非国民通信

ノーモア・コイズミ

マトモな賃金を払えない事業者が潰れていくのは正常

2018-01-21 23:24:26 | 雇用・経済

飲食店の倒産、2000年以降最多に 個人消費低迷など(朝日新聞)

 2017年の国内企業の倒産件数は8376件で、8年ぶりに前年を上回った。飲食店の倒産が2000年以降で最多となり、全体を押し上げた。長引く個人消費の低迷や人手不足による人件費の高騰が経営の重しになったようだ。

 帝国データバンクが16日公表した通年の全国企業倒産集計でわかった。

 景気の緩やかな回復に伴って倒産件数は7年連続で減少を続けていたが、17年は前年より2・6%増えた。特に、飲食店の倒産が増え、前年比約27%増の707件だった。焼き鳥、おでん、もつ焼き屋などの「酒場・ビアホール」の倒産が最も多かった。飲食店の倒産件数が最も多かったのは東京都、前年比で件数が最も伸びたのは大阪府だった。

 

 まぁ勤務先の近辺でも行列の絶えない人気店が普通に潰れていますので、飲食店とはそういうものなのではないかとも思います。昼時にどれだけ人が並んでいても、結局は夜に酒を飲んでくれる人がいないと利益なんて出ないものなのでしょう。それが世界的に見て普通のことなのか、あるいは日本固有の現象なのか、もしくは現政権下で突発的に発生するようになったことなのか――この辺は人それぞれの政治的立ち位置によって見解が割れそうですね。

 さて、報道では「個人消費の低迷」と「人件費の高騰」がなんの疑問もなく並べて書かれています。人件費が本当に高騰しているのなら相応に個人消費が増えていなければおかしいはず、人件費が高騰しているのに個人消費が伸びないのなら、せめて代わりに預貯金残高が急騰していなければおかしいでしょう。しかし、鰻登りなのは企業の内部留保だけです。人件費が高騰していると伝えられているにもかかわらず、消費も個人の預貯金も低迷を続けているのは何故なのやら。

 結局、ブルジョワ新聞の目から見た「人件費の高騰」なんてのは、都合良く奴隷を調達するのが昔より僅かに難しくなっただけのことでしかありません。働く人に払う賃金を惜しむ意識が強いからこそ、微々たる賃上げを「高騰」と呼び習わしているだけの話です。そもそも人件費が下がっていった時代の政権を熱烈に支持してきたネオリベ新聞社にとって、賃金の上昇とは企業の倒産を招く絶対悪なのでしょう。

 なお日本では今なお現金払いが圧倒的に強い、電子マネー普及が進んでいないとも言われます。評論家目線では消費者の意識が低いと嘆息してみれば済む話のようですが、実際のところはどうなのでしょうか。特にこの「飲食店」界隈では現金払いオンリー、カード支払いはお断りの店舗も目立つわけです。装置を導入するための資金にも不足している、あるいは決済の手数料を引いたら利益が出ない、そんなレベルの飲食店も多いのではと推測されます。じゃぁ、現金で払うしかないよな、と。

 ある意味、飲食業界はデフレ時代の花形でした。「人を安く長く働かせる」ことで利益を上げる事業者にとって、安倍政権登場前夜こそが黄金時代だったと言えます。その後は景気と反比例する形で浮き沈みしているところですが、こうした業界の「社会」への貢献って、果たしてどれほどのものなのでしょうね。「人を安く長く働かせる」ことでしか存続できない事業者なんてのは、それこそ社会の寄生虫でしかありません。駆除されることが、我々の社会への貢献です。

 よその国だと外食は高く付く、とよく聞きます。その辺は例外もあるでしょうけれど、確かに諸外国の飲食店の値段を日本円に換算してみると、ちょっと気軽には利用できない水準だったりすることは珍しくありません。高級店に限らず、街の食堂やチェーン店レベルですら、ですね。逆に言えば、日本は外食が安い国ということになります。では店で安く食べられる国であることが社会の繁栄をもたらしているかと言えば――むしろ随所で歪みをもたらしているわけです。日本の飲食業界の低価格競争は実に激しいですが、それは持続可能なのでしょうか。

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目次

2018-01-21 00:00:00 | 目次


なんだかもう、このカテゴリ分けが全く無意味になりつつあります……

社会       最終更新  2018/ 1/14

雇用・経済    最終更新  2018/ 1/21

政治       最終更新  2018/ 1/ 7

文芸欄      最終更新  2017/ 8/31

編集雑記・小ネタ 最終更新  2017/ 7/23

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おばあちゃんの生きてきた時代

2018-01-14 22:33:46 | 社会

カトリーヌ・ドヌーブら仏女性100人、過剰なセクハラ告発に警鐘(映画.com ニュース)

 ハーベイ・ワインスタインの過去30年以上にわたるセクハラ行為が暴露されたのをきっかけに、大勢の女優や映画関係者が相次いで性的な被害を告白。「#MeToo(私も)」のハッシュタグと共に、SNSを中心としたセクハラや性的暴行の告発、性犯罪に対する抗議運動がますますヒートアップする中、フランスを代表する大女優カトリーヌ・ドヌーブを含む同国の女性100人が、過剰な抗議運動に警鐘を鳴らした。

