非国民通信

ノーモア・コイズミ

日本の学生に勉強させたいのなら

2016-05-22 20:39:41 | 雇用・経済

留学生が斬る ここがヘンだよ日本のシューカツ (日本経済新聞)

 中国の山東省出身で08年に立命館APUに入学した杜銘雨さん(26)は大学卒業後、日本語を使って仕事をしたいと考え、日本で就活に挑んだ。商社やメーカーなど大企業を受けるが、いずれも落とされた。現在では文系でも活用できるという理由で、あるIT(情報技術)系企業で働いている。就活を通して感じたのは「採用する際の明確な基準がない」ことだ。

 あるプラント大手のリクルーター面接を受けた時には、学生時代の課外活動について聞かれて面食らったという。「オーケストラでバイオリンを弾いていたが、それがどう関係あるのか分からなかった」。たしかに日本の採用では、学業成績よりもその他の活動での定性的な評価が重視される傾向がある。学生側も、バイオリンをやっていたことを喜んでアピールするだろう。だが、留学生が期待しているのは、学業成績で平等に評価されることのようだ。

 シンガポール出身の曾オスティンさんも「大学の成績が採用に関係ないから学業を放棄して就活に走ってしまう」と手厳しい。大学の成績があまり重視されないことに違和感を覚える外国人は多い。日本の就活生も同じような矛盾を感じたことはないだろうか。学業の邪魔にならないようにと、経団連が毎年のようにスケジュールを二転三転させて混乱しているが、そもそも評価の基準を変えないかぎり、学業優先は実現しないのかもしれない。

 

 折に触れ書いてきたことですけれど、どこの国の大学生だって純粋に「勉強したいから」勉強しているわけではないと思うんですよね。「日本とは違って勉強している」とされる国の学生も「将来、立派な職業に就くため」に勉強しているのであって、本物の向学心の持ち主が占める割合は日本も他国も違いはないのではないでしょうか。そして「勉強しない」と詰られる日本の大学生はヨソの国の場合と何が違うのかと考えると、それはやはり上記に引用した類いの現実が大きく影響しているのだと言えます。

 この外国人留学生が日本の就職活動に対して感じた違和感は私自身も痛感してきたことで、その点で私は日本社会の物差しからは外れていたのだろうなと思うところですが、ともあれ「日本の採用では、学業成績よりもその他の活動での定性的な評価が重視される傾向がある」わけです。血液型ですとか体育会系の部活動への所属歴なんかは聞かれても、大学の成績なんかは一度も問われたことはありません。もし日本社会が「学業成績で平等に評価される」代物であったのなら私はエリートなのでしょうけれど、現実は正反対ですし。

 「大学の成績が採用に関係ないから学業を放棄して就活に走ってしまう」とシンガポール出身の留学生は語ります。ただし出身大学のネームバリューは割と重要ですので、「良い大学に入るため」に受験勉強を頑張る日本の高校生は多いわけです。しかし、その先は勉強しないのですね。理由は考えるまでもないでしょう。そこから勉強しても「良い仕事に就くため」には役に立たないから、ですよね。どこの国の学生も、大学を出た先をちゃんと見据えているのです。「大学を出た先」で求められるのが勉強なのかそうでないのか――それを日本の学生は実によく理解しています。

 日本の教育も行政の決める方針は二転三転していますけれど、結局はニンジン次第なのではないでしょうか。良い大学に入ることが良い会社に入ることの近道なら、教育行政が何を定めようと高校までは決められた教科を学生達は真面目に勉強するかも知れません。しかし、その先が学業「以外」を重視するのであれば、若者が勉強するのは大学入試まで、です。ゆとり教育をやめる、英語教育を早期開始する、プログラミングを教える云々と学校現場を振り回したところで、それを「大学を出た先」の社会で採用の権限を持った人々が評価するかは別問題なのですから。

