ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

この場でチンギス・ハンの犯罪について論じても、それには何の道徳的価値もないのだ(チョムスキー)

2015-12-31 00:00:00 | 社会時評

以前とあるところで、かのノーム・チョムスキーが2001年の同時多発テロ直後に行ったという講演について教えていただきました。私が書いているいくつかの記事ともいろいろ関連がある内容だと思いますので、読者の方々にも読んでいただきたいので翻訳して発表します。なお、原文はかなり長いので、私が読んでいただきたいところのみの抄訳であることをご了解ください。

(前略)

質問者2:チョムスキー先生、今夜はお越しいただきありがとうございます。私たちはみな、先生がここにいらっしゃることを光栄に思っています。先生のお話の最初でふれられたことに戻りたいと思います。先生は、ご自身が米国を非難するあるいは来週以降にも非難されるであろう「無言の虐殺」について話されています。まず第一に、アフガニスタンの人々が飢餓に瀕していることの責任が米国にあると先生がお考えでないことは私も認識しています。彼らが飢えていることの理由はたくさんありますが、先生は世界経済のせいにしておられるのかもしれません。そう、たしかに、先生は、アフガニスタン人がこの状況にあることの責任を米国に向けてはいないのです。第二に、先生の討論からは、タリバンを責任とするいかなる言及も全くもって欠けているように思います。タリバンは、ただ国際法廷にオサマ・ビンラディンを引き渡すことにより、先生のおっしゃるこの虐殺を終わらせることができるのです。すぐに終わらせることができます。先生の討論からは、これが完全に抜けています。(後略)

チョムスキー:私たちがすべきことについて、私が考えていることへの回答は、すでに出してある。しかし君の質問について考えてみよう。最初に、君は、私が米国を非難しているといったが、それは間違っている。私たちの目の前で起きたことを許すことについて、私は君を非難し、自分を非難し、その他残りの人間も非難する。(拍手)それは、米国を非難することではない。第二に、アフガニスタンと関係のあるに違いない「世界経済」と君は発言したが、それは正しくない。アフガニスタンは常に非常に貧しい国であり、現在の苦境には多くの理由があるが、2つの主要な原因はロシアと米国だ。1980年代、ロシアと米国は、ほとんどこの国を破壊しつくした。アフガニスタン人を助けたのではない。国が破壊されるや否や、2国とも撤退し、米国がロシアを悩ますために組織した武装勢力が権力を引き継いだ。いまは北部同盟と呼ばれている。ヒューマン・ライツ・ウォッチがアフガニスタンの歴史上最悪の時期とした90年代初期に引き継がれ、米国が組織した多くの犯罪組織は、まさに国を引き裂いた。50,000人がたぶん殺された。そう、連中は大衆を強姦し大虐殺し、カブールを破壊したのだ。実際には、あまりにこの勢力が恐ろしかったので、タリバンが1994年から95年に勢力を持った際は、実のところ歓迎されたのだ。少なくとも彼らはこの地にある種の秩序をもたらしたからであり、米国の戦争によって残された狂人たちを追いやったからだ。そうこうしているうちに、米国は何もしなかった。そう・・・最初に、米国に責任があるわけではない。それについて何かができる君や私のような人間に責任がある。そのようなことをする抽象的な「米国」全体なるものがあるわけではない。第二に、これについてすべきことはたくさんあった。本当にたくさんのことだ。その他たくさんの武装勢力があるのだ。