 仏ル・モンド紙は1月9日(現地時間)、ドヌーブをはじめとする女優や作家、心理学者やジャーナリストなど、様々な分野で活躍するフランス人女性100人の連名による公開状を掲載。その中で、「女性への性的暴行・セクシャルハラスメントがあるまじき行為であるのは確かだが、告発を強制する風潮のせいで、沈黙を貫く人たちが裏切り者呼ばわりされるのはいかがなものか」と疑問を投げかけた彼女たちは、「#MeToo」キャンペーンを「行き過ぎ」と批判した。

 さらに、「弁明の機会も与えられないまま一方的かつ公に糾弾された結果、失職に追い込まれた男性たちも同じく被害者。その気がない女性に対して、ビジネスディナーの場で“親密”な言葉をささやいたり、性的な含みのあるテキストメッセージを送ったり、膝に軽く触れたりしただけで、性犯罪者扱いされてしまうのだから。レイプは間違いなく犯罪だけど、女性を口説こうとちょっかいを出すのは、犯罪じゃない」と、セクハラ容疑をかけられた男性陣を擁護するかのごとき一文もある。これは、掲載と同時に大きな物議を醸している。

 

 さて「#MeToo」の流行に、常識的な言動で定評のあるマリリン・マンソン氏は警察に相談したらどうかと述べたそうで、まぁ欧州サッカー界隈では「(有名選手に)レイプされた」と新聞社に駆け込む人が定期的に出てくるのを思い出したりもしました。性的被害の訴えにも、本当に深刻なものとそうでないものがあります。軽いノリで「#MeToo」とTwitterに書き込む人が増えるほど、本来の趣旨とは違った印象を第三者に与えるものになってしまう、そんなこともあるでしょう。

 一方フランスではカトリーヌ・ドヌーヴ氏が中心となって「警鐘を鳴らした」そうです。確かに反対意見の一つもあってしかるべきと思われますが、紹介されたところでは「ビジネスディナーの場で“親密”な言葉をささやいたり、性的な含みのあるテキストメッセージを送ったり、膝に軽く触れたりしただけで、性犯罪者扱いされてしまう」云々とのこと。これは現代では、完全にセクハラですよね。

 何ら利害関係の絡まない対等な人間関係において「女性を口説こうとちょっかいを出すのは、犯罪じゃない」とは、私も思います。しかし、仕事の場で性的な含みのあるテキスト等々や意図して体に触れるのは、現代人の目には非常識に映るのが一般的のはずです。とはいえ、おばあちゃんが生きてきた時代においてそれはセクハラではなかった、当然のこととして受忍すべきものだったであろうことは、この歴史の証人の言葉から理解できます。

 往々にして人は、自分が不愉快に感じたことを後世に受け継いでいくものです。典型的なのは体育会系社会の上下関係でしょうか。下級生が上級生の横暴さに不快感を覚えたとしても、自身が上級生になる頃には、自分が先輩にされたことを後輩に繰り返すわけです。あるいは虐待されて育った子供が親になったとき、残念ながら自身も子供を虐待してしまうことが多いとも聞きます。「普通の人」は、そういうものなのだと思います。

 カトリーヌ・ドヌーヴも大御所ですから、業界の若手女性にとっては「姑」みたいなものなのでしょう。セクハラを受ける立場だったのは遙か遠い昔の話です。むしろ自分が受けた仕打ちを嫁達が免れるのを見れば、なんとなく腹立たしく感じる年頃なのかも知れません。実の娘がセクハラに遭えば彼女も怒るでしょうけれど、ヨソから上がり込んできた娘なら話は違いますからね。

 恐らくは数え切れないセクハラを受け入れてキャリアを築いてきたであろう御大にしてみれば、今になって反対の声を上げれば過去の自分を否定することになってしまうところもあるのだと思います。「沈黙を貫く人たちが裏切り者呼ばわりされるのはいかがなものか」と疑問を投げかけたそうですが、「#MeToo」と連呼される数十年前から沈黙してきたのなら、じゃぁカトリーヌ・ドヌーヴはフランスを代表する大裏切り者か、と。誰しも自分の決断は間違っていなかったと信じたいもの、これまで沈黙してきた人ほど、それが正しかったと強弁せざるを得ないのでしょう。

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それは社会主義ではないので

2018-01-07 23:35:34 | 政治

石破氏「社会主義国じゃないので、賃上げと言っても…」(朝日新聞)

石破茂・自民党元幹事長(発言録)

 (アベノミクスについて)これから先やっていかなきゃいけないことは、物価が上昇することも大事だが、一人ひとりの賃金が上がっていくか、可処分所得が上がっていく方向に変えないと、アベノミクスでつくった明るい雰囲気が台無しになる。

 企業は豊かになってきたが、個人はその実感がない。社会主義国じゃないので、政府が企業に対してもっと賃金上げろと言っても、なかなかそうはならない。すぐにはならないし、難しい企業もある。どうやって所得を上げることができるのかという時に、財政規律も大切だから、個人と企業に対する課税のバランスをどうするかということも、もう1回考えていかねばならない。消費者が豊かにならないと、企業も豊かにならない。(TBSの番組収録で)

 

