ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

老舗カメラ雑誌の休刊とオリンパスのカメラ事業の撤退から、いかにカメラ(写真)業界がよろしくないかわかるというものだ

2020-06-30 00:00:00 | 社会時評

日の記事を。

>オリンパス、赤字のカメラ事業を売却 OM-D、PEN、ZUIKOブランドは新会社が継承
2020年06月24日 17時25分 公開
[谷井将人,ITmedia]

 オリンパスは6月24日、カメラの製造販売を行う映像事業を国内投資ファンドの日本産業パートナーズ(JIP)に譲渡すると発表した。

 映像事業を継承する新会社を設立し、株式をJIPに譲渡する。新会社はオリンパスのカメラブランド「OM-D」「PEN」や、交換式レンズのブランド「ZUIKO」などを継承し、オリンパス製品のカスタマーサポートも続ける。

 オリンパスは1936年からカメラの製造を続けてきたが、スマートフォンやタブレットの進化によってカメラ市場が縮小。生産拠点の再編や交換レンズの値上げなどで業績改善を図ってきたが、2018年3月期以降は赤字が続いていた。

 「JIPのもとで事業を展開することが、映像事業の自律的かつ持続的な成長を実現し、オリンパスの製品を愛好するお客さまへの価値提供と、そのために働く従業員にとって最適であると判断した」(オリンパス)

個人的には、ついにこの日が来たかなというところですね。実は私も、かつて数年間、正確には3年間オリンパスのコンデジを使っていました。1台は、紛失してしまい(たぶん盗まれたのだと思います)、同じ機種を買いなおしたのですが、それは2018年に故障、現段階それが私が買ったコンデジの最後です。

私は、デジタル一眼レフを使いこなすほどのカメラ好きではありませんが、しかしやっぱりスマートフォンに特化したくないという気持ちも強かったので、コンデジを使い続けたのですが、しかし2013年の時点で私はこのような記事を書いています。

次に買うコンデジが、最後のコンデジ購入になるかも

この記事を書いた時点で、コンデジもそろそろおしまいかなあと考えつつ、2015年にカメラを購入しました。

カメラを替えた

このカメラを2016年正月に紛失して、すぐに買い替えたのですが、2018年にて故障ということになったわけです。それ以降コンデジの購入はしていません。さすがに修理をする気もしなかったので。

2015年暮れ~2016年正月の、台湾での数枚の写真(追記:台湾での地震について)

今の時代、北京でもそうでしたが、高級なデジタル一眼レフを使いこなしている人間は、そのほとんどが定年退職をした人ですね。もちろん趣味人としてカメラを使っている若い人もたくさんいますが、現実問題として趣味としてカメラを持つのなら、今の時代スマートフォンでじゅうぶんです。それ以上は、コンデジですともはや購入の意味が低いし、高級な一眼レフは、高すぎるし、買っても買った金額に見合うだけの使いこなしはまず難しいと思います。逆に使いこなせる人は、なんであろうと購入するのですが、その数がそんなに多いとは考え難い。

実際最近、今年は野球の始球式というのはやっていないのかもしれませんが、審判の後ろでカメラを構えている人もスマートフォンで撮影している人が多かったし、また記者会見などもスマートフォンで撮影している人が目立つようになっています。業務用の写真もスマートフォンが増えているのだから、素人さんの写真はますますスマートフォンでOKということになるでしょう。

それでこの報道のちょっと前ですが、これもやはりその関連ということになりますね。

アサヒカメラも休刊、純広告11ページに激減で白旗、カメラ7割減が直撃
経営戦略2020/06/03 12:34
 朝日新聞出版は6月1日、月刊カメラ雑誌「アサヒカメラ」を6月19日発売の2020年7月号で休刊すると発表した。1926年(大正15年)4月に創刊し、今年で94年目を数える総合カメラ誌がまもなく消える。2010年頃までは5万部以上あった発行部数は徐々に減少。2018年以降は2万部台まで落ち込んでいたものの、直近の数号は3万1500部まで持ち直していた。しかし、同社によると「この数年伸び悩んでいた広告収入が、今回のコロナ禍で激減。紙の定期刊行物を維持することが困難だと判断」し、休刊を決めたという。

 休刊直前の6月号に掲載されている純広告のページ数は、自社広告を除くと11ページ。しかも、カラーの広告ページはわずか5ページしかない。窮状がうかがえる。一方、誌面は充実している。「いまこそ、フィルム!」と題した渾身の特集だ。デジタルカメラ全盛時代に、あえてアナログのフィルムやカメラ、写真をぶつけた。

 特に、現在入手可能な68種類のフィルム特性を実写で比較した企画や現在入手可能なフィルムカメラをまとめた企画は圧巻だ。まるで100年近くカメラ雑誌の頂点に君臨してきた同誌の墓標のようだ。

 今後は、朝日新聞出版のニュースサイト「AERA dot.」内の記事としてカメラや写真関連の情報を配信。写真家の作品や撮影ノウハウの紹介、撮影ルールやマナーの問題などにも取り組んでいく。紙媒体は増刊やムックなどで引き続き刊行していく方針。同誌中心に実施してきた木村伊兵衛写真賞については、朝日新聞社、朝日新聞出版の共催で継続する。
 
