昨日の記事にも書きましたとおり、アニセー・アルヴィナが1979年に日本に来たとき、角川書店の雑誌「バラエティ」1979年12月号でタレント斉藤とも子と対談した際の記事を採録します。また採録の最後でも触れますけど、彼女が日本のテレビに出演した際のインタビューや、私がこのブログで翻訳したインタビューともつながる内容がいろいろ彼女の口から出ていて、なかなか興味深いものがあります。なお、私にとっては、「アルヴィナ」という表記でないと彼女じゃないって気がするのですが、原文通り「アルビナ」という表記で記します。それでは…。
>白熱!とも子の熱中アンソロジー:連載第7回
アニセー・アルビナVS斉藤とも子
道でとまってみろ、人々がふり帰ったら、それがスターさ!
映画「
フレンズ」をとも子ちゃんが見たのは中学1年生の時だったという。まだ中学生のとも子ちゃんにはショッキングなシーンもあったりして、「うつむきながら見てました」ととも子ちゃん。「愛の世界はとても純粋なもの、あれが自然な姿だと思うの。14歳のミシェルの役を演じたあのとき私は18歳だった」とアニセー・アルビナさん。
映画公開から9年。「とも子の熱中アンソロジー」の取材のために現れたアニセーさんは、黒いレザーの胸元に銀の糸の大鷲の刺しゅうのあるタイトなワンピース姿。映画の中のあどけなさもちょっぴり残してはいるものの、もうすっかり大人。快活な中にも女性の色気が・・・・・。
食事をしながらすっかり意気投合した2人の会話は、その生い立ちからフランス映画の現状へと、撮影のために赤坂から竹下桟橋へ移動するにつれてエスカレートして行ったのである。
とも子 今日は初めて外国の方とお話をするんで、どうなっちゃうんかしらとドキドキなんですが、アニセーさんのデビュー作「フレンズ」は私も見ているのであの映画のことなどいろいろお聞きしようと思っています。で、最初にプロフィールをうかがいたいのですが、お生まれはフランスのブーロンとか・・…?
アニセー 実際に生まれたのは
ブローニュの森の近く、パリ
16区ヴェジネという郊外の街なの。私の家のその頃の家族構成は大家族ってことになるんでしょうけど、兄3人、姉2人、末っ子が私。父はエンジニア、兄たちはお医者さんなの。
とも子 お堅い家庭なんですね。それなのにどうしてこの道に入られたのですか。
アニセー 何かを演じるってことが、小さいときからとても好きだったの。7歳くらいになるとだいたいの本が読めるようになるでしょ。で、まず最初に読み通したのが
モリエールの作品だった。かなりませてたんだけど(笑)、そのころ私が夢中になってやった遊びはね、お芝居ごっこ。たとえば
シェークスピアの「
ロミオとジュリエット」などを、友たちを集めてそれぞれに役をふり分けてやったの。とにかくどうしようもなく、という感じで演劇が好きだった。だから迷わずに演劇学校に進学したわ。
とも子 私の小さいころとはまるで違ってる。私は芝居や映画、見るのは好きだったけど、人前には絶対出れなかった。学芸会なんて大嫌いで、もっぱら観客でした。それが中学生になったら生格が変わって、ほんと、変身してしまって、なぜか人前にも出られるようになったし、何かやりたいと、積極的になっちゃったんです。それで、神戸にある養成所に通ったりして、標準語の訓練などをやりました。中学3年になる春、父の転勤で生まれ育った神戸から東京へ来たんです。今思うと、このことがすごくラッキーだったんですね。私はその中学3年の終わりにテレビでデビューしたんですが、神戸にいたらそんなに早くチャンスができたどうか・・…。アニセーさんのデビューというのは?