 社会主義や共産主義を掲げる国や組織が衰退しても、それを脅威と捉えたがる人は不思議と減る様子がありません。社会主義国が軒並み崩壊して、共産と名の付く政党がどれほど議席を減らしたところで、ある種の人々の頭の中では、それは永遠の脅威であり続けているようです。彼らの頭の中の社会主義/共産主義が、現実世界の社会主義/共産主義と全くリンクしていないから、とも言えるでしょうか。

 例えば一口に自信家と言っても、何らかの実績によって裏打ちされた自信家と、なんの根拠もなく自信満々な人とでは、実は全くの別物です。実績による裏付けを必要とする自信家は、その実績が失われれば意気消沈してしまうもの、しかるに根拠のない自信家は成功体験の有無に左右されませんから。反共主義者も然り、社会主義や共産主義を正しく理解していれば、社会主義国や共産政党の衰退に合わせて反共の不毛さを理解していくのが必然と言えます。しかし根拠を持たない反共主義者にとって、現実世界の社会主義国や共産政党がどうなろうと、共産主義は永遠の悪なのですね。

 そして今回の石破のように、何かしら気に入らない政策が行われると「それは社会主義だ」などと言い募る人が一定数いるわけです。彼らの語る「社会主義(あるいは共産主義)」が何を意味しているのか、それは彼らの頭の中のファンタジーでしかありませんので、あまり深く考える必要はないでしょう。ただ彼らにとっての悪の代名詞である「社会主義」というレッテルを貼ることで、自身の反対の意思を表している、それだけのことです。

 「一人ひとりの賃金が上がっていくか、可処分所得が上がっていく方向に変えないと、アベノミクスでつくった明るい雰囲気が台無しになる」云々に限れば(石破の主張にしては珍しく)真っ当だとは言えます。「政府が企業に対してもっと賃金上げろと言っても、なかなかそうはならない」云々も、まぁそうなのかも知れません。もっとも全てを企業の自由に任せてきた過去の政権や大手労組よりは、安倍政権の方がかけ声だけでもマシなところはあると私は思っていますが。

 まぁ相対的にはマシでも、十分か不十分かと問われれば、議論の余地なく不十分です。口先だけの賃上げ要請では、アリバイ作りレベルの微々たる賃上げしか達成できないことは首相本人だって流石に理解しているのではないでしょうか。本当に賃金水準を引き上げたいのなら、必要なのは対話ではなく圧力です。制裁を伴う強い態度で企業に賃上げを迫らなければ実効性などあり得ません。北朝鮮とのプロレスごっこなどやっている暇があったら、日本の富を滞留させている国内の癌にこそ切り込むべきなのです。

 日本の企業が賃上げを渋り、内部留保ばかりを空前絶後の水準へと積み上げ続けてきた結果、株価は上がっても消費は伸びず国内市場は沈滞したままというのが我が国の現状です。日本の企業に富を吐き出させない限り、日本の国内市場の消費が伸びることはあり得ません。今こそ政府が本当の意味で強硬姿勢を見せるべきなのであり、それを「社会主義だ」などと批判する人がいたら、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」ぐらいの強い意志を見せて良いのではないでしょうかね。

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消費者だって労働者だし、子供だって未来の大人、若者だって未来の中高年なわけで

2017-12-31 22:22:54 | 社会

 日本の労働環境の劣悪さは今に始まったことではありませんが、とりわけ小売りや飲食など消費者と直に接する職場の過重労働は際立つところです。では諸外国ではどうなのかと視点を変えれば、日本「以外」の国では店員が不親切であると、よく言われますね。日本のように、高級店でもないのに店員が全身全霊を尽くしてサービスに当たるような文化は、なかなか例を見ないのではないでしょうか。では、客を大切にする日本は住みよい国なのかと言えば――そこはまた別問題になっているわけです。

 消費者であり続ける限りにおいて、日本は良い国に違いありません。日本ほど、微々たる対価で高度なサービスが当然のように受けられる国は他にないでしょう。しかし、日本人の大半は消費者であると同時に労働者でもあります。24時間365日を消費者でいられれば話は簡単ですが、むしろ消費者であるよりも労働者である時間の方が長いのなら、評価の基準は変わらざるを得ません。消費者に廉価で質の高いサービスを提供するためには、低賃金の労働者に過剰な労働を強いることになりますので。

 お客様第一の日本式と、もうちょっと労働者側が手を抜いている国、どちらが良いかは好みの問題かも知れません。ただ「労働生産性」という指標の面では、残酷なほど明白な結果が出ています。言うまでもなく、日本の労働生産性は先進国中最低であり、中でも大きく足を引っ張っているのが小売りや飲食業界です。「日本流」がある種の人々の理想に適ってはいるとしても、合理性の面では否定のしようがない劣位にあるわけです。果たして、このやり方を続けるべきなのかどうか――「働かせる人」には、もう少し損得勘定が求められます。

 日本的な消費者重視が労働者に過大な負担を強いるように、特定の何かを優先することで、他に歪みを生んでお互いに不幸な結果を招いているケースは色々とあります。例えば日本ほど子供を大切にする社会もないと思いますが、子供優先のあまり「子供の周りにいる大人」に求めるものが重くなるわけです。日本ほど、母親が子供にかかり切りになることを当然視する社会も他にないでしょう。子育てに手を抜くことを許さない、周りの大人の都合を尊重することを許さない、万事が子供第一の社会では、子供を持つことが大きな負担になると言えます。よほどの余裕か覚悟のある人か、よほど無計画な人しか子供を作らなくなるのも致し方ありません。