 今年に入って古参のカメラ雑誌が消えるのは、4月に突然休刊した「月刊カメラマン」に続き2誌目。スマートフォンの影響で、もともと縮小傾向にあるカメラ市場だが、新型コロナウイルス感染症の影響が加わって、販売台数は激減している。

 特に、3月以降の縮小はすさまじく、BCNが調査した販売台数前年同月比は3月が50.1%、4月が31.5%と7割減。5月は多少持ち直したものの35.5%と回復には程遠い。カメラ雑誌の淘汰はさらに進みそうだ。(BCN・道越一郎)

え、『アサヒカメラ』ってまだ発売していたの、ってのは冗談ですが(でもこれが決して冗談でない人はかなり多いはず)、個人的には部数が上向いていたというのはかなり意外だったのですが、(当然ながら)どっちみち広告がなければカメラ雑誌なんて継続できませんから、コロナウイルスの関係も確かにあるのでしょうが、これも遅かれ早かれだったんでしょうね。コロナウイルスがなかったとして、あと6年がんばって創刊100年まで到達できたか。たぶんできない相談だったと思います。

前『アサヒグラフ』について、銀行や医院の待合室くらいでしか見たことがないっていう揶揄した言葉を聞いたことがありますが、そんなことが語られているうちに休刊になってしまいました。時代が変わったので、『アサヒグラフ』のような雑誌に存在意義があったかというと休刊(廃刊)時にはたぶんもうなかったでしょうが、雑誌の性質は専門誌ですからまた違いますけど、『アサヒカメラ』もちょっとどうこうできるようなものではなかったでしょうね。これもやっぱり、カメラというものがすでに「高級」とかそういう意味合いのある商品ではなくなったということなのでしょう。

いずれにせよカメラ業界というのはきわめてよろしくない状況だなと思います。やっぱり大手企業のデジタルカメラからの撤退というのがこれからも起きるのだろうな、関係している雑誌なども継続は厳しくなるのだろうなと今のうちから覚悟して、この記事を終えます。

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愚行のつけは、1年たっても(たぶん)まだ重い

2020-06-29 00:00:00 | Weblog

なぜこんなくだらん話をして、他人を不快にして迷惑をかけて、自分の首を絞めるのか(苦笑)(福岡親善大使の暴言)

昨年こんな記事を書きました。つまり「福岡親善大使」だった田上真理子という女性が、全国放送のテレビ番組で「自分は福岡を好きでない。たまたまいるだけ。親善大使もオーディションを受けたらここが引っかかっただけ。東京がいい」というような趣旨のことを語り、たちまち非難が殺到して、本人ばかりか所属事務所まで陳謝をする始末というなんとも無様で無残なトラブルについての記事です。詳細は、上の記事を参照してください。

で、そのテレビ番組が放送されたのが昨年の6月29日です。その後彼女はどうなったのかなと確認してみると、インスタグラムは削除されています。

私も彼女のインスタがつながらないので、どうやら削除したらしいということは気づいていました。ほかにSNSやブログなどをやっているかどうかは、現時点で確認できていません。見つけることはできませんでした。

事務所も解雇かとも思いますと、こちらは名前が残っています

あの件は、単純に田上だけ批判して済むというものでもないと思いますが(下の引用参照)、事務所側としても、やはり無下に彼女を切り捨てるということはしなかったということなんですかね。

ただどうもよく分からないのが、彼女は福岡市の芸能事務所に所属していて、今後も福岡中心に活動していく予定でしょうに、それで福岡への愛は嘘だったもないだろうということです(苦笑)。福岡市は、日本の中でもかなり主要な地位である都市であり、仮に彼女が東京の事務所に移籍するとしても、そんな発言したら(社会常識という意味で論外ですが)損するのあんただろと思いますけどね(笑)。あまりに非常識が過ぎる。

彼女が、暴言から今日までどういう芸能活動をしたか(しなかったか)知りませんが、当然あの発言をしなかったほうが仕事は入ったでしょうね。あのようなことをいう人間を、地元ローカルの番組が起用してくれるのか、仮に東京の事務所が彼女に興味を持ったとしても移籍が可能なのか、移籍しても、いい顔しない人たくさんいるんじゃないんですかね。なお私の確認が不十分だったのでしょうが、ここ最近の彼女の芸能活動について、これといった情報を見つけられませんでした。

そんなことを考えていたら、次のような記事を見つけました。 

>『有吉反省会』大炎上は必然!爪痕を残す為に身を削らされるタレントたち

2019/07/05 09:55
文=日刊サイゾー編集部(@cyzo)

(前略)

放送を見る限り、どこが“言葉足らず”だったのかは不明だが、番組制作の現場を知るキー局関係者は、同情の余地があると語る。

「もちろん一番悪いのは本人ですが、責任の半分は番組制作側にあると思います。通常こういったトークバラエティ番組では、収録をスムーズに進めるために、事前に綿密な打ち合わせをします。つまらない話しを本番でダラダラされても、収録時間が延びるだけですから。今回も恐らく、事前のやり取りの中で、インパクトがある表現を求められ、あのようなトークになったのでしょう」(キー局関係者)

 場を盛り上げるために話しを盛ってしまった経験がある人など、そこら中にいるだろう。それをテレビでやってしまうと、時に今回のような炎上騒動になるが、そういった手法で人気を博す番組は少なくない。週刊誌の芸能班の記者は言う。

