ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

2021年7月~12月に劇場で鑑賞した映画

2021-12-31 00:00:00 | 映画

2021年7月1日から12月31日までに映画館等の劇場(公民館などをも入れる)で鑑賞した映画作品をご報告します。映画の並べ方は、五十音順です。映画には、Wikipediaに記述のあるもの(私が記事に追加した時点のものですので、その後書き加えられたものもあるかもしれません)はそれを、ないものは公式HPを、古い映画などでそれもないものは、各映画会社(後継の会社もふくむ)のHP、確認できないものは映画サイトからのものをリンクしました。それも難しい映画は、googleでの映画題名による検索結果をリンクしています。なお複数回観た映画については、(×回目鑑賞)と注記しました。

愛について語るときにイケダの語ること

愛のコリーダ【修復版】

愛のコリーダ【修復版】(2回目鑑賞)

愛の昼下がり

愛の亡霊

アウシュヴィッツ・レポート

アナザーラウンド

アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン

アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン(2回目鑑賞)

アルジェの戦い

アンデスの花嫁

アンナ

生きろ 島田叡戦中最後の沖縄県知事

偽りの隣人 ある諜報員の告白

田舎司祭の日記ー4Kデジタル・リマスター版

異邦人

ヴェロニクと怠慢な生徒

海辺の家族たち

海を渡る友情

お吟さま

女と男のいる舗道

隠し砦の三悪人

祇園祭

キッド哀ラック

キネマの神様

去年マリエンバートで

クーリエ:最高機密の運び屋

グッドフェローズ

クリミナル・ラヴァーズ

5月の花嫁学校

ココ・シャネル時代と闘った女

5時から7時までのクレオ

国境を超える北朝鮮の子どもたち

ゴルゴ13 九竜の首

コレクションする女

再会 

座頭市物語

Summer of 85

サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)

サンドラの小さな家

サンマデモクラシー

幸せの答え合わせ

獅子座

シャイニング(北米公開版)

シャン・チー/テン・リングスの伝説

シュザンヌの生き方

ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュー4K完全無修正版

17歳の瞳に映る世界

シンプルな情熱

スーパーノヴァ

絶唱母を呼ぶ歌 鳥よ翼をかして

007/ノー・タイム・トゥ・ダイ

戦場のメリークリスマス 4K修復版

戦争と青春

ターミネーター

ターミネーター2

脱獄遊戯

テーラー 人生の仕立て屋

デュー あの時の君とボク

凍河

東京大空襲 ガラスのうさぎ

憧憬

父ちゃんのポーが聞える

TOVE/トーベ

動脈列島

トゥルーノース

ナイトメアー・ビフォア・クリスマス

逃げた女

2001年宇宙の旅

バージンブルース

パリのナジャ

ビースト

東ベルリンから来た女

ブータン山の教室

ファイト・クラブ

ベレニス

真昼の決闘

水を抱く女

MINAMATA-ミナマタ-

未来世紀ブラジル

無宿 

モスラ

モロッコ、彼女たちの朝

モンソーパン屋の女の子

モンフォーコンの農婦

約束の宇宙

やすらぎの森

ユージュアル・サスペクツ

宵待草

甦る三大テノール 永遠の歌声

ライトハウス

2021年後半は、わりといいペースで映画を鑑賞できたのですが、10月にハイペースで観た反動で、11月と12月はすっかりペースダウンしてしまいました。このあたりは、来年の映画鑑賞をする上での反省点の1つです。1年トータルで169本の鑑賞本数にとどまりましたので、2022年は200本を観たいと思います。

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新潟へ遠征して、北朝鮮人権映画祭を観てきた(初日のみ)(海を渡る友情)

2021-12-27 00:00:00 | 映画

新潟へ遠征して、北朝鮮人権映画祭を観てきた(初日のみ)(絶唱母を呼ぶ歌 鳥よ翼をかして)(追記あり)

の続きです。

1960年に公開された望月優子監督の『海を渡る友情』を観ました。上の写真はこちらの記事の再掲です。カラーではなく白黒映画です。東映教育映画の制作です。

舞台は東京の足立区です。お化け煙突が写ります。昔の映画などにはちょいちょい登場する千住火力発電所の4本の大煙突です。1926年から1963年まで稼働していたので、まさに再末期の時期のそれといえます。上の写真は、Wikipediaより。

さて足立区といえば東京最貧区という話もあるくらい東京でも貧しくぱっとしない区ですが(港区や渋谷区などにあこがれる非東京居住者はいても、足立区にあこがれるもの好きは、まずいません。もちろん私もそんな人を知りません)、この映画の舞台がそういう区を舞台にしているのもそれなりの意味があるわけです。

その足立区のたぶん朝鮮人(韓国籍をふくむ)が集住していると思われる地区に、在日で食堂経営者の加藤嘉がいます。彼は、日本人の奥さん(水戸光子)と息子がいて、(朝鮮総連の?)活動家(西村晃)が熱心に北朝鮮への帰国(帰還ともいう。北朝鮮を国家と認めない人は、「帰還」といいたがる)をすすめます。加藤のほうは、西村の熱心なすすめもあり帰国に心が徐々に傾いていますが、奥さんはいい顔をしません。ようやくある程度食堂の経営も軌道に乗り始めている、北朝鮮に行ったとして日本人が差別なく生きていけるのかあてにならないと不安がります。西村は、大丈夫だと繰り返しますが、当然奥さんは乗り気でありません。

それで加藤の方はというと、たぶん朝鮮総連系の記録映画上映会で、帰国時の映画を観ます。すると、清津での帰国者大歓迎の映像を見て、なにか心に響くものがあったようです。彼は帰国を決意しますが、しかし奥さんはそれなら自分は実家に帰るという話にまで至ってしまいます。

あんまりストーリーを逐一書く必要もないので以下ややとばしますと、息子は学校(一般の公立小学校です)でおそらく朝鮮人であることをも理由としていじめられます。小学校のホームルームでは、朝鮮人であることで差別してはいけないというような趣旨のことを、いろいろな生徒が述べたりします。ほかにもいろいろあって彼は家出をしますが、彼をいじめた生徒もふくめてみな心配して彼を探します。なんとか見つかった彼は、担任の教師の勧めもあり、朝鮮学校へ転校をすることになります。そして母親も、一家そろっての北朝鮮への渡航を決意します。

