ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

新潟へ遠征して、北朝鮮人権映画祭を観てきた(初日のみ)(海を渡る友情)

2021-12-27 00:00:00 | 映画

新潟へ遠征して、北朝鮮人権映画祭を観てきた(初日のみ)(絶唱母を呼ぶ歌 鳥よ翼をかして)(追記あり)

の続きです。

1960年に公開された望月優子監督の『海を渡る友情』を観ました。上の写真はこちらの記事の再掲です。カラーではなく白黒映画です。東映教育映画の制作です。

舞台は東京の足立区です。お化け煙突が写ります。昔の映画などにはちょいちょい登場する千住火力発電所の4本の大煙突です。1926年から1963年まで稼働していたので、まさに再末期の時期のそれといえます。上の写真は、Wikipediaより。

さて足立区といえば東京最貧区という話もあるくらい東京でも貧しくぱっとしない区ですが(港区や渋谷区などにあこがれる非東京居住者はいても、足立区にあこがれるもの好きは、まずいません。もちろん私もそんな人を知りません)、この映画の舞台がそういう区を舞台にしているのもそれなりの意味があるわけです。

その足立区のたぶん朝鮮人(韓国籍をふくむ)が集住していると思われる地区に、在日で食堂経営者の加藤嘉がいます。彼は、日本人の奥さん(水戸光子)と息子がいて、(朝鮮総連の?)活動家(西村晃)が熱心に北朝鮮への帰国(帰還ともいう。北朝鮮を国家と認めない人は、「帰還」といいたがる)をすすめます。加藤のほうは、西村の熱心なすすめもあり帰国に心が徐々に傾いていますが、奥さんはいい顔をしません。ようやくある程度食堂の経営も軌道に乗り始めている、北朝鮮に行ったとして日本人が差別なく生きていけるのかあてにならないと不安がります。西村は、大丈夫だと繰り返しますが、当然奥さんは乗り気でありません。

それで加藤の方はというと、たぶん朝鮮総連系の記録映画上映会で、帰国時の映画を観ます。すると、清津での帰国者大歓迎の映像を見て、なにか心に響くものがあったようです。彼は帰国を決意しますが、しかし奥さんはそれなら自分は実家に帰るという話にまで至ってしまいます。

あんまりストーリーを逐一書く必要もないので以下ややとばしますと、息子は学校(一般の公立小学校です)でおそらく朝鮮人であることをも理由としていじめられます。小学校のホームルームでは、朝鮮人であることで差別してはいけないというような趣旨のことを、いろいろな生徒が述べたりします。ほかにもいろいろあって彼は家出をしますが、彼をいじめた生徒もふくめてみな心配して彼を探します。なんとか見つかった彼は、担任の教師の勧めもあり、朝鮮学校へ転校をすることになります。そして母親も、一家そろっての北朝鮮への渡航を決意します。

子どもは、朝鮮学校へ通うこととなりますが、朝鮮語(と、ここでは表記します)で行われる授業に対応するのも大変です。前に通っていた学校にも手紙を出したりします。

そしてついに、加藤ら一家の帰国の日が来ます。品川駅(当時は、新潟から出港する帰国船に乗る帰国者専用列車は、品川から出発しました)に向かう前に、子どもが見当たらなくなります。どうしたものかと母親が探すと、子どもは日本の学校で鉄棒をしています。まさに、彼の日本における最後の軌跡だったのでしょう。

ラスト、帰国者と見送りの人たちの笑顔と歓声とともに映画は終わります。

映画自体は、きわめて端正なつくりです。非常にまともな映画で、望月優子という人がかなりの腕前の監督だったということでしょう。で、映画を観た後、この一家帰国後大変だったろうなあとかいろいろ考えますが、しかしこの映画で語られた様々な不安(日本人妻が北朝鮮でうまくやっていけるのか、財産をすべてもっていって大丈夫か、日本の暮らしを捨ててまでして行くことがよいのか)というのは、実際に北朝鮮に帰国したらまさにそれが的中したわけだし、逆に映画が作られている最中でもそれがネタになるくらい、多くの朝鮮人や日本人妻、あるいは日本人夫もいますし、またその周囲の人間も心配するものだったわけです。

日本人の奥さんである水戸光子は、映画ですから加藤らと一緒に帰国するわけですが、現実には別れる夫婦もいたわけだし、また映画の中で水戸が訴える不安は、帰国を考えている日本中の夫婦が直面する問題でした。けっきょく最終的に日本の在日の人たちで帰国したのは、9万何千人だったわけで、多くは帰国しなかったわけです。つまりはこの映画で提出されたさまざまな疑問に、朝鮮総連や朝鮮民主主義人民共和国ほかは、満足のいく回答といいますか、解決を提供できなかったわけです。

で、まさに北朝鮮への帰国(帰還)というのは、オール日本とでもいうべき体制でしたからね。自民党から共産党、朝日新聞から産経新聞にいたるまで、「よかった、よかった」の合唱だったわけです。この映画は、東映の制作です。もちろん東映が左翼の映画会社のわけがない。この映画は文部省が推薦する映画なわけで(ポスターにもその記載があります)、監督やキャスト、スタッフには左翼が多い。理由はともかく、日本中に「在日朝鮮人が北朝鮮へ帰ることは良いことである」というコンセンサスがあったわけです。これに真っ向から異を唱えていたのは、それこそ民団系の在日韓国人くらいではないか。それで彼(女)らも、けっきょくは李承晩政権が「反対しろ」といったからしただけではないか。北朝鮮は住みよい国でないからぜひ韓国へどうぞなんてことは、当時の韓国の国力ではできない相談でした。