「『有吉反省会』では、6月26日放送の特番で熊切あさ美がSNSの写真を友人から1枚100円で買っていたことを告白し、元グラドルの岩佐真悠子は、高校を辞めたのは仕事が忙しかったからでなく、素行不良だったことを明かしました。人気番組ですから、出演者は爪痕を残すために必死にエピソードをひねり出しますが、こんなことをバラしても本人にはなんのメリットもありません。深夜に戻ってからの『しくじり先生』(テレビ朝日系)も同様です。水沢アリーは整形をしまくっていたことを、“はるかぜちゃん”こと春名風花は金への執着心が異常に強いことを告白しました。その場は盛り上がりましたが、制作側は数字が取れればいいだけ。使い捨てにされているだけなんですよ。それでも乗せられてしまうタレントはいくらでもいますから、今後も福岡親善大使のような炎上事件はいくらでも起きるでしょう」(芸能班記者)

 乗せる制作側が悪いのか、乗せられるタレントが悪いのかは判断が分かれるだろうが、一度でも炎上すれば芸能人生はジ・エンド。その場でもウケても、発言が永久に取り消せないことだけは肝に銘じておいたほうがよさそうだ。

そういうことなんでしょうね。拙記事で、次のような識者の発言を引用しました。

>なかでも気をつけたいのは、知っている人の多いところと、めったに行かない自分にとってのアウェー。「クスっと笑わせたい」「何とか打ち解けたい」という気持ちから、ポロっと失言してしまいがちなのです。例えば、「スピーチ中、旧知の顔が何人か見えて、つい悪ノリしてしまった」という失言。また、塚田国交副大臣が北九州で失言したのも、「地方で面白おかしく話そうとしたから」という一面がありそうです。

その記事でも書いたように、彼女は初の全国放送出演にかなり張り切ったので、「東京で面白おかしく話そう」と考えてあんなことを話したのでしょう。馬鹿にもほどがあります。ご当人の不徳の致すところです。

それから1年たって、彼女も正直福岡を出たいでしょうが、上にも書いたように彼女に興味を持つ芸能プロダクションがあるかどうかもあやしい。あるかもしれませんが、肩身の狭い思いをするのは間違いないところです。ほんと、上のテレビ番組の出演は、彼女にとって最大のチャンスであり、最大の挫折ということになってしまいました。映画『泰造』に出演した俳優のようなものです。

同じ役を演じた俳優2人のあまりの落差にちょっと驚く(追記あり)

前に記事にした岡本早生という人の演技を、意識してとしては初めて観た(1983年の時代劇で、のちに映画で共演した小林桂樹主演のドラマに登場していた)

これも前の記事で書いたことの繰り返しになりますが、(元)観光親善大使が、実は自分は、その街をあんまり好きでないなんて話すのを聞かされたって、たいていの視聴者は不快に思うだけだと思いますが、収録中の彼女は、そんなことも気にならないくらいの精神状態だったんでしょうね。それもどうかです。

なお上の写真は、所属事務所HPからのスクリーンショットです。

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北京・天津紀行(2014年12月~2015年1月)(45)

2020-06-28 00:00:00 | 旅(中国本土ー広州・深圳以外)

だだっ広い敷地に、でかい建物がぎっしりです。

保証金なしでガイドを貸してくれるそうです。私は借りませんでしたが、今にしてみれば借りたほうがよかったか。

太和門です。

抜けると、太和殿です。

繰り返しますが、ほんとだだっ広い敷地です。

記念写真を撮る人多数。

もちろん私も撮っていただきます。私は、このような写真を他人に頼む場合、なるべく若いカップルに頼むようにしています。すると、わりと快く撮ってくれます。だいたい男性が取るわけで、やはり女の子の前で断るのはかっこ悪いというところもあるのかもです。

では上がります。

なかなかいいですね。

動物の彫刻もすごい。

朝鮮の建築物も、このようなところは緑で塗装されているわけで、やはり中国の影響何ですかね?

なんだかすごいものがたくさんあるので、正直ちょっとやそっとのものを観ても不感症になっています。

(つづく)

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北京・天津紀行(2014年12月~2015年1月)(44)

2020-06-27 00:00:00 | 旅(中国本土ー広州・深圳以外)

北京の街を散策します。

銀行で両替をします。

レストランで昼食を食べます。

やはり鶏はうまい。

麺もいただきます。

スターバックスでも休みます。なおこの旅行でやたらダークモカチップフラペチーノのヴェンティを注文したので、それにはまってしまいました。

日本でも、白熊の登場するコカコーラの自動販売機などを見かけます。

天安門に到着します。

やはり白熊の広告がありました。

では故宮に向かいます。

やはり警備が厳重ですから、私も緊張します。

天気がきわめていい日でした。

毎度おなじみの構図ですかね。

たくさんの人が記念写真を撮ります。

私も写してもらいました。

入場します。

やはり外国人が多いわけです。私も、女性の写真は逃せません。

(つづく)