子どもは、朝鮮学校へ通うこととなりますが、朝鮮語(と、ここでは表記します)で行われる授業に対応するのも大変です。前に通っていた学校にも手紙を出したりします。

そしてついに、加藤ら一家の帰国の日が来ます。品川駅(当時は、新潟から出港する帰国船に乗る帰国者専用列車は、品川から出発しました)に向かう前に、子どもが見当たらなくなります。どうしたものかと母親が探すと、子どもは日本の学校で鉄棒をしています。まさに、彼の日本における最後の軌跡だったのでしょう。

ラスト、帰国者と見送りの人たちの笑顔と歓声とともに映画は終わります。

映画自体は、きわめて端正なつくりです。非常にまともな映画で、望月優子という人がかなりの腕前の監督だったということでしょう。で、映画を観た後、この一家帰国後大変だったろうなあとかいろいろ考えますが、しかしこの映画で語られた様々な不安(日本人妻が北朝鮮でうまくやっていけるのか、財産をすべてもっていって大丈夫か、日本の暮らしを捨ててまでして行くことがよいのか)というのは、実際に北朝鮮に帰国したらまさにそれが的中したわけだし、逆に映画が作られている最中でもそれがネタになるくらい、多くの朝鮮人や日本人妻、あるいは日本人夫もいますし、またその周囲の人間も心配するものだったわけです。

日本人の奥さんである水戸光子は、映画ですから加藤らと一緒に帰国するわけですが、現実には別れる夫婦もいたわけだし、また映画の中で水戸が訴える不安は、帰国を考えている日本中の夫婦が直面する問題でした。けっきょく最終的に日本の在日の人たちで帰国したのは、9万何千人だったわけで、多くは帰国しなかったわけです。つまりはこの映画で提出されたさまざまな疑問に、朝鮮総連や朝鮮民主主義人民共和国ほかは、満足のいく回答といいますか、解決を提供できなかったわけです。

で、まさに北朝鮮への帰国(帰還)というのは、オール日本とでもいうべき体制でしたからね。自民党から共産党、朝日新聞から産経新聞にいたるまで、「よかった、よかった」の合唱だったわけです。この映画は、東映の制作です。もちろん東映が左翼の映画会社のわけがない。この映画は文部省が推薦する映画なわけで(ポスターにもその記載があります)、監督やキャスト、スタッフには左翼が多い。理由はともかく、日本中に「在日朝鮮人が北朝鮮へ帰ることは良いことである」というコンセンサスがあったわけです。これに真っ向から異を唱えていたのは、それこそ民団系の在日韓国人くらいではないか。それで彼(女)らも、けっきょくは李承晩政権が「反対しろ」といったからしただけではないか。北朝鮮は住みよい国でないからぜひ韓国へどうぞなんてことは、当時の韓国の国力ではできない相談でした。

そう考えると、やはりこれは、日本人みなが考えて、また自由往来の実現に努力しなければいけないなとあらためて思いますね。拉致被害者家族にしても、この件で「拉致最優先」という主張に固執するのはぜひやめていただけないか。できない相談でしょうが、帰国があてにならない拉致問題よりも、政治の力で何とかなる日本人妻の一時帰国のほうが、より解決が容易なわけです。たとえば次のような記事はどうか。

>北朝鮮から60年ぶりの里帰りを 日本人妻の甥、要望書

編集委員・北野隆一 2020年9月27日 15時49分

 在日朝鮮人と結婚し、その後北朝鮮に渡った「日本人妻」の多くは、半世紀以上にわたって里帰りが果たせていない。熊本県に住む林恵子さん(69)とその次男の林真義さん(40)親子は、恵子さんの姉、中本愛子さん(89)の60年ぶりの一時帰国実現を求めている。今月25日には真義さんが外務省と厚生労働省を訪れて要望書を提出し、人道問題解決のための日朝間協議の早期再開を求めた。

 中本さんは熊本県出身。1959~84年に在日朝鮮人ら計約9万3千人が北朝鮮に渡った帰還事業で60年、夫の故郷の北朝鮮東部・咸興(ハムン)に移り住んだ。恵子さんは当時9歳。姉に「寒いところに行く」と言われ「北海道?」と聞き返したが、言葉を濁されたことを覚えている。

 97~2000年には3回にわたり日本人配偶者計43人が一時帰国。中本さんも02年の第4回に参加予定だったが、日本人拉致問題による日本世論の悪化などのため直前に中止された。

 北朝鮮に詳しいジャーナリスト伊藤孝司さんらの取材で中本さんらの存在が改めて注目されたのは17年。林恵子さんは18年6月下旬、真義さんとともに初訪朝し、咸興で姉と再会。涙を流し「ごめんね」と抱き合った。翌19年7月にも再訪朝し、姉の孫の結婚式に出席した。

以下は有料会員部分です。こういったことは政治の力で何とかなることです。安倍晋三がどんだけ偉そうなことをほざいていたところで、彼はこういう基本的なことを六にしなかったのだから、まさに口先だけの男です。岸田も似たようなものでしょうが、彼が首相を降りるまでは彼の判断です。中本さんほかがなくなってしまったら、日本人も日本政府も大変薄情な民族であり行政体になるのだなと私は思います。

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情報(来年1月1日から7日まで、都内の早稲田松竹で、田中絹代の監督作品5本が上映される)(ほかにも、女優監督の話)

2021-12-24 00:00:00 | 映画

今日は情報ということで。タイトルにしたように、高田馬場の早稲田松竹で、田中絹代の監督作品5作が1月1日から7日まで公開されます。以下にスケジュールを。

早稲田松竹クラシックスvol.177/田中絹代監督特集

上のスクリーンショットでお分かりのように、彼女の監督デビュー作である『恋文』(1953年)が、モーニングショーとレイトショーで連日、『月は上りぬ』(1955年)『乳房よ永遠なれ』(1955年)が1日~3日、『女ばかりの夜』(1961年)『お吟さま』(1962年)が4日~7日の上映です。田中は生涯で6本の映画を監督し、今回は、1960年の『流転の王妃』は上映されませんが、ほかの5作品を鑑賞できるわけです。個人的な話を書いてしまいますと、私は『流転の王妃』をすでに観ていますので、もし5本観ることができれば田中絹代の監督作品を制覇することになります。

