非国民通信

未来なんてあるわけがない

相変わらずの毎日

2012-02-12 11:21:01 | 社会

特集ワイド:日本よ!悲しみを越えて 作家・玄侑宗久さん(毎日新聞)

 「福島県民の間で、いくつもの心の分裂が深刻化している」と言う。放射能から逃れるため福島から出る、出ない。残ったとしても地元の米や野菜を食べる、食べない。子どもに食べさせる、食べさせない。それらはまるで「踏み絵」のような苦痛を伴う。
 
 「放射能の問題は、結局精神的な問題になってしまっています。年間100ミリシーベルト以下の低線量被ばくについては健康被害を示す明確なデータがない。現代人は分からないことに向き合うのが苦手ですからどちらかに分類したがり、その結果二つの極端な立場が生まれた。放射線は少なければ少ない方がよいと考える悲観的立場と、塩分などと同様に放射線も適量ならば体にいいという楽観的立場です。どちらも医学的には証明が難しいため、信仰に近い様相を呈しています」

 「放射能の問題は、結局精神的な問題になってしまっています」というのは実態をよく言い表しているのでしょうし、時に興味深い指摘も垣間見えるのですが、毎日新聞掲載らしく奇怪な主張も目立つのが惜しまれるところです。以前に触れた、やはり毎日新聞掲載の斎藤環氏のコラムでもそうでしたけれど(参考)、あまりに不正確な理解に関しては垂れ流しにせず、注釈の一つも付けるなりした方が良いように思います。そうしないと読者に誤解を広めるばかり、玄侑氏の指摘する「精神的な問題」を深刻化させるばかりですから。

 さて、玄侑氏によると「放射線は少なければ少ない方がよいと考える悲観的立場と、塩分などと同様に放射線も適量ならば体にいいという楽観的立場」が生まれたそうです。適量ならば体に良いという「楽観的立場」なるものは、まぁ昔から温泉周りなどで健康増進効果に箔を付けるべく言われてきたこともありましたけれど、むしろ昨今はナリを潜めてしまったのではないでしょうかね。そんなことを主張すれば、袋叩きにされるのが目に見えていますから。もちろんホルミシス効果と呼ばれ、実地レベルでは観測データと合致することも珍しくない説ではありますが、少なくとも新たに生まれたものでもなければ二項対立の一方として盛り上がるような代物ではないわけです。

 実際のところは「どんなに微量でも深刻な害がある」とするエセ科学派と、「少なければ少ない方がよいが、放射線だけではなく他のリスクとの兼ね合いで最適な対策を探るべき」とするICRP派の対立と見るべきでしょう。確かに二つの立場からの対立は顕著と言えますが、放射線量は低い方が望ましいという点では概ね世間の一致を見ている、放射線は微量でも量に応じて負の影響があるとするLNT仮説が正しいと考える人は必ずしも多くないにせよ(実例としてはホルミシス仮説の方がむしろ当てはまりやすいくらいですから)、それでもLNT仮説を前提として放射線防護に当たるというのが国際的なコンセンサスでもあります。ただし、放射線「だけ」を際限なく問題とするのか、住民の生活など放射線「以外」のことも考えるのか、そこに違いがあるだけです。

 先日にも触れたことですが、原発推進派なんてのもまた昨今はナリを潜めてしまったわけです。今、原発推進を口にするのは非常に勇気のいること、政治家や芸能人などの人気商売ともなれば尚更のことで、反原発の流行に乗り遅れまいとする人ばかりなのも致し方ありません。では、原発に反対する人が目の敵にしているのは誰なのか? それは反原発論者が誇張する原発/放射能の脅威に対して「そこまで影響はないよ」「その測定方法は誤りだよ」と科学的な説明をするエセ科学批判者であったり、節電のしわ寄せを受ける工場(で働く人)への影響や経済への影響を慮る人など脱原発が第一「ではない」人々だったりします。もはや原発を巡る対立と言うより「知」やバランス感覚の問題という気がしないでもありません。でも、排外主義者が自分の世界観に合わない人を片っ端から「反日」と呼ぶように、ある種の反原発論者にとって原発/放射能の脅威を煽るのに協力的でない人は誰でも「原発推進派」なのでしょう。

 

東日本大震災:暮らしどうなる? 福島の母親、悩み尽きず 東京の医師らが「こども健康相談会」(毎日新聞)

 母子家庭で、3人の子を一人で育てている。県外に避難したいと考えたが、子どもに合う学校を探し、住まいや職場も一度に決めなければならない。仕事は簡単に見つからず、経済的に引っ越す余裕もない。悩んだ末に昨秋、福島でやっていこうと決めたという。
 
 中学3年生の長女は昨年10月、吐き気が1カ月以上続いたため、市内のかかりつけの小児科を受診した。
 
 「放射能の影響かと心配なんですが」と女性が切り出したとたん、医師は顔色を変え、「放射能と関係ないですから」と否定した。長女の学校の担任からも「お母さんが放射能を気にするから、子どもに影響が出るんじゃないですか」と言われていた。「私には相談する場所はないんだ」。孤立感を感じた。悩みを抱え込み口に出せないのが「一番きつい」と女性は言う。
 
 昨年11月。女性は市内の任意団体「市民放射能測定所」で、3人の子がどの程度、内部被ばくしているのかをホールボディーカウンターで調べた。放射性セシウム134と137の数値が記された結果表が届き、測定所のスタッフに聞いてみると、「平均値より低めです」と言われた。しかし高線量地域に住み続ける以上、継続的な測定が必要。また日常生活で浴びた放射線を少しでも減らす工夫が必要だ。この日、医師からは「帰宅したら、シャワーを浴びて放射性物質を洗い流して」と助言された。
 
 シャワーについては「めんどうくさい」と長女が渋っており、当面の課題になりそうだ。長女の吐き気は、前回11月の相談会で医師が、きちんと話を聞いてくれたという。「原因は分からなかった。でも、受け止めてもらえただけでもよかった」。女性は少しおおらかな気持ちになったという。

 後先を考えもせずに引っ越さなかっただけでも偉いとは思いますが、元より色々と余裕がないであろう母子家庭です、その母親がパニックを起こしているとあらば子供に加わるストレスも相当なものと推測されます。もちろん、吐き気などの症状が出るほどの放射線を浴びたのに適切な治療も受けなければ遠からず死んでしまいますので、11月になっても生きている以上は放射線の影響でないことが確定的に明らかです。少なくとも、かかりつけの小児科医は間違った診断をしていないことがわかります。しかるに、それでは母親が納得しない、母親は「放射能のせい」と言ってもらわないと落ち着かないわけです。これはまさしく「精神的な問題」と言えます。

 11月に診察した別の医師は「帰宅したら、シャワーを浴びて放射性物質を洗い流して」と助言したそうです。もちろん、今の福島で外出の度に放射性物質が付着して云々という状況は考えられません(もちろん検出限界を極限まで上げていけば0にはならないのでしょうけれど)。ただし「原因は分からなかった。でも、受け止めてもらえただけでもよかった」と、女性(=母親)は少しおおらかな気持ちになったと伝えられています。まぁ、この人の頭の中では結論(放射能のせい!)は出ているのではないかという気がしてなりませんが、ともあれ母親は少しだけ快方に向かったようです。必要もないのにシャワーを浴びさせられる子供は大変だなと思います。とはいえ、母親が心の安定を取り戻すことは子供にとっても重要ですから、それは必要なこと、子供が母親の療養のためにシャワーを浴びてみせるのも必要なことなのかも知れません。

 

 会場には、何を食べたらよいのかの栄養相談のコーナーも設けられた。月刊誌「食べもの通信」の編集者が応じ、長時間話し込む母親が多かった。
 
 最近、長女(9)がじんましんで入院したという福島市の女性(35)は約50分話し込んだ。病院でもじんましんの原因は分からなかったという。震災直後から関東と東北の食品は買わないようにしているが、手に入る野菜は少なく、栄養が偏るのではと悩んでいた。
 
 「近くの店のイチゴは福島産なので与えず、牛乳も飲ませていない。ジャガイモやタマネギは北海道産が手に入るけれど、レタスは県内産ばかり。豚肉はメキシコ、牛肉は豪州、サケはチリ産を食べている」。ホールボディーカウンターで内部被ばくを測りたいが申し込みが多く、希望はかなっていない。
 
 回答した編集者の松永真理子さんは▽旬の野菜や自然塩でミネラルをとる▽みそを常用し、食物繊維や水、麦茶をとって排せつしやすい体をつくる▽体を冷やさず早寝早起きし免疫力を高める−−ことを勧めている。「お母さんたちの相談はいつまでも終わらない。子どもの前では泣けない、という人もいた」と話す。