タリバンが政権を移譲することだけで問題を解決することができると君は言う。タリバンが消え去ればたくさんの問題を解決できる。いいね? 私も長きにわたってそれを熱望している。しかし、私には、タリバンを消滅させる術がない。そうだな、1980年代のソ連にいるとして、党や政府と意見を異にする人が、ソ連の(アフガニスタンへの)侵略を批判しているとしよう。そうすると、人民委員が立ちあがって言うだろう。「なぜ君は、ソ連の侵略を批判するのだね? アフガニスタン人がお互いに対してやっていることをなぜ批判しないのだね?」そう、これが人民委員の標準的なやり方だ。これについてどう考えるべきかはお分かりだろう。君も私も、君と私ができること、私たちができることについて責任を持つ。我々がどうこうできないことをやっている他人の行為について、私たちは道徳的責任を持たないのだ。それは残念なことかもしれないが、それについて私たちは何もできないのだ。たとえば、いまこの場で私たちは、チンギス・ハンの犯罪について討論をすることができる。そしてそれは正しいかもしれない。しかしそれにはいかなる道徳的価値もないのだ。歴史学としての価値はあるかもしれない。スリランカで進行中の犯罪についても同じだ。それらについて何かができるとは考えてはならない。学問上のセミナーを開催することはできるが、それに道徳的価値があると考えてはならない。タリバンについて君が私に言うのも、それと全く同じことだ。道徳的価値はゼロなのだ。彼らができることはたくさんある。例えば、タリバンができることの1つは、君が言ったことだ。第三勢力に政権を移譲する。それについての問題は、米国がそれを認めないことだ。現在、この2週間で起きている申し出についてどう向き合うか? そんなことはわかりはしない。申し出はいつもされているが、ジョージ・ブッシュは言う。「君たちとは対話しない。君たちとは交渉しない。政権を移譲してほしくない」タリバンがどれだけダメな組織かということとは無関係だ。連中はどうしようもない。どうしようもないクズは世界にたくさんいる。私たちがすることに私たちは関心を持つべきだ。それが私たちができることだ。道徳についての公理があるとするなら、このことだ。もしこのことが理解できないのであれば、道徳の領域にたちいることは出来ないのだ。(大きな拍手)

(後略)

チョムスキーの主張は、読めば読むほど非常に興味深いものがありますね。かつて私は次のような記事を書きました。

安倍晋三が口先だけの男でなければ、首相だった時に胡錦濤に同じことを言っている

安倍が胡錦祷にしたという発言は、まさにチョムスキーが言う

>君も私も、君と私ができること、私たちができることについて責任を持つ。我々がどうこうできないことをやっている他人の行為について、私たちは道徳的責任を持たないのだ。それは残念なことかもしれないが、それについて私たちは何もできないのだ。

ということそのものじゃないですかね。安倍は日本の政治家なのだから、まさに日本の人権問題について彼ができることはいろいろある。それで安倍は、そんなことをろくにしなくて、自分が無役の際に中国の国家主席に無責任なことを言って、それで首相だった時、あるいは首相に復活した時にはそのような発言をしないのだから、まさに私のいう「口先だけ」というのがそのまま当てはまります。チョムスキーにならえば、どっちみちそんな発言に道徳的価値などありはしないのですが、いまの安倍は「口先だけ」ですらないのだからお話にもなりません。安倍のこの発言を過大評価した人たちは、猛省すべきでしょう。

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2015年下半期に劇場で観た映画

2015-12-30 00:00:00 | 映画

2015年7月から12月にかけて私が映画館で観た作品をご紹介します。(*)は午前十時の映画祭の作品、(**)は、7月に渋谷であったヌーヴェルヴァーグの上映会で観た映画です。 

赤ひげ(*)

あの日のように抱きしめて

アパートの鍵貸します(*)

アフリカの女王(*)

アリスのままで

アントワーヌとコレット(**)

五つの哲学的童話(ドナルド・リチーの短編)

ヴェラの祈り

エール!

駅 STATION(*)

駅 STATION(*)(2回目)

エデンの東(*)

エレナの惑い

王様と私(*)

沖縄 うりずんの雨

オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分

カサブランカ(*)

家庭(**)

彼は秘密の女ともだち

カプチーノはお熱いうちに

靴職人と魔法のミシン

グローリー/明日への行進

恋におちたシェイクスピア(*)

国際市場で逢いましょう

ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール

ザ・トライブ

裁かれるは善人のみ

さらば友よ(*)

サンドラの週末

(ドナルド・リチーの短編)

しあわせへのまわり道

ジェームス・ブラウン 最高の魂を持つ男

終電車(**)

ショーシャンクの空に(*)

新幹線大爆破(*)

新幹線大爆破(*)(2回目)

素晴らしき哉、人生!(*)

1001グラム

戦争ごっこ(ドナルド・リチーの短編)

宋家の三姉妹(*)

ターナー、光に愛を求めて

チャップリンからの贈り物

天使が消えた日

突然炎のごとく(**)

逃げ去る恋(**)

日曜日が待ち遠しい!(**)

猫と少年(ドナルド・リチーの短編)

八月の鯨(*)

母と暮せば

叛軍No.4

ピクニック 

FOUJITA

ベルファスト71

ぼくらの家路

彫る 棟方志功の世界

真夜中のゆりかご

マルガリータで乾杯を!