田中絹代は、1953年から62年にかけて6本の映画を監督しました。それらは公開後に話題になることもあまりなかったかと思いますが、しかし昨今ある程度その映画監督作品が回顧されるようになっていて、このような本も出版されているくらいです。2018年の出版です。本については、すみません、私は未読です。

映画監督 田中絹代

それで、この本の著者である津田なおみさんが、田中絹代の監督作品について語っています。

日本映画史に映画監督として絹代さんの名を刻むきっかけになれば。 「映画監督 田中絹代」著者、津田なおみさんインタビュー

非常に興味深いインタビューですので、読者の皆さまにもぜひお目を通していただきたいのですが、私が印象に残ったくだりがこちら。

>当時のことを知っておられる方がどんどん少なくなってしまい、あと10年早く着手できていれば、もっと多くのお話が伺えたのにと、つくづく思いましたね。

それはもちろんそうなのですが、ただ津田さん以前に、監督としての田中絹代の作品を本格的に研究する人がいなかったというのは、けっきょくそれは、田中絹代監督の映画というものが、「田中絹代が監督した」という以上の評価をされなかったということなのでしょうね。「いや、今日からすればそんな扱いではすまない」ということなのかもですが、ともかく同時代、そしてそれからも長きにわたって、忌憚なくいえば「大女優の道楽」「映画界が全面的にバックアップしただけ」「助監督のおかげ」という評価を覆すだけのものがなかったのでしょう。実は私も、『流転の王妃』を観て、「これ田中絹代の演出というより、助監督のおかげだよなあ」と思ったシーンがありました。ラスト近くの逃避行のあたりで、あれはちょっと田中の演出力では無理なシーンだったと思います。

1本しか映画を観ていない私がこういうことを書くのもなんですが、彼女の映画監督としての弱点の1つは、彼女が脚本に名前を連ねていないことだと私は考えます。実のところどれくらい彼女が脚本に参加したのかわからないところもあるのかもですが、職業監督として演出だけ担当するというのは彼女には荷が重かったでしょうし、やはり素人監督(に毛が生えた人)は、脚本を書かないとなかなかいい作品にはなりにくいのではないか。別に好きな作品のわけでもありませんが、『お葬式』や『麻雀放浪記』の脚本が、伊丹十三和田誠澤井信一郎との共作)によって書き上げられたことは、それなりの必然性があったはず。

ところで田中が、最終的に6本目で監督稼業を打ち切った事情は定かでないのですが、津田さんの調査によると、どうも6本目の『お吟さま』で撮影監督をつとめた宮島義勇カメラマンから相当に厳しくやられたこともあったようですね。以下同じサイトからの引用です。

>彼女がなぜ6作品で監督を辞めてしまったのか。私はそこがどうしても知りたかったのですが、あまり分からなかったのです。本文で触れていますが、6作目の『お吟さま』撮影当時、宮川一夫と並び撮影界の巨匠と呼ばれた宮島義勇に、監督だった絹代さんは随分絞られていたそうです。文献の裏付けは取れませんでしたが、その様子を見た、聞いたという話を多数の方から伺い、その状況なら彼女はこう思うだろうと、私なりの考察で書いています。監督を続けなかったことに関してご本人もあまり語っておらず、今回の執筆で一番苦労した部分でした。

前にも同じようなことを書いたことがありますが、宮島氏といえば神様、天皇みたいな人で、プロデューサーも監督も、「先生に撮影していただいて光栄でございます」というレベルの人物ですからね。宮島氏のWikipediaにも、

>生涯で撮影した映画は60本以上。撮影技師が照明に指示・注文をだす手法は、「撮影監督」のシステムとなった。また毒舌家で知られ、卓越した技術・裏打ちされた撮影理論に加え、監督にも遠慮なく意見をいう直言型の性格で、「天皇」「ミヤテン(宮天)」などと呼ばれた。一方、大映京都撮影所のカメラマン・宮川一夫とともに双璧をなす存在から、「西の宮川、東の宮島」とも言われた。

とあるくらいです。こういう人物なんですから、監督としての田中絹代にどういう態度で接してくるか、実に簡単に予想がつくというものであり、やっぱりそうだったのでしょう。個人的には、宮島カメラマンが、田中絹代の監督作品の撮影をよく引き受けたなという気がします。ただ田中作品は、その前作の『女ばかりの夜』の撮影を黒沢映画でおなじみの中井朝一が担当したりと、スタッフにも恵まれてはいます。

以下余談ですが、女優監督としての第2号が、左幸子です。彼女は、『遠い一本の道』を1977年に監督しています。これは彼女の制作・監督・主演というなかなか気合の入った映画で、日本国有鉄道(国鉄)の労働組合である国鉄労働組合の制作です。左のWikipediaには、

>1952年の映画デビュー以降数々の作品に出演したが、新東宝、日活大映に短期間所属したことはあるものの、五社協定をものともせず、一匹狼の女優として活動。強い信念の持ち主で、映画会社にスターとして売り出してもらうより、いい脚本、いい監督の作品を自ら選択することを重要視し続けたためである。演出や役柄の解釈について自分の意見を主張し納得するまで議論する女優だった。『遠い一本の道』の監督・主演も「男女差別をなくしたい」との主張に基づくものだった。

とあります。これは私の想像でしかありませんが、たぶん田中絹代には、そこまでの迫力はなかったのではないですかね。なおこの映画は、現在DVD化されているので、興味のある方はご覧になってください。

遠い一本の道

あ、すみません。田中絹代の映画のDVDのリンクは、次の記事でしますので、乞うご容赦。またたぶんなんですが、大映ドラマの『赤い絆』で、この映画でも夫婦役だったらしい井川比佐志と左が夫婦役で共演しているのは、やはりこの映画も関係しているのかなあ?