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アルコール依存症で人生つぶした人間多し

2020-06-26 00:00:00 | Weblog

inti-solさんがこんな記事を書いていらっしゃいました。

酒は万病のもと

その記事中では、アルコール依存症で早逝あるいは最後寝たきりになった人間が4人紹介されていて、赤塚不二夫、中川昭一、春一番、横山やすしでした。

inti-solさん同様私も「春一番」という人物は知りませんが、赤塚、中川、横山といった人たちは、ひどい依存症で有名でした。中川、横山は仕事でひどい不祥事を起こしたり飲酒の交通事犯(横山)などがあり、選挙で落選、所属事務所から契約を解除され、2人とも若くして亡くなりました。赤塚も、記事中引用されている元記事では、

>晩年、急性硬膜下血腫で入院したとのこと。血を固める凝固因子は肝臓で作られるので、肝臓が悪くなると、頭を打った程度でも血が止まらなくなるんです

とあります。赤塚は、依存症治療で入院してその退院後のインタビューでグラスを傾けるといったことまでしており、これは彼なりのサービスだったのでしょうが、そんなことが「サービス」になっちゃうくらい、彼のアルコール依存はひどいものだったのでしょう。

そのコメント欄で私、およびinti-solさんとで、やはりアルコール依存で命を縮めた可能性のある著名人として、石原裕次郎、美空ひばり、江利チエミ、田中角栄らの名前を指摘しています。詳述は避けますが、裕次郎はひどい大酒飲みでした。50代で肝細胞ガンで亡くなった彼は、肝炎→肝硬変→肝細胞ガンというコースをたどったのでしょう。本来なら奥さん、母親、兄、側近、渡哲也ほかが注意しなければいけなかったのでしょうが、あるいはしたのかもですが、裕次郎は話を聞かなかったし自分でもやめることができなかったのだと思います。

それでinti-solさんは次のようにお書きになっています。

>よく言われるのは、アルコール依存のある一線を超えると、「底付き体験」をしないと本気で治療に向き合わない人が多い、ということです。つまり家族に捨てられ仕事も失い、酒を買うお金すらない、という状況になって初めて本気で治療に向き合う、というのです(ただし、異論もあります)。ここに名が挙げられている人たちは、完全に家族に家族に見捨てられることも仕事を完全に失ったりお金がまったくなくなったりすることもありませんでしたから、「底付き体験」に至る前に生命の方が底をついてしまった、ということなのでしょう。
ただ、私自身の経験に基づいていうと、「底付き体験」ですべてを失っていても、まだ治療には向き合えない人も少なくありません。

それで私が思い出したのが、前に記事を書いた人のことです。

これも、大金を稼いだ人がくだらん散財で財産を失う典型だと思う(複数の追記あり)

ちょっと正直絶望的な気分になってしまった(元予備校講師である佐藤忠志氏の死について)(10月9日発表)

inti-solさんは上の続きで、

>そうなると、あとはもう死ぬしかないのですが、そういう状況に至っている人は、肉体的な生命という意味では「まだ」生きていても、社会生活能力という意味ではすでに「ご臨終」状態になっていたりします。いや、ほんとにね、手の施しようがない人というのはいるのです。
アルコール依存から脱却するための自助グループがいろいろありますが、そういうところに通いながら飲酒が絶てない(本人はなかなか認めないけれど)人もいます。そういう人はいったいどうしたらいいんだろうかと、自助グループに聞いてみたことがありますが、回答はいたって簡単でした。「どうしようもありません」と。そんな人は大勢いる、というようなことも聞いた記憶があります。アルコール依存からの脱却の最前線にいる人たちからその言葉を聞いたとき、「ああ、一線を越えたアルコール依存は本当にどうにもならないんだな」と痛感しました。

と書いています。2018年7月の時点で、佐藤忠志氏は、

>朝からビール飲んでますよ。

>取材場所は都内にある先生の自宅。室内は確かに荒れ、途切れることのないたばこの灰皿は吸殻が山盛りに埋め尽くされていた。

といった感じであり、死が間近だった昨年8月末の段階では、

>口にするのは近所のコンビニで売られている格安のカップ焼酎と、タバコだけ。息も絶え絶えの様子で焼酎をあおり、ゴホゴホとむせる。

というありさまだったわけです。金がなくて困っていた彼は1億円で車(超高級クラシックカー)を買って奥さんが激怒、(ご当人は否定していますが)DVをして奥さんから逃げられ、その2~3年後には100円を近所に借り歩くような状態になり、生活保護を受給、それからまもなく亡くなったわけです。

その1億円というのも、(たぶん見るに見かねた)知人が、住み続けていいという条件で自宅を買い取ってくれたものだったわけで、そんなものでクラッシックカ―なんか買ってあんたどんだけ馬鹿なんだよと思いますが、ご当人たぶんアルコール依存、ニコチン依存などのほかに、浪費依存(買物依存?)みたいなものもあったんでしょうね。どう見てもinti-solさんのいう

>底付き体験

だと思うんですが、ご当人はそこから入院なり金銭管理を全面的に他人にゆだねるといったこともできずに

>あとはもう死ぬしかないのですが、そういう状況に至っている人は、肉体的な生命という意味では「まだ」生きていても、社会生活能力という意味ではすでに「ご臨終」状態になっていたりします。いや、ほんとにね、手の施しようがない人というのはいるのです。