 行政の決める「何を学ばせるか」なんかよりも、国内企業の「何を身につけた学生を採用するか」の方がずっと、学生が勉強するかどうかへのの影響力は強いように思います。しかるに日本の場合は企業側の求めるものがあまりにも曖昧すぎて「何を勉強して良いのか分からない」学生も多い、学生だけではなく大学関係者にも多いのが実態と言えます。そうして、何も学べないまま時間だけが経過してしまうこともあるでしょうか。おそらく教育行政がナタを振るうべきは教育現場の方ではない、変えるべきはぶら下げるニンジンの方であり、その権限を持った企業側にこそ改革を迫ること、それこそが日本の教育を変えることになるはずです。

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目次

2016-05-22 00:00:00 | 目次


なんだかもう、このカテゴリ分けが全く無意味になりつつあります……

社会       最終更新  2016/ 4/28

雇用・経済    最終更新  2016/ 5/22

政治       最終更新  2016/ 4/13

非国民通信社社説 最終更新  2013/12/ 7

文芸欄      最終更新  2016/ 4/17

編集雑記・小ネタ 最終更新  2016/ 5/ 2

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社会人の辞書に"不可能"はない

2016-05-15 21:56:00 | 雇用・経済

 この頃ですと三菱自動車の燃費偽装が話題ですが、少し遡れば東芝の不正会計なんかもあるわけです。そしてこのブログにも過去に書きましたが、私の勤務先でもカラ受注なんかは横行しておりまして、まぁヨソの国は知りませんが日本の会社なら多かれ少なかれどこでも見られることなのかな、という気がします。会社の偉い人の求めるままに実態からかけ離れた都合の良い報告をする、ってのはコミュニケーション能力によって選別された日本のサラリーマンにとっては当たり前の行動なのかも知れません。

 かのナポレオンは「"不可能"とはフランス語ではない」みたいに語ったそうで、これが「我が輩の辞書には〜」と訳されて日本に普及しているのはよく知られていることですが、むしろ日本の場合こそどうでしょう? 「"不可能"とは社会人の使う言葉ではない」ぐらいに考えられている気がします。実際、会社で高く評価されている人はおろか下っ端でもマトモに就職できている人、非正規でも会社に完全になじんでいる人は決して「無理です、不可能です」とは口にしませんから。

 ……で、その結果が三菱自動車であり、東芝でもあると言えます。私の勤務先でも会社の偉い人が毎月、全国の営業拠点長に「どうして(予算を)達成できないんだ!」と電話会議で詰問しているわけです。もちろん各拠点で事情はありますし計画通りに受注が取れるとは限らない、それは当たり前のことです。しかし、会社で偉くなるような人の辞書に「不可能」はありません。なんだかんだ言って結局は「(予算達成)できます」と全国の拠点長が宣言し、それに基づいた事業計画が立てられて終わるのです。

 言うまでもなく予算目標が事前の宣言通りに達成されることはなく、蓋を開けてみた結果は当初の目論見からは大きくかけ離れた低い実績でしか出てこなかったりします。そんな結果があらわになって初めて「なぜ見込みと実績にここまで差があるのか」を分析すべく役員層からの厳命が飛び交い、本社の管理部署では上へ下への大騒ぎを繰り広げていたりするのですが――いやはや馬鹿の相手は仕事とはいえ疲れますね。

 私なんかは事前に不可能であることが分かっていれば「それは無理です」と適切に現実を伝えてしまうわけです。だから自分はまともに就職できないし会社でも孤立しがちなんだろうなと思うところですけれど、結局のところ実務に携わっている人間が最も正しく実態を把握しているもので、そこから上がってくる報告が歪められてしまえば将来の予測もおぼつかないのではないでしょうか。「やります」「できます」と言わせることは簡単なのかも知れませんが、実際にできるかどうかは別問題なのですから。

 気象予報士に「晴れ」の予報を出すことを強要することはできますが、翌日の天気を晴れにすることができるわけではありません。むしろ「雨」の予報を受け入れていれば、まだしも対策は取れるというものです。社員が正しく「そんな都合良くは行きません」「我が社では開発できません」「状況は厳しいです」と現状を報告し、偉い人がそれを受け入れることができれば最低でも「備え」ができます。しかし偉い人が望むがままに都合の良い報告を上げる/上げさせるのが当たり前になった会社にできるのは夢を見ることだけです。夢の中では燃費が他社を上回っている、利益は上がっている、計画通りに受注できているのかも知れません。しかし夢はいつか醒めるのです。