ちなみに女優(歌手のほうではない)の高橋洋子 は、自分の原作小説(『雨が好き』)を自分で監督・脚色・主演しちゃったのですから、すごい人はいるものです。

余談が過ぎました。私も観に行こうと思っていますので、興味のある方は、お正月ですが、ぜひどうぞ。観たら記事にはするつもりです。なおこの記事は、bogus-simotukareさんのこちらの記事に投降したコメントを基にしている部分があることをお断りします。また津田なおみインタビュー記事は、その記事からご教示いただきました。感謝を申し上げます。

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来年の春くらいにでも、松田優作の墓参りにでも行ってみようと思う

2021-12-15 00:00:00 | 映画

当方別に墓マイラーではないし、松田優作の特に熱心なファンというわけでもないのですが、先日自宅で『ブラック・レイン』を観て、やっぱり松田の墓参りをしたいなと思いました。やはり彼は、なんとも言い難い別格の存在感のある役者だったと思うので。

では松田ってどこに葬られているのかなと思いましたら、Wikipediaによると、

>墓所は東京都あきる野市築地本願寺西多摩霊園

とのこと。あきる野市の方面はそんなに詳しくないのですが、ネットで確認するとやはり松田の墓参りをした人は多いようですね。この霊園へのアクセス方法は、これまたWikipediaによると

とのことですが、車で行くつもりはないので(ていうか、そもそも車を持っていない)、やっぱり電車で行って、送迎バスに乗るのかなと思います。ただだだっ広いので、車で行く人が多いという話もあります。さすがにこのためにレンタカーを利用する気はしないなあ。

だだっ広い墓所・霊園ですので、事前調査をしないでふらっと行くという場所でもありませんが、ネットで調べて場所を確定したいと思います。2013年のこちらの記事もいろいろ参考になります。

[ハカマイラーが行く!]

松田優作のお墓に行ってきた! 霊園が広すぎて「なんじゃこりゃ~!!」 

墓の場所は32ブロックというのですが、山の上のようですね。写真もあります。上のサイトからご紹介。

「無」とだけあるのは、あるいは小津安二郎を意識したのか。下の写真は、小津のWikipediaから。北鎌倉の円覚寺にあります。朝比奈宗源の筆とのこと。

そのあたりの真偽はともかく、まずは松田の墓に行こうと思います。しかし冬は寒いので見送るとし、夏は暑いので嫌だから、無難なところで春に行こうかと思います。桜の季節にでも合わせることができればいいですが、それでなくても3月下旬~4月いっぱいくらいに行ければです。

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新潟へ遠征して、北朝鮮人権映画祭を観てきた(初日のみ)(絶唱母を呼ぶ歌 鳥よ翼をかして)(追記あり)

2021-12-09 00:00:00 | 映画

前にこんな記事を書きました。ポスターの写真は再掲ということで。

新潟で、北朝鮮・拉致問題・北朝鮮への帰国(帰還)問題に関する映画の上映会がある(都合をつけて、行ってみようかと思う)(追記あり)

その記事で私は、

>4日のほうの映画はぜひ見てみたいですね。特に井上梅次監督の『絶唱母を呼ぶ歌 鳥よ翼をかして』と望月優子監督の『海を渡る友情』は非常に興味があります。

と書きました。それで、都合をつけて4日のみ観に行きました。新幹線往復で金もかかりましたが、しかし予想以上に興味深いものではありました。記事を。写真も同じ記事からです。

>新潟市民プラザ(新潟市中央区)で北朝鮮の人権について考える映画上映会が開催
2021-12-04 3日前 下越, 拉致問題, 社会


3Dアニメーション作品「トゥルーノース」上映後のトークの様子

特定失踪者家族有志の会や、北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会などが主催する「北朝鮮に自由を! 人権映画祭」が4日から5日まで、新潟市民プラザ(新潟市中央区)で開催されている。北朝鮮を主題に描いた映画作品が上映されるイベントで、入場は無料。4日は、主に帰還事業や脱北を題材とした4作品が上映され、来場者の胸を打った。

同イベントは2019年、東京都での開催に始まり、その後2020年には大阪府で、そして今回の新潟開催で3回目を数える。

特定失踪者問題調査会の代表などを務める拓殖大学海外事情研究所の荒木和博教授によると、近年、韓国では北朝鮮の人権への関心の高まりから、こうした映画の鑑賞会が行われるようになってきており「それを日本でもできないか」と始まったものであるという。

そして、横田めぐみさんたち拉致被害について言及するとともに「在日朝鮮人とその日本人家族、約9万3,000人が北朝鮮へ帰った『帰還事業』の玄関となったのが新潟港である」(荒木教授)ことも今回の新潟開催の理由だと話す。

それで4本観ました。まずは、この日のメインである『絶唱母を呼ぶ歌 鳥よ翼をかして』から。ポスターの写真も再掲です。

感想を書きますと、これは井上監督は、青春映画という体裁で、どちらかというと在日差別の問題に力点を置いた映画にしているように思いますね。

上のポスターの写真でだいたいのアウトラインはご理解いただけるかと思いますが、つまり沖田浩之と抱き合っている二木てるみが沖田の実母で、北朝鮮に渡った日本人妻という設定で、当地で苦労しているというわけです。彼女は、在日の男性と結婚して帰国(帰還。反北朝鮮の人は、「帰還」という)するのですが、出発直前に沖田が高熱を出して(これは子どもの時代ですので、演じているのは当然子役です)渡航できなくなり、彼は日本に残るというものでした。その後なかなか連絡もおぼつかない状況になっているというわけです。なお私二木てるみと話をしたことがあり、この映画のことを知っていれば、ちょっとその件についても話をすればよかったなと少し後悔しています。

渋谷で「氷雪の門」を見て、二木てるみからサインをもらい握手をしてもらう

一方かつて北朝鮮礼賛本を書いた学者(柳生博)はその件を悔やみ、大学をやめて日本人妻自由往来運動の活動家(たぶん原作者の池田文子がモデル。演じているのは萩尾みどり)と協力して日本人妻の親(が、まだ生きていた時代なわけです。1985年の映画です)を訪れたりします。ポスターにもそのシーンのスチール写真があります。なおこの学者というのは寺尾五郎をモデルにしているかと思いますが、実際の寺尾はこういうことをしていたわけではありません。

それで、映画は沖田-二木のラインと、柳生-萩尾のライン、さらに、短大を卒業して自分の人生を考え出している坂上味和藤巻潤の娘と父の関係がもう1つのラインとなっています。実は、坂上は、藤巻の実の娘ではなく、彼女の実母(藤巻の妹)も日本人妻として北朝鮮に渡ったのです。その際に、柳生の本を読んで感銘を受けたのが、北朝鮮へ渡るきっかけの1つだったので、藤巻は柳生を責めます。そのくだりが、柳生と藤巻が写っているポスターの写真です。