メリー・ポピンズ(*)

やさしい女

やさしい女(2回目)

柔らかい肌(**)

夜霧の恋人たち(**)

ライフ(ドナルド・リチーの短編)

ラストエンペラー(*)

ロバート・アルトマン/ハリウッドに最も嫌われ、そして愛された男

ロマンス (2015年の映画)

わたしに会うまでの1600キロ

60本は超えましたので、公約した月10本以上観るという目標は達成できました。

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今日から台湾に行きます

2015-12-29 00:00:00 | 旅(台湾)

恒例年末年始の旅行で、台湾に出かけます。といっても飛行機が出るのは夜で、私は青春18きっぷでひいひい関西国際空港まで向かいます。

そこまでするかと思う方もいるかもですが、そこまでするのが旅行好きとか私という人間です。ピーチで国外に行くのはこれが初めてかな? 安さにはかえられません。

というわけで、1月2日までは自動更新にしておきます。コメント返しはしばらくできませんが、無事に帰国できましたら、3日にはコメントもお返しできるかもです。

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大阪で、沖縄のミュージシャンのライヴを楽しむ(ゆいゆいシスターズ)

2015-12-28 00:00:00 | 音楽関係(CD、コンサート、歌手その他)

先週の17日の夜から20日まで、関西方面に行ってきました。一応京都、大阪、兵庫の3府県に足を運びましたが、ちょっとすぐには記事を書く余裕がないもので、今日は今回の関西紀行のハイライトであった居酒屋ライヴの話を書きます。

完全な偶然だったのですが、19日に大阪・天満の居酒屋で、「ゆいゆいシスターズ」という沖縄のグループのライヴがあることを知ったのです。私は、女性3人組の彼女らにいろいろな理由から注目していたのですが、まだライヴを聞いたことはなかったので、これを逃したら馬鹿だと思い、すぐにその居酒屋に予約の電話を入れました。こういった飲食店でのライヴというのは、ネット仲間のinti-solさんの演奏に2回行っただけ(こちらこちら)で、人生3回目です。

 

会場は、奄美大島の料理を出す居酒屋です。開場を待ちます。

3人組です。あまり似ていませんが、真ん中のリーダーと向かって左側の女の子は母娘です。向かって右側の女性は、2014年のミス沖縄です。さすがの容姿です。

ミス沖縄の女性が踊りまで見せてくれました。やはり美しい女性は絵になります。

ブレイクで席に降りてきて記念写真に応じたりします。気さくな人たちです。

衣装を替えて後半は、やや民謡色が強くなりました。

ラストは、お約束(?)の観客をふくめての踊りです。私は圧倒されてしまい唖然としていました。

CDを買い(消費税分はありませんでした)、サインをもらいます。いい想い出になりました。こちらから買えます。

 沖縄を中心に活動しているので、本土(内地)に来ることはそんなにないと思いますが、ご興味をございましたらイベントなどに登場する機会に遊びに行ってください。。

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アイルランド・英国紀行(2015年9月)(4)

2015-12-27 00:00:00 | 旅(英国・アイルランド)

どういうグループ化は不明ですが、女の子たちの集団がいて記念写真を撮っていたので、私もどさくさに紛れて撮ります。危険なのでこのような写真は撮らないようにしましょう、って撮る人もあまりいないでしょうが。