・・・・・という軽快な雰囲気で、フランスからのお客さま、アニセー・アルビナさんととも子ちゃんの対談は滑り出した。アニセーさんは日本航空の秋から冬へのキャンペーン<もうひとつの巴里祭、12月>のための初来日。パリでもっともファッショナブルなディナーショー劇場「
パラディ・ラタン」を会場に、日本航空が主催する”夜会”も今年で4回目。毎年豪華なスターを迎えるこの催し。ホストが岡田真澄さん。そして今年のアシスタントにアニセーさんが選ばれたのだ。この冬、ジャルパックでパリへ行くと彼女の笑顔に出会える、というわけだ。
アニセー 私のデビューは16歳で演劇学校には行って勉強していたとき、「フレンズ」の
ルイス・ギルバート監督に見出されたの。
とも子 わあ、私だったらとてもできないわ。なにしろ私は養成所の中でも一番下手で(笑)、今でもいろいろ出させていただけることが不思議なくらいで・・・・・。
アニセー もちろん私の演技も未熟だったわ。だけどとても幸運だったのや、映画の内容が演じるというより、ただ素直に自分を出せばよかったということ。「フレンズ」はフランスで撮られているけど、監督はイギリス人、資本はアメリカ、言葉は英語というわけで、性格的にはアメリカ映画の要素が強かった。で、私もごらんのように(笑)ヤンキーガール的というか、フランクなほうだから、地のままを出せた。(笑)
とも子 大抜擢されるとどんな気持ちになるのかしら、眠れないというか・・・・・。
アニセー とにかくうれしかった。監督はヒロインのイメージの女の子を探すのに1年も費やしていたんです。オーディションを1000人もの人が受けた。そんな中から私が選ばれ、それはほんと、信じられないくらいで。
とも子 私はどんなお仕事でも緊張してしまうたちで、最初の映画の時、あがっちゃってどうしようもなく、体も動かないしセリフも言えなくて、とっても情けなかった覚えがあるんですけど、アニセーさんの場合は?
アニセー 監督の指導がすばらしかったんだと思うけれど、彼は私にすごい信頼をおいてくれたの。だから私はごく自然に自分自身を表現できたんだと思う。もちろん最初は考え込んだり恐かったりしたけど、いざフィルムが回り始めると、私の頭の中にそんな意識はひとつも残っていなかった。
とも子 すごいですね。ところで撮影にはどのくらいの日数がかかりました?
アニセー まず1カ月間ロンドンで英語の特訓を受け、それから直接の撮影は12週間。
とも子 エッ、3カ月間も!!
アニセー そう、そして撮影が終わって1カ月後ロンドンでもう一度英語の特訓があって、音入れは1週間。そととき、今でも楽しくて笑い出してしまう思い出なんだけど、私がセリフを入れている隣のスタジオで、
エルトン・ジョンがレコードの録音をしていたの。いつもお昼を一緒に食べたりしたんだけど、当時、彼はまだ無名でとても内気な男の子だったわ。ところが、数年後、彼とアメリカでばったり出会ったら、キンキラキンで変な眼鏡をかけて、すごい自信過剰な男になっていた。びっくりもしたけど、その変わりっぷりがおかしくって・・・・・。(笑)
(続く)
McCreary注:彼女は、自分の生まれた所を「パリ16区ヴェジネ」と語っています。とすると
ここですかね。
そうすると、この街は16区ではないみたいなのですが…。たしかにパリの西ではありますけど。さらに斉藤さんが彼女の出身地を「ブーロン」と言っていますが、これは
ブローニュ=ビヤンクールのことでしょうね。
また、「フレンズ」が「18歳」の時だったと語っていますけど、彼女は1953年あるいは1954年生まれ(たぶん53年生まれ)なので、撮影時は18歳ではなかったと考えられます。誤植、もしくはインタビューアーのケアレスミスでなければこの映画が公開されたのが1971年なのであるいはそれを意識していたのかもしれません。
蛇足ですが、エルトン・ジョンは、この「フレンズ」のサウンドトラックを作成し、主題歌も歌っています。この映画が知名度が高いのは、たぶんこのおかげです。エルトンも当時はものすごく人気が出る直前だったはずですが、この映画と縁があったという奇跡的な偶然を神に感謝したいと思います。
追記:あとで、雑誌の写真をアップします。→1月30日アップしました。