 で、ここで無批判に紹介されている「食べもの通信」という月刊誌、定期購読しているわけではありませんので何とも言いがたいですけれど、出版元のサイトを見る限りはエセ科学系のありがちな代物に見えます。こうした人々の説く怪しげな健康法が幅を利かせてしまうのは大いに懸念されるところで、回答した編集者によると「▽旬の野菜や自然塩でミネラルをとる▽みそを常用し、食物繊維や水、麦茶をとって排せつしやすい体をつくる▽体を冷やさず早寝早起きし免疫力を高める」云々とのこと。最後の一説はともかくとして、「自然塩でミネラル」とか「みそを常用」、「排せつしやすい体」などは、状況によって危険性があるように思います。

参考、「1日2杯の味噌汁が効く」は本当ですか?  放射能汚染のトンデモ科学に騙されないために(FOOCOM.NET)

 往々にして、パニックの中にいる人は極端な行動に走りがちです。自然塩と味噌を大量に子供に食べさせることも考えられます。塩分の摂りすぎによるガンのリスクは、放射線量に換算すると200ミリシーベルトから500ミリシーベルトに相当するようですが、放射能「だけ」を心配している人は、そんなことなど考慮しないでしょう。水や麦茶をがぶ飲みさせるかも知れませんし、牛乳は飲ませないとのことなので子供の栄養状況が尚更心配になります。むしろ教えるべきはチェルノブイリと福島における牛乳の違いの方ではないかと思うところですけれど、まぁそれでは納得してもらえないのでしょうね。

 福島市の女性(35)が感じたように、実は我々の身近にある食品は国産ばかり、地元産ばかりだったりします。世間で言われるほどの食糧自給率危機ではないように見えることでしょう。さんざん食料を外国に依存していると聞かされてきたのに、いざ県外産、国外産を探してみたら入手に困るというのですから。でも、心配はいりません。家畜の餌は輸入や県外産ばっかりです。家畜の餌が輸入品で、これを勘定に入れるから日本の食糧自給率が低くなると言うのはさておき、乳牛の食べる牧草が地元産である確率は高くないわけです。福島のメーカーがパックに詰めて売っている牛乳=福島の牧草を食べた牛から絞られたミルクではありません。この辺、チェルノブイリとは根本的に異なります。そもそも問題となり得る放射性ヨウ素は半減期が短く既に影響のないレベルに低減していますので、今さら牛乳を避けるというのも純粋に精神的なものでしかないと言えます。

 いずれにせよ、各種トンデモを無批判に垂れ流すばかりで、むしろ必要な情報の提供を躊躇うかのごときメディアの姿勢は大いに糾弾されてしかるべきです。子供を振り回す母親にしたって深刻ですけれど、彼女たちに怪しげな情報を吹き込んだのは誰なのか、そこは問われなければなりません。「(放射能のせいで)危険だ」とする主張にしか耳を傾けなくなってしまった人も少なくありませんが、そう思い込ませた人こそ純然たる「加害者」です。不安に怯え、孤立する母親に「対策をしないと(子供が)死ぬぞ、福島から逃げないと死ぬぞ」と暗に脅しをかけてきた人々の責任も、そろそろ考えられる必要があります。

 

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目次

2012-02-12 00:00:00 | 目次


なんだかもう、このカテゴリ分けが全く無意味になりつつあります……

社会       最終更新  2012/ 2/12

雇用・経済    最終更新  2012/ 2/ 5

政治       最終更新  2012/ 1/16

非国民通信社社説 最終更新  2012/ 1/ 6

文芸欄      最終更新  2011/ 6/24

編集雑記・小ネタ 最終更新  2011/12/31

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発電施設自体がゴミに……

2012-02-09 23:05:18 | 社会

10億円した「ごみ発電所」 1万円で持ってって(朝日新聞)

 鹿児島県いちき串木野市は1日、約10億円で建設したごみ発電施設「市来一般廃棄物利用エネルギーセンター」(停止中)の建物や設備などを最低売却価格1万円で売り出した。20日まで入札者を募っている。

 合併前の旧市来町が2004年に国の補助金を受けて建設した。一般ごみと食肉加工場の肉骨粉を混ぜたものを蒸し焼きにして発生したガスを使って発電し、余剰電力を九州電力に売電する計画だった。

 だが、ガスに混ざる不純物が原因でほとんど発電できず、会計検査院から「施設の審査が不十分で、計画通りに稼働していない」との指摘を受け、08年12月から稼働停止している。

 久しぶりに肉骨粉という単語を目にしました……社会から消えてなくならなくても報道からは消えてなくなるものって、よくありますよね。それはさておき、10億円で建設したごみ発電施設を最低売却価格1万円で売り出したそうです。維持費だけでも大赤字であろうことが容易に予想されますが、果たして買い手は付くのでしょうか? まぁ、ごみ発電施設の類は概ねこんなものなのかも知れません。これだって再生可能エネルギーの一つなのですが、昨年の3月ぐらいまでは無駄として槍玉に挙げられるばかりの代物だったわけです。それが原発事故後は一時的に持ち上げられる、計画通りの発電なんてほとんどできていないことなんて無視されて「脱原発への一歩」とか期待できそうな面だけ紹介される記事が紙面を飾るようになりました。なんだかなぁ、と原発事故前の報道を記憶に止めている身としては呆れるばかりでしたが、福島第一原発に遅れること数ヶ月にして朝日新聞記者の頭も冷えてきたのか、再びごみ発電施設の無駄っぷりが紙面を飾るようになったようです。ある意味、震災前に戻ったと言うことでしょうか、こういうところで少しだけ「復興」を感じないでもありません。もっとも記事で取り上げられた鹿児島を含めた西日本は、本来なら平常運転できていたはずなのですけれど。

 でもまぁ、もうちょっと頑張ったらどうかと思うところもあります。自治体の財政も厳しいであろう中、会計検査院からダメ出しを食らうとあっては存続も厳しいのでしょうけれど、そこはまぁ未来への種まきという視点も持って欲しいなと。ただ、今のご時世ですと「将来投資」では許されないのかも知れませんね。「今すぐ」役に立つとアピールしないと予算が下りない、ゆえに今回のゴミ発電施設も建設当初はバラ色の未来を喧伝してきたのではないでしょうか。これを立てればガンガン発電できて、ゴミ処理も捗る、電力売却で費用もすぐに回収できて一石二鳥だと、設備を売り込んだ人はそうアピールしてきたはずです。しかるに、フタを開けてみればご覧の有様、「施設の審査が不十分」とわずか4年で稼働停止に至ったわけです。

 こうなることは建設前からわかりそうなもの、むしろ最初から「簡単に発電できるものではないけれど、ゴミ処理とエネルギー供給の課題解決に向けた将来への布石として割高でも試してみましょう」みたいなノリでも良かったのではないかという気がします、気がしますが――これでは予算が下りないのが現実なのでしょう。だから初めに過大な宣伝があって、それに対する「期待はずれ」が次にくるのです。このサイクルこそ無駄だと言わざるを得ません。にも関わらず、原発事故後は尚更この手の無駄が発生しやすくなっているのではないかと危惧されるところです。水力、火力、原子力「以外」の発電手段に対する期待が現実から大きく乖離した形で膨らまされてきたわけですが、次は萎む番ですから。

 「今、頼れるもの」と「将来への投資」は分けて考えて欲しいな、と思います。いつか化ける可能性に賭けて「将来への投資」を進めることには反対しませんが、「将来への投資」を「今、頼れるもの」であるかのごとくに装った結果が招くのは、誰にとっても不幸なものにしかならないわけです。当てにならない発電手段ばかりを増やして電力供給の不安定化を招けばツケは国民が追わされるものでもありますし、誇大広告で建てた設備はいずれ無駄と呼ばれ、将来投資もろとも葬り去られることでしょう。このような未来を歓迎できる人は、どこにもいないはずです。

 

石原新党 保守色濃く 男系存続へ典範改正(産経新聞)

 東京都の石原慎太郎知事が、たちあがれ日本の平沼赳夫代表らとともに結成を目指す新党の基本政策の草案が2日、分かった。「国のかたち」「外交・防衛政策」「教育立国」など7分野で構成され、憲法9条改正や、男系存続のための皇室典範改正、首相公選制−を明記。保守色を前面に押し出した内容となる。

(中略)