ということになったわけです。

いやはや、こうなってしまうと本当にどうにもなりませんね。佐藤氏だって、亡くなる前からずいぶん長く無職だったようですが、でも破格の条件で家を買い取ってくれたり、また教え子が医者になったりして彼を心配してくれたり手を差し伸べてくれる人間はそれなりにいたわけです。しかし残念ながらそういった人間関係を活用できず、生活保護受給→孤独死といったことになってしまったわけです。

佐藤氏の場合、酒で身を崩したというより浪費癖のほうが致命的だったのかもですが、でも朝からビールや焼酎を飲むような生活をしていなければ、たぶん彼は私がこの記事を書いている現在(いま)でもまだ生きているのでしょうから、やはり酒おそるべしですね。私は大酒飲みではありませんが、それでもビールは嫌いではありません。日本酒、焼酎、ウイスキーほかは、宴会か旅行に行かなければ飲みませんが(しかししょっちゅう旅行に行っているのも事実です。最近はさすがにそうはいきませんが)、しかしこれもビールほどではないにしても嫌いではない(バーボンウイスキーは、学生時代に1本1日で空けて翌日地獄だったので、いまだに嫌いです)。私は、神から甘いものか酒のどちらかをやめろと命じられたら、はい、では酒をやめますと即答する人間なので、最終的には酒をそんなに好きな人間ではないのでしょうが、可能であれば死ぬまで酒は多少なりとも飲んでいたいとは思います。やはり国内外を問わず、地元のビールを飲むときの喜びは何ものにも代えがたい。

というわけで酒を飲まない人には関係ないかもですが、酒を飲む読者の皆さま、アルコール依存症にはならず、死ぬまで酒を適度に楽しみましょう。またこの記事は、引用したinti-solさんの記事を参考にしました。感謝を申し上げます。

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封印されていた『ノストラダムスの大予言』のDVD(イタリア版)を入手した

2020-06-25 00:00:00 | 映画

先日こんな記事を書きました。

封印されている『ウルトラセブン』第12話での、友里アンヌ隊員(菱見百合子(現・ひし美ゆり子))の私服姿をご紹介

その記事の中で、

>それで封印作品といえば、おそらく日本で一番有名といっても過言でない封印作品が、『ウルトラセブン』の第12話かと思います。

と書きましたが、これと並んでもっとも知名度の高い封印作品が、たぶん『ノストラダムスの大予言』かと思います。1974年発表の東宝映画で、舛田利雄監督、丹波哲郎主演です。

この映画もいろいろあって(詳細は、Wikipediaを参照してください)公開中に一部カット、その後1980年にテレビ放送されましたが、ソフト化もされず、今日に至っています。東宝は、昔はこの映画を書籍などで扱うことには特に問題視していなかったのですが、20世紀末ごろからこれもNGになった模様です。

ただ、海外ではソフト化がされていました。米国でもVHSやLDで発売されました。日本のAmazonでも買えます。ただし価格はお高め。

で、これがイタリアで(なぜか)発売されたのです。イタリアAmazonにリンク

PAL版なので日本の一般のDVDデッキでは再生できませんが(PCならPAL設定することにより鑑賞可能?)、いずれにせよ海外通販でDVDを入手できるわけです。私はたまたまこちらのブログさんでそれを知りました。

「ノストラダムスの大予言(Catastrofe)」イタリア盤DVDが届いたので記念写真--日本公開版(日本語音声)収録/Catastrofe/Prophecies of Nostradamus/Last Days of Planet Earth/1974年 東宝特撮映画 

さがすとほかでもいろいろなサイトでこれが紹介されていました。それでこれは手に入れたいと思ったのですが、はたして米国Amazon以外では海外通販もあんまりした記憶がないのでどんなもんかいなと考えていましたら、ネットオークションや某巨大通販サイト、某ネットフリーマーケットアプリなどを確認しところ、どこでとは言いませんが、納得できる価格での販売があったので、さっそく購入にいたったわけです。

イタリア版は11.48ユーロで、昨今のレートでは1400円にも満たない額ですが、送料や安心料(?)、売る人の手数料ほかが足されて、実際にはそれよりもだいぶ高くなっています。特に海外でこんなものを買う人は相当な好事家でしょうが、日本ではやはり自国の映画ですから買いたい人が多いようで、人気は高いようです。まあそのあたりは、買いたい人は自分の納得できる価格ならそういったところを介して買えばいいし、価格絶対優先なら、自分で直接通販サイトで購入すればいいでしょう。

それで過日拙宅にこれが届きました。このDVDがいいのは、イタリア語吹替版のほかに、上のブログ記事の題名にもあるように日本語音声の日本公開版も特典版として収録されていることです。どうもこれ、かなり日本の消費者を意識したものではないかなと思います。わかりませんが。

拙宅には、PALを観られるDVD再生機がないので(前はあったのですが、使いすぎて壊れました)まだ観ていないのですが、ご紹介した記事ほかのサイトでも指摘されていますように、画質はよくないようですね。それは、今後きれいな画質(ニュープリント、リマスタリングされているなら言うことなし)で観ることができればそれに越したことはありません。が、やはり東宝はこの映画についても相当公開を嫌がっているので、ウルトラセブンの12話ほどではないにしても、日本での正規ソフトの販売はちょっと難しいかなと思います。

