ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

シンガポールほか2か国2都市紀行(ついでに北京も)(2017年3月)(4)

2017-09-30 00:00:00 | 旅(東南アジア―ミャンマー以外)

このような建物は、シンガポールのイメージとちょっと違うかもです。

シンガポールは自家用車の規制がうるさいので、持つのも容易ではありません。まあ必要ないような気がします。

こちらの店では男性物の服を売っています。

正直私の好みの服では全くありませんが、確かに中国では、このような服を着ている人を見たような気はします。でもここシンガポールで中国ではないけどね。

このような建物は、個人的には好きです。

ゲイランにある教会というのもいろいろ面白いですね。やはりゲイランってのは、中国系の街なんですかね?

なかなか歴史のある教会なのかもです。

で、すぐに駅があります。

このようなあたりは、やはりシンガポールですかね。

窓口で交通カードを買いました。私の交通カードコレクションもだいぶ増えてきたので、もう少し集めたら読者の皆様にお見せします。

高架式です。

巨大な扇風機が回っています。

中国系、インド系、マレー系のほかに、私のような日本人、白人などいろいろな人たちが混在しています。

ね、大きな扇風機でしょ。

地下鉄(現段階高架ですが)に乗ります。スマートフォンを見ているのはどこも変わりません。

地下鉄でこれからバタム島に渡ろうと計画します。

港最寄りの駅に着きます。

カウンターで往復のチケットを購入します。

土曜ですからやはり込んでいます。

出国の際は、親指の指紋をスキャニングしました。親指のみというのもようわからん。

さすが白人女性は脚を堂々と出します。

(つづく)

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アシアナ航空で、無料航空券か席のアップグレードが可能そうだ

2017-09-29 00:00:00 | 旅(海外旅行一般 あるいは上以外の国々 旅行全般)

あんまり私、マイレージには興味関心がなかったのですが、最近(突然)金にシビアになったので、私がいちばんためているだろうアシアナ航空について確認してみました。すると、あともうひといきで東南アジア路線については、無料航空券か席のアップグレードが可能げです。

ひところは、韓国に行く際はいつもアシアナだったのですが、最近はピーチになってしまったので、韓国往復では無縁です。しかし2015年に東京⇔ソウル⇔ロンドンの路線をアシアナで購入し、これがけっこう大きな加算でしたので、それでそれなりのポイントになったということです。

最近あんまり利用していないのですが(最後に使ったのが、15年11月のこのときの韓国紀行)、この航空会社自体は好きです。機内食はうまいし、客室乗務員も容姿・スタイルとも申し分ない。コリアンエア(大韓航空)が日本の日航同様のナショナル・フラッグとしたら、アシアナは全日空に値します。後進キャリアだから、それなりに努力しています。

行くのなら韓国でなく、東南アジアのどこかへ行こうかなと考えています。せっかくなら、そちらに行ったほうがいい。ただマイレージの無料航空券とかって(当然ながら)枠が少ないんですよね。このあたり私も慎重に考慮したいと思います。

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嘘つけ!!!

2017-09-28 00:00:00 | Weblog

私はいままでずいぶん「嘘つけ!!!」という場に遭ってきました。今日はその数例を。

小学校だか中学だかの時、社会科の教科書で、日本のメーカーが海外進出をしているというくだりがあり、日本の自動車会社の外国での工場の写真がありました。その写真には工場に飾ってある看板(標語)が写っていまして、それに「QUALITY FIRST」(質第一)とありました。それを見た小学生だか中学生だかの私、思わず口に出しました。

嘘つけ!!! QUANTITY FIRST」(量第一)だろ!!!

こういうことを嬉々として話す小学生だか中学生だかというのも、なかなかの大物だと思います。かつて中学1年生の時、ブラックユーモアの話を教室で話して同級生が困惑した(話がひどいというより、内容を理解できなかったということですが)とか、私もしょうがないエピソードをいろいろ持つ人間です。

もっとも当時の私はまだ甘いですね。これはやはり

嘘つけ!!! 金儲け第一だろ!!!

