ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

どこまで馬鹿なことを書いているんだか

2011-10-31 06:39:16 | 北朝鮮・拉致問題
すいません、またbogus-simotukareさん経由のネタです。いつも貴重な情報を提起してくださってほんとうにありがとうございます。

政府認定拉致被害者と特定失踪者の区分について

その呼び方について、救う会福井の池田会長が先日言及されていましたが、1000番代理(McCreary注・原文のまま。たぶん「理」が余分)リスト(現在71名)は「準拉致被害者」と呼ぶべきだとおっしゃってます。
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111028/fki11102802370001-n1.htm

ごもっともなご意見だと思いますが、例え0番台でも拉致の可能性は全く0%ではないのですから、ここは全ての特定失踪者を「準拉致被害者」と呼べば良いのではないかと思います。
それか一掃(McCreary注。原文のまま。正しくは「いっそ」でしょう)の事、全ての特定失踪者も「拉致被害者」として政府認定するかです。

もし日本政府が言っているように、間違っていたら国際的に信用問題になるとの懸念については、舌を出して間違ってましたとチョコンと頭を下げれば良いだけの話。
そんな疑惑を持たれたくなければ全ての拉致被害者を帰せ!と北朝鮮に言い返せば良いのです。
生真面目すぎる?単に責任を取りたくないだけの官僚の資質とやり方では現状を打開する事は出来ないでしょう。

(引用ここまで)


>もし日本政府が言っているように、間違っていたら国際的に信用問題になるとの懸念については、舌を出して間違ってましたとチョコンと頭を下げれば良いだけの話。

馬鹿か、お前。そんなことで話がすむわけないだろ。

それにしても最低の記述が

>舌を出して間違ってましたとチョコンと頭を下げれば良いだけの話

というところですね。

私は拉致被害者家族とも特定失踪者家族ともなんの関係もない人間ですが、この記述には正直マジでむかつきました。どうしたらここまで馬鹿で無責任で非常識で愚劣なことを書けるんでしょうか。

①拉致被害者や特定失踪者のことなんかなにも考えていない。
②自分がどれだけひどいことを書いているか理解できていない。

といったところでしょうか。ほんとどうしようもないやつですね、これを書いた松尾和幸って男は。

bogus-simotukareさんは

>そこは「100%間違いないと自信を持っています、もし間違っていたら巣くう会幹部をやめ、北朝鮮問題には一生関与しません」ぐらいの慎重な態度でなきゃ話にならないだろ。「拉致かどうか分からないけど、拉致の可能性がゼロではないから拉致だって言ってみるよ、拉致じゃないってのなら北朝鮮が反論すればいいんだ」「北朝鮮が小泉訪朝前まで『拉致やってない』と言うとかいろいろ嘘つくんだからどんだけ疑われたって仕方ないだろ」ってドンだけお前ら、巣くう会は無責任だって話だろうが。よくこんなバカ共(巣くう会)とおつきあいできるよな、家族会は。

(引用ここまで)


とお書きになっています。

いや、ほんと、家族会の方も特定失踪者家族の方も、ここまでひどいものを読んでもなんの怒りもわかないんですかね。だとしたら、どこまで人間ってのはどうしようもなくなっていくんだかということでしょう。それとも怒るような人は家族会とは一線を画してしまっているのかな。

読んでいて、なんとも心が冷えこんでしましました。

bogus-simotukareさんにあらためてお礼を申し上げます。

同じ日の追記:bogus-simotukareさんから、下のコメントのようなお話をいただきましたので、あらためてその部分を引用します。

>そこは「100%間違いないと自信を持っています、もし間違っていたら巣くう会幹部をやめ、北朝鮮問題には一生関与しません」とか「間違っていたら政治活動から引退します」とか「間違っていたら割腹し自決します」ぐらいの慎重な態度でなきゃ話にならないだろ。「拉致かどうか分からないけど、拉致の可能性がゼロではないから拉致だって言ってみるよ、拉致じゃないってのなら北朝鮮が反論すればいいんだ」「北朝鮮が小泉訪朝前まで『拉致やってない』と言うとかいろいろ嘘つくんだからどんだけ疑われたって仕方ないだろ」ってドンだけお前ら、巣くう会は無責任だって話だろうが。よくこんなバカ共(巣くう会)とおつきあいできるよな、家族会は。

(引用ここまで)
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ミャンマーの旅 2011年 夏 (40)

2011-10-31 06:33:28 | 旅(ミャンマー)







こういう屈託のない笑顔を、このようなあまり若くない女性がしてくれるのも個人的にはけっこううれしく思います。





おっとネコがいますね。しっぽがたっています。ちょっとこのネコがこれからどう行動するかというのを追跡してみましたところ…(私も物好きというか、ヒマな人間です)。



餌をおいしそうに食べていました。毛の色つやもきれいでした。だいたい神社仏閣とかのネコというのは、人間もいじめないので人をおそれないですね。京都の八坂神社や大宰府の天満宮にいたネコも、欄干に座り込んだままで頭をなでても平然としていたものです。