そう考えると、やはりこれは、日本人みなが考えて、また自由往来の実現に努力しなければいけないなとあらためて思いますね。拉致被害者家族にしても、この件で「拉致最優先」という主張に固執するのはぜひやめていただけないか。できない相談でしょうが、帰国があてにならない拉致問題よりも、政治の力で何とかなる日本人妻の一時帰国のほうが、より解決が容易なわけです。たとえば次のような記事はどうか。

>北朝鮮から60年ぶりの里帰りを 日本人妻の甥、要望書

編集委員・北野隆一 2020年9月27日 15時49分

 在日朝鮮人と結婚し、その後北朝鮮に渡った「日本人妻」の多くは、半世紀以上にわたって里帰りが果たせていない。熊本県に住む林恵子さん(69)とその次男の林真義さん(40)親子は、恵子さんの姉、中本愛子さん(89)の60年ぶりの一時帰国実現を求めている。今月25日には真義さんが外務省と厚生労働省を訪れて要望書を提出し、人道問題解決のための日朝間協議の早期再開を求めた。

 中本さんは熊本県出身。1959~84年に在日朝鮮人ら計約9万3千人が北朝鮮に渡った帰還事業で60年、夫の故郷の北朝鮮東部・咸興(ハムン)に移り住んだ。恵子さんは当時9歳。姉に「寒いところに行く」と言われ「北海道?」と聞き返したが、言葉を濁されたことを覚えている。

 97~2000年には3回にわたり日本人配偶者計43人が一時帰国。中本さんも02年の第4回に参加予定だったが、日本人拉致問題による日本世論の悪化などのため直前に中止された。

 北朝鮮に詳しいジャーナリスト伊藤孝司さんらの取材で中本さんらの存在が改めて注目されたのは17年。林恵子さんは18年6月下旬、真義さんとともに初訪朝し、咸興で姉と再会。涙を流し「ごめんね」と抱き合った。翌19年7月にも再訪朝し、姉の孫の結婚式に出席した。

以下は有料会員部分です。こういったことは政治の力で何とかなることです。安倍晋三がどんだけ偉そうなことをほざいていたところで、彼はこういう基本的なことを六にしなかったのだから、まさに口先だけの男です。岸田も似たようなものでしょうが、彼が首相を降りるまでは彼の判断です。中本さんほかがなくなってしまったら、日本人も日本政府も大変薄情な民族であり行政体になるのだなと私は思います。


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Unknown (bogus-simotukare)
2021-12-27 06:52:19
>拉致問題よりも、政治の力で何とかなる日本人妻の一時帰国のほうが、より解決が容易なわけです。

 そもそも拉致解決という意味でも「日本人妻一時帰国」などで日朝間の信頼関係を深めていった方がいいでしょうにねえ。
 「急がば回れ」「情けは人のためならず(回り回って自分の利益になる)」「相身互い(困ったときはお互い様)」「袖振り合うも多生の縁(人間何かしらの縁がある)」と言う奴でしょう。
 何でそういう理解が出来ないのかと家族会のバカさには心底呆れます。
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>bogus-simotukareさん (Bill McCreary)
2021-12-27 16:50:08
ほんと、北朝鮮に圧力をかけるってことしか連中は興味がないですよね。日本人妻の一時帰国が、小泉訪朝の前の数年間続いていたことなどを見ても、拉致被害者帰国への筋道の1つがつながっていたと解釈するべきでしょう。そしてそういうことをすっからかんに彼(女)らは認めませんからね。それではお話にもならんというものでしょう。
返信する
『海を渡る友情』以外にもあった望月優子監督映画 (bogus-simotukare)
2021-12-29 21:09:26
http://kobe-eiga.net/program/2018/12/4422/望月優子特集上映 | プログラム|神戸映画資料館2018年12月28日(金)13:00〜16:00
「ここに生きる」
(1962/40分/DVD上映)協力:国立映画アーカイブ
製作:オオタ・ぷろだくしょん 全日自労(全日本自由労働組合)
監督:望月優子 撮影:安承玟(アン・スンミン) 音楽:伊藤翁介 ナレーション:矢野宣
 朝鮮帰国事業に関する第1作『海を渡る友情』(東映教育映画、1960年)、混血児差別問題に関する第2作『おなじ太陽の下で』(東映教育映画、1962年)に続く、望月優子監督の第3作目。全日本自由労働組合の委託により、当時国会に提出されていた緊急失業対策法改正案に対する反対運動の一環として製作された。炭鉱離職者、被差別部落出身者、女性など、全国の失業対策事業の日雇労働の現場で働く人びとの日々の労働と生活を、実際の作業現場や組合事務所・託児所などの現場で撮影した記録映像と、職業俳優を交えた再現ドラマパートを交錯しつつ映し出す。
(引用おわり)

 第1作「海を渡る友情」以上に見ることが困難でしょうが、望月監督映画の第2作「おなじ太陽の下で」、第3作「ここに生きる」を紹介しておきます。
 全て政治色濃厚な社会派映画というあたりが望月らしいと言うべきでしょうか(第三作に至っては全日自労の依頼ですからね)。
 しかし第2作(混血児差別)って今井正『キクとイサム』(1959年)みたいな代物でしょうか?
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>bogus-simotukareさん (Bill McCreary)
2022-01-02 13:20:40
どうも情報提供ありがとうございます。田中絹代の記事で、左幸子を日本映画史上2番目の女優監督みたいに書いちゃいましたが、望月を忘れていてはしょうがありませんね。あとで訂正します。

仰せの通り望月という人は、まさに社会派の監督だったようですね。彼女が国会議員になったのも、その延長みたいなところがあったのでしょう。
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