くらいのことを言わなければなりません。もっともそんなことをいう小学生は、私ですら好感はもてません(笑)。

どうでもいい話ですが、私は小学校の頃から「作文がうまい」とか「文章がうまい」とずいぶんいろいろな人からほめられていましたが、いわゆる「作文コンクール」とかへの参加をすすめられたことはほとんどありません。たぶん私がひねくれものなので、そういうことはこいつには書かせてもしょうがないと教員が思ったのでしょう。たしかに子どものころから、道徳の教科書に出てくるような作文コンクールの入選作を大変毛嫌いしている(というか徹底的に馬鹿にしている)のが私でしたから。

ところで小学校の時の卒業記念アルバムに、将来の夢というお約束のコーナーがあり、たとえばプロスポーツ選手になりたい、花屋、ケーキ屋になりたい、パイロットになりたい、というようなことを私以外の人は書いていましたが、私は「できるだけ給料のいい会社に入る」と書きました。別にいまさら小学校の卒業アルバムを引っ張り出して確認するつもりもありませんが、私の記憶ではそこまであからさまなことを書いた人間は私くらいです。私の超現実主義的な態度に教師や私の親、周囲は、「Billらしいや」と苦笑していたのかもですが、でも私こんな程度の夢すら実現していないぞ。それもどうかです。

ここで突然考えたのですが、私が何か重大な刑事事件を起こして過去の卒業アルバムを引っ張り出されたら、たぶんこのくだりがやたらテレビなんかでは取り上げられるのだろうなと思います。McCreary容疑者の小学校の卒業アルバムには・・・なんてテレビで報道され、世間も「McCrearyって人、子どもの頃から変な人だったのねえ」なんていうかもしれません。それはさすがにうれしくないな。

それでは気を取り直して社会人になってからの話を。私が職場の関連会社にいた女性のもとへ(仕事で)行ったら、その女性が私に向かっていいました。

女性「今日McCrearyさんが来ればいいなあとずっと思っていたんですよ!!!」

私「嘘つけ!!! みんなにそういっているんだろ!!!

とはさすがにいいませんでしたが、こういうことを真に受けるとろくなことにならないと思います。

最後。私が某ミュージシャンの女性に自分で撮影した素人写真を引き伸ばして手渡した時、その某ミュージシャンの言葉。

某ミュージシャン「きれーい!!!」

私「嘘つけ!!! こんな程度の写真、しょっちゅうもらっているだろ!!!

だいたいこういう人はいろいろなものを「もらい慣れている」のです。私が何をあげたところで、彼(女)らを満足させることなどできません。

まあ世の中「お世辞」「リップサービス」その他いろいろな言葉がありますので。

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ある交通違反者の手記(反省文)

2017-09-27 00:00:00 | 社会時評

過日、福岡県の警察署HPに掲載されていた交通違反者の手記(反省文)を読みました。こういった反省文は、裁判などで有利に働くための情状材料として書かれることが多く、たぶんこの手記もそのような側面で書かれたのだと思いますが、やはり飲酒運転事故を起こし逮捕・拘留された当事者でないと分からないいろいろなことが書かれていて、私にとっても読者にとっても大変参考になると思いますのでリンクします。私は生まれてこの方1度たりとも飲酒して自動車(原付バイクをふくむ)を運転したことはありませんが、私と同じ職場だった某人物も、酒気帯びで人身事故を起こしてしまい問答無用で懲戒解雇されました。私も1回酒を一緒に飲んだことがあり、性格の良さは万人が認めるところでしたが、このご時勢に飲酒運転の人身事故では同情はできません。酒好きというのを自認していましたが、これではどうしようもありません。コピペできなかったので、サイトに飛んでください。

http://www.police.pref.fukuoka.jp/fukuoka/minami-ps/H27Renew/tra01/tra001_6_15.html