 あるいは「新卒一括採用」は日本の奇習として知られますが、見方を変えれば日本ほど新卒者を優遇する社会は他にないことを示すものだったりします。なにしろ単純に求職者の能力を見て採否を決めるのではなく、あらかじめ「実務経験のない新卒者」専用の採用枠を設けておく、しかも優良企業ほど新卒専用の採用枠が大きいわけです。よその国では経験に乏しい新卒者が会社に入るのは色々と大変とも聞きますが、むしろ日本では経験のない新卒の方が大手企業に入りやすいのですから、外国出身者の目には驚きでしょう。

 ともあれ日本では新卒専用の優先枠が大きく設けられており、新卒ほど就職に有利なのが当たり前だったりします。しかし、超が付くほどに優遇されているはずの新卒者が我が世の春を謳歌しているかと言えば、そこまで良い思いをしているようにも見えないわけです。卒業時期の景気に左右されるところも大きいですけれど、それ以上の問題は「卒業してしまったら就職が圧倒的に不利になる」という現実が待ち構えているからではないでしょうか。日本では新卒が優先されている分だけ、「既卒」には冷たい社会です。大手優良企業ほど新卒者で採用枠を埋めてしまう、新卒時点で就職できなければ入れる会社は限られてくる、ならば「新卒時点で就職を決めなければ」という強いプレッシャーが必然的に発生します。

 そして日本は、とりわけ日本の労働市場は、圧倒的な若者優遇社会です。リストラの標的にされるのは第一に中高年ですし、「若年層の長期的なキャリア形成を~」と、おまじないを書いておけば採用における年齢差別も許されます。不況でも、専ら若者向けの非正規・パートタイムの求人は減りません。中高年になるまで会社で働き続けても給料はロクに上がらない時代になりましたが、若者の初任給は日本が豊かであった時代と変わらない水準に維持されています。現代の中高年は昔の中高年より稼げない時代ですけれど、若者の取り分だけは確保されていると言えます。

 では、日本は若者にとって夢溢れる幸せな社会なのでしょうか? 既卒者の運命を知る新卒者がプレッシャーに苛まれるのと同じように、若者も自身の未来を理解しているほど、希望を持ちにくいわけです。いかなる若者も、例外なく中高年になります。若い内は職に困らなくても、年を取ったらリストラの標的にされる、若い間限定の非正規雇用ばかりで中高年になった先の雇用の保障がない、若い間の給与水準はさておき働き続けても賃金が上がる見込みがない、こうした社会に若者が希望を持てないとしても、それは当然です。

 中高年を切り捨てて若年層の雇用機会を創出する――、そんなことは「ブラック企業」の類いであれば昔からずっとやってきたことです。トウの立った人間は切り捨てて、代わりに新しく若者を雇い入れる、そういう会社が増えれば増えるほど若者の就業機会は広がりますが、それは若者にとって希望の持てる社会なのでしょうか。とかく政治家も「若者のため」と掲げたがるものですけれど、実は「若者のため」が若者の将来を奪う、若者が「若くなくなったとき」を脅かすものだったりしないかどうか、その辺は立ち止まって考える必要があるはずです。

 消費者であったり子供であったり、若者であったり企業や財界であったり、特定の何かを大切にしようとする制度や考え方は、往々にして歪みを生むものです(今回は踏み込みませんが、企業優先で人件費削減を容易にするような経済政策を採れば、国内の消費者の購買力が下がり消費が低迷して企業業績に悪影響を及ぼす等々)。その歪みまでを踏まえて総合的に判断した結果として下された判断なら、賛否はともかく異論としてでも尊重されるべきなのかも知れません。しかし、この歪みの部分を全く考慮しないまま何かを優先しようとしているのなら、そこは見直されるべきでしょう。でなければ、巡り巡って優先しようとしたはずの相手をも苦しめることになるのですから。

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静かに暮らす権利はありません

2017-12-24 22:40:28 | 社会

園児が遊ぶ声「うるさい」 訴えた男性、敗訴確定(朝日新聞)

 「園庭で遊んでいる園児の声がうるさい」として、神戸市の男性が近隣の保育園を相手取り、慰謝料100万円と防音設備の設置を求めた訴訟の上告審で、男性の敗訴が確定した。最高裁第三小法廷(木内道祥裁判長)が19日付の決定で、男性の上告を退けた。

 一、二審判決によると、保育園(定員約120人)は2006年4月、神戸市東灘区の住宅街に開園。高さ約3メートルの防音壁が設けられたが、約10メートル離れた場所で暮らす男性は「園児の声や太鼓、スピーカーの音などの騒音で、平穏な生活が送れなくなった」と提訴した。

 今年2月の一審・神戸地裁判決は、園周辺の騒音を測定した結果、園児が園庭で遊んでいる時間帯は国の環境基準を上回ったが、昼間の平均では下回ったとして、「耐えられる限度を超えた騒音とは認められない」と結論づけた。