ニコール・キッドマンの舞台があるんですかね。それは私も見てみたい。

それにしてもロンドンの地下鉄も狭いですよね。

電車が入ってきます。

こういう写真は、私のような人間だから撮れるのです。悪いことは言いませんから、真似して撮るのはやめた方がいいと思います。

どうどうと化粧をしている女性もいます。

ユーストン駅です。ここで降りて、今日の目的地へ行きます。

さすがにターミナル駅と直結する駅なので、だいぶ乗降客の多い駅です。

ユーストン駅です。

今日の目的地へ行くために列に並んで切符を買います。

なかなかいいイラストです。同でもいい話ですが、私カッサンドルのあのポスターは好きです。何かって? 沢木耕太郎の本に出てくるあれですよ。

ダブリンがグリーンなのは、やはりアイルランドを意識しているんでしょうね。

しばらく並んで切符を買いました。クレジットカードで買いましたが、やはり散財です。

やはり鉄道職員への暴力というのは、英国でも問題ですかね。「abuse」と「excuse」で韻を踏んでいます。

それにしてもいろいろな人たちがいます。だから私は、このような鉄道の駅が大好きなのです。

昼食を仕入れます。

この写真がちょっと気に入ってしまい、現在自宅PCの壁紙にしている写真の1枚です。

改札口を間違えてしまい、ひいひい走ります。日ごろの運動不足を思い知らされます。

私が乗る鉄道は、ヴァージン・トレインズです。英国は国鉄を廃止して、いろんな会社が鉄道事業を運営しています。ヴァージン・グループ の運営する会社です。

写真の左の奥をご覧ください。自転車がたくさんあります。このあたりは欧州らしいかなと思います。14年に行った北欧でも電車の中に自転車を持ち込んでいる人たちがたくさんいました。

こういう感じです。

車内です。なかなかきれいです。

昼食です。さあ、私の目的地はどこ?

(つづく)

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アイルランド・英国紀行(2015年9月)(3)

2015-12-26 00:00:00 | 旅(英国・アイルランド)

早朝のホテルです。

朝ですので、バーは誰もいません。

おっと、写真を写している私が写っちゃっていますね。よって画像処理をかけておきます。右翼にねらわれたらいやですから。

ホテルで朝食をいただきます。朝食付きのプランでなかったので、金を改めて払います。

チェックアウトしてヒースロー空港へ向かいます。

ターミナル3で降ります。

バスに乗ろうかと思いましたが・・・

やはり鉄道で移動しようと思い、地下鉄に乗ることにします。ロンドンの地下鉄は、「アンダーグラウンド」とか「チューブ」と呼ばれます。「サブウェイ」は米国英語です。

そうなんですか? それじゃ私のようなロンドンに詳しくない旅行者は大変じゃないですか。

ヒースローの駅ですので、さすがに白人からアラブ人、インド人、アジア人、黒人、さまざまな人たちがいます。

このインフォメーションのお姉さんきれいです。

オイスターカードを買うために列に並びます。日本のSuicaのような非接触型ICカードです。

このインド系らしい男性から買いました。ロンドンの地下鉄の窓口などで、白人が働いているのを私は見たことがありません。

ピカデリー線に乗ります。

小さな車両です。

地下鉄の車両の中です。危険なのでこのような写真は撮らないようにしましょう。

グリーン・パーク駅で降ります。

(つづく)

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アイルランド・英国紀行(2015年9月)(2)

2015-12-25 00:00:00 | 旅(英国・アイルランド)

ヒースロー空港というのは、さすがに世界でも別格に存在感のある空港だと思います。新しいターミナルだから、まだ壁もつるつるです。

再会を祝います。

今日は街の真ん中に行かずに、空港近辺のホテルに泊まる予定です。

私が自慢するようなことではありませんが、やはりなかなか美しいターミナルの姿です。

これがホテルホッパというヒースロー空港近辺のホテルを回るバスでして、私もこれに乗るつもりでしたが、あいにく乗り損ねます。

というわけで、ちょっと次のバスまで時間が空いたので、水などを仕入れることにしました。出発ロビーに行ってみます。

なかなかかっこいい雰囲気です。

コスタ・コーヒー」がありました。これは、英国中に支店があります。プノンペンでも見かけました。清涼飲料を仕入れます。これが英国での最初の買い物になりました。

スポーツ中継をしているので見てみると、あらま、ラグビーワールドカップの開幕戦であるイングランド対フィジーの試合をやっていました。このときは、イングランドが予選落ちすることも、日本がどえらいことをすることも、もちろん私だけでなく世界中の人間が知りません。