いかがだったでしょうか。この方1度免許取り消し処分を受けていて、それで再取得後にこの事態ではよろしくないですね。ちょっと同情はできないなです。

福岡県は、ずいぶん以前福岡市職員の飲酒運転による重大な死亡事故(子ども3人死亡)があり、警察ばかりでなく行政なども特に飲酒運転については他都道府県警、他県の自治体などよりもより厳格な対応をしているかと思いますが、やはり酒好きな文化、中州などの大きな歓楽街の存在ほか、誘惑は大きいのかもですね。読者の皆様も仕事あるいは個人的に車を運転する機会のある方が多いかと思います。自動車事故はやっていはいけませんが、飲酒運転は、したらそれはすべて自分の責任です。これだけは絶対しないでください。私もゴールド免許所持者ですが、これからも事故・違反ともにないように気をつけたいと思います。

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三千万円孫へ贈与しておいて、金がないと寝ぼけたことをほざかれてもしょうがない

2017-09-26 00:00:00 | Weblog

まずは記事を。

>【孫破産の実例】「あと何年生活保護のお世話にならずに生きて行けるかしら」と寂しく笑う知人。


マネーの達人
志水 恵津子
2017/08/28

孫にお金をあげ過ぎてジジババ世代が破産?
実際に孫のために教育資金贈与をした知人は、後悔しています。
この制度は、1,500万円まで非課税で教育資金を贈与できる法律ですが、

老後資金にとがっちりため込んだ富裕層のジジババ世代を狙った国家的陰謀 ともいえます。

教育資金の一括贈与とは
「教育資金の一括贈与」とは平成25年から始まった制度で、上限1,500万円までを子どもや孫に非課税で贈与できる法律です。
この制度は当初27年度までの予定でしたが、31年3月31日にまで延長されました。

主に信託銀行などで取り扱われており、所定の手続きをすれば、上限1,500万円までは孫名義で銀行にお金を預けても贈与税はかかりませんが、次のような決まりがあります。

・使い道は学費、塾、稽古事のみに限る。

・引き出すたびに孫本人、もしくは未成年者の場合は親が銀行に、その都度領収書を提出する。

・30歳までに使い切るのが前提で、余った分には贈与税が課せられる。

「一人娘のたった一人の孫」だからと贈与
夫に先立たれ一人暮らしの知人の一人娘に、結婚8年目にしてやっと男の子の孫ができました。
いずれはこの孫にお墓の面倒もみてもらおうと、生前贈与のつもりで教育資金贈与をすることにしました。

その後すぐに、2人目の孫も誕生して喜んでいたところ、娘から

「この子も同じようにしてやって」 と言われたそうです。

自分のために使おうと思っていたお金を…
彼女は数年前から緑内障で、左右の視界が悪く階段の上り下りがつらかったこともあって、20数坪の3階建ての家を処分してワンルームのマンションに移ろうと思っていた矢先でした。

迷った挙句、そのためのお金1,500万円を2人目の孫にも同じように、教育資金として贈与しました。

「家を売れば何とかなるだろう」と思っていたところ、1,000万円にも満たない見積もり価格で、中古マンションも買えない状況になってしまいました。

「貯金は底をついてしまったから、節約しながら細々と生きていくしかないわ。あと何年生活保護のお世話にならずに生きて行けるかしら」 と、会うたびに寂しそうな笑顔をみせます。

我が家のお姑さんの話
お姑さん自慢になってしまいますが、3人の子どもにそれぞれ2人ずつ子どもがいて合わせて6人の孫がいます。
お姑さんは、この6人の孫たちが大学が決まった時にお祝いとして孫たち本人に100万円ずつくれました。

「何に使ってもいいから、自分のために自由に使えばいい」 とカッコイイ言葉と共に新札を受け取った我が家の長男は、そのお金を一人暮らしのための準備に使いました。

当時5万円くらいの家賃のところで、敷金や礼金、管理費、保険などを合わせて40万円ほどかかったと思いますが、家具などを買い足してもまだ十分余る金額でした。

次男は、長期のインド旅行に行きました。

私は無駄遣いだと思いましたが、本人は今もその時の体験が役立っていると言っています。

お姑さんはこれといった贅沢もせず、自分が働いたお金をコツコツと貯めて6人の孫たちに夢をプレゼントしてくれました。

ゆとりがあるからと早々とまとまった金額を贈与するよりも、こんな形で贈与するのも選択の一つかと思います。

まとめ
教育費にかかわらず一人の孫につき、年間110万円までは税金がかかりません。

お金に余裕がある人は相続税対策になるかもしれませんが、そうでもない人は自分の老後資金の大半を孫の教育資金に回すのはいかがなものかと思います。

わずかな蓄えと年金で生活しているシニア世代は、孫への援助もよく考えてからおこなう必要があります。(執筆者:志水 恵津子)