それで柳生と藤巻がなぜ相対しているかというと、沖田に柳生が殴られた(だから治療の跡があるわけです。殴った理由は、藤巻と同じ理由)ので警察に行き、そこで刑事をしている藤巻が路上に落ちていた柳生本をみて事情を察した(昔の北朝鮮帰国者の関係者から恨まれたかあるいはその後柳生がその運動に反する活動したので逆に敵視されたか)というわけです。

沖田と坂上の出会いとかもありますが、そのあたりは割愛して、ミュージシャンとして沖田は、在日コリアン(一応韓国人という設定らしい)2人が所属する3人組のバンドに参加して、商業的に成功しますが、沖田が在日であるという記事を出されてしまい、ライヴ会場で非難をされますが、「そんなことに何の問題もないじゃないか!」と宣言して拍手を得ます。最後は、これもあまり長々と書いてもしょうがないのでやめますが、沖田が韓国人(正確には、日韓の血をひいている)であることで、過去のいきさつから娘の結婚に難色を示す藤巻ですが、ようやく吹っ切れて結婚を認めるに至ります。ラスト、日本海に浮かぶ船で、北朝鮮にいる母に向かって沖田が歌を熱唱し、映画は終わります。「お母さーん」という坂上と一緒の叫びとともに。

いろいろ違和感の多い部分もある映画ですが(詳細は後述)、思ったよりイデオロギーバリバリの映画というものでなく、わりとまともな映画だったとおもいます。上にも書いたように、この映画で監督を任され、しかも脚本も執筆した井上監督は、たぶんプロデューサーの期待を損ねない範囲で、在日差別の問題とか最大限イデオロギーとは関係ない人権やヒューマニズムといった方面で映画を作ろうと腐心したのではないですかね。もちろん日本人妻の問題は、この映画の最大のテーマですが、そういったところだけでなく、あえて在日差別の問題に相当に力点が置かれているのがこの映画のポイントであり、やはり井上監督も露骨に統一協会の宣伝の映画を作るのは気がすすまなかったところがあったのだろうなという気がします。

さてほかに、この映画で「?」と思ったところをちょっと書いてみます。

1つは、あえて「北朝鮮」という呼称を避けているのかと思いますが、「北鮮」という表現で北朝鮮が呼ばれています。1985年の時点では、さすがに「北鮮」といういい方はすでに一般的ではなかったのではないかと思うのですが、どうなのか。ここは無難に「北朝鮮」で良かったんじゃないのという気はします。

2つ目は、現役の政治家がその名前でご当人が画面に登場することです。後に民社党の委員長も務めた永末英一です。フロントクレジットで「特別出演」とあり、え、そんな人が出るのと思っていたら、本当に出てきたのでけっこう本気で驚きました。それでエンドクレジットで、この映画に協力した政治家や文化人ほかの名前が出ます。詳細は、国立映画アーカイブの表をご確認ください。

やはり自民党と民社党の政治家の名前が目立ちますが、田代富士のような公明党の政治家の名前もありました。田代氏は、のちに受託収賄で起訴、執行猶予付き有罪判決(懲役刑)を受けています。ほかに民社党支持(?)と思われる文化人の名前も。草柳大蔵などはそうでしょう。ほかにも清水幾太郎俵孝太郎、またこれは統一協会のからみでしょう、筑波大学学長の福田信之なんて人の名前もあります。法眼晋作の名前もありますね。彼は、外務省の名門の出で、外務事務次官も務めました。日中国交回復時の事務次官でしたが、かなり強い反共イデオロギーの持ち主であった彼は、Wikipediaにも

>反共の観点から中華民国との国交を維持することを強く主張していた。

とあるくらいです。参考に、この映画に関するツイートをご紹介。

最後に、真夏竜はどこに出ていたのかなです。バンドのメンバー? 刑事? よく確認できませんでした。

だいぶ記事が長くなったので、次の映画はまた別の記事で取り上げます。来週以降の発表になりますので乞うご期待。

12月10日の追記:bogus-simotukareさんからこの記事を紹介する記事を書いていただきました。ありがとうございます。

映画「絶唱母を呼ぶ歌、鳥よ翼をかして」

>> 商業的に成功しますが、沖田が在日であるという記事を出されてしまい、ライヴ会場で非難をされますが、「そんなことに何の問題もないじゃないか!」と宣言して拍手を得ます。

>まあ、なかなかそうも行かないでしょうね。「うろ覚え」ですが、以前、朝日新聞記事で「松田優作」が「差別を恐れて」在日であることをひた隠しにしていたという記事を読んだことがあります。
 あるいは、これも「うろ覚え」ですが、以前読んだ、野村進『コリアン世界の旅』(講談社文庫) にはカミングアウトした在日芸能人として「にしきのあきら」が登場しますが、彼は「カミングアウトしない在日芸能人はたくさんいる。だって差別が怖いから」と言う趣旨のことを語っていたかと思います。

でこのあと和田アキ子の事例が紹介されています。

全くの偶然ですが、本日このような記事を読みました。

中村ゆり、南果歩「カミングアウト」 「在日」隠す芸能界に異変

この記事が執筆されたのが2007年ですので、やはりそのくらいの時期でないとなかなか在日の芸能人が自分から自分の出自がコリアンであると公表することは難しかったのかもですね。映画の公開から20年くらいは必要だったのかもしれません。

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やはり高倉健の寵愛を受けていたのだろう(高倉健主演のテレビドラマ『刑事 蛇に横切られる』にわき役出演していた高倉作品常連の俳優について)

2021-12-06 00:00:00 | 映画

だいぶ前にこんな記事を書きました。彼が出演した珍しいテレビドラマ『あにき 』『刑事 蛇に横切られる』の放送予定のご紹介です。なお『あにき』のほうは、現在日本映画専門チャンネルで放送中ですので、興味のある方は乞うご鑑賞。

高倉健の主演したテレビドラマがCSで観ることができる(情報)