 7月の二審・大阪高裁判決は、園児が遊ぶ声は「一般に不規則かつ大幅に変動し、衝撃性が高いうえに高音だが、不愉快と感じる人もいれば、健全な発育を感じてほほえましいと言う人もいる」と指摘。公共性の高い施設の騒音は、反社会性が低いと判断し、一審判決を支持した。(岡本玄)

 

 何とも非道な判決が出たものです。まぁ、人権意識の希薄な裁判官なんて珍しくもありません。裁く側の思想信条次第で結果が左右されるのは今になって始まったことではないのでしょう。元より、我々の社会において騒音問題は自力救済が鉄則です。静かに暮らす権利を現行憲法は保障してくれませんし、最高裁もその権利の無効をここに判例法として確定させたわけです。静かに暮らす権利は、住民自身の不断の努力によって、これを保持しなければならないと言えます。

 今回の判決によって「公共性」を口実とした人権の制約が公的に認められたことは、今後に何をもたらすでしょうか。例えば米軍/自衛隊基地なり風力発電施設なり騒音源は色々とあります。これらはいずれも、「公共性」があることになっています(私は幾分か疑問ですけれど)。そして近隣住民との間で少なからぬトラブルもあるのですが、「公共性の高い施設の騒音は、反社会性が低い」との理由で住民の訴えを退けることが正当であると、最高裁の判例として積み上げられたわけです。

 まぁ、沖縄の米軍基地を巡る問題と今回の訴訟を合わせて考えると、ある意味で一貫性はあるのかも知れません。軍事基地からの騒音も不愉快と感じる人もいれば、反対に好感を抱く人は間違いなくいます。不快と感じる人がいたとしても、快く思う人もいるのなら騒音源への対策を取る必要はない、住民の訴えを退けても問題ないと、そうした判断は一貫しており、これが保育園と原告男性に対しても適用されたと言えるでしょう。

 ともあれ国の環境基準を上回ろうとも、「耐えられる限度を超えた騒音とは認められない」で済ますことが可能であると、日本の司法が定めたわけです。いったい何のための環境基準なのでしょうね? いずれにせよ、自宅の隣に保育園が建設される可能性は誰にだってありますし、シフト勤務に回されて夜に働き昼に寝る生活になろうとも、保育園からの騒音を止めてくれる人はいませんし、もちろん法的な保障は一切ありません。日本に暮らす誰もが、自力救済の手段を考えなければならないのです。

 騒音問題は近隣住民だけが被害を被るものであって、離れたところで暮らす人にとっては完全に他人事です。米軍基地の負担なんて沖縄県外の人間にとってはどうでも良いように、保育園の近所に住む人の生活なんて国民の99.99%には無関係です。ほんの一握りの人に犠牲になってもらえば、全ては丸く収まります。誰もが騒音に悩まされない社会を目指すのは難しいですが、ごく少数の近隣住民さえ犠牲にすれば保育園の設置は簡単です。子供のために、近所の人は犠牲になってください!

・・・・・

 なお前々から書いてきたことではありますが、日本社会はあまりにも子供を大切にするが故に、「子供の周りにいる大人」が辛い思いをしていると言えます。「お客様は神様です」ならぬ「お子様は神様です」ってところですね。劣悪な職場では「お客様」の満足のために従業員が無理を強いられるわけですが、実は「子供様」に対しても同じことを発生「させている」のではないでしょうか。「お客様のため」も「子供のため」も、根っこでは同じような文脈で使われているのですから。

 「家庭的な」会社とはブラック企業の定番フレーズと言われますが、総じて日本の家族関係はブラック要素を豊富に持っているのかも知れません。仕事を負担に思うことが許容され、だからこそ仕事を楽にすることが認められている職場もあれば、仕事を負担に思ってはいけない、何事も「はい喜んで」と答えなければならない職場もあります。では日本の子育て環境はどうなのか、子育ては負担だから楽にしようと考える人が許されているのか、それとも子供に対して常に「はい喜んで」と感じるのが当然とされている社会なのか――

 とりあえず日本は、「子供の周りにいる大人」の負担軽減のために子供ファーストから脱却する必要があるんじゃないかと思います。行き過ぎた「お客様第一」が従業員に多大な負担を強いるように、日本の子供ファーストは「子供の周りにいる大人」にブラックな生活を押しつけるものです。それは、子供を持つことへの負担増にしか繋がりません。しかし「客」や「経営者」の目線で過剰サービスを当然視する人が多いのと同じように、「子供の周りにいる大人」にも同様のものを要求する部外者が目立ちますね。

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時間が解決してくれるかも知れませんが

2017-12-17 22:53:01 | 雇用・経済

外国人実習生の失踪急増、半年で3千人超 賃金に不満か(朝日新聞)

 日本で働きながら技術を学ぶ技能実習生として入国し、実習先の企業などからいなくなる外国人が急増している。法務省によると、今年は6月末までに3205人で半年間で初めて3千人を突破。年間では初の6千人台になる可能性が高い。実習生が増える中、賃金などがより良い職場を求めて失踪するケースが続出しているとみられている。