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技術に劣る日本の企業はオカルトに頼る

2016-05-08 23:36:11 | 雇用・経済

 この頃は「水素水」が一部で流行っているようで、いかがわしい業者ばかりではなく名の知れた一流メーカーも参入するようになったわけですが、どうしたものでしょうね。まぁ元より世界に冠たる日本の家電メーカーなども挙ってマイナスイオングッズに群がっていたりしたくらいですから、日本企業の見識とはそういうものなのかも知れません。

 かくいう私も家電量販店でバイトしていた頃は、効果がないと知りつつマイナスイオン製品を売り込んでいたことがあります。お客さんへ「こんなの完全にデマ、オカルト商法ですよ」みたいに説明しておけば誠実な振る舞いであったのかとは思うところですけれど、そんなことをすれば店長に怒られるだけですから。

 その他にも日本の名だたる食品メーカーや製薬メーカーが、これまた根拠の薄弱というか捏造に等しいレベルの健康グッズを盛んに販売しているわけです。何とも恥ずかしい話ですが、市場にはそれだけの需要があると言うことでもあります。為政者が有権者の水準に引き寄せられていくのと同じように、メーカーもまた顧客の水準に擦り寄っていくところもあるでしょうか。

 マイナスイオンだのプラズマクラスターだの水素水だの高音質microSDカードだの、そんなものはハッタリだと理解している人は当然ながらメーカー側にもいるのだとは思います。しかし、それでも発売されてしまう、社を上げて売り込みが図られてしまう辺りに「日本の会社」らしさがあるのかも知れません。日本の会社が重んじるのが何なのか、窺い知れるところです。

 結局のところ日本の会社はどこも「コミュニケーション能力重視」「人物重視」です。技術力や科学の素養なんかよりも大切なものがあるのだと言えます。真摯に優れた製品を開発するよりもハッタリで誤魔化す、会社の偉い人の望み通りの回答でご機嫌を取ることの方が優先順位が高いわけです。日本の会社で活躍したければ、知性には蓋をしなければなりません。こんな馬鹿げた製品をラインナップしていけば中国や韓国の企業に追い抜かれるのは当たり前ですよ、と忠告できるような人は就職の段階で弾かれてしまう、あるいは奇跡的に社内に存在していても黙殺されてしまうのでしょう。

 日本の技術力云々は、こうしたハッタリ商法の横行を見るに完全に過去の神話になってしまったなと感じます。むしろ近年は中国企業に技術力で追い越されるばかりか賃金水準でも上を行かれるケースが珍しくなりつつあります。日本の会社の偉い人々は日本をどこへ導こうとしているのか、どうにもこのままの方向ですと「技術力は今ひとつだけれど賃金コストは低く抑えられる国」になりそうです。発展途上国にとって、それは通過段階なのですが――日本の場合はゴールになっていそうな辺り、目も当てられません。

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日本人の言う「もったいない」とは

2016-05-05 22:22:13 | 雇用・経済

 たとえば一口に「無駄削減」と言っても日本の場合と余所の国とでは向いている方向が正反対なんじゃないかという話を先月に書きましたが(参考)、似たようなことは他の言葉でも当てはまるでしょうか。思い当たるのは「もったいない」とかですね、何を以て「もったいない」と扱うか、文化圏によって結構なズレがあるような気がします。

 「日本には資源がない」というのもまた一種の合い言葉と化していますけれど、資本主義における資源の有無の重要性は果たしてどの程度なのでしょう。確かに「資本のない国」にとって「資源の有無」は命運を大きく左右する要素です。資源でもなければ外貨を獲得できない、外貨を獲得できなければ経済を発展させようにも「元手」がありませんから。元手を手にできなければ、商才があっても金儲けは出来ないわけです。

 では反対に元手がある、資源はさておき「資本がある」国の場合はどうなのでしょうか。確かに資源があれば、知恵を絞らずとも容易に利益を上げる機会が得られるとは言えます。しかし、資源から得られた利益が国全体の経済を支えているのは小国や発展途上国の話、一定以上の規模の先進国は資源ではなく「資本」から利益を上げているわけです。資源の有無の重要性やいかに?