 経済・財政政策は、100兆円規模の政府紙幣発行、国の財政の複式簿記化−など。エネルギー政策としては2040年までの原子力エネルギーゼロを掲げる。

 一方、石原慎太郎の動向が報道されています。たちあがれ日本の平沼赳夫と新党結成を目指すそうです。掲げられた政策的には、まぁ極右系の政治家としては概ね予測の範囲といった感じで今さら驚くようなものはありませんが、エネルギー政策としては2040年までの原子力エネルギーゼロを掲げるとか、この辺は石原も意外にヘタレだなぁと感じるところです。去年の春には自分は原発推進派だと公言していたはず、オカルトじみた反原発論者とエセ科学批判者(≠原発推進派)との対立が深まる中、原発推進派の姿は表舞台から完全に消えて久しいですが、この面の皮の厚い爺さんも例外ではなかったと言うことでしょうか。

 むしろ、この逆風の中で原発推進を堂々と訴え続けることができる人であるなら、それはそれで大したタマだとは思います。逆に、原発推進論者なのに世論に怯えて自説を隠すような人であれば、凡百のヘタレですね。どのみち脱原発は一種のトレンドとしてどこの政党も似たような主張を掲げているだけに、石原新党もまた埋没するであろうと予測します。

 かつて平沼赳夫が「たちあがれ日本」を結成したとき、私は一点だけ彼らを評価しました(参考)。メンバーが全員、高齢者だったことです。日本中どこでも似たようなものですが、とかく年をとっているだけで労害云々とネガティヴに扱われがち、とりわけ政治の世界では若いだけで期待されがちな時代であるにも関わらず、敢えて年寄りばかりで党を作った辺りに気骨を感じないでもなかったわけです(若い議員に相手にされなかっただけじゃないかというのはさておき)。「若さ」を前面に押し出せば、それだけで軽佻浮薄なメディアと有権者は好意的に評価するもの、にも関わらず爺様ばかりで党を作った辺りは一目置いてもいいかなと思いました。そして、これまた石原慎太郎という後期高齢者と手を組もうというのですから良い根性です。まぁ、その根性があっても原発問題に関しては衆に媚びている辺りがヘタレです。どうせなら、高齢者&原発という嫌われ者コンビでとんがって見たらどうかなと思ったりしますが、余計なお世話ですね。

 それはさておき、どこの政党が与党となるにせよ原子力エネルギーゼロというと、日本経済が壊滅状態に陥り、その結果として電力需要は激減、原発なしでもやっていける社会になるぐらいしか思いつきません。石原新党の場合は「2040年」と他の政党に比べれば長めのスパンで脱原発を説くようですが、上で書いたように「将来への投資」と「今、頼れるもの」を区別できているのかどうか。その辺はどこの政党も変わり映えがなさそうで、全くアテにできないレベルの発電手段をごり押しした挙げ句に電力不足を招き、いつの間にか将来投資も無駄扱いされ……みたいな未来しか見えてきません。むしろ脱原発「できなかった」場合のプランとかをしっかり持っている政党こそ待望されるところです。

 

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それは許してやって欲しい

2012-02-07 23:03:00 | 社会

大雪停車の乗客に期限切れ栄養食品配る…JR西(読売新聞)

 JR西日本は2日、大雪の影響でJR北陸線武生駅(福井県越前市)に停車していた特急の乗客に、賞味期限を1週間過ぎた栄養食品143箱(1箱2本入り)を配ったと発表した。

 一部の乗客は食べたが、体調不良などの報告はないという。

 同社によると、2日午前10時20分頃、和倉温泉発大阪行き特急「サンダーバード12号」(乗客約170人)が1時間遅れで同駅に到着。除雪作業で出発できなかったため、正午頃、駅員が災害に備え、備蓄していた栄養食品を配った。

 約40分後、賞味期限が1月26日だったことに同駅員が気付き、すでに出発していた特急が次に停車する敦賀駅に連絡。未開封の62箱を回収したが、81箱は乗客が食べた後だった。

 さて、相も変わらずダイヤ通りに動かないJRに悩まされる日々を送っているわけです。珍しく遅延理由がアナウンスされているかと思いきや、駅構内での説明と社内での説明が全く異なっていたりする辺り、遅延理由は各自が適当にでっち上げているのでしょうか。とりあえず、「後続列車が遅れているため、当駅で時間調整いたします」と電車を止めておきながら、その先の駅で「次の電車をご利用ください、電車続いて参ります」と言って利用者を騙すのはやめてください。

 それはさておき、北陸ではちょっと変わったことが起こったようです。電車が止まるのは普通のこととして、何でも栄養食品143箱を配ったとか。そして、賞味期限切れだったそうです。「(1箱2本入り)」と妙なディテールへの拘りを感じさせてくれる読売新聞の記事ですが、乗客約170人、配布143箱で食べられたのが81箱と細かく調べておきながら、「一部の乗客は食べた」との記載はいかがなものでしょう。170人中、81箱が食べられたのなら「一部の乗客」だけでは済まないように思われるのですけれど。

 何はともあれ、体調不良などの報告はないそうです。そりゃまぁ、賞味期限を1週間過ぎた程度で何かが起こるはずもないですよね。消費期限を1週間過ぎた刺身とかならいざ知らず、元々日持ちするように作ってある製品なのですから、たぶん賞味期限を半年くらい過ぎたとしても問題はないでしょう。概ね賞味期限の倍までは大丈夫という気がするというのはさておくにしても、そもそも賞味期限とは「美味しく食べられる期限」なわけです。期限を過ぎて風味が落ちていることはあっても、簡易的な栄養補給としての機能に変化はない、衛生面でも支障はないと考えられます。「味」を期待されるレストランでならいざ知らず、非常食という観点で見れば別に気にすることはないでしょう。

 でもまぁ、賞味期限を過ぎたらもう食べられないと、そう信じ込んでいる人って割と多いのかも知れませんね。確かに夏場の生ものとかは「消費」期限に気を遣う必要もありますけれど、賞味期限はそういうものではありませんし、むしろ保存状況の方に注意すべきところもあるはずです。にも関わらず、機械的に賞味期限の前か後かで判断している人って、割と私の周りにも多かった気がします。賞味期限内に食べようという心がけは悪くないのですが、賞味期限たった一日過ぎただけで危ないという判断は何とも乱暴だなと子供心に思ったものでした。別に時限式のスイッチを仕込んであるわけじゃないのですから……

 これと似たようなことが、昨今の放射線基準値についても言えるのかも知れません。どちらも余裕を持った値ですから賞味期限や基準値を超えたものを食べても特に心配するようなことではない、ただ賞味期限切れ、基準値越えの食品を普通に売り続けるとしたら問題ではないかと、こういうレベルで考えておけば余計なことに神経を磨り減らすこともないと言えますが、例によって機械的に基準値を超えたら危険だと、そう判断する人も少なからずいたわけです。仮に基準値を上回っていたとしても、そんなにたくさん食べる食品なのか、食べる前に水で戻したり水で溶いたりする食品であれば実際に口にする段階ではどうなのかとか、一年間食べ続けたとしたらどの程度なのか、日常生活で普通に浴びる放射線量と比べてどうなのか、そもそも放射線「以外」のリスク要因と比べてどうなのか等々、どうせ考えるなら他にも色々とあるはずなのに、検出された数値だけで大騒ぎする人もいて、まぁ浅はかだなと思いました。

 ちょっと脱線しましたけれど、JR西のケースはこうして全国紙に載せられるほどのことなのか?と気の毒に感じるところもあります。状況を鑑みれば、これくらいは許容範囲として受け止めて欲しいものです。賞味期限「内」の備蓄品があるにも関わらず、賞味期限切れの備蓄品の方を配ってしまったとしたら手落ちとは言えますが、あくまで「賞味」期限切れであって「消費」期限切れではありませんし。むしろ備蓄品が挙って期限切れであったとして、賞味期限切れを理由に配布を渋ったとしたらどうでしょう? そちらの方がJRらしいと言えなくもないですが、このような判断こそ融通が利かないものとして非難されるべきと思われます。非常時――というほどの状況でもなかったにせよ、基準は状況に合わせて適用されなければなりません。目の前に腹を空かせた人がいるのに、「賞味期限切れだから」という理由で食料を廃棄する人がいるとしたら、何とも馬鹿げた話ですよね。余裕があるときは基準を厳しく守りつつも、他のリスクに迫られているときは状況に応じて緩和するなどの柔軟さは当然、求められます。しかるに、放射線基準値でもそうであったように、杓子定規に「平時」の基準値を守らないと、色々とやかましい人がいるわけです。そうした人々の非難を浴びないようにと心がければ当然ながら融通が利かなくなる、典型的なのが「お役所」ですけれど、どうも役所に限らない気がします。

 

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参考、ゆとりのあるときなら守るべきこと

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それは「普通」の話です。

2012-02-05 11:09:49 | 雇用・経済

応募条件「コネのある人」宣言 岩波書店が縁故採用(共同通信)