 近年の失踪者の急増を受けて、法務省は失踪者が出た受け入れ企業などへの指導を強化。賃金不払いなど不正行為があった企業などには実習生の受け入れをやめさせたりした。その結果、一昨年に過去最多の5803人となった失踪者は昨年、5058人にまで減っていた。

 今年の失踪問題の再燃を、法務省は「率直に言って遺憾だ。さらに分析しないと、何が原因か示せない」(幹部)と深刻に受け止めている。

(中略)

 法務省が、昨年に不法滞在で強制送還の手続きをとった実習生、元実習生の計約3300人に失踪の理由を聞いたところ、大半が「期待していた賃金がもらえなかった」「友人から『もっと給料が良いところがある』と聞いた」といった賃金を巡る不満だった。最低賃金未満ではないものの、より手取りの多い会社を求めて失踪するケースも少なくないとみられる。パワハラやセクハラの被害を訴える声もあったという。

 厚生労働省によると、監督指導した実習実施機関のうち7割に、実習生への賃金不払いや過重労働などの労働基準法違反があったという。(織田一)

 

 さて法務省「幹部」とやらは「さらに分析しないと、何が原因か示せない」と語っているようですが、既に3000人以上を対象とした聞き取り調査結果が同時に報道されていたりします。恐らく「幹部」は何か他の理由を作って矛先をそらすべく「分析」したいのでしょうけれど、誰かどう見ても理由は明らかですよね?

 外国人「実習生」への違法な低賃金長時間労働と人権侵害は広く知られるところです(まぁ法務省幹部にとってのそれは、警察庁にとってのパチンコの換金みたいなものなのかも知れませんが)。その内、ベトナムの日本大使館前に実習生像が建てられるようなことがあっても不思議ではないでしょう。実習生は軍隊によって強制連行されてきたわけではないとしても、日本が恨みを買うであろうことは必至と言えます。

 もっとも、以前にも書きましたがこの問題は将来的には解決する可能性が高いと考えています。ほんの数年前まで外国人実習生の中心は中国人でしたが、ここでも伝えられているように現在はベトナム人が最多で中国出身の実習生は減少傾向にあるわけです。そしてベトナム人も増え続けることはない、いずれ中国人のように減少していくであろうと予測されます。現在のベトナムが占める位置に他の国が入ることはあるとしても、その国の人もいずれは減っていくのではないか、と。

 中国からの実習生が減っている理由はまさに、「(日本では)期待していた賃金がもらえない」「もっと給料が良いところがある」辺りではないでしょうか。例えば中国企業のファーウェイなど、日本で新卒を募集するに当たって40万円/月を超える初任給を提示しました。グローバルな賃金水準からすれば特別に高くもないとはいえ、賃金抑制を至上命題としてきた日本企業の一般的な初任給の2倍程度でもあります。今や日本人から見ても、日本(企業)で働くより中国(企業)で働いた方が裕福になれる、そういう時代に入りつつあるのです。

 中国でも一流の企業に入れるのなら、日本で働くよりも賃金は高い、そうでなくても日本で「実習生」として働くくらいなら国内で働いていた方が給料が良い――そうなったら、もはや好き好んで日本に働きに来る人はいませんよね。親日派ブローカーに騙されて日本に売り飛ばされる人もいずれは減っていく、外国人実習生の問題は中国出身者に限っては、そう遠くない内に解決(というより自然消滅)することでしょう。

 ベトナムも然り、中国に比べれば幾分か時間は要するものと思われますが、日本で働くより国内で働いた方が稼げる時代はいつか必ず訪れます。そうでなくても、日本で働くよりも中国や韓国に出稼ぎに行った方が給料が良い、ぐらいなら今でも普通に起こりうるケースです。給与面で日本に働き先としての魅力を感じない人は、当然ながら増えていくわけです。だから外国人実習生の問題は、消滅という名の解決の可能性があるのだと言えます。

 まぁ従軍慰安婦とかその辺の問題も、当事者が死んだり、その身内も老いていったりすれば「消滅」に近づきます。そういう「解決」を待っている人も政府筋には多いのではないでしょうか。外国人実習生の問題も時間の経過によって消滅に向かうであろうと私は予測していますけれど――それで良いのか、とも思いますね。これで問題が解決した(非難してくる人がいなくなった)としても、あまり誇らしい解決法とは感じられないので。

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信頼できない人に裁かれるぐらいなら

2017-12-11 00:08:08 | 雇用・経済

 さて先週の続きではありませんが、「(他人の)礼儀を直す」というのは色々と難しいものがあります。「話せば分かる」人ってのは本当に希少で、そんな悠長に構えていては撃ち殺されないまでも無礼を働かれるばかりです。非礼な人はどこまで行っても非礼であり、言うことを聞かせるには暴力なり権力なりの「力」で押さえつけるしかない、残念な人はどこにでもいますから。

 そこで、根強い体罰容認論を考えてみましょう。確かに、暴力でしか制御できない人も学校には数多いるには違いありません。学校教師が「話せば分かる」などと手をこまぬいている間にも、別の生徒が暴行なり恐喝なり窃盗なりの被害に遭っていることも多々あろうと推測されます。ならば教師の体罰を解禁して、教師の暴力によって学校の治安を維持できるようにすれば良いと、そう主張する人が出てくるのは頷けるところです。