お金に余裕がある人は相続税対策になるかもしれませんが、そうでもない人は自分の老後資金の大半を孫の教育資金に回すのはいかがなものかと思います。

あの・・・。孫に三千万円贈与しておいて、

>貯金は底をついてしまったから、節約しながら細々と生きていくしかないわ。あと何年生活保護のお世話にならずに生きて行けるかしら

もないんじゃないのと思うんですが(苦笑)。

ていうか、これ

>孫への援助もよく考えてからおこなう必要があります。

という趣旨の記事としてふさわしい事例なんですかね。収入以上に金をつかっていれば、ホイットニー・ヒューストンだって困窮するし、夕張で保険金殺人をして死刑になった夫婦だって、

>死亡保険金の合計1億3,800万円をH興業の経営者であるH夫婦に支払った。これにより再び多額の保険金を得たH夫婦であったが、夫婦はこれらの保険金もわずか1か月ほどでほとんど使い果たしたという。

ということになるわけです(ただし何に金を使ったのかは、Wikipediaには書いてありませんが)。この記事自体事実関係が不審にも程があるという気がしますが、それは確認不可ですので議論しないとして、この事態になったのは、制度の問題でなく、単にこの女性の問題でしょう。あるいは娘から贈与を強要されたのなら、それは老人虐待というものですが、この件がそうでなければ祖母の問題だし、虐待なら話の次元が違うでしょう。

こういうわけの分からぬ記事を書いて発表されても不審すぎてお話にもなりませんね。2人目の子どもに関しては、単に「自分の生活費のことがあるので、お金は出せない」といえばいいだけじゃないですか。そこに金を出さなければいけない特段の事情があるのなら、それはきっちり書いてもらわないとしょうがありません。書けない事情があるのなら、そもそもこんな記事書くべきでない。なに考えているんでしょうね、この筆者。また掲載するサイトも、内容についてアドバイスはしなかったのか。これでは私がしょっちゅう取り上げる産経新聞の南京祈念館についてのデマ記事と同じじゃないですか。あの記事も、中国側の談話ひとつないし(呆れ)、そもそも写真の撤去が事実であるとしても、その理由も(あたかも中国側が写真の不備を認めて撤去したかのように書いていますが)実のところ何も書いていないわけです。だいたい中国側の談話がないのだから、理由を書けるわけもないのです。

記事にある

>老後資金にとがっちりため込んだ富裕層のジジババ世代を狙った国家的陰謀 ともいえます。

というのが事実かどうか私は知りませんが(まあそうなのだろうなという気はします)、これはそんなレベルの話ではありません。単にこの女性が軽率なだけです。あきれ返ります。

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日比野宏氏の死を知る(よって彼の遺作の本を買った)

2017-09-25 00:00:00 | 書評ほか書籍関係

ラグビーの大家で、早稲田大学名誉教授の日比野弘氏でなく、写真家・旅行家の日比野宏氏が亡くなったことを9月16日に知りました。なんともう11か月も前です。土曜日なので自宅でゆっくりしていて、なんてこともなく「日比野宏」というので検索したら、氏の死を知ったのです。引用はこちら