私以外にも写真を撮っている人たちがいました。

あらためてバスを待ちます。

片道5ポンド、往復9ポンドです。法外に高いといえば高いですが、しかしタクシーなんか乗ったら目が飛び出るので、やっぱりこのバスに乗ります。白人の運転手の男性が強い英国アクセントで話をしていたので、ああ英国に来たのだなと改めて感じました。

かなり込んでいます。

だいぶ後の方になってバスは私の予約するホテルに到着しました。もう現地時間(グリニッジ標準時)20時45分ごろです。

さっさとチェックインを済ませます。この日はエレベーターが動かないというので、階段で登ります。といっても2階(英国の数え方では1階)なのでどうということもありません。

それにしてもレセプションの人の多くは非白人です。私の対応をしてくれた男性も、インド系のようでした。

ラグビーのワールドカップをここでも見ています。イングランドが勝ちそうです。

部屋は郊外のホテルの部屋なのでやはり広めでした。ヒースロー近辺のホテルで広い部屋を確保するのも悪い考えではないかも。宿代もそんなに高くはない。

外は雨が降っています。機内食を食べているので別に夕飯など食べることもないのですが、やはり食べることにします。しかしこの近辺にレストランもコンビニのたぐいもあるわけがないので、ホテルの中で食べることにします。

英国に来て「ステラ・アルトワ」みたいなベルギーのビールなんか飲まなくてもいいような気もしますが、おいしくいただきます。しかし今回の旅行の最中英国とアイルランド以外のビールを飲んだのは、この時が最初で最後でした。

スパゲッティをいただきます。まったく味には期待していなかったのですが、しかしおいしくいただきました。

まさかこの翌日に、世界スポーツ史に残る大大番狂わせがあるなんて、この時の私は全く想像していませんでした。

(つづく)

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忘れていたが、このブログが9年目に突入した

2015-12-24 00:00:00 | Weblog

例年私は、このブログの12月15日の記事は、たとえば

8年目に突入します

というような記事を書いていました。その理由は、このブログは2007年12月15日に始めたからです。しかし今年は、なぜかそのことが頭から消えていたので、そのような記事を書きませんでした。それなので今日書きます。

まる8年ほぼ継続して更新したブログというのはそれなりには、少なくとも私には価値はあります。2015年も、安保法制の問題など、政治系では私には冬の時代ですが、まあしかし9年目も、2016年も、映画、旅、政治、スポーツ、美女その他について執拗に更新を続けますので、乞うご期待です。リオデジャネイロオリンピックの際はそれなりのアクセス数が見込めそうです。最近アクセス数がやや不振ですので、ここは継続していろいろな記事を書いていきます。

といいつつ、そろそろこのブログも閉鎖してもいいかなという気もします。10年書いたら、ブログとHNを捨てて、ネット論客から引退しようかなとも考えます。その時にまたお知らせします。しかし突如として閉鎖するかもですので、そうしたらごめんなさい。

あ、去年するなんて言っていたオフ会も、やっぱりしなければと考えます。私も口先だけの男です。

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アイルランド・英国紀行(2015年9月)(1)

2015-12-23 00:00:00 | 旅(英国・アイルランド)

それでは、今年の9月に12日間旅行したアイルランドと英国の旅を記事にします。終了は未定です。

2015年9月18日、戦争法案の可決が近い時期の成田空港です。

今回は、アシアナ航空で、ソウル経由のロンドン行きです。アシアナに搭乗するのは、ホーチミン行きに乗って以来かな。韓国人の係員が、私のチェックインを担当してくれました。彼女は、1か月半ちょっと後にまた姿を見ます。

ソウル行きに搭乗します。

アシアナ航空ですから客室乗務員も美人です。

機内食です。フルサービスですからしっかり食事がつきます。コチュジャンのチューブがついているのが韓国系のエアらしいところ。

全く関係ない話ですが、映画のヌードシーン(セミヌードですが)に、このような自主規制がなされていました。映画は、「靴職人と魔法のミシン」。

仁川国際空港につきます。これからロンドン行きに乗り換えます。

トランスファーの目印に向かって進みます。前回のホーチミン行では一度入国したので、仁川国際空港で乗り換えたのは実は初めてです。

荷物チェック、ボディチェックを受けて―

待合のエリアに入れます。ほっとする私。

私の便が出発するゲートを確認します。

39番ゲートから出発します。

今回、カメラを替えまして(初めてオリンパスを買いました)、するとそのカメラは上のような画像処理をしてくれる機能があるので、不要ですが間違ってスイッチを押してしまいまして、上のような写真になりました。