今日は、刑事ドラマの方の話を。なおこのドラマはDVD化されていましたので、一応リンクをしておきます。

個人的な意見では、面白い作品ではあったが、やはり高倉健の演技が映画の演技で、ややテレビドラマとは毛色が違っていたというところです。後にも書きますが、小林稔侍のように映画とテレビドラマ双方に多く出演していて、映画の演技、連続テレビドラマの演技、2時間ドラマなどの単発ドラマ(それも主演、わき役、シリーズ物と単発物とでは当然要求される演技が異なります)とで演技を分けられる人間ならまだじも、基本テレビドラマへの出演が少なかった高倉では、どうしても映画の演技になります。そうするとやっぱりちょっと違和感が出ます。高倉と同世代の谷啓なんぞはさすがに落ち着いた演技ですが、特にベテラン俳優たちの演技の中で若干高倉の演技が浮いてしまっている感がありました。

最近の日本のドラマの撮影は、100%ビデオによる撮影かと思いますが、やはりフィルム(最近は、映画もフィルムでなくデジタル撮影ですが)の撮影とビデオの撮影ですと観ている人間の印象もことなります。高倉は、あまりビデオでの撮影に適応できなかったのではないかと思えました。

あとわき役に演技が稚拙な人がいました。私が引っかかったのが、右側の俳優です。「西村譲」という人です。高倉の娘役の鈴木京香の婚約者である新聞記者という役です。

鈴木京香はうまかったのですが、婚約者はどうもダメでした。演技も未熟だし設定もチャラい(苦笑)。河合美智子もいまひとつでした。全体的にやや演出がよろしくないところがありました。河合の方は、まあその後も活躍(脳梗塞とかいろいろあったとはいえ)しているといっていいでしょうが、西村のほうは全く知らない俳優です。どんなもんかいなと思ってちょっと検索したところ、「おや」と思いました。高倉健の映画にやたら出演しているのです。

確認したところでは、少なくとも『夜叉 』「ミスター・ベースボール 』『鉄道員(ぽっぽや)』『ホタル』に出演しています。その他の映画にも『極道の妻』シリーズなどに出演しているものの、どうも高倉作品に出演が偏っています。これは、まず間違いなく高倉の口利きでこうなったのだろうなと思います。

このドラマには、前出の、高倉作品の大常連である小林稔侍も重要な役どころで出演しており、これは高倉とセットでの出演(たぶん高倉が小林との共演を出演の条件にした)と考えられますが、有名俳優の小林でなく無名あるいはそれに毛が生えたくらい(失礼、あるいはそうではないかも)の彼にも、やはり高倉が、彼に与えられたのであろう出演者選択の枠にいつも入れてあげたということなのでしょう。

ただ高倉健さんというとどうしてもゲイだという話題になるし、このあたりやっぱりかこっていたのかなあとかそれに準ずる関係だったのかとかいろいろ考えます。昨今昔ほどゲイだとかLGBTQとかでうるさいことは言われませんから別にいいですが。なお健さん自身は、自分はゲイではないと否定していました。

ただやはり、高倉に限らず、俳優が絶対的な信頼を持っている俳優と共演したがるというのはちょいちょいあります。スティーヴ・マックイーン(俳優の方)は、ドン・ゴードンと数作品で共演しました。ポール・ニューマンもたとえばストローザー・マーティンといろいろな映画で一緒に演じています。なお記事中の写真は、DVDのジャケット以外は、DVDからのスクリーンショットです。

記事公開日の追記:bogus-simotukareさんが、この記事に関連する記事を発表していただきました。

そういえば「高倉健・エイズ死亡説」つう無責任な噂があったことを思い出す

特に私は、その件を意識してこの記事を書いたわけではないのですが、ただ80年代というのは、ゲイの(うわさがある)人が、エイズで死んだとかいう話はちょいちょい伝わりました。高倉はガセでしたが、ミシェル・フーコーは亡くなった際に「エイズだ」と思いっきり伝わりましたが、それが正式に確認されたのは後の話です。フレディ・マーキュリーも亡くなるまでにさんざんエイズを患っているといわれましたが、亡くなってから正式に発表されました。特にフーコーにしても、生前公然と自分がエイズであると認めなかったらしいというのは、いろいろ考えさせられる話です。bogus-simotukareさんありがとうございます。

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他人に対するいやがらせの実例(私は、この映画を観てそれを実行した)

2021-11-18 00:00:00 | 映画

Pierrot le fou - scene - Ville du centre de la France

ジャン=リュック・ゴダール監督の『気狂いピエロ 』のとあるシーンを。パリを逃げ出して金のないジャン=ポール・ベルモンドアンナ・カリーナ が、どこかのカフェで何か面白い話をして小銭を稼ごうとするシーンです。画像は、YouTubeの画面より。よって英語の字幕があるのは乞うご容赦。

一生懸命話をするのですが、いかにもつまらなそうにしか人は聞いてくれません。

というわけです。それで、私がこれをやったわけです。私がやったのは、最初の写真でサングラスをかけて半袖にしているシャツを着ている男性の真似です。私が、自分が大っ嫌いな男が話をしているときにこれをやって、「あいつの話は面白くないが、それにしてもその態度はない」と注意されたくらいです。いや、嫌いな人間に対しては、それくらいの態度は当然だろ。

なおサングラスの男性は、映画の中では、「ラズロ・コヴァックス」というハンガリー名を名乗っていながら、ドミニカの首都サントドミンゴ出身の政治亡命者と称していますが、彼は素人さんでなく、俳優でゴダール映画の常連さんであるラズロ・サボ です。ハンガリーからの亡命者です。

また化粧品売り場の店員を名乗るヴィヴィアンヌ・ブラッセルなる女性は、Wikipediaフランス語版に名前があります。彼女は、映画の中で1943年3月21日生まれと称していますが、Wikipediaではそれが事実か確認できないということか、生年月日は不記載です(2023年5月5日追記:現在では、上の生年月日が掲載されています)。上のスクリーンショットではいかにもつまらなそうですが、実際のところは瞬きをしているので、たぶんベルモンドを前にして緊張していたのでしょう。またラズロ・サボも、映画では1936年1月25日の生まれと語っていますが、Wikpediaによると1936年3月24日の生まれです。