 応募資格は“コネ”のある人―。老舗出版社の岩波書店(東京)が、2013年度定期採用で、応募条件として「岩波書店(から出版した)著者の紹介状あるいは社員の紹介があること」を掲げ、事実上、縁故採用に限る方針を示したことが2日分かった。

 同社の就職人気は高く、例年、数人の採用に対し千人以上が応募。担当者は縁故採用に限った理由を「出版不況もあり、採用にかける時間や費用を削減するため」と説明。入社希望者は「自ら縁故を見つけてほしい」としている。

 岩波書店の13年度採用は、大学の新卒や経験者らを対象に実施。書類審査後、4月に筆記試験や面接を行い、若干名を採用する

 ある問題に関心を持つ人からすれば常識の範疇に属することでも、日頃は全くの無関心な人からすれば驚くべき事柄に見えてしまうケースは珍しくありません。昨今であれば原発作業員の待遇などが典型的でしょうか、多重請負の結果として現場で働く人の取り分が大きく目減りしたり、求人の時点で説明されたものと業務内容が異なるとか、こんなのは日本中いたるところで野放しにされてきたものであって決して原発に限ったものではなく、労働の問題に少しでも関心がある人にとっては何を今さらと言えます。しかるに労働の問題に全く関心のない人が原発作業員の待遇をセンセーショナルに伝えるメディア報道に接したりすると、今さらながらに「とんでもないことだ、東電許すまじ!」と拳を振り上げたりするのですから苦笑するほかないわけです。いやいや、それは日本の雇用においては普遍的なことですから。

 これと同じことが、上記に引用した岩波書店の「『コネのある人』宣言」報道には感じられます。本気で出版業界、とりわけ岩波のような老舗でお堅い出版社への就職を考えている人なら、別に岩波の採用方針に驚くことはないでしょう。しかし、出版業界の採用事情や、岩波書店と同規模の会社即ち中小企業の採用事情、より大きく言えば民間企業の採用事情に全くの無知であったり無関心であったりする人からすれば、割とショッキングな代物なのかも知れません。現に結構な話題を呼んでいるようで、間違いなく民間企業の採用事情に全くの無知もしくは無関心であろう小宮山厚労相は調査に乗り出す考えを表明したそうです。

 

縁故採用宣言で岩波書店調査へ 厚労省(東京新聞)

 老舗出版社の岩波書店(東京)が2013年度定期採用で、事実上縁故採用に限ると「宣言」していることをめぐり、小宮山洋子厚生労働相は3日、閣議後の記者会見で「早急に事実関係を把握したい」と述べ、調査に乗り出す考えを明らかにした。

 出版社と言ってもピンキリで、実は半数は自費出版系の書店に並ばない出版社なのだとかも聞きますし、よく電車に広告を載せているビジネス本の会社みたいな怪しげなところもあります。ただ、内容の是非はともかくとして真面目に本を作っている出版社であれば、そして老舗であればあるほど、「一見さん」が入社するのは難しい、それが出版業界というものではないでしょうか。料亭と一緒です。何のツテもない人が容易く入れる業界ではない、学生のうちにアルバイト(これだって簡単なことではありません)などを通して足がかりでも作っておけないと入り込むのは難しい、出版社とはそういうものだと認識していますが、どうも世間は違った常識を持っているようです。

 そうでなくとも、従業員数が200人かそこらの岩波書店みたいな中小企業であれば、求人を一般公開しているとは限らない、この辺は出版業界に限らないわけです。継続的に人が辞めていくブラック企業であればまだしも、そう頻繁に離職者が出ない中小でも優良な企業ともなれば求人の機会は多くありません。わざわざ求人に金をかけることはせず、地元の高校から就職希望の生徒を紹介してもらうとか、あるいは自社従業員の大学や高校時代の後輩を当たってみるとか、一般公募することなく社員を補充している会社はいくらでもあります。幅広く人材を集めたい大企業ならいざ知らず、中小企業が身内のツテに頼るのは当たり前の話で、これが問題に見える人はあまりにも中小企業というものに対して無知が過ぎるというものです。

 まぁ、民間企業における採用とは完全なブラックボックスが常識、採用基準は絶対の秘密です。その機密の一端を明らかにしてしまった岩波書店に、他社の採用関係者から協定破りだと非難されるならわからないでもありません。しかるに、大阪では橋下知事が現業公務員の採用過程をオープンに云々と喚いていて、それが結構な支持を集めたりしているわけです。とかく「民間では〜」と言われる時代、民間では不透明な採用こそ当たり前なのに、ともすると採用の内幕は第三者にまで公開されるのが当然みたいな「民間企業では通用しない」常識が世間には少なからず浸透しているのでしょうか。

 コネ採用否定もその文脈からきていて、コネのない「公平な」競争が当たり前だと、そう信じ込んでいる人が多いのかも知れません。そんな発想もまた民間では通用しないのですが、ともあれ公平な競争こそ正しいのだと信じ込んでいる人にとって、コネ採用をオープンにした岩波書店の姿勢は衝撃的に写ったのでしょう。とはいえ、近年のコミュニケーション能力重視の採用であれば「コネを見つける能力」=「コミュニケーション能力」と言えなくもありません。従来であれば面接官にしてだけコミュニケーション能力を示せば良かったものを、少し対象を広げただけと見るのが岩波書店に対する客観的な評価であるように思います。

 それはさておき、「岩波書店(から出版した)著者の紹介状あるいは社員の紹介があること」との応募条件ですが、これはハードルとしてどうなのでしょうか。自分の場合を鑑みると、余裕です。あくまで新卒時点での話ではありますが。だって、大学の先生ともなれば岩波から本を出したことがある人、岩波の出版物に寄稿したことがある人くらい、いくらでもいるわけです。ちゃんと勉強して教授から顔を覚えられている学生であるなら、こうした岩波執筆者から紹介状をもらってくることぐらい朝飯前です。本気で岩波書店への就職を考えるような人からすれば、別に門戸を閉ざすような応募条件ではなさそうに見えるのですが、そうでない人にとっては違うのでしょうか。まぁ、大学から離れて久しい今の私にとっては厳しい条件ですけれど、それよりも年齢制限の方がずっと高いハードルですし……

 ともあれ、岩波の採用方針は業界的にも企業規模的にも「普通」と言うべきものであって、周りが騒ぐようなものではありません。これを大問題のように語るのは、それこそ業界や民間企業の採用事情に対する無知ぶりを披露しているだけでしょう。コネ入社はダメとか、いやコネ入社は悪くないとか、そういう論点で語っている人は、とりあえず私が採用担当者だったら「常識に欠けている」として不採用にしてしまいますね。にも関わらず、小宮山厚労相は調査に乗り出す考えだとか。このことが示すのは、厚労行政のトップが雇用の実態について無知もしくは無関心であることと、そういう無知か無関心な人を責任ある立場に起用する現政権の性格、そして無知に起因する騒ぎに政治が迎合するポピュリズムの根深さです。もっと他にやるべきことはあるはずですが。

 

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自動車産業に頼らない国づくりもいかがですか?

2012-02-02 23:05:59 | 雇用・経済

車に頼らない街づくり…都市コンパクト化へ法案(読売新聞)

 国土交通省は、都市をコンパクト化して環境に配慮した街づくりを自治体に促す新法を通常国会に提出する。

 病院や学校、商業施設などの都市機能を中心部に集約し、車に頼らない都市にすることで温室効果ガスの排出を抑える狙いだ。

 新法は「低炭素まちづくり促進法案」で、2012年度中の施行を目指す。新法で対象地域になると、省エネルギー基準を満たした住宅やビルの住宅ローン減税を拡大したり、事業費を補助したりするなどの優遇措置を設ける。震災復興を進める被災地や、人口の空洞化に悩む地方都市の活用を見込んでいる。

 対象地域に指定されるためには、自治体が、都市機能の集約化や建物の省エネ化などを盛り込んだ「低炭素まちづくり計画」を作成する。計画に沿って企業が省エネビルなどを建設すれば、国と地方で事業費の最大3分の2を補助する。大型商業施設に課している駐車場の設置義務も緩和し、複数の施設で共同駐車場を設けることも認める。