 19世紀ぐらいまでなら資源を輸出して金銭を自国に蓄積させる経済モデルは有効であったのかも知れません。一方で近代以降の「資本主義」の時代において重要なのは資源ではなく資本である、まず資本を獲得するために資源を必要とする国はあるにせよ、既に資本の蓄積を終えている国にとっては、資源を売ることよりも手元の資本を活用して経済を循環させることの方が大切になってくると言えます。

 しかるに日本の経済言論は今なお資本主義の時代に到達できていない、言うなれば「資源主義」の段階に止まっているのかな、と感じることもあります。資本をいかに活用するかよりも、限りある資源よろしく蓄積させることの方を是としているのですから。お金(資本)というリソースを「眠らせておく」ことを「もったいない」と思うのか、それとも「使う」ことを「もったいない」と思うのか――どうも日本の場合は後者のようですが、その結果として日本は世界経済の成長から取り残され、ひたすら内部留保だけが増加するという孤高のガラパゴスと化してしまいました……

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名物なら全国どこでも食べられるから

2016-05-02 22:37:49 | 編集雑記

 時々、地方の営業所に出張に行くことがあるのですが、仕事に興味のないおじさん的には孤独のグルメよろしく何かいつもとは違うものを食べることの方が楽しみだったりします。ただしそれは単独で行動が許されている場合に限ると言いますか、勤務先では何でもかんでも一緒に行動することをチームワークと呼んで奨励されているもので、そうなると入る店も好きには選べなかったりするわけです。結局、いかにも観光客向けの名物しか食べられなかったりして、本当に嫌だな、と。

 この頃は何かと理由を付けて別行動を取るように心がけるようにしているので会社での評価は下がる一方だったりしますが、まぁ気にしません。せめて無意味な出張にも何らかの楽しみは見出したいところ、全国どこでも食べられるような日本中に普及した「名物」でせっかくの機会を潰してしまってはガッカリですから。そこはやはり、現地でしか食べられないものを探したいわけです。

 誰もが知っているような名物は日本のどこでも食べられますし、むしろ現地の人より観光客が食べたがるメニューになっているところもあるはずです。そういうのは、わざわざ出張先で食べるようなものではないな、と思っています。地域の味ってのは、観光客向けにPRしている味とは違う、地域のブランドを冠して全国展開している味とは違うでしょう。ここはやはり、東京近辺では食べられないものを探さなければいけません。とはいえ、時間的な制約も多い中、のんびりお店を探している余裕もなければ土地勘もない、「当り」と言える店に簡単には出会えないですが。

 発想を変えるなら、コンビニのおにぎりやサンドイッチも「地域の味」と言えるのかも知れません。特定の食品メーカーのブランドを冠して売られる商品ならいざ知らず、コンビニのブランド名で売られる賞味期限の短い食材は地場の食品会社が造っているものですから。都内のコンビニであれば千葉や埼玉の食品工場で製造されたものが、ファミリーマートなりローソンなりの名前で売られているわけです。しかし別の町に行けば製造者は違う、同じセブンイレブンのおにぎりでも、造っている会社は違ったりします。

 概ねレシピは同じなのでしょうけれど、まぁ先発医薬品とジェネリック医薬品ぐらいの違いはある、同じ名前のコンビニで同じ商品名で売られていても千葉の食品会社で製造されたサンドイッチと名古屋の食品会社で製造されたサンドイッチでは、微妙な違いがあると言えます。工業製品でも同じなのは数値化されたカタログスペックだけで、実は製造委託先次第で品質が全く異なる製品だってあるわけです。食品も然り、この頃はこれ見よがしの名物を食べるくらいなら、普段は食べる機会のない別の地域の食品会社のおにぎりやサンドイッチを食べることにしていますね。