この写真を撮ったあたりで「おかしいな」と思ったので通常モードに直しました。それはともかくスリッパを配るあたりは、さすがフルサービスのエアです。

長いフライトですので、機内食が2回出ます。いいかげん腹がもたれますが、しかし食べてしまう意地汚い私。なおアシアナは、お手洗いに歯ブラシが置いてありますので、自分のがなくてもお手洗いに行ったついでに歯を磨けます。私も磨きました。

ロンドンにつきました。ヒースローを利用したのは、2012年~2013年のベネルクス紀行以来です。あの時はトランジットでしたので、入国はしませんでした。

今回利用した第二ターミナルは、最近完成したものです。

厳しいので有名な英国の入国審査に身が引き締まります。私はこれに対応するためにネクタイを締めておきました。それで「All other passports」のラインに並んでいると、私の前に同じアシアナ航空機に乗ったらしい日本人男女2人組(話し方を聞いていると、カップルではなかった模様)が話をしていまして、男性だったかが次のように言いました。

「航空券28万円だったんですが・・・」

えー!!! 28万!!! 私は13万円ですよ!!! 」

とは言いませんが、ビジネスで渡航するのなら仕方ないとして、旅行で東京⇔ロンドン(たぶん往復でしょう)を28万円じゃいやですねえ。ほかのところへ行きたいですね。この男性がビジネス目的の渡航かどうかわかりませんが(服装や雰囲気ではビジネスではなかったと思いますが)、それは高いというものです。

それはともかく私の番がきました。係官の指示で、指定されたブースに行きます。まずは「Hello」とあいさつします。

白人の中年係官は、私のパスポートと入国カード(書き忘れましたが、韓国のエアで配られた入国カードですので、英語と韓国語のカードでした)を確認して、ビジネスの目的ですか、と私に聞きました。年齢もそうですが、ネクタイを締めていたからかもしれません。

私「いえ、観光とトランジットです」

ビジネスかと聞かれてまんざらでもない私。まあ外国へ仕事で行くのは大変ですけどね。

係官はすぐ入国スタンプを押してくれました。滞在日数やEチケットの確認も、所持金の確認もありませんでした。私はこれで英国入国が3回目ですが、いつもかなり甘い入国審査です。それなりに私に信用できそうな雰囲気があるのかどうかわかりませんが、ありがたいことです。最初の時は、滞在日数と入国目的を聞かれたのが記憶に残っています。2回目はもっと甘かったですが、今回は一番甘かったように思います。

空港の外に出ます。

ヒースロー・エクスプレスの宣伝をしている人がいて、アジア系の客が確認をしていました。私は今回は、これはお呼びではありません。

 入国した人を柵の向こうで出迎える光景、これは世界中変わりません。

(つづく)

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世の中理不尽な災難にあうこともある

2015-12-22 06:14:22 | スポーツ

今回は、本にのっとった記事ですが、「書評」タグでなく「スポーツ」にします。もっとも「社会時評」でもいいかもしれません。

父親が筋萎縮性側索硬化症(ALS)で死亡したので、ALSについてはいろいろ興味関心があります。もっとも父が発病する前から、テレビのドキュメンタリーを見たり本も数冊読んでいたのでそれ以前からそれなりの知識はありましたが、やはり親がその病気で死亡したとなると関心の度合いは強くなります。

それで、PL学園出身で春夏の全国制覇を成し遂げた元高校球児(その後大学・社会人野球でも活躍)がALSを発病して闘病生活を送っているということは知っていました。そして、つい最近、その方が今年の10月に亡くなったことを知りました。