 ただ、そうした体罰待望論者が、いったいどこまで学校の先生を信用しているのか、この点に私は疑問があります。もし学校教師が全面的に信頼するに足る高潔かつ公正な人間であるならば、その手に「力」を持たせるのは良いことかも知れません。しかし私利私欲や好き嫌いにまみれた人間の手に「力」が渡れば、その「力」がどのように振るわれるかは考えるまでもないことでしょう。

 学校教師の言うことは常に正しい、先生の判断に一切の誤りはない――そう信じている人が体罰容認を説くのなら、まぁ賛成反対はさておき一定の合理性はあるかなと思います。しかし学校教師に信頼を抱いていない、むしろ不信感を持っているにもかかわらず、教員による体罰が事態を改善しうると考えている人がいたならば、率直にって「頭の弱い人だなぁ」ぐらいに感じますね。信用できない人の手に、どうして力を持たせようとできるのやら。

 次善の策として、学校現場への警察権力の介入が必要だと説く人もいるわけです。相撲協会を飛び越して警察に被害を訴えた貴乃花親方も、考え方としてはこれに似るパターンと言えます。まぁ、教師や相撲協会関係者よりは警官の方が信頼できるところはあるのでしょうか。でも警察関係も、色々と信用を失墜させるケースは多々ありますし、そこで警察不信を説く人は多いですよね……

 信頼がないにもかかわらず、そこに「力」を持たせることを望んでいる、そうした奇妙な構図は非暴力的な面でも多々あるように思います。例えば雇用主と労働者の権力関係はどうでしょう、とりわけ矛盾に溢れているのは「成果主義」や「能力主義」への評価です。とかく「年功序列」は悪とされ、その対概念として成果主義なり能力主義なりが称揚されがちですけれど、労働者を評価する雇用主の目がどこまで信頼されているのか、そこに私は疑問があります。

 もし、自分自身の勤務先の人事評価が高度に信用できるものと感じているのならば、その人が成果主義や能力主義を支持するのは分かります。しかし自分の会社の評価に納得していないのに、成果主義・能力主義を支持しているのなら、ちょっと筋が通りませんよね? もしかしたら「隣の芝生は青く見える」よろしく、自社はさておき他社では適正な評価が行われていると、そう信じているのでしょうか?

 少なくとも私は、大半の日本企業における人事評価は誤った基準で行われており、能力のある人よりも「粒選りの馬鹿」を昇進させる制度になっていると感じています。だからこそ、日本の経済は伸びなくなったのだ、と。むしろ過去に存在したとされる年功序列の方が、まだマシだったのではとすら思います。年功序列なら、有能も無能もどちらも昇進します。しかし日本の成果主義の元では、無能が権力を握ってしまうわけです。そうして失われた10年は失われた20年となり云々。

 まぁ現代において地位を得ている人ほど、自分は正しい評価によって今に至るのだと、そう信じたがるところはあるのでしょう。そして経済系のメディアほど、顕著に権力へと擦り寄るところもあります。さらに「偉い人」の言動を受け売りして、自身も偉い人になったつもりの論者も少なくありません。しかし会社の舵取りを任された人の残した「結果」は今や火を見るより明らかです。まぁ、選べるものもあれば選べないものもありますけれど、信頼するものを間違えたツケは庶民にも回ってきます。

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上司や先輩の礼儀も直してもらっていいですか?

2017-12-03 23:00:22 | 社会

 さて先月より日馬富士の暴行問題が話題を攫っているわけです。これがモンゴル出身力士ではなく、相撲協会やメディア各社が何よりも重んじる「日本出身」力士による行為であったなら、報道はどうであったかと気になるところですかね。

 なお巡業部長でもあるはずの貴乃花の対応も事態をこじれさせた一因に見えますけれど、ことによると角界ってのは学校みたいなところなのかも知れません。例えば学校での暴行を学校関係者に調査させれば「いじめはなかった」という結論が出て終わりです。それと同じように、相撲協会内部の調査に任せてしまえば、事態がうやむやにされるという危惧が貴乃花にはあったのではないかと推測されます。

 ただまぁ学校で日常的に行われている暴行や窃盗、恐喝(学校用語では「いじめ」)の類いに警察を介入させるのがベストかと言えば、警察だって一概に信用できないところがあるのではないでしょうか。冤罪を生むのも警察であり、手強い加害者に対処するより被害者を泣き寝入りさせて問題を片付けようとするのも警察です。そして不祥事に関しては警察も学校も相撲協会も良い勝負です。

 結局、警察沙汰にすることで確実に見込めるのは問題の解決よりも、学校なり角界なりの治外法権的な領域で偉そうにしている人々への宣戦布告、ですね。この辺、企業における内部告発にも似たような性質があるのかも知れません。学校教師なり相撲協会理事なり会社役員なり、そういう人々は「内部で」問題を片付けようとしたがるわけです。そこに「外部の」権力を介入させるのは――良いか悪いかはさておき波紋を投げかける意味合いは大きいのでしょう。

 

日馬富士「礼儀、直すのが先輩の義務だと」 引退会見(朝日新聞)