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日本人論と現実

2016-04-28 21:31:54 | 社会

 日本人自身の手(口)による日本人論には色々とある訳ですが、総じて実態を的確に表していると言うよりは、むしろ醜悪な自己弁護と言いますか、本当は真逆である現実を覆い隠すものでもあるように思います。最もタチが悪いのは「日本人は時間に正確/時間にうるさい」みたいな類いで、これは他国に対する排他的優越心の表れでもありますけれど、しかし本当に時間に正確な国民性であればダラダラ会議で長時間労働なんて起こりえないわけです。そしてもし日本人が時間にうるさいのであれば、サービス残業なんて許されようはずもありません。ところが「日本人は就業時間を守らない」と憤る外国人がいる一方で大多数の日本人は時間を破ることを意に介していなかったりします。

 日本の電車が時間に正確と喧伝されるのも、結局は日本人が時間の遅れを気にしないから、遅れを送れと意識しないからなんじゃないかと思えるところです。人を待たせておきながら逆ギレする人も多いですし、「他人の時間を奪うこと」に無頓着なのが日本の文化なのかも知れません。「日本人は時間にうるさすぎるのだ」と、他人の時間を奪って悪びれない己を正当化するのもまた日本人論なのだと、そう言わざるを得ないのが本当のところでしょう。

 「日本人は曖昧」というのも然りで、実態は正反対、日本ほど曖昧さを受け入れられない社会もないと言いますか、何事も善悪二元論で考える、原発事故やワクチンの副作用等々でもリスクを「ある」か「ない」かでしか考えずに、その「程度」を理解しようとしないのが日本文化であるように思います。大多数の日本人にとって存在するのは白か黒だけ、グレーなんて学者の誤魔化しぐらいにしか受け止められていないわけです。日本人は曖昧なのではなく、「日本人――我々――は曖昧だからよくないのだ、もっと曖昧さを排さなければ!」というのが、最大公約数的な認識なのではないでしょうか。

 日本人は「指示待ちが多い」云々も実態を表さないどころか正反対のような気がしますね。むしろ「指示待ちではいけない、自分で考えて行動しなさい」と子供の頃から吹き込まれて育ったのが日本人であって、そうであるが故に統制が取れない、勝手な思い込みで突き進んで周りに迷惑をかける人も多いところがあるはずです。先日の熊本の大地震では、「野良ボランティア」などとも呼ばれる、社会保険協議会や行政の指示に従わない自称ボランティア集団の存在が問題視されたりもしました。必要のないものを押しつける、勝手な行動で現場を混乱させる、それを「善意」で行う人々の存在は日本の「指示を待たずに行動する」文化の現れに見えます。

 そして「日本人は失敗を恐れる」云々も嘘八百で、強いて言うのなら日本人が恐れているのは「詰め腹を切らされる」ことでしょう。日本は自己責任の国、失敗したときに己に全責任が降りかかってくるような場面であれば、確かにそれを日本人は恐れるのかも知れません。しかし、責任を問われない場面では? 前段の野良ボランティアも然りで、自身の行動で周りに迷惑をかける、状況改善を遅らせるようなことになっても知らぬ存ぜぬで、失敗の可能性を微塵も憂慮せずに行動している人は少なくないように思います。

 会社だってそう、「失敗するとわかりきったプロジェクト」が当たり前のように強行されることは全く珍しくありません。もう少し失敗の可能性を意識して「退く」ことも考慮して欲しいなと私などは感じるところですが、偉い人は楽観論で突き進みます。政治にしても同様で、たとえば消費税増税のように過去の失敗から何も学ばずに同じことを繰り返し、同じ結果を招いたりもしてきたわけです。なぜ失敗を恐れないのか、もう少し失敗を恐れて慎重に検討するべきではなかったのかと思うのですが……「日本人は失敗を恐れすぎる、もっと果敢に挑戦しなければならないのだ」と、そう考えている人の方が多いのでしょう。