 さて「車に頼らない街づくり」だそうで、引用元では「温室効果ガスの排出を抑える狙い」とありますが、そうでなくとも生活上の利便性は高まる、車を運転できない人や車を所有していない人にとっても住みやすい街作りとして「車に頼らない〜」は概ね肯定的に受け止められるべきものと思います。ことさらに懐古趣味的な言論が幅を利かせ、「昔のように暮らせば良いのだ」と素面で口にする人も珍しくない時代ですけれど、諸々の弊害から目を背けて過去を美化するのではなく、前に進むことでこそ課題は解決されるのではないでしょうか。「昔」のような暮らしを理想として御都合主義的な自然回帰を嗜好するのとは反対に、むしろ都市化を進めて人間の住む場所を集約することでこそ自然環境が守られる側面だって少なくありません。現に半端な田舎だからこそ、どこへ行くにしても車が必須で化石燃料を燃やしては排気ガスを垂れ流す生活もやむを得ないものになるわけで、きっちり都市化を進めていけば個人が車を使う必要もなくなる、地球環境にも、車を運転もしくは所有できない人にも優しい社会ができあがるというものです。

 そうした観点から「車に頼らない街づくり」には賛同しますが、これを実現させるためには何が必要になるのか、あるいは実現させる過程で何が起こりうるかは考えなければいけません。端的に言えば「脱自動車社会」を推し進めるのであれば、それと平行して「脱自動車産業」も進めなければならないはずです。車がなくても暮らせる街を作っていけば、当然の帰結として車は生活必需品ではなくなります。趣味や仕事の必要から車を所有する人はともかくとして、あくまで日常の足として自動車を利用していた人は「車に頼らない街づくり」の進展とともに減少していく、つまり車を買わなければならない人が減る、車が国内で売れなくなるわけです。やがて日本では車が必要とされなくなる、それでもなお日本で自動車を作り続ける意味がありますか?

 自動車産業にとっては国内市場を今まで以上に失うことにもなるでしょう。結果として自動車産業の衰退や国外移転は加速することが予測されます。そうなったときに失業者が街に溢れるようでは政策としては完全な失敗です。「カイカクに伴う痛みだ」と強弁したところで、その政治家自身の延命以外には何の意味もありません。「車に頼らない街づくり」は「自動車産業に頼らない経済」への順を追った移行と歩調を揃えて進展させる必要があります。もっとも、そうなると国土交通省の守備範囲を超えてしまうわけで、こういうときこそ「政治」の出番です。各省庁は自らの所管するポジションからの提言を行うのが当然で、ともすれば特定省庁の言い分に偏りがちなそれを適切に調整して社会の「釣り合い」を計ってこそ政治家が役割を果たしたと言えますから。とはいえ特定省庁(財務省とか)の主張に全面的に依拠した挙げ句、評判が悪くなると官僚のせいにするばかりの政治主導が横行する昨今だけに、なかなか整合性の取れた政治は期待できないですが……

 国際的な分業を肯定できるなら、自国で消費されない製品を作って国外に売る、つまり輸出を伸ばすという選択肢もアリです。各々の国が得意な分野で世界に売り込みをかけていくこと、製造業の強い国が自動車や電化製品を世界中に売り、農業の強い国が食料品を世界中に売る、資源に恵まれた国が化石燃料や鉱物を世界中に売る等々、それぞれの得意分野でお互いに支え合っていくのも選択肢としてはあり得るように思います。もっとも日本では分業否定の傾向が強く、自国のものは自国でまかなうべき、他国への依存は良くないみたいな発想が支配的です。そんな日本では既に自動車を筆頭に「モノ」が行き渡って久しいにも関わらず、相も変わらず「ものづくり」に重きを置いているわけで、どうにも整合性を無視しているのは政治家だけではなさそうに見えます。

 国際的な分業を進める上で、まず大切なのはフェアな対価が支払われることと考えられますが、加えて意識されるべきは、特定の国が一方的に商品を売り込むばかりの関係は続けられないということです。貿易黒字を積み重ねる国にとって、その黒字は好ましいことに見えるでしょうけれど、代わりに別の国が巨額の貿易赤字を抱えることにもなります。後発国が先進国への階段を上る過程では、輸出を増やして貿易黒字を積み重ね、国内に資本を蓄積させていくことも許されるかも知れません。しかし、とっくに資本蓄積の段階を終えた国が、相も変わらず輸入を絞って輸出による利だけを得たがっているとしたらどうでしょうか?

 他国への輸出によって利を得るのであれば、その分だけ輸入して他国にも利を与えるべき、それが国際社会における先進国の役目であり、そうあってこそ成熟した経済と言えます。日本は巨額の貿易黒字を長年続けてきましたが、それは日本の代わりに貿易赤字を抱えてくれた国があってこそ成り立ってきたことを自覚すべきです。日本だけが一方的に輸出による利を貪ることは許されない、他国に日本の製品を売り込むのであれば、その分だけ他国からの売り込みを受け入れなければフェアではないでしょう。それができないのであれば、世界に背を向けて日本だけで完結することを目指すほかありませんけれど――その日本では既に「モノ」は行き渡っており、いくら「ものづくり」を頑張っても「モノ」が売れる余地は乏しいわけです。その最たる例が自動車だということを思えば、何かを改めなければならないことは火を見るより明らかです。

 

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「安心」を求めて

2012-01-31 23:01:08 | 社会

ハーブ吸引した少年が吐き気 渋谷の店、傷害容疑で捜索(朝日新聞)

 東京都渋谷区の路上で25日夜、ハーブを吸引した17歳と18歳の少年3人が吐き気を訴えた事件があり、警視庁渋谷署は26日夜、傷害容疑で、ハーブを少年に提供した同区道玄坂2丁目のハーブ店「街のハーブ屋さん」を家宅捜索した。

 同署と東京消防庁によると、少年3人は同店でハーブを譲り受け吸引したところ、吐き気や頭痛を訴え、病院に運ばれた。3人とも意識はあり、命に別条はないという。同署は、店内のハーブなどを押収して成分を詳しく鑑定する。

 ハーブをめぐっては、薬事法などの規制対象外の薬物を混ぜて合法として販売する「脱法ハーブ」が問題化。吸引すると、気分が高ぶったり幻覚症状を引き起こしたりするという。

 さて、こんなニュースもありました。「脱法ハーブ」である以上は既存の法律による摘発が難しいのか、傷害容疑で捜索が行われるそうです。もっとも「3人とも意識はあり、命に別条はない」とのこと。一方、これが歴とした合法品であるアルコールだったりしますと、「命に別条はない」では済まない事態が多発しているわけです。ここで取り沙汰されている脱法ハーブや大麻の類にも全く問題がないとは言えないにせよ、そこまで問題視されなければならないのかと首を傾げるものがないでもありません。

 典型的な例として蒟蒻ゼリーと餅がそうであるように、しばしば危険性の度合いよりも「話題性」の大きさに準じて我々の社会は動いていないでしょうか。むしろ珍しいが故に人目を引いてしまう事例がクローズアップされ、過大に危険視された挙げ句に規制や忌避の対象となるのに対し、頻繁に発生する事態は特筆されるまでもないこととしてメディアを賑わすことも視聴者や読者の記憶に残ることも少なく、そのリスクは意識されないままスルーされるわけです。

 総じて日本社会は「安全」より「安心」寄りなのかも知れません。まぁ、世界屈指の長寿国で治安の良さに関しては今なお世界に誇るレベルの日本ですから十分に安全とは言えますけれど、それでも「安全」よりも「安心」を重視しがちではないかと感じることは多いです。アルコールに関する「緩さ」と脱法ハーブや大麻などへの「厳しさ」、餅への「緩さ」と蒟蒻ゼリーへの「厳しさ」、危険性の度合いが高いものよりも、国民の警戒感が強いものの方をこそ厳しく制限していく日本社会が重視しているのは、やはり「安全」以上に「安心」の方なのではないでしょうか。

 

「選挙権年齢引き下げ」18歳成人も検討 経済活性に寄与 契約などリスク(産経新聞)

 現在「20歳以上」の選挙権年齢の「18歳以上」への引き下げについて、藤村修官房長官は26日の記者会見で「必要な検討を進めていく」と述べ、政府内の議論を来月再開する方針を表明した。民法上の「成人年齢」の引き下げも主要テーマに据える。成人年齢引き下げは若年層の社会参加や経済効果が期待されるが、高校生に飲酒・喫煙や独断でのローン契約を認めることには異論も多く「権利と義務」の引き下げは功罪相半ばしそうだ。

(中略)

 最たる例は「未成年者飲酒禁止法」と「未成年者喫煙禁止法」だ。未成年者の飲酒・喫煙は禁じられているが、成人年齢が18歳に引き下げられれば高校生の飲酒・喫煙も可となる。