観てみて面白かったらまた記事にしますので乞うご期待。また「ウルトラセブン」のソフトの関係でも耳寄りな情報をお伝えしたいと思います。

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島田叡沖縄県知事の前任者である泉守紀についての本を読んでみたい

2020-06-24 00:00:00 | 書評ほか書籍関係

6月下旬に何回か沖縄戦関係の記事を書いていますが、今回はこちらの本に注目したいと思います。

汚名―第二十六代沖縄県知事 泉守紀

沖縄戦当時、沖縄県の官選知事(最後の官選知事でした)は、島田叡でした。内務官僚だった島田は、当時は大阪府の内政部長でしたが、前任の泉守紀が東京に出張として滞在していて、新沖縄県知事としての打診を1945年1月10日に受けました。沖縄に米軍が上陸することは確実と考えられていたので、沖縄に知事として赴任することは非常に危険でしたが、彼はこれを受託、沖縄に飛びます。

島田は、当時悪化していた沖縄県と軍の関係の改善に努めます。4月に米軍が上陸した後壕を転々としますが、たぶん6月末ごろに沖縄のどこかで死亡します。死体も未発見ですので、死因他も不明です。この時は、警察部長だった荒井退造も一緒だったと思われます。彼は、夜学で苦学して高等試験に受かっているので、知事の島田より1年年上でした。

世間では、泉を「死ぬのがこわくて逃げた」と厳しく批判し、島田は「それに対して」と高い評価です。そのような評価になるのは仕方ないところでしょうが、ただ泉に対するそのような評価については問題も多いと指摘する本もあります。それが上の本です。

読んでいないので(これから読む予定)、この本、およびその記述に対する私の感想は現段階書けませんが、彼のWikipedia  によれば

>野里洋は、転出工作は事実だが、泉なりに県民の生活や生命を守る職責には取り組んでおり、転任実現も本人の希望が容れられたというより、軍との協力円滑化のための措置であったとの仮説を、著書の『汚名』で提示している。野里は、古井喜実(内務次官)ら元内務省関係者などからの聞き取りを行い、「逃亡行為は懲戒免職に値する行為で、他県の知事に任命されるようなことはありえない」旨の証言を得ている。そして、泉と第三十二軍司令部の不仲は内務省や大本営でも把握されており、本土決戦に向けた体制作りの観点から、軍に協力的な知事との更迭が図られた可能性が高いとする。野里は、対立継続の場合には軍が戒厳令を発するおそれがあり、内務省にとっては行政権を確保し続けるためという省益に関わる面もあったと指摘する。転任のタイミングが沖縄戦直前だったことについては、野里の調査によると、すでに知事更迭の方針は早くから内定していたものの、後任が決まらずにずれ込んでいただけであるという。

とのこと(注釈の番号は削除)。

上のような評価が「泉に甘すぎる」「事実と違う」かどうかは当方判断できませんが、多分に島田への高評価というのは、泉の低評価と表裏一体なわけです。コインの裏表というものでしょう。島田は県(行政)と軍の関係を改善しましたが、それが果たして住民保護にどれくらいつながったかということも考えた方がいいかもしれません。いや、そういうことを言うのなら、住民疎開などにもあまり積極的でなかったという泉流の態度が住民保護につながったかというとそうでもなさそうですが、つまりは泉という人は、軍隊に対しても物を言う人間だったわけです。それに対して島田は、少なくとも泉ほど軍に敵対的な人間ではなかった。いわば使い勝手のいい知事だったわけで、そのあたり島田はどう考えていたのかなと思います。島田がそのようなことを認識していなかったとは思えないし、またそれを「仕方ない」「彼はやるべきことはやった」といって免責するには、沖縄戦ではあまりに多数の住民が死んでしまったわけです。前に記事にした林博史氏の見解も、そういうことでしょう。

この本で沖縄戦を勉強したい

上の本を読むことでそのような疑問について何らかの示唆が得られるか定かでありませんが、やはりいろいろな観点から沖縄戦についても学んでいきたいと考えます。沖縄はまさに戦争中捨て石の存在でしたが、その捨て石の場所に本土から一種の植民地総督のような位置付けでもあった沖縄県知事に就任した2人の内務官僚について勉強していくことにより、まさに捨て石の中の捨て石だった第32軍についてもより深く理解したいと思います。

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政治部長が早期退職したのだから、産経の経営の悪さも相当なものだ

2020-06-23 00:00:00 | 社会時評

bogus-simotukareさんの記事を読んでいて、「おや」と思うことがあったのでちょっと記事を書いてみます。引用は、櫻井よしこの記事から。

>元産経新聞政治部長の石橋文登氏が5月22日、インターネット配信の「言論テレビ」で核心を突くコメントをした。

いくら退職したとはいえ、(そしていくら産経新聞とはいえ)全国紙の政治部長経験者が「言論テレビ」なんていう極右メディアに登場するなんてこと自体正気の沙汰ではありませんが、それはともかく、私が注目したいのが

>元産経新聞政治部長

というところです。石橋は、まだ定年になる年齢ではないはず。それでbogus-simotukareさんが、次のような注釈をつけていました。

福島香織同様「早期希望退職」に応じて産経を退職したようです。

私も、石橋が産経新聞をやめたらしいことには気づいていましたが、早期退職かどうかなんてことは特に気にしませんでした。正直そんなに興味のあるわけでもないので。確信的極右デマ嘘つき野郎とは思っていましたが、産経新聞にはそんな人間ごろごろしています。