撮影された年月日は不詳ですが、ヴィヴィアンヌ・ブラッセルの写真です。出典はこちらから。ここでは、彼女の生年月日は、上の生年月日となっていますね。

気狂いピエロ

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京都で、松本酒造の写真を撮ってきた(映画『無宿』(やどなし)のロケ地でもある)

2021-11-04 00:00:00 | 映画

秋の乗り放題パスが、10月24日まで使えたので、これは3日連続で使うという仕様ですから、22日~24日にかけてこれでまた名古屋、関西方面へ行ってきました。全体はまた後日記事を書くとして、今日は、23日に行った松本酒造酒蔵の写真をお見せします。これは、近代化産業遺産の認定を受けています。アクセスは、Wikipediaには、

とありますが、この日は京都駅前のホテルに泊まっていたので、京都市営バス19号系統に乗り、三栖大黒町で下車します。

ではなぜここに行こうと思ったかというと、タイトルにも書いたように高倉健勝新太郎が共演した、唯一の映画作品である『無宿』(やどなし)でロケに使われたからです。高倉健が線路を歩くシーンのロケ地は、すでに訪れています。上の写真は、撮影時のスナップですかね。出典はこちら

高倉健の気分(?)を味わってきた(映画『無宿』のロケ地を訪問する)

勝が横を通るシーンでこれまた印象に残ったシーンです。写真の出典は、こちらです。私がいつも勉強させていただいている「居ながらシネマ」さんから引用します。

『無宿』 (1974)

>駒玄が立ちションしていて、追手の石橋蓮司さんにドスを突きつけられるところ。
背景の黒壁の長い建物が特徴的ですが、こちら↓の酒蔵。

松本酒造
京都市伏見区

https://sawayamatsumoto.com/

ではここに行ってやろうと思い、それでバスに乗って向かいました。

ちょうど夕方で、なかなかいい光線具合です。

反対側は、こんな感じです。

こんな風に土手が続いています。

ちょうど勝のバックですかね。

まだ写真はありますが、それはその他の写真と一緒にお見せします。後日になりますが、乞うご期待。また居ながらシネマ様に感謝を申し上げます。

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新潟で、北朝鮮・拉致問題・北朝鮮への帰国(帰還)問題に関する映画の上映会がある(都合をつけて、行ってみようかと思う)(追記あり)

2021-11-01 00:00:00 | 映画

bogus-simotukareさんの記事で知ったのですが、12月4日と5日、新潟市で、「第3回北朝鮮人権映画祭」なるものが開催されます。ポスターは下。

個人的な意見では、5日の映画のほうはそんなに興味がないのですが(相対的な意味であって、全くないわけではありません)、4日のほうの映画はぜひ見てみたいですね。特に井上梅次監督の『絶唱母を呼ぶ歌 鳥よ翼をかして』と望月優子監督の『海を渡る友情』は非常に興味があります。前者はともかく後者はおそらく上映後の関係者によるトークでは、悪口三昧にもほどがあるというものでしょうが、やはりこの映画を観ることは、私も拉致問題や北朝鮮問題に興味を持ちかかわっているからには、避けては通れないと考えています。

望月優子は、私などは、大島渚監督のデビュー作『愛と希望の街』で、主人公の母親を演じた人というイメージが強いのですが、彼女は1971年から77年まで社会党の参議院議員を務めたくらいで、こういった問題にもかなり熱心な人だったのだろうと思われます。それでこの映画については、彼女のWikipediaにすら記載されておらず、彼女はとっくの以前に亡くなっているのですから黒歴史として封印されているということでもなさそうですので、いわば完全に関係者からも忘れ去れていた作品ということなのでしょう。製作が東映教育映画ということで、つまりは当時は、東映のような映画会社でも(教育映画とはいえ)このような映画を製作したということです。実際キャストも、水戸光子西村晃加藤嘉(彼は、望月の義弟でもあります。今井正監督作品『』で望月と共演もしていました)などなかなかの人たちをそろえています。加藤は、たぶん身内であると同時にイデオロギー的にも望月と相通じるものがあったのでしょうが(彼は左派です)、西村などはたぶん望月の心意気に共感しての参加ではないか。すみません、このあたりそうでなかったら訂正します。また撮影は、中尾駿一郎で彼は今井正作品の常連カメラマンであり、上記『米』でも撮影を担当しています。彼もたぶん左翼的な心情での参加ではなかったか。

この映画は、図書館などには16㎜フィルムなどで所蔵されていることもあるようですが(なにしろ「教育映画」ですから)、最近は「昔はこういう映画も制作されていた」みたいなニュアンスで、ちょいちょい上映されるようです。現在からすればいろいろ批判されるところの多い部分が目立つ映画ということになるでしょうが、上にも書いたように、映画好きを自称していて、北朝鮮問題にもいろいろと興味のある私としては、この映画の鑑賞はやはり必要なことだと考えます。そういうわけで、なんとか都合をつけて観てみたいと思います。

それでもう1本『絶唱母を呼ぶ歌 鳥よ翼をかして』で、こちらは統一協会(統一教会とも。現・世界平和統一家庭連合)が制作したという話のある(原作者が統一協会メンバー)作品で、これまたいわくつきの映画ですが、これも映像ソフト化はされていないと思うので、かなり興味深いですね。キャストも、沖田浩之坂上味和藤巻潤萩尾みどり柳生博新藤恵美二木てるみといった人たちが出演しています。井上監督という人は、Wikipediaから引用すれば

日本の映画監督としては初めて、スタジオ撮影によるテレビドラマを監督した

という人であり(太字もそのまま)、基本的に仕事のオファーはあまり断らない人だったと思われます。世間的には、天知茂時代の「江戸川乱歩の美女シリーズ」のメイン監督(1~19話まで。1977年~82年)で有名かもしれません。また夫人である月丘夢路のWikipediaにも記載がありますように、彼女は若干統一協会と関係がありましたので、たぶんそういう絡みもあって、この仕事を引き受けたのかもと思います。実際、映画の遺作となった『暗号名 黒猫を追え!』は、当時スパイ防止法制定に動いていた統一協会系の資金の制作とされています。この映画は、妙にキャストが豪華で、Wikipediaから引用すると、