 むしろ寿命の長くなった時代には、モラトリアム期間を延ばして「社会参加」を後方にシフトさせていくのが正しいと私なんかは思うのですが、ともあれ成人年齢引き下げ論があるわけです。それに伴い、「未成年」に禁止されている飲酒と喫煙も18歳以上からとなるとされています。もっとも、アメリカでは飲酒が合法になるのは21歳からです。しかるに成人年齢は州ごとにばらつきがあるにせよ18歳としているケースが多かったりします。法律上の「成人」になったから酒を飲んでもいい、と考える社会ばかりではないのですね。「安全」に配慮するなら飲酒可能年齢は引き下げるべきでないと言えますが、日本では一概に「成人」であるかどうかが基準と考えられているようです。つまりは肉体的な成熟の度合いではなく、社会的に「成人」であるかどうかで飲酒の是非が分かれているのです。「未成年の飲酒」「高校生の飲酒」には悪い印象を持つ一方でアルコールの害については甚だ鈍感、「安全」よりも「安心」を重視しがちな傾向がここにも見えているように思います。

 

たばこで死亡、年12万9千人 07年分、東大など分析(朝日新聞)

 喫煙が原因でがんなどで亡くなった大人の日本人は2007年に約12万9千人、高血圧が原因で脳卒中などで亡くなった人は約10万4千人と推定されることが、東京大や大阪大などの分析でわかった。国際医学誌プロスメディシンに発表した。

 原発事故以降、色々と騒がれているのは今さら語るまでもありませんが、煙草を吸いながらガンになる心配をしている人、煙草をふかしながら我が子がガンになったらどうしようと頭を悩ませている人の存在は、傍目には体を張ったギャグにしか見えません。常習的な喫煙によるガンのリスクは2000ミリシーベルト相当、受動喫煙ですら100ミリシーベルト相当と言われているくらいで、福島で暮らすよりも喫煙者の家族と暮らす方が危ないです。でも、福島はおろか東京など東日本で暮らすことにすら「安心」できない人がいる一方で、平気な顔で煙草を吸い続けるような人もいたりするとしたら、これまた「安全」ではなく「安心」ばかりを追求していると言えます。

 ことによると、ニコチンよりポロニウムの方を気にする人だっているのかも知れません。煙草には微量の放射性ポロニウムが含まれていて、まぁ極めて微量ですので気にする必要はないと考えますが、どんなに微量でも放射性物質が含まれていてはダメなんだと言い張る人もいるわけです。昨今の放射能フィーバーとでも言うべき状況の中では、ことさらに放射「能」の脅威ばかりが強調され、その他のリスクはむしろ蔑ろにされてきたように思います。被災地のガレキ受け入れを巡る騒動なんかはその典型で、ガレキで放射「能」が拡散する、「安心できない」と主張する人々に押される形でガレキの受け入れを拒む自治体も出てしまいましたが、果たしてガレキ処理を遅らせることのリスクはマトモに考えられているのやら。

 一時期は福島の住民に対してしきりに移住を呼びかける人たちがいました。福島はもう住めないのだと事実無根な脅しをかけていたわけですが、彼らの脅しこそが最も有害であった気がしてなりません。ともあれ、福島の居住者に対して放射「能」のリスクを説いて移住を迫るなら、放射線の影響を誇張せず等身大に語ることに加えて移住に伴うリスクをも説明しなければ誠実とは言えなかったでしょう。ろくな準備もないまま移住して生活を破綻させてしまったケースも多々あると聞きますし、それはチェルノブイリでも起こったことです。こうした事態は容易に予測できたはずなのに、特定のリスク、話題性の強いリスクばかりを過大視して、むしろ「珍しくない」リスクを十分に考慮してこなかった、「安心」を「安全」に優先させてしまった結果として被害を拡大させているのではないでしょうか。

 

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追い風は都合良く吹かない

2012-01-29 11:23:37 | 社会

 さて東京電力の値上げ計画は予想通りの反発を買っているわけですが、半年と少し前を思い起こすと、値上げ案がむしろ電力会社に否定的な人々の側から上がっていたような気がしないでもありません。電力不足に対応すべく需要ピーク時の電力使用を抑制しなければならない、そのためにはピーク時間帯の電力料金を値上げすれば良いのではないかとか、そういう提案をする人もいたはずで、この値上げ計画に関して囂々たる非難が寄せられたということはありませんでした。どちらも値上げには変わらないのですが、どうしてでしょうね。

 結局のところ、電気の利用を制限するためとか原発を潰すためとか、そういう動機での値上げは社会的に許容されるけれど、電力会社を存続させるという面が表に出ると、社会を支えるインフラの安定に責任を負うはずの政治家からすら強い反発を買う、そういうものなのかも知れません。誰か(何か)を罰するためならば許されることでも、誰か(何か)を助けるためと目されれば国民の怒りを買う、そして政治家もそれに迎合するというわけです。電気を「使わせない」ための値上げはアリでも、今後とも安定的に電気を「使えるようにする」ための値上げはネガティヴにとられるのですから、まぁ嫌な話です。

 

北海道の風力発電所、10年で廃止…コスト重荷(読売新聞)

 オホーツク地方で唯一の風力発電施設の北海道興部おこっぺ町風力発電所が修繕費調達難のため、完成から約10年で廃止となった。

 東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故後、風力発電が注目されているが、小規模風力発電施設が直面するコスト高の課題を露呈した格好だ。
 
 同町の風力発電所は2001年3月に完成。風車1基で、建設費約1億9000万円のうち独立行政法人「新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)」がほぼ半額を、町が約5000万円をそれぞれ負担した。町の農業研究施設に電力を供給、余剰分は北海道電力に売電し、売電収入は約9年半で計6170万円。6430万円の維持管理費とほぼ均衡していた。
 
 しかし10年10月に欧州製の部品が破損。交換には高所作業も必要で、修理に約4000万円かかることが判明した。修理費は全額町負担で、町は「コスト面で運転再開は困難」として、昨年11月に発電所廃止を決めた。風車を固定し、モニュメントにする予定だ。

 別に小規模なものでなくとも風力発電の採算性は微妙のようで似たような事例には事欠きませんが、この風力発電が変に期待されるようになっているのですから大変です。独立行政法人の類が金を出してくれるからと安易に風車を立てたところで維持管理費だって安くないのですから、もうちょっと建設はシビアに考えるべきなのではないでしょうか。昨今では電力の自由化だの新規参入だのが喧しい一方、発電した分を発電した分だけ自動的に既存の電力会社に買い取らせようと、規制緩和とは全く逆行する動きも強いわけです。ただ本当に自由になったら既存電力会社側に「今は電力は足りてるので買い取りません」と判断する自由があって当然と言えます。ダブルスタンダードが基本の我が国でそのような事態が起こるとは考えにくいにせよ、風力発電をアテにするのはどうなんだろうと思わないでもありません。将来へ向けての研究開発や試験運用を続けるのは良いことですが……

 日本語で「リストラ」と言ったらとにかく人員削減や給与カットを指し、現に東京電力が強いられているのもこれでありますが、経営再建のために切り捨てられるのは従業員だけではないわけです。なんだかんだ言って風力発電なり太陽光発電なりへ積極的に金を出しているのも東京電力など既存の電力会社で、これが経営合理化を迫られるとなるとどうなるのでしょう。ある意味、広報活動の一環としては悪くない投資なのかも知れませんけれど、必要なときに発電できるとは限らず採算性も微妙な代物をどこまで維持拡大できるのやら。電力会社を追い詰めた結果として風力発電や太陽光発電の縮小を招くとしたら、何とも良いお笑いですね。

 それはさておき「日本は資源がないから〜」との枕詞は頻繁に聞かされます。まぁ、化石燃料資源に乏しいのは確かです。だから化石燃料に頼らぬ方策を検討しなければならないということになるのでしょうし、とりあえず特定の資源への依存はどこの国であろうと避けるべきものだとは思います。ただ、日本にも資源はある、エネルギー源としての資源はあるはずです。地熱? いえいえ、いかに火山国といえど日本の人口規模からすれば地熱もまたアテにできるレベルの代物ではありません。そんなものではなく、豊富な雨量と高低差に富んだ地形、これこそ資源なのではないでしょうか。

 つまり、水力発電です。豊富な雨量と高低差に富んだ地形は水力発電にはうってつけです。水力発電は既に開発限界に達したとの声もあります。ただ開発限界とはコスト概念を含んだものと理解していますが、違うでしょうか? 石油が枯渇すると言われ続けて数十年、価格は高騰しながらも石油の流通は続いています。地面に穴を開ければ湧いて出るようなレベルの資源が枯渇して原油価格が高騰すると採掘のために投入可能なコストが増える、そうなると地底や海底の奥深くから石油をくみ上げても採算が取れるようになる、結果として化石燃料は枯渇すると言われながらも流通を続けてきました。