野球魂 ALSと激闘 PLで春夏V 伊藤敬司さん死去

(2015年10月9日) 【中日新聞】【夕刊】【その他】

 1987年に甲子園の春夏連覇を成し遂げたPL学園高校の正捕手で、社会人野球を引退後に難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)となり闘病中だった名古屋市千種区の伊藤敬司さんが8日、46歳で亡くなった。少年時代から一緒にボールを追いかけ、闘病中も交流を続けた元中日ドラゴンズの立浪和義さん(46)は「野球への情熱がすごかった。彼の遺志を継いで、難病と闘う人を勇気づける取り組みをしていきたい」と冥福を祈った。 (細井卓也)

 伊藤さんは兵庫県西宮市生まれ。PL学園当時、立浪さんや、大洋・横浜(現DeNA)で活躍した野村弘樹さんや橋本清さん(巨人など)、片岡篤史さん(阪神など)らとともに甲子園で活躍。卒業後も青山学院大、社会人野球のJR東海でプレーし、野球一筋の人生を歩んだ。社会人野球を引退した後は、JR東海のグループ会社でビル管理の仕事に励んだが、38歳の時にALSを発症し、5年前から自宅療養を続けていた。

 今年4月には、フリーライター矢崎良一さんとの共著で、自らの野球人生を振り返る「PL学園最強世代 あるキャッチャーの人生を追って」(講談社刊)を出版。野球で培った忍耐力や、闘病中の心の葛藤などを率直につづった。7月の本紙の取材に「(本の出版は)生きた証し」と語っていた。

 伊藤さんは闘病中、眼球を動かして文字盤に視線を送り意思を伝えていた。自身を介護する妻桂子さん(46)やヘルパーの負担を思いやる一方で、「難病患者を介護できる介護者が少なすぎて、介護事業所の超売り手市場の構造ができてしまっている」と重度訪問介護の課題も投げ掛けた。

 桂子さんによると、伊藤さんは9月、呼吸に伴う苦しさの緩和のため、自宅から名古屋大病院に移っていたという。入院前、伊藤さんのブログ「必死のパッチ〜難病パパの日記〜」には、「金曜日から入院します。それを見越して娘が歌をプレゼントしてくれました。立派に育ててくれて嫁さんありがとう。どれ位入院するかわかりません。恐らく日記もかけなくなると思います。(中略)皆さん本当にありがとうございます」と記されていた。亡くなる直前はヘルパーに足をマッサージされ、気持ちよさそうな表情を浮かべていたという。

 桂子さんは9日、亡きがらを前に「難病のALSとなったことは残念だったが、野球を通じて多くの方と関わることができて本人は幸せだったと思う」と話した。

 通夜は9日午後7時から、葬儀は10日正午から、名古屋市千種区田代本通1の8、ティア覚王山で。喪主は妻桂子(けいこ)さん。

 筋萎縮性側索硬化症(ALS) 筋肉を動かす神経が侵され、全身の筋肉が動かなくなる厚生労働省の指定難病。国内の患者数は昨年3月末時点で約9200人。詳しい原因は分かっておらず、有効な治療法は確立されていない。

伊藤敬司氏は、1969年生まれで、PL学園に1985年に入学して88年に卒業します。桑田真澄清原和博が2年上、同級生に立浪和義片岡篤史野村弘樹橋本清、1年下に宮本慎也と、まさに綺羅星のようなすごい時代の在籍だったわけです。氏自身は、プロ野球への道はかなわなかったものの、青山学院大学を卒業後30代なかばまで、JR東海で選手、コーチをします。つまり氏は、ほとんど野球のセミプロみたいな人だったと考えられます。それで上の記事にある本をさっそく入手して読んでみました。共著になっていますが、記述のほとんどは、フリーライターの矢崎良一さんによる執筆です。

PL学園最強世代 あるキャッチャーの人生を追って

氏のALS発病後の苦悩や闘病についても非常に興味深いのですが、本日はそれについてでなく、伊藤氏がこうむった災難の話をご紹介します。氏がPL学園1年生だった時の85年の話です。

実は、伊藤氏の父親が、巨人のスカウトだったわけです。それで、決して中学時代抜群の実績や能力があったわけでない伊藤氏は、父親の勧めでPL学園に入学します。自分にPLは分不相応だと思っていた伊藤氏は戸惑いますが、しかしPL学園でプレーできるのは、まさに高校最高峰のレベルで野球ができることですから、入学をします。