>〔日比野宏氏(写真家)4日「心嚢血腫⇒大動脈乖離」で都内で急死(60)〕

(Nitewatch 2016年11月6日)

http://nitewatch.biz/news/hiroshi-hibino/
写真家・日比野宏さんが死去。享年60歳。
東京都 渋谷区出身。
フリーカメラマンとして
ファッション撮影を中心に活躍の後、
1987年より1年3ヶ月にわたり、アジア16ヶ国を旅し、
帰国後その過程をまとめて「朝日ジャーナル」に連載、
その後、文庫化、電子書籍化もされる。
以降、写真家、ジャーナリストとして活動していた。
*
沖縄・沖縄市に在住していたようですが、
東京「写真の学校/東京写真学園 」
の学校講師等の都内での仕事も多く、
沖縄⇔東京を随時、往復されていた模様。

~「写真の学校/東京写真学園 」公式ツイッター~
(2016年11月5日)
写真の学校講師でもあり、
アジアと沖縄とジャイアンツを心底愛した
写真家・日比野宏氏が昨日11月4日に他界されました。
ご生前のご厚情にスタッフ一同深く感謝するとともに、
日比野先生のご功績を偲び、
謹んで哀悼の意を表します。

~本人・公式フェイスブック~
https://www.facebook.com/hiroshi.hibino.56

(2016年11月5日)

少し前に、妹さんと一緒に
荒川警察署にて日比野さんに会ってきました。
眠るような穏やかなお顔でした。
心嚢血腫からの大動脈乖離だったとのことです。


~日比野宏さんのご友人・ご関係者の皆さま~
6日(日曜日) 15時〜 代々幡斎場にて
荼毘に付すにあたり、
ご遺族様よりご連絡がございます。
6日は、通夜・告別式等の葬儀は行わず、
後日、お別れ会を予定しております。
お別れ会については
詳細が決まり次第、改めてお知らせ致します。
最期に日比野さんのお顔を見ての
お別れをなさりたい方は
15時より少し前に斎場にお越しください。
15時には荼毘に付される予定となっております。
明日いらっしゃる予定の方は、
大変恐縮ではございますが、
このFacebookのコメントでお知らせください。
よろしくお願い致します。
代々幡斎場
渋谷区西原2-42-1

うひゃーです。私もひところ日比野氏の本をやたら読んだ記憶があります。物置にしまった本も何冊もありますが、まだ本棚に置いてある本も数冊あります。知っていれば、仕事なんかさぼって、ぜひ彼と最後の別れをしたかったくらいです。

氏はブログやHPを運営していたようですが、すでに閉鎖されている模様です。上にURLがはられているfacebookはまだありました。そこの自己紹介から引用します。

>東京生まれ、渋谷育ち。高校時代に8ミリカメラを手にして、自主映画製作に目覚める。卒業後、映画製作を学び、8ミリや16ミリ映画の作品を作る。現在一部は YouTube にアップしている。

1980〜1984テレビ朝日スチール写真部に所属。仕事のかたわら独学でモデルの作品撮りをおこない、ポートフォリを制作。退社後、営業活動をはじめ、80年代中ごろからファッション・ポートレートを中心に、フリーカメラマンとして活動。流行通信、ハイファッション、マリクレール、ウィズ、ソフィアなどメジャー雑誌のグラビアを中心に撮影する。

80年代中頃よりアジアに興味を抱き、同時に、作家になりたい野望を抱く。商業写真に見切りをつけて、すべての仕事を放てきし、87年11月よりアジアを1年3か月にわたって旅する。帰国後その過程を写真と文章にまとめ、90年の朝日ジャーナルノンフィクション大賞を受賞。その後『朝日ジャーナル』(朝日新聞社)『ホットドッグプレス』(講談社)に連載。91年4月に処女作『アジアASIA亜細亜 無限回廊』『同2 夢のあとさき』(新評論、のちに講談社文庫)を出版。90年代は、紀行作家として数多くの単行本・雑誌連載を手がける。著者物は現在Amazonや楽天サイトで購入可。電子書籍としてKindle版も配信する。

21世紀に入り渋谷の「東京写真学園」(2002〜2015年)で専任講師を務める。写真関連の書物を出版し、中国や台湾向けに翻訳される。また小説やドキュメンタリー「沖縄東京三線旅」を執筆中。
現在、沖縄と東京を行き来して歌三線を学び、写真や映像作品と、沖縄民謡を融合した芸術活動を構築中。沖縄での写真講師をおこなう。