が、あらためて考えるに、全国紙で政治部長をつとめた人物が、早期退職に応じて新聞社を退社するというのはすごいですね。筑紫哲也が朝日新聞からTBSに移った(彼は政治部長ではありませんが)、鳥越俊太郎が毎日新聞からテレビ朝日に移った(彼も同じです)とかみたいに、よりギャラがよく自分の番組を持てるといった好条件なら移動してもいいですが、石橋なんて人物にそんな才覚もないでしょう。事実フジテレビの「バイキング」あたりにコメンテイターで登場しているみたいですが(こういう野郎を食わしてあげるのだから、フジテレビもひどいところです(苦笑))、そんなに華々しい活躍をしているわけではもちろんない。そしてそのような番組でも基本彼は、安倍礼賛みたいな発言に終始しているようですから、産経新聞ではできなかった言論活動をいましているというものでもない。

けっきょく産経新聞の先行きに絶望したのでしょうね。今ならまだ退職金が出るが、自分が定年になったころはもう難しいという考えがあったのだろうと思います。それでさっそく検索してみたところ、次のような記事が見つかりました。昨年6月初めの記事です。

産経が心配だ。赤字幅は前期の4倍以上。

>昨年から希望退職を募っていたが、180人の募集に対し200人を超す応募があったという。ぼくが親しい永田町の黒シャツこと石橋文登政治部長もやめてしまった。現役の政治部長が希望退職なんて前例があるまい。

筆者の花田紀凱は極右ですからもちろん事態を心配、私はゲラゲラ笑っているという違いはありますが、認識は変わりません。現職の政治部長の希望退職なんて、聞いたこともない。やはり相当産経の経営は悪いということです。花田記事には、次のような指摘もあります。

>売上高は前期比4・9%減、東日本大震災直後の23年3月期以来の大幅な減少。会社の実態を映し出す管理損益は10億8400万円の赤字。前期は2億5700万円の赤字だったから、赤字幅が4倍位以上に膨らんだことになる。本業の儲けを示す営業損益は30年ぶりに赤字。

このままですと、本当に倒産、経営の行きづまり、フジテレビかどこかの最終的買収、というのも現実味がありそうですね。いや、前っから産経なんてまともな経営がされていたわけではないですが。なにしろ阿比留瑠比など2007年の時点で

>最近は同僚と一杯やると「会社はあと何年もつのか」という話題になることが多く、だれも明るい見通しを示せないもので。

書いていたくらいです(現在は、その記事を書いたブログは削除された模様。どこかに転載されているかは未確認)。それから13年たって、新聞業界じたい斜陽産業ですが、産経はさらにひどいとしか言いようがないでしょう。なにしろ首相の安倍晋三がフジ・メディア・ホールディングスのトップである日枝久に、産経を助けてやってくれとお願いしたなんて記事まで流れる始末です。

けっきょく安倍晋三が首相であり続けること自体がこの連中の利権になっているのだから、お話にもならない

しかしフジが産経を連結子会社化すれば、フジテレビの株価は暴落すると予想されますので、それって完全な背任じゃんという気はします。どんだけ愚劣なんだかと心底からうんざりします。

今回の記事は、bogus-simotukareさんの記事からヒントをいただきました。感謝を申し上げます。

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不定期連載:普通自動二輪免許取得記(11)(卒業検定1回目)

2020-06-22 00:00:00 | 自動二輪免許取得(普通自動二輪編)

いよいよ卒業検定(卒検)当日です。カバンに印鑑を入れ、朝食。支度をし、教習所へ向かいます。8時30分ごろ到着しました。老人が教習所周辺にたむろっていたので、今日は老人教習の日だとわかりました。老人の多い教習所は、普段と雰囲気が違います。受付で手続きをします。証紙代を払い込んで、地図をもらいます。今日はAコース、Bコースのうちの後者でした。地図とにらめっこします今日は昨日の雨がのこっているので、急制動が14mで良いというのも幸運なところか。ひたすら地図を見ます。ネット中毒(じゃなくて今は「依存症」か)の私もさすがにスマートフォンを見る気になりませんでした。徐々に検定を受ける人たちが集まります(ラミネート加工された地図を持っているのでわかる)。あとはご老体でした。

9時過ぎになって呼ばれます。控え所に歩いていきます。防具ほか着用の指示。今日の検定の主任は、Nさんという中年の男性でした。腹は出ていますが、運動とかは得意そうです。今日は、大型1人、虫型4人でした。全員男の人です。ビブスを配られる。私は、中型のゼッケン2。N氏が、いろいろ説明してくれます。やはり制動は14mとのこと。それで急制動が40km未満だった際は、1回はやり直しOKといいます。あと40km出すときは、前にゆっくり走っている車があれば無理して出すなとも言われましたこの時はあまりかけいなかったのですが、のちに大型自動二輪の卒業検定の時、これがけっこう問題となりました。。あともう1人若い人との2人で検定するといいます。その人(名前未確認)が来ます。お手洗いに行ったら、指導員のH氏とすれ違い、あいさつします。彼にもいろいろ世話になりました。一番印象に残った指導員が彼だったかな。なお私が指導を受けた指導員はみな男性でしたが、普通自動二輪では、この教習所には1人女性の指導員がいました。大型は、いませんでした。