であり、え、なんでこんな人たちがこんな映画に出演するのという気がします。たぶん多くは、事情がよくわかっていなかった、仕事を選べる立場でなかったとかいうことなのでしょうが、それもどうかです。月岡千秋と真夏竜(上では、「竜吾」)は、前作に引き続いての出演です。月岡は夢路の妹としての身内出演として、真夏氏は、井上監督に気に入られたんですかね? なおこの映画は、内容が内容だけに映画館での上映を拒否され、1987年の製作からようやく2008年に上映されました。DVDの購入もできますので、興味のある方は、統一協会への資金提供になると躊躇されなければ買ってみてもいいかも。実は私も買いました(笑)。なお、イデオロギー的な評価は別としますと、やや内容を盛り込みすぎて散漫になってしまっているというレビューが多いように感じます。

11月3日追記:せっかくなので、紹介動画とDVDのジャケットをご紹介。

映画 「暗号名 黒猫を追え!」 紹介動画

話がだいぶとびましたが、今回上映される映画は、アクションでなくヒューマンドラマでしょうから、これもどういう映画になっているか興味がありますね。面白いかどうか、それをイデオロギーとどう超越しているか、時代の推移に耐えるものなのか、いろいろ確認できればです。観に行って、記事にしようと思えば記事にします。その気にならなければしないので、乞うご容赦。

ただこれは映画の出来うんぬんとはまた話の次元が違いますが、この映画の上映を企画している人たちは、基本に日本人妻の自由往来について反対してませんかね。拉致問題とそれは別個に考えるべきだろと思いますが、例えば拉致被害者家族による平壌への日本政府連絡事務所設置拒否など、いかにそういうことを実現阻止するのかということに全力を尽くしているように感じます。要は「あんたたち単なる反北朝鮮だろ」ということです。この連中が単なる「反北朝鮮」なことは、別にどうこういう気もいまさらありませんが、この連中と拉致被害者家族が完全な同盟関係、はっきりいって主従関係にあることは、実にいろいろな点で不幸なことですね。心底そう思います。なおこの記事は、上にリンクした記事以外に、bogus-simotukareさんのこちらの記事を参考にしました。感謝を申し上げます。

「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」を笑おう(2019年5/31分)(追記あり)

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ビョルン・アンドレセンについてのドキュメンタリー映画がついに公開される

2021-10-27 00:00:00 | 映画

このブログは、スウェーデン人の俳優(兼ミュージシャン。仕事の重さからすればミュージシャン優先かな)ビョルン・アンドセン(Björn Johan Andrésen)の記事でも、ある程度アクセスを稼がせていただいています。そして彼の『ベニスに死す』以降の人生についてもとりあげたドキュメンタリー映画が公開となります。この関係の記事が発表された22日は、しばらくぶりに拙ブログのgooでのアクセス数順位が、100番以内となりました。

>「ベニスに死す」の美少年、ビョルン・アンドレセンの衝撃の真実 ドキュメンタリー「世界で一番美しい少年」12月17日公開
2021年10月22日 11:00

ルキノ・ビスコンティ監督作「ベニスに死す」(71)で主人公を破滅に導く少年タジオを演じた、ビョルン・アンドレセンの衝撃の真実を描いたドキュメンタリー「The Most Beautiful Boy in the World」(原題)が、「世界で一番美しい少年」の邦題で12月17日から公開される。

世界で一番美しい少年”として一大センセーションを巻き起こしたのは、巨匠ビスコンティに見出され、映画「ベニスに死す」のタジオ役に抜擢された当時15歳のアンドレセン。同作は1971年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され「25周年記念賞」を受賞、日本でも高い評価を得て長年に渡り多くの人に愛され続ける名作だ。

その容貌と圧倒的な存在感で同作を強く牽引したアンドレセンは、同作の日本公開年などに来日、CM出演などの芸能活動も行い、日本のカルチャーに大きな影響を及ぼした。劇中、マンガ「ベルサイユのばら」の作者・池田理代子氏が、彼が主人公“オスカル”のモデルであったという事実を明かす。そして50年後、かつて伝説のアイコンまでになった彼は、日本でも大ヒットしたアリ・アスター監督作「ミッドサマー」(19)の老人ダン役を演じ、話題を集めた。

映画では、アンドレセンが、熱狂の“あの頃”に訪れた東京、パリ、ベニスへ向かい、ノスタルジックにして残酷な、自らの栄光と破滅の軌跡をたどる。“世界一の美少年、タジオ”を探すために壮大な規模で行われたオーディションなど「ベニスに死す」の裏側、“世界で一番美しい少年”と呼ばれその後の人生を運命づけられてしまったひとりの人間の栄光と破滅、そして心の再生への道のりを豊富なアーカイブ映像と共に描き出す。

12月17日からヒューマントラストシネマ渋谷、新宿シネマカリテほか全国で順次公開。

(映画.com速報)

映画の製作については、私も情報を仕入れていましたので公開を心待ちにしていましたが、ついに日本公開ですね。いやあ、よかったよかった。

上の紹介文でもそのようなことを書いていますが、アンドレセンの人生は、彼自身が語るところを引用すれば、

>ぼくのキャリアは、最初にすごい頂点に立ってそれから下がり続けるというめったにないものです

>それはさびしいものです

というわけです(拙訳)。

ビョルン・アンドレセンについての2003年の記事(2)

しかし人気だけの問題ならまだいいわけです。人気が高くてその後パッとしなくなるというのなら、そんな芸能人はいくらでもいます。しかしアンドレセンはまさに時代のアイコンになってしまったし、そして彼は、映画に出てくるタジオのイメージを押し付けられてしまいました。彼は同性愛者ではないし(ていうか、映画でだって、アッシェンバッハが勝手に想い続けていただけであって、別に彼が同性愛者だったという設定ではありませんでした)、実のところ彼は、ポーランド人貴族ならぬ、スウェーデン出身の、家族関係にも恵まれない(父親は出奔し、母親は自殺しました。彼の祖母が、ステージママのような立場だったとのこと)音楽好きの少年にすぎませんでした。しかし世界は、そんな常識的な解釈を彼にしてくれず、あくまで映画に出てくるタジオの姿を彼に求めました。そしてそれは、彼にとっては苦痛以外のものでしかなかったわけです。

彼が来日した1971年の日本での様子も紹介されるようですので、これはやはり必見の映画ですね。読者の皆様もぜひどうぞ。私ももちろん観に行きます。

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