もう十何年旅行関係の本も出版していないし、私も氏のことを思い出すこともあまりなかったのですが、ただ彼が、沖縄に凝っていることは知っていました。上の記事にもあるように、彼は都内の写真学校で講師も務めていまして、私もよっぽど彼に写真を習おうかと思った時もあります。それは実現しませんでしたが、しかし私が読んだあまたの旅行本の中でも、氏の文章や感性は、私とよく合致していたと思います。そんなことを描くのはおこがましいですが、やはり自分が強い影響力を受けた方が亡くなるのは残念ですね。私が旅行好きな理由も、そのいくらかは、彼の本を熟読したせいです。

それで私も全然知らなかったのですが、氏のたぶん遺作となるであろう本が今年の7月に出版されました。これを氏の死を知った土曜にAmazonで注文し、すぐ配達してもらいました。

沖縄三線秘境の旅

Amazonレビューでは、写真があんまりないじゃんという苦言がありますが、私個人は氏の文章が好きなので、それは苦にはなりません。もっともこれは実現は難しいでしょうが、氏のアジアを中心とする写真集のたぐいが出版されればいいなとは思います。これを私はインドに持って行って読みました。インドのようなディープなアジアで日比野宏氏の本を読むのも悪くありません。

実はこの本の出版元が、ヤマハ系列の出版社なのです。つまり楽器のつながりでこの本の出版が実現したらしい。そのあたり、どういう事情で氏の原稿が売り込まれたのか当方の知るところでは無論ありませんが、でも本が出てよかったと思います。

本の内容は、写真はあまり多くなく、彼が沖縄に通いながら三線を習い始め、そしてそれにはまっていく姿を、沖縄での師匠や知り合った知人らの姿を描写しながらまとめたものです。さすがに旅行記を何冊も書いている方だけあり、うまく構成しています。著者は、写真関係の本を2010年に出版していますが、旅行関係の本は2002年以来の出版のようです。Amazonの紹介には、

>本書は十数年ぶりの著作となる。

とあります。もっと氏の旅行記を読みたかったのですが、年齢も高くなり、時代も彼が90年ごろに出した旅行記のようなものが読まれるようなものでもなくなっていたのでしょう。そういう意味では、旅行記というより沖縄という地とそこの楽器の修行をまとめたこの本は、単なる旅行記よりは時代にそぐうものなのかもしれません。

それでネットで確認したところ、彼の三線に関する動画がいくつか見つかりました。ご紹介します。

三線ダイジェスト

余談ですが、当然かもしれませんが、この動画のMCで彼が話していることは、だいたい上の本に書かれています。

こちらは氏の撮ったアジアの女性たちの写真です。

AsianGirl

そういうわけで、日比野宏氏のご冥福を祈ってこの記事を終えます。日比野さん、安らかにお眠りください。

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シンガポールほか2か国2都市紀行(ついでに北京も)(2017年3月)(3)

2017-09-24 00:00:00 | 旅(東南アジア―ミャンマー以外)

早めにチェックアウトします。今日の予定は、インドネシアのバタム島へ行き、そのあとシンガポールに再入国して今度はマレーシアのジョホールバルに行ってそこで宿泊するというものです。

朝のゲイランというのもなかなかさわやかでした。

私の泊まったホテルの隣にやはりホテルがあります。昨日の夜にちょっと注目しました。

予約サイトで確認したら、泊まったホテルより安い料金が提示されていましたので、さっそく明日の宿泊の予約をしました。今日のジョホールバルの宿は、まだ未定です。

ネズミがすすーっと走っていました。わが人生でそんなのあまり見た記憶のない光景です。

祠もありました。やはり中国系の人が多いんですかね。

朝のゲイランは、そんなにいかがわしい雰囲気はありません。

店を物色します。

24時間営業ですか。ゲイランは、治外法権とまではいわずとも特区みたいなところがあり、他の地区の店より営業時間、アルコール類の販売、喫煙のルールなどで優遇されています。