 レアアースなんかはもっと典型的で、実は世界中の広いエリアで採れるらしいです、コストをかければ。しかるに中国でコストをかけなくても簡単に採掘できる鉱脈が開発されると、中国から買った方が圧倒的に安くなる、レアアースのために中国から買う以上のコストを投入するのが難しくなる、レアアースが中国でしか採れなくなる――みたいなことになるわけです。もしレアアースの価格が金のような貴金属と同レベルにまで高騰すれば、再びレアアースに投入可能なコストが増えて、世界中の広い範囲で採れるものになるとされていますね。そして水力発電もこれと似たようなものがあるはずです。火力発電や原子力発電と比べてコスト的に遜色のない範囲でという条件付でなら、とっくに開発限界に達しているのでしょう。ただし、化石燃料価格の高騰や、安全管理というより国民や政治家の「理解」の問題で火力や原発のコストが増大することは確実です。そうなれば水力発電に投入可能なコストは必然的に増加する、開発の余地は広がるはずです。

 もっとも、ダム建設ともなるととかく国民の理解が得られない時代でもあります。原子力ルネサンスの次はダム開発ルネサンスの時代が来ても良いのではないかと思うところですが、たぶん無理でしょう。加えてダム開発ともなれば時間も相応にかかります。目下の電力危機を乗り切るための対策としては別のものが求められるところです。まずは原発を含めた震災以前の体制への復旧が先と言わざるを得ませんし。

 用水路などを活用した小規模水力発電なんてのもあります。巨大風車や太陽光パネルを敷き詰めるのに比べれば「環境に貢献してます」アピールこそ弱いものの、効率と安定性では圧倒的に優位です。小規模な設備を分散化させてしまうと管理が大変なことになりますけれど、ここは一つ「特定郵便局長」ならぬ「特定水力発電所長」でも任命したらおもしろいのではないかという気がします。つまり、地主なんかと持ちつ持たれつで設備を運用していくわけです。口を開けば「利権が、利権が」とやかましいカイカク馬鹿には忌み嫌うべき制度になるかも知れませんが、展開の早さ、地元との協力体制の構築、業務委託によるコストの切り離しと、匙加減は問われるにせよメリットは決して小さいものではないと思います。

 

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常識を身につけた分だけ不寛容になる例

2012-01-26 22:55:08 | 社会

教えて!ウォッチャー…会社宛は「御中」と書き直さなきゃダメ?(教えて!ウォッチャー)

教えて!gooに、こんな相談が載っていました。lugalさんは、あることに納得がいきません。それは、企業が用意した返信用封筒の宛先の下に「○○行き」と書かれているのを、わざわざ「○○御中」と書き直す必要があるとされていること。

「御中と書き直すのは常識?」

親からは、書き直しをしない人は就職などの出願のときに「はじかれる」と言われます。しかし、印刷されている部分をグチャグチャ消して、隣に書き直す方が見苦しいと感じてならない質問者さんは、「そんなの知るかい」と思うのが正直なところです。

■「行き」のままでは「呼び捨てと同じ」か

内心馬鹿らしいと思いつつ書き直してはいますが、郵便局で聞いたところ、最近では大学受験の願書にも「御中」と書かない人が増えたのだとか。であれば、いずれこんな文化は消えるのではないか。「皆さんはどう思われるでしょうか?」

常識は文化やマナーと同様、「暗黙の了解」の一種であり、価値を共有しない人同士ではなかなか分かり合えないもの。回答者からは予想通り「私は馬鹿らしいとは思わない」という反論が見られます。

「常識というより、ビジネスマナーとして最低限の行為」(yumi0215さん)

「『○○様』や『御中』にして出さなければ、相手を呼び捨てにするのと同じです」(inu-cyanさん)

「会社は差出人の常識を判断しているのかも知れませんね」(ocean-banさん)

 さて、大雑把に言えば「御中と書き直すのは常識?」と問いかけた質問者に対して、他人に説教したくてたまらない人がここぞとばかりに押しかけたようです。一連の回答者は自信満々に「常識」を説いているわけですが、では実際のところはどうなのでしょう。一般に「御中」と書き直すのは常識とされています。ただし、「御中」と書かなかったからといって「はじかれる」かどうか、少なくともビジネス上の文書であれば、まずそんなことはありません。封筒の宛名が「御中」になっているかどうかをチェックする人なんて、普通はいないですから。封筒はおろか送り状だって速やかにゴミ箱行きの運命、「御中」に書き直そうが「行き」のママにしておこうが、その違いに気づかれる可能性の方が低いと思われます。

 ただし、それは会社と会社との関係など、基本的に対等なビジネスの場合に限った話です。しかるに上下関係、というより一種の「権力関係」が絡むと話は変わってきます。質問者の親御さんが言うように、就職などの出願のときに「はじかれる」可能性は否定できません。大学受験の願書でも学力重視の大学ならいざ知らず、人間形成に力を入れてしまうような学校ともなれば「はじかれる」こともあるのではないでしょうか。なぜなら、彼らは「落とす理由」を探している、減点できるポイントを探しているからです。

 

これに対し質問者さんは、指摘されたことは知っているが、「常識がないのではなく、必要がないと感じている」と反論します。「行き」が「御中」になっているからといって、「この人は礼儀を守る人なんだ」と感じたこともなく、逆に「行き」のままが失礼だと思ったこともありません。「人がチェックするのは文章 であって、封筒の表面ではないからです」

 ここで質問者が言うように「チェックするのは文章であって、封筒の表面ではない」場合、つまり通常のビジネス上の文書などであれば、「行き」か「御中」かを気にするような暇人に遭遇する可能性は極めて低いわけです。ところが就職などの場合は事情が異なります。採用側がチェックするのは、中身とは限りません。むしろ外面の方だったりするものです。封筒の宛名が「行き」になっているか「御中」になっているか、そういう時点から採否を図っている可能性は否定できないでしょう。

 とりわけ昨今では、「教えればすぐにできること」が「初めからできている」を求められる傾向にあるように思います。たとえば電話応対ですとか基本的なビジネスマナーの類ですね。この辺、新社会人は躓きがちなポイントかも知れませんが、そうは言っても1ヶ月もあれば誰でも身につけられるものではあります。最初に「できていない」としても、特に気にするようなことではありません。しかるに、電話応対すらできない、ビジネスマナーを知らない云々と新人の出来の悪さを嘆く言説は増加傾向にあるのではないでしょうか。こんな時代だけに、宛名が「行き」のママか、それとも「御中」に直してあるかみたいな些末なポイントで採用側が差を付けようとしたとしても不思議に思うことは何もありません。

 会社に対する従順さを問われる場面でもあります。「行き」のママでは企業という神聖な存在への冒涜として扱われることもあるでしょうし、引用元における回答者もまた、そのように考えているであろうことが窺われます。ただ困ったことに、「御中」書きレベルならまだしも、しばしばビジネスマナーの「常識」は日本国内ですら、どこでも同じように通用するものではなかったりするわけです。自分の語っていることこそ「常識」だとご満悦の回答者の思惑とは裏腹に、「社会人としての常識」なんて代物は、それこそ会社の数だけあります。ある組織の中では「常識」とされることでも、他の組織の中では「非常識」とされることも少なくないのです。

 たとえば、最初から「御中」で印字されている返信用封筒を送りつけてくる会社もありますが、この辺も一部の了見の狭い会社からは非常識と見なされることもあるのではないでしょうか(「行き」を「御中」に書き改めるのが常識であって、最初から「御中」では非常識だと)。他にもたとえば挨拶の言葉とお辞儀のタイミングなんてのも解釈の分かれるところで、挨拶と同時に頭を下げるのが正しい派と、挨拶を終えてから頭を下げるのが正しい派がいるわけです。宛名の書き方でも「課長○○様」派と、「○○課長様」派がいたりして、本則は前者とも聞きますが後者を使っている人が多い気がします。いずれにせよ、前者に従えば後者を信じている人からは失礼と思われ、逆に後者に従えば前者を信じている人から非常識と扱われる、そういうこともあるのです。例を挙げればキリがありませんが、ある会社で「常識」とされることを守っていたところで、他の会社では非常識と見なされることも当たり前のようにあります。引用元で鼻息を荒げて「常識」を語る回答者もまた、別の場所では非常識とみなされている可能性はありそうです。

 

そんな反論にもかかわらず、回答者からは「ビジネスマナーの意味を理解すれば、当たり前なことだと分かるはず」という意見が大勢を占めています。中には「自分が正しいと思うなら貫いてみればいい」「世間がそれをどう思うだろうか」という声のほか、「ご両親のおっしゃっている『はじかれる』というのは、あながち間違いではありません」とまで言う人もいます。ちょっと怖いですね。

