災害関係
直接には地震と関係ないのですが、たぶん先日の地震が最終的にこの種のものへ引導を渡したと思うので記事にします。

拙ブログの記事を紹介していただいたりといろいろ世話になっているogatさんのブログ記事を見て「おや」と思いました。このような記念切手の写真が紹介されていたのです。





写真は独自のものを探しました。

1977年の高速増殖炉常陽の臨界記念の際に製作されたという記念切手です。

切手というのは国営もしくは準国営あるいはそれに近い事業ですから、切手の図柄というのはその時代にその国の政府(あるいは社会)の込めるさまざまな思惑というものが映し出されます。郵便学者の内藤陽介氏は、まさに世界の国々のいろいろな切手を解析して、その国の実情に迫ろうとしている学者さんです。

さてさて、常陽の歴史をwikipediaから見ていきますと…。

>1977年4月24日 第一段階であるMK-I炉心が初臨界を達成。日本で最初、世界で5番目。

とあります。上の切手は、この時のものを記念するものです。

1977年ですから、スリーマイル島チェルノブイリも起きていない時代です。それにしても、この切手が発行されたのはやはりogatさんもおっしゃるように

>常陽切手には未来への期待が込められていたのでしょう

ということですが、しかしいまとなっては…。なんともむなしいですね。

ogatさんのブログのコメントにも書きましたように、日本でこのような原子力関係のものの記念切手のたぐいが発行されることはたぶん永遠にないでしょうね。切手というもの自体すでに時代の流れでかつてほどの重要性はありませんし、日本の郵便事業もすでに国営ではなく位置づけも(いい悪いはともかく)大いに変化しています。そういった要因もふくめて、原子力というものが切手という媒体に取り上げられる日はもはやありません。

この記事のヒントをいただいたogatさんに感謝を申し上げます。
コメント (7)
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