それで85年のドラフト会議で、早稲田大学進学を表明していた桑田が巨人に指名され、巨人入団を熱望していた清原は西武ライオンズに指名されます。それで激高した清原は、授業中の伊藤氏のもとへ押しかけます。

>突然、ドーンという音とともに、いきなり教室の後ろのドアが壊れんばかりの勢いで開いた。そして、教室中に凄まじい怒声が響いた。

「おい、伊藤!」

教室内には1年生の野球部員も何人かいたが、一瞬にして全員が凍りついた。

「どないなっとんねん。巨人、桑田やんけ。なんで俺とちゃうねん」(p.96)

そんなこと言われたってねえ、伊藤氏だって、困りますよね。困るにもほどがあるというものです。

この85年のドラフトについては、いろいろ物議をよびましたが、だからといって伊藤氏はなんの関係もないしねえ。伊藤氏の父親は、当然この件に深く関与していたわけでしょうが、それにしてもです。なお、この本によると、その後伊藤氏は清原と言葉を交わす機会すらなかったとのこと。

それだけでも大変ですが、この後伊藤氏に関して、マスコミはかなりひどい報道をします。

>敬司自身も登下校の時などに報道陣からマイクを向けられたり、容赦なくカメラのフラッシュを浴びせられたりした。そして、ドラフト以降に発売された週刊誌には心ない誹謗中傷記事が掲載された。

多くは「(父が)実力もないのに自分の息子を入学させ、PLの父兄となって桑田家に接近し、密約を工作した」といった内容のものだった。(p.98)

という報道がされたわけです。

これはひどいですね。といいますか、正直世間がそう考えるのは(PL学園の1年生に、巨人のスカウトの子どもがいるということを知っていれば)仕方ないとは思います。しかしそれをマスコミで報道されちゃうと、これは完全な報道被害ですね。だって当時の伊藤氏は16歳の未成年で、PL学園の寮に住んでいるような立場です。当たり前ですが、反論すらできない。そのような能力もないでしょうし、能力があったって、まさかテレビなどのインタビューで「自分は関係ない」とも言えないじゃないですか。だいたい親の関係でPL学園に入ったかどうかなんて、反論のしようもありません。実際のところどうかなんて本人だって最終的にはわかりはしない。「そうでない」なんて本人が主張したって仕方ないし、学校側などが仮に「そんなことはない」なんてコメントをしたところで、それ以外のことを言ってくれるわけでもないのだからお話にもならない。

もちろん未成年でなく、それなりに反論能力がある人にだって、こんな報道すべきでありませんが、伊藤氏の父親がそれなりに批判されるのはともかく、伊藤氏のような立場の人にこのような報道をするというのはまさに最低最悪ですね。されてしまってはどうにもなりません。ましてや1985年では全く泣き寝入りというか我慢するしかないわけです。

しかしマスコミの報道もひどいですが、伊藤氏をどれくらいPL学園その他は守ってくれたのかなという気はします。それなりに守ってくれたんでしょうが、彼は野球部員なのだから逃げも隠れもできません。逃げるときは、野球部を退部→高校退学です。

それにしても仮に伊藤氏が野球部を去ったとしても、それを「弱い」とはいえませんね。当たり前ですけど。彼は強い人間でしたから野球部に残りましたけど、それができなくったって当然だと思います。理不尽な目にあったのですから。そのような事態にならず、それなりに野球をやれるだけやれたのは、本当によかったと思います。

それで伊藤氏の父親は、伊藤氏が亡くなる2か月弱前にお亡くなりになっています。伊藤氏は、自分の父親の死を知った後にお亡くなりになったわけです。 

伊藤氏にとって父親というのは明らかに憎しみの対象でもあったわけで、その死に対しては、愛情だけでは語れない複雑なものもあったでしょう。そしてたぶん父親の方も内心さすがに心が痛むものはあったかと思います。

最後に伊藤敬司さんと伊藤菊雄さんのご冥福を祈ってこの記事を終えます。

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