 それでもビジネスマナーの曖昧さを理解できず、自身の正しさを信じてやまない回答者の説教は続いたようです。奢りだな、としか言いようがありません。結局、必要がないのではないかとの質問者の問いには答えられていないわけです。たしかに、「行き」が「御中」に書き改められていないことを以て非礼とする人はいます。しかし、人はいかにして「行き」では無礼だと感じるようになるのでしょうか。「行き」が「御中」に書き改められていないことを失礼と感じるかどうか、その辺の子供に訊いてみたらいいと思います。まぁ、学生でもいいですけれど。

 誰かに教わることなく自然と「行き」に気分を害する人は、おそらく存在しないでしょう。ただ、外部から「行き」を「御中」に書き改めないのは礼を失することなのだと、そう教え込まれることで初めて「行き」との表記を非常識と感じるようになるわけです。果たして、このようなビジネスマナーもしくは常識を身につけることは、その人にとって幸福なことなのでしょうか? そんな「常識」を知らなければ、封筒の宛名ごときに気分を害されることなどないわけです。しかし、「常識」をすり込まれた結果として、封筒の宛名一つで相手にネガティヴな印象を抱くようになる――まさに人格が損なわれています。

 男性のネクタイとかスーツとか、あるいは女性の化粧とかも、これと似たようなものであるように思います。ノーネクタイやノーメイクを、産まれながらにして無礼と感じる人などいないはずです。しかし、ノーネクタイでは失礼だ、化粧もしないのは恥ずかしいことだと、そういう「常識」の刷り込みが行われた結果として、ノーネクタイなりノーメイクなりが非礼として成り立つようになります。「常識」を知らなければ失礼と感じることはない、特に気分を悪くするようなことはなかったのに、「常識」を身につけた結果として他人をマナーに欠けると感じるようになるとしたら、何とも馬鹿げたことではないでしょうか。常識なりビジネスマナーを身につければ身につけた分だけ、他人を非常識で不快な存在と感じるようになる、自ら了見を狭くしているわけです。

 

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“放射能幻想”を振りまいてきたことへの反省は?

2012-01-24 23:01:51 | 社会

時代の風:放射能トラウマとリスク=精神科医・斎藤環(毎日新聞)

 福島県南相馬市で診療と内部被ばくの検査、健診、除染などにかかわっている東大医科研の坪倉正治医師によれば、現時点で慢性被ばくによる大きな実被害の報告は、ほとんどないとのことである(小松秀樹「放射能トラウマ」医療ガバナンス学会メールマガジンvol・303)。
 
 むしろ深刻なのは、外部からの批判や報道などによる社会的な影響のほうである。原発事故による最大の被害は、子どもの“放射能トラウマ”だ。しかもその多くは、大人の“放射能トラウマ”による“2次的放射能トラウマ”であり、年齢が低いほどトラウマの程度が強い印象があるという。
 
 風評被害の影響もあって、うつ状態になる人が増えたり、家族が崩壊したりという事態は耳にしていた。現地で子どもの電話相談窓口を担当している人からは、このところ虐待相談も急増しているという話も聞いた。
 
 被災地での虐待件数についてはまだ正確な統計データが得られていないが、屋外で遊ぶ機会の減った子どもたちが、精神的に不安定な大人と過ごす時間が増えたとすれば、まったくありえない話ではない。

 まぁ、この辺のことは初めからわかっていたことではないかという気がしないでもありません。健康に影響がある「かも知れない」レベルの放射線量が検出されたのは避難区域の中でも一部に限られ、人の住む地域では観測されない以上、より強く懸念されるのは当然、放射線ではなく“放射能トラウマ”の方ですから。この辺は私も危惧してきたところで早い段階から取り上げてきましたけれど、まぁ私がグダグダ言ったところで社会的な影響力は避難区域「外」で計測された放射線と同レベルですから、今さらどうにもなりませんね。一方で社会的な影響力を行使できる立場にありながら、いたずらに不安を煽ったりデマを流したりすることによって“放射能トラウマ”を植え付けて回った人もまた少なくないわけで、その辺の責任は問われねばならないものと思います。その点では毎日新聞だって、いかがなものでしょうか? どうにも厨二病レベルの文明論を連発していた印象が強いのですが……

 

 放射能はさしあたり人の身体は破壊していないが、“放射能幻想”は人の心を確実に破壊しているということ。
 
 その背景には、低線量被ばくの危険性がはっきりしないという問題がある。放射性物質の放出が及ぼす長期的影響については、不確実な点が多いのだ。生活環境に数世代にわたって残留するごく低レベルの放射能が、住民集団の健康に、長期的にどのような影響を及ぼすのか。「これ以下は安全」という「しきい値」はあるのか。被ばく線量と発がん率の上昇には直線的な関係があるのか。確実なことは何も分かっていない。
 
 この状況下で立場は二つに分断される。「危険であるという根拠がないのでさしあたり安全」とする立場と、「安全であるという根拠がないので危険」とする立場。事故直後には後者に傾いた私自身も、最近では前者に近い立場だ。不確実な未来予測に基づいて当事者を批判する権利は私にはないと気づいたからだ。

 「人の身体は破壊していないが、“放射能幻想”は人の心を確実に破壊している」という行に異論はありませんが、「低線量被ばくの危険性がはっきりしない」という紋切り型には首を傾げます。そう言っておけば中立を装える定型文のように使われる言い回しですけれど、どうにも「まだはっきりしない、実は危険かも知れない」という意味合いに間違って解釈されがちです。実際は「影響があるとしても小さすぎて判別できない、小さすぎて危険性があるのかないのかはっきりしない」だけの話なのですが、斎藤環氏は誤った理解に基づいて話を進めています。そして、こういう誤った印象と理解を垂れ流しにするメディアこそが“放射能幻想”を広めてきた加害者であり、その責を東京電力に押しつけるばかりではなく自ら率先して贖うべき存在なのではないでしょうか。

 「危険であるという根拠がないのでさしあたり安全」という以上に、危険であったとしても影響は測定できないほど軽微なのだから他のことを気にした方が無難というのが私の立場です。しかるに、あろうことか「安全であるという根拠がないので危険」みたいな立場をとって“放射能幻想”を広めてきた人、今もなおそれを続けている人もいるだけに事態は深刻です。“放射能幻想”に基づいて放射「能」のリスクが実際の何万倍以上にも評価される一方で、放射線「以外」のリスク要因は蔑ろにされているのですから。

 1のリスクを避けるために10のリスクを負うとしたら、端的に言って愚かなことですが、チェルノブイリの教訓から何も学ばずにこの愚を犯してきたのが日本社会とも言えます。いかに軽微でもリスクの増大は好ましくないことかも知れませんけれど、避けるべきは「より大きな」リスクの方であることに変わりはないはずです。その点では、たとえば後先を考えない移住みたいな生活の破綻に繋がる行動こそ最も避けるべきものだった(現にチェルノブイリでもそうでした)のですが、放射「能」のリスクだけをことさらに強調して、その他のリスクから目を背けさせてきた人々の責任は厳しく追及されてしかるべきものであり、斎藤環氏にもまた反省が求められるように思います。

 たとえば、今の「子供」の親世代が子供であった頃に大気中の核実験によって降り注いだ放射性物質と現在の福島を含めた日本で観測されたそれの影響を比較してみるべきです。そして放射線「以外」の発がんリスクの存在とも比較してみるべきですし、ガン以外の健康リスクだって考えなければなりません。原発事故後にリスクが0から100になったのか、それとも100から100.01になっただけなのか。原発事故が起こるまで日本人はエデンの園に住んでおり不老不死であったのでしょうか。少なくとも子供を室内に押し込めたり、あるいは食品摂取を制限したり、父親や友達から引き離してまで移住させたりしなければならないような事態には至っていないはずです。それでもリスク評価を誤らせようと、原発事故並びに放射「能」の影響を大きく見せかけようと頑張った人がいる、何とも罪深いことです。

 一方、未曾有の震災と津波に襲われた3月11日に、脱原発をめざす〜云々と福島集会バスツアーを開催しようなんて動きもあるそうです(まさに津波による死者が出た場所で!)。いやはや、3月11日は原発事故の日ではないのですが、その辺も彼女の頭の中では塗り替えられているのかも知れません。福島みずほにとって大切なのは津波で死んだ1万人以上の犠牲者ではなく、追悼の日に原発反対の声を上げることのようです。率直に言って、良識を疑いますね。原発事故自体は十二分に深刻ではありますが、幸いにして原発事故による直接の死亡者はいない一方、それは比べるべきものではないとしても津波によって万を超える死者が3月11日には発生してしまったわけです。せめて3月11日くらいは、自分の政治的イデオロギーのために悲劇を利用するのは抑えてくれないものかと思います。原発事故は天からの啓示と宣った犬畜生もいましたけれど、福島みずほもその同類なのでしょうか。

 

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