 暴行は宴席で行われたとされる。日馬富士は酒癖について問われると、「お酒を飲んで人を傷つけたり暴れたり、酒癖悪いといわれたことは一度もない」と断言。酒との向き合い方を問われ「酒飲んだからこその事件じゃないので、これは」と語気を強める場面もあった。

 

 もちろん暴力は良くないのですが、日馬富士に関して一つだけ賞賛されるべきは「酒のせいにしなかったこと」ですね。不思議なことに交通事故だけは飲酒が絡むと罪が重くなりますけれど、これは例外中の例外で、奇行や暴行、器物破損や窃盗に痴漢、諸々の迷惑行為で世間を騒がせた被疑者に「泥酔していた」とエクスキューズが付け加えられることは至って一般的です。酒に酔っての行為であれば一定の言い訳が立つものですが、それをしなかった日馬富士は少し立派です。

 ちなみに日馬富士に言わせれば礼儀を直すのが先輩の義務だそうです。じゃぁ、礼儀がなっていないのが先輩の方だったり上司だった場合は、どうしたら良いのでしょう。話の最中にスマホをいじる先輩社員や上司をしつけるのは後輩/部下の義務ということでビール瓶なりカラオケのリモコンなりでぶん殴ってやりたいわけですが――きっと先輩社員のさらに先輩や、上司のさらに上司の教育が悪かったのだと思って、とりあえずは諦めています。

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マルクスと餅屋の憂鬱

2017-11-26 22:00:46 | 雇用・経済

 マルクスの説くところによれば共産主義は資本主義の後に来るものであったようで、現に共産主義の理想に近づいている例としては80年代の日本や現代なら北欧の福祉国家が挙げられたりもします。その一方で共産主義あるいは社会主義を看板に掲げて成立した体制は軒並み資本の蓄積段階を経ていない国に限定されていたわけです。乗り越えるべき資本主義の段階を飛ばして共産党独裁政権を作り上げた国家がマルクスの構想を実現できたかと言えば――結果は既に出ていますね。

 「社会主義国」の特徴としては、上述のように「資本主義の段階を飛ばして成立する」ことが挙げられますが、今回もう一つ注目して欲しいのは「党の指導者が万事の権威になる」辺りです。典型的なのが社会主義国におけるマルクス主義解釈で、学者ではなく時の党指導者がマルクス主義の権威になるわけです。ソ連におけるマルクス主義理論家の頂点はレーニンでありスターリンであり、中国のそれは毛沢東であり、まかり間違ってもマルクス主義の研究者ではなくなってしまうのですね。

 こうして時の権力者の都合や信条によってマルクス主義はレーニン主義やスターリン主義、毛沢東主義へと改変される運命を負ってしまうのですが、幸か不幸か権力者による歪曲を受けるのはマルクス主義ばかりではなかったとも言えます。権力闘争のエキスパートのはずが、いつの間にか「あらゆること」の指導者としての地位が確立される、そうしてトップの思い込みによって経済や農業、軍事や外交もまた専門化ではなく権力者によって動かされるようになるわけです。

 伝え聞くところによると北朝鮮の先代の将軍様は、大学時代の3年間で1500冊の本を書き6本のオペラを作曲、初めてゴルフクラブを握った際には11回のホールインワンを含む38アンダーを記録したそうです。そして金正恩もまた、あらゆることに専門的知識を持つ全能の存在として全土を行脚、各地で「指導」を行っていることが知られています。父子ともども権力闘争に関しては相当な手腕を持っているであろうと推測されますが、なぜかゴルフやリンゴ栽培においてすら専門化として扱われてしまうのです。

 さて、その辺を対岸の火事と思っていられれば良いのですけれど、時に我が国でも似たようなケースは見られるのではないでしょうか。2011年の大災害時には、時の総理大臣が自身を原子力の専門化と勘違いした言動や振る舞いで色々と混乱を招きました。曲がりなりにも総理の椅子を手にした人である以上、権力闘争に関しては間違いなく専門化であったと言えますが――対処すべき個々の具体的な問題に対してどこまで専門的な知見を有していたのか、その辺は毛沢東の農業知識と同程度のような気がしないでもありません。

 そして日本の「会社」ではどうでしょう。実務を、現場をより知っているのは誰なのか。しかし「知っているとされる」のは誰なのか。実作業者の声が真実として受け入れられる、現場で働く人の声が実態として受け止められる、そんな組織は意外に希少なのではないかと思うわけです。むしろ実作業の手順は何一つ知らない、現場からも離れて久しい会社幹部の声の方が「真実」として扱われる会社の方が一般的であるとすれば、そこで望める経済的発展が社会主義国と同レベルに落ち込むのも必然なのかとすら感じますね。

 ことわざに「餅は餅屋」とありますが、少なくとも私の勤務先であれば「餅は部門長」「餅は社長」だったりするわけです。実務者が直面している問題なんかは相手にされず、役員の想像した課題こそが組織として対処すべきものとされる、第一線の営業が必要と感じているものではなく、社長の取り巻きが思い描いた「こうすれば売れるだろう」という妄想が会社の施策になる、そんな会社は珍しくないのではないでしょうか。現場で何が起こっているか、そこに最も精通しているのは誰なのか――単に地位が高いだけの人の夢想が「真実」として会社の事業計画に反映されてしまうようなら、当該の組織に発展は望めないと言えます。

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