それで、発着点に行き、急制動のところを再確認します。水が溜まっています。それもどうかです。5人で発着点へ。まず大型の人。ブオーンと走っていく。なるほど、大型の人は、運転も安定していると思います。スラロームや一本橋も無難にこなしていた。その人が終わらないうちに、次の人。中型の1番です。この人も無難に走り、無難にやっているように見えました。お年寄りの検定受験者が、だれがバイクを片付けるのかということを再確認していた。すると次が私と思っていたが、ゼッケン4番の若い人でした。乗っていったが、しばらくして「大丈夫か」というような声が聞こえたのでダメだったのかなと思いました。その後一本橋も落ちていて、動揺していたのだろうと思いました。

次が私。ミラーをチェックし、後ろも確認し、スタート。40kmの指定速度はOK。クランクもできました。踏切はよかった。そのあとスラロームはゆっくりだったがなんとか。最大の難関である一本橋は、どうかなと思ったが、何とかわたりきれました。そのあと右折右折で、また周回コースに入りますが、この辺りでややギアがうまく入らなくなりました。緊張していたらしい。右折するが、車が近くを通ったので、これはまずかったと思います。急制動は、なんとかできた。S字カーブは、ややギアの選択に難があったような気がしましたが、これもなんとかクリアします。坂道発進は、これも冷静さを保ちながらなんとかできます。でもエンジン音が大きすぎたか。それで一時停止もややスムーズさに欠けたか。あとは周回を走り、発着点へ。決定的なミスはなかったが、果てどんなもんかいなという気はしました。まあ何とかなったかもという気がします。

控え所に戻り、防具ほかをはずします。4番の人が1人座っていて、ちょっと会話します。そうは見えませんが、彼は16歳で、クランクで転んでダメだったという。どうでしたかと聞かれたので、決定的なミスはなかったと思うという話をしたら、じゃあ大丈夫ですよと言ってくれました。ともかくロビーへ向かいます。今度はiPhoneでネットを見ます。それで合格者の発表があり、奥のほうへ集められます。ちょっと緊張。この時は、何とかなるんじゃないかと思っていましたが、大型の人と中型は最初に走った人以外不合格でした。つまり私も不合格です。残念でした。それで私の講評は、確認がよくないということに尽きました。ああ、やっぱりそうかというところです。残念ですが、やはり私の一番の弱点がでてしまった感があります。。スラロームは8.1秒、一本橋は7.1秒とのことだったので、一本橋は聞い準をクリアしたことになります。スラロームは0.1秒の遅れです。この辺り難しいなと思います。

落ち込んでばかりもいられませんから、しょうがないのでさっそく次の教習(補習)の予約、2日後の18:10から。それで来週の同じ曜日にまた検定をすることとします。本来なら今日補習して次の検定日に受けたいくらいですが、仕事の都合でそれはできません。その次の検定の日も仕事で不可なのが痛いところです。受かったら、事務の女性とハイタッチでもしたかったんですけどね(苦笑)。コロナ騒動の昨今ではそんなのまったくだめですが、当時はそんなのんきなことを考えられたわけです。それはともかく、空いている枠に飛びつきます。いくつか予定を調整しないといけませんが、これは仕方ないところです。精神的な勢いも大事です。次回の補習では、やはり確認を復習しないとだと心に誓います。

(つづく)

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北京・天津紀行(2014年12月~2015年1月)(43)

2020-06-21 00:00:00 | 旅(中国本土ー広州・深圳以外)

では、北京紀行を再開します。当分旅行記は北京ということで。

今日でこのホテルはチェックアウトします。次は、もう少しお高めのホテルに移動です。ただこのホテル、実際にはホステルですが、悪くない宿でした。安いし掃除もちゃんとしてくれます。読者にもおすすめします。もっとも現在営業しているかどうかは確認していないし、そもそも2014年12月の評価が今日通用するかも定かでありませんし、どっちみちこのご時世では当分北京には行けません。なおこの日が2014年最後の日です。明日から2015年です。

今日は故宮を見学する所存です。が、その前に朝食を食べに行きます。

私は食べませんでしたが、このようなところで買い食いするのも悪くなさそうです。

本日から泊る予定のホテルのレストランの飲茶がうまいという情報を仕入れたので、そこで食事することにします。

さすがに外資系ホテルなので、なかなかいい雰囲気です。

注文したものが出されます。

最後はエッグタルトで締めます。どれも飲茶の主流、王道ですかね。

アコーホテルズの中では、イビス に泊ることが多く、ソフィテル などはなかなか泊まるにいたりませんが、ノボテル はたまには泊ります。

また宿泊先に戻ります。

自転車も、2014年の時点でも、だいぶ良い品質になったような気がします。

右のでかい広告は、やっぱり中国らしいなという気がします。

チェックアウトをします。こういう宿に泊まるのもなかなかいいなと思います。

こういった胡同も、どんどん壊されていきます。再開発とは、私のような旅行者にとっては敵です。つまらなくてしょうがない。

なかなかいい建物です。

さらに歩きます。

(つづく)

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