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大正義自衛隊

2016-04-24 10:43:50 | 社会

みのもんた、"自衛隊きちんとして"発言を謝罪「激励のつもりだった」(マイナビニュース)

タレントのみのもんた(71)が22日、自身のツイッターを更新。20日に「自衛隊きちんとして欲しいね」とツイートしたことを謝罪し、真意を説明した。

みのは20日、「俺なんかの役目はね、広めること。今回の震災もね、熊本だけじゃなくて九州全体だから。支援のやり方も甘い。自衛隊きちんとして欲しいね。あと、過去の震災、阪神淡路、もっと遡れば関東大震災の教訓活かせてないでしょ?」とツイート。この投稿に、「批判する前に動け」「自衛隊は不眠不休で頑張ってるだろ」などと批判の声が殺到した。

そしてこの日、みのは「『自衛隊きちんとしてほしいね』という僕の言葉で現場で活動されている方々や、その御家族に不快な思いをさせてしまったことに対しては本当に陳謝したい。本当に申し訳ありませんでした」と謝罪。

 

 古くは阪神淡路大震災時の「村山首相が自衛隊出動に反対した」というデマの流布を筆頭に、自衛隊が不当に扱われている、自衛隊の活動が妨害されている云々といった類いの被害妄想を抱いている人は少なくありません。みのの言う「現場で活動されている方々」は決して軍隊だけではない、自衛隊「以外」の人々もまた現地で悪戦苦闘していますし、現場に入らずとも被災地支援のために労を費やしている人もまたいるわけです。しかし、特別にクローズアップされるのは自衛隊だけ、と言う辺りに日本社会の病理があるのかな、と感じますね。

 自衛隊に限らず災害救助や被災地での活動に携わる人はいますが、感謝されるのは自衛隊だけ、称揚されるのは軍隊だけという風潮は色々と問題があるのではないでしょうか。まぁ、そうであるならば反対に批判も強くなるのが道理というもので自衛隊が唯一無二のヒーローと崇められている日本社会であるからこそ「きちんとして欲しい」と要求が厳しくなるのは致し方ないことかと私などは思います。しかるに我々の社会の圧倒的な自衛隊愛は、僅かなりとも自衛隊に批判的と受け止められる発言をすら許容しないことが、今回の騒動から分かります。自衛隊は、常に賞賛一色でなければならないのでしょう。

 かつて自衛隊に言及して「暴力装置」という用語を使った政治家が激しい糾弾にあったこともありました。「暴力装置」という用語には否定的なニュアンスはなく全くの誤解に基づく糾弾ではありましたが、それだけ日本社会の自衛隊愛は絶対であり、批判的に「見える」だけの発言すらも受け入れがたいのだと言えます。自衛隊は神聖にして侵すべからず――ネット社会に限らず政治家など発言の注目される存在になる上では「リテラシー」として学んでおくべきことなのかも知れませんね。

 自衛隊を批判する声が聞こえてこない一方で「自衛隊が不当に批判されている」という声を上げる人は数限りない、どう見ても業務とは全く関係がないはずなのに研修と称して従業員を自衛隊に体験入隊させる企業が後を絶たない、もはや自衛隊は軍隊やレスキュー隊を超えた存在、日本人の信仰の対象へと昇華しているかに見えるところですが、どうしたものでしょう。私としてはもう少し、ありのままに自衛隊を見るべきではないか、自衛隊以外でも災害現場で尽力する人々の存在に感謝したらどうか、結果的に不十分であった部分は自衛隊であっても批判的検証はなされるべきではないか、と思わないでもありません。自衛隊「以外」であれば対応のまずかった部分は当然のこととして叩かれます、でたらめなバッシングになってしまえば不毛ですが、それが自衛隊のように「頑張ってるだろ」で無批判になってしまえば、それもまた非生産的ですから。