あ、こんな時間に独特の服装をしている女性がいましたので、あっちの方面の女性だなと思い写真を撮ったら、撮らないでと注文をされました。それで写真はありませんが、すごい美人がいたので、思わず目つきを変えてしまったら(そして彼女も、私を見てニコリとしました)、ポン引きだかなにかが「こいつはその気だ」と考えて、しばらく私に付きまといました。すみませーん、と逃げます。

ようやく勧誘を振り切ります。

公衆電話というのも、世界中廃れています。

こういうところでコーヒーをいただいてもよかったかもです。

地下鉄の駅に向かいます。ゲイラン最寄りの駅は、アルジュニード駅です。

中国色の強い地区なので、看板は漢字が多くありました。

東南アジアの街は、このような立派な木がたくさんあります。

暑い気候では、このような緑と木陰に癒されます。

今度はこのようなホテルに宿泊しても面白そうです。

朝でも日差しが強いのがわかるでしょう。

シャッター通りではなく、まだ朝なので営業していないということなのだと思います。

何書いてあるかわかりまへーん。

あ、バナナが豪快に売られていました。

バナナは、安くて栄養もよくうまいという優れた食品です。金がなくなったらバナナとピーナッツを食べて暮らそうと考えています。

地下鉄の駅もすぐ近くです。

(つづく)

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シンガポールほか2か国2都市紀行(ついでに北京も)(2017年3月)(2)

2017-09-23 00:00:00 | 旅(東南アジア―ミャンマー以外)

空港を歩きます。だいたい空港というのは灰色のような暗い色調の内装であることが多いような気がするのですが、シンガポールのチャンギ空港は暖色系の華やかな雰囲気です。チャンギ空港は他の空港と違い、出国者と入国者(いうまでもありませんが、この空港は国際空港のみの運用です)が混在する仕様です。

あんまりこういう照明の空港というのは記憶にないなあ。

インド系の女性入管職員に、出国の予定を話して、入国スタンプをもらいます。

特に初めて入国する国では、やはりこのエリアに入ると本当にほっとします。団体旅行の人たちもそう考えているかな。

若干の金をシンガポールドルに両替します。

私としては、地下鉄などでホテルへ向かいたいのですが、時間も遅いし初めての国なので、数人のグループで各ホテルに送ってくれるサービスを依頼しました。まあ初めからそのつもりだったのですが。

写真の家族も、このサービスを依頼していた人たちです。

数人と一緒に車で出発します。このホテルは、誰かの目的地です。

車の中です。

 

ホテルに落ち着きます。下川裕治氏が(売春街なので)顔を赤らめた(?)シンガポールの売春街ゲイランのホテルです。「ホテル81」というチェーンホテルで、下川氏もこのグループのどこかのホテルに泊まった模様です。

売春街にあるとはいっても、ホテルの部屋自体はきわめて機能的・清潔・無機的なものです。

ホテルの外観です。

機内食は食べましたが、まさかそのまま寝るわけにはいきません。外で何かをいただくことにします。

床屋さんもありますね。

この店でいただくことにします。

チャーハンに、ソーセージと鶏のから揚げを注文します。皿でなく紙でくれるというのがすごい。

やはりビールは欠かせません。

正面のお兄さん、なかなかすごい刺青です。

ゲイランだから、写真を撮るのも緊張します。にしてはずいぶん無造作に撮っていますが。

白人たちのグループも盛り上がっていました。

シンガポール名物海南鶏飯をいただきます。このブログのはるか昔の記事で、渋谷のカオマンガイの店で食べた話があります。

おいしくいただきました。それでは今日はおやすみなさい。

(つづく)

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「レイジング・ブル」のモデルであるジェイク・ラモッタが亡くなった

2017-09-22 00:00:00 | 映画

本来なら「スポーツ」のカテゴリーでしょうが、私にとっては映画のモデルというイメージが強いので、「映画」のカテゴリーの記事とします。

映画『レイジング・ブル』の主人公のモデルとしても有名な元ボクサーのジェイク・ラモッタ氏が亡くなりました。記事を。

>米ボクサー、J・ラモッタ氏死去 「レイジング・ブル」モデル

2017年9月21日 13時1分 CNN.co.jp
(CNN) ボクシングの元世界ミドル級チャンピオンで、映画「レイジング・ブル」のモデルにもなった米国のボクサー、ジェイク・ラモッタ氏が死去したことが21日までに分かった。95歳だった。

ラモッタ氏の代理人がCNNSportsに対して確認した。死因は明らかにされていない。遺族がTMZスポーツに語ったところによると、同氏は肺炎に伴う合併症のため、医療施設内で息を引き取ったという。

1922年にニューヨークで生まれたラモッタ氏は、ボクサーとして49年から51年にかけて世界ミドル級王者のタイトルを防衛。現役時代の通算戦績は106戦中83勝19敗4引き分けで、30回のKO勝ちを記録した。

長くライバル関係にあったシュガー・レイ・ロビンソン氏とは6度対戦して1度勝利している。

米作家バート・シュガー氏は、歴代の偉大なボクサーを扱った2006年の著作の中で、ラモッタ氏について「試合中は怒りのエネルギーが頭のてっぺんから噴き出しているかのようだった。火山の爆発さながらだ」と述べた。

妥協のない激しい戦いぶりと、リング外での破天荒な生活で知られたラモッタ氏。その半生はマーティン・スコセッシ監督の1980年作品「レイジング・ブル」で映画化され、主演の米俳優ロバート・デ・ニーロはアカデミー主演男優賞を受賞した。タイトルのレイジング・ブル(怒れる雄牛)はラモッタ氏自身のニックネームでもある。

「レイジング・ブル」では、ラモッタは映画の撮影に協力しています。もっとも存命中に映画が制作されているし、本人の回想録を原作としているのだから、当然といえば当然か。

Raging Bull: My Story

 

画像は、映画のオープニングクレジットより。YouTubeからのスクリーンショットです。

原作の内容から、多くの映画会社が彼にアプローチしたようですし、またあるいは金銭的な事情もあったのかもですが(詳細は知りません)、内容が内容だけに、よくこの映画に積極的にコミットしたなという気はします。

映画の撮影でもデニーロにアドバイスをしていますし、ほかにも彼と一緒に写った写真があります。

これはだいたい撮影をしていたころの写真ですかね。

これは2005年に撮った写真。映画の公開25年を記念したものとのこと。デニーロ、キャシー・モリアーティマーティン・スコセッシ監督と。ジョー・ペシはいなかったんですかね。

私も氏が、高齢でご存命であることは知っていましたが、95歳というのはすごいですね。ボクシングでだいぶ体にダメージもあったはずだし、また米国人は日本人ほど長命でもありません。たぶんものすごく頑健な肉体の持ち主だったのでしょう。

現役時代の写真です。

1950年の写真。右にいるのが、映画でモリアーティが演じたヴィッキーさんです。出典はこちら

1970年の写真。うーん、まるっきりマフィアっぽいですね。出典はこちら。ちなみに彼はイタリア系ではありますが、母親はユダヤ系とのこと。

彼もまたボクシングのレジェンドだったと思います。ジェイク・ラモッタ氏のご冥福を祈ってこの記事を終えます。

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遅くなったが、1600万PVを突破したことをご報告

2017-09-21 00:00:00 | Weblog

9月10日、自分のブログの週間のPV数とIP数を整理していたら、1600万PVを超えたことに気づきました。

これは、9月9日土曜日までのPV数、IP数です。下の記事

1,500万PVを突破した

によると、1500万PVを突破したのが4月6日だったようですね。今回は、計算すると、9月3日に突破した模様です。ほぼ5か月弱での突破ですかね。150日での突破は、森友関係でのアクセスが絶大だった1400万~1500万よりやはりペースは悪いですね。でも世界陸上でのアクセス増もありました。

ブログというのは、たまに当たりの記事が出ます。それが何の記事かは私には判断も予測もつきませんが、書いていれば次なる当たりの記事もあるでしょう。そういうわけで、これからも毎日1日1記事で更新していきますのでお楽しみに。

コメント
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