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言葉は同じでも向いている方向は

2016-04-19 23:45:30 | 雇用・経済

 同じ言葉でも、位置するところは正反対である場合もあります。諸外国と同じようなスローガンを叫んでいても実は日本だけ真逆の方向を向いている、みたいなことも多々あるのではないでしょうか。そして日本だけ経済成長から取り残され、「グローバル化が悪いのだ」みたいに強弁されることも多いですが、たぶんそれはあらゆる面で間違っているのだと思います。

 典型的なのは「ムダ削減」です。一口に「ムダ削減」といった場合でも、日本の場合は他国のそれとは全く違う方に努力を注いでいるのではないかな、と。この辺は長年ダラダラとブログを書き続けているだけにネタが被りますが、ジュースを絞る場合を例に挙げて考えてみましょう。オレンジジュースを絞るとして、一通り絞って果汁の出が悪くなったオレンジをどうするか? 僅かでも絞りかすが残っていれば余さず絞り尽くそうと全力を尽くすのか、それとも速やかに新しいオレンジを切って絞り始めるのか――果たして日本社会における「ムダ削減」はどっちでしょう?

 ここで「ムダ」は二通り考えられると思います。僅かに果汁の残った絞りかすを捨ててしまうことを削減すべき「ムダ」と考えるのか、それともカラカラの絞りかすから数滴の果汁を得ようとする労力をムダと考えるのか、ですね。時間あたりに得られる果汁の量を最大化するのであれば、取るべきは後者と言えます。費やした時間と労力に見合った果汁が得られないと判断すれば、絞りかすは捨てて新しいオレンジを切れば良いのです。時間あたりの労働生産性を上げたいのなら、指針とすべきは当然、後者です。

 周知の通り日本は(時間あたりの)労働生産性が低いことが指摘され続けています。ただ日本より労働生産性が高いように見える国は日本よりずっと賃金が高い、給与水準の低い日本は時間あたりの生産性は低くても、実は賃金あたりの生産性は高かったりするわけです。上記のオレンジジュースのたとえで言えば、やはり日本は前者なのでしょう。時間と労力を費やして絞りかすから一滴、二滴の果汁を搾り出せば時間あたりの生産性は当然ながら低下します。反面、オレンジ1個あたりの生産性は上がりますから。

 とりあえず私は国際標準である「時間あたりの」労働生産性を向上させるべきと考えますけれど、まぁ「賃金あたりの」労働生産性を追求していくのも異論としてはアリなのかも知れません。問題は、一口に「ムダ削減」なり「労働生産性向上」と語られている一方で、その「中身」を無視した議論だけが消費されているところでしょうか。ムダ削減や生産性向上を目標に掲げるのは結構ですけれど、それはどちらを向いた改革なのか、この辺あまりにも無自覚なまま旗が振られているようにも思います。

 日本企業が実際にやろうとしていることは(賃金あたりの)生産性向上なのに、国際基準での(時間あたりの)労働生産性が上がっていないと嘆くのは、何とも愚かしい話ではないでしょうか。日本はグローバル化しない、時間あたりではなくあくまで賃金あたりの生産性向上を目指す、というのなら賛成は出来ませんが筋は通ると思います。しかし日本の経済言論は自家撞着の酷いものばかりで……

 結局、日本企業が「ムダ削減」を進めれば進めるほど、ヨソの国の物差しでの「ムダ」はむしろ増えてしまう、労働生産性と同じで(日本式に)努力すれば努力するほど、(国際基準では)悪い方向に進んでしまう、そういうものなのだと思います。この結果として日本が世界経済を牽引するような格好になっていれば「日本のやり方が正しかった」と証明されそうなものですけれど、現実は全くの正反対です。もう、日本で主流の経済言論は180°ひっくり返してしまった方が良いのではないか、という気がしますね。

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極左党公約

2016-04-17 21:52:04 | 文芸欄

公約17

 

・子供や若者と同じくらい中高年も大事にします

 

 

・極左党代表代行:管理人(かん・まさと)と菅直人は全くの無関係です
・自称中道と違って堂々と左に立つので極左党です

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