おや、ここでも数人の人たちが僧侶の説法を聞いていますね。



学生さんたちですかね、なかなかきれいな女性たちです。



お、緑の服を着た女性・・・。



美人ですね。ぼく好み(笑)。



ほんとお菓子の家みたい。



そろそろ飽きたって? いや、もうしばらく続くよ。

(つづく)

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梶原一騎と極真空手についてのおもしろいインタビュー(3)

2011-10-30 03:56:06 | 格闘技

―(聞き手)「これ以上、プロレスとかクマとかはいいんじゃねえの?」っていう。

山田 だから必然的にね、梶原一騎と大山倍達が離別するのも歴史の必然なわけですけども、もちろんそりゃあお金が絡んでケンカになったりとか、いろんなことがあったんでしょうけど。

―そういう見方ができるということですね。

山田 極真と梶原一騎が組んで膨らませた幻想っていうのはそういうものなんですよ。だけど、それじゃあ極真も月謝を取って生徒を増やして、地道な経営をしていくときには邪魔になってくるんですよね。それはしょうがないんですよ。ルールも確立させて、そこに向って日々練習させていかないと回転していかないんですから。で、現実の極真のほうを確立してくるにつれ、そういった余分なものっていうのは…。

―邪魔になりますねぇ、まったく(笑)。

山田 その分岐点になったのは、ウィリー(・ウィリアムス)が三瓶 啓二とやって暴れちゃったところかな。あそこらへんが境目でしょうね。俺もウィリーがあそこで暴れだして「とんでもねえヤツだな」と怒る側にいたわけですよ。だけどウィリーとしては梶原一騎に言われてやったわけですけど…。

猪木さんと異種格闘技戦をやるためにはあそこで勝ち上がるわけには…ってことですよね。

山田 そう、あのあと猪木戦があったわけですよね。おそらくあそこでみんなの反発が予想外に大きかったんじゃないですかね。確かにあの場に梶原一騎的な世界観が入ってくると、非常に違和感があった。聖なるものを汚されたみたいな怒りがあったわけだよ、観てる人たちには。

―梶原一騎の局面切り的な要素で膨らんでいった極真自体が、それを逆に汚れたものとして排除するとは皮肉なものですね。

山田 そうですよ。皮肉だけど、しょうがないですね。極真側からしたら、それを排除していかないと。

―でも、これはどこの世界にもあるようなことかもしれないですね。ピエロが排除されていくっていうのは。

山田 そうですね。どこでもあることですけど、ちょうどそういう境目があの大会だったですね。だからいまの極真はそういう意味でももう幻想もなくなって、「最良の空手だ」って言い出しちゃったわけだから、梶原一騎的な夢はないんですけども、いまの極真に「また最強だって言ってくれ」とか言うのも酷でしょうけど、歴史のなかで一時期そういう時代があったということですね。

―ドラム缶を引くといまの極真になるという。

山田 そうですね。大山倍達個人のなかでは非常に梶原一騎的な、まあプロレス的なって言うとまた誤解が生じますけども、そういうた局面で対応するような宮本武蔵的な強さをもっていたし、そういうところに極真のロマンがあったんですね。で、実際に大山倍達は強かったと思いますよ。どんな場でケンカしても強かった人だと思います。

―普通の競技者とは違う発想ですもんね。

山田 ドラム缶に穴を開けるとか、そういう発想でやらないですから。競技には必要ないし、過剰な力なわけですよね。だから離れることは必然だったわけだよなあ。まあ、悲しいっちゃあ悲しいし、梶原一騎みたいな物書きがいまの時代にまた出てよといってもなかなか難しいですしね。

―グレーな世界だったら成立しますけどね。

山田 俺が言うのもなんだけども、その可能性がわずかに残されてるとしたらプロレスですね。で、ちょっと話は逸れるけどいちおう続きを言うとですね、総合格闘技っていうのは結局一つのルールなんですね。そこで追及される最強っていうのも、結局、ルールのなかの最強だ、と。そういうふうになってくると、簡単に言えばですね、そもそも最強っていうのは順位をつけることだから、スポーツ化しないと1位2位が出ないんですね。「じゃあ大山倍達は何番目に強い?」って言われたとき、出ないですよね。

―出ないですね。

山田 大山倍達とかはそういう枠に入らないことによって強さの幻想があったわけですけどね。

―確かに競技っていう目で見ると、ウィリーは競技者としての成績はふるわないですけど、存在としていまだに覚えているのはウィリーですもんね。

山田 幻想があったからね。だから梶原一騎も大山倍達もロマンの実態っていうものを理解していましたよね。ロマンの構造っていうかね。

―その二人が組んだんだから、あんなブームが起きますよね。

山田 起きますね。多局面っていうのは、ある意味、測定不能だんですよ。測定不能だからあそこまでの幻想が膨らんだと思うね。でも、いまは測定可能な時代、あんな幻想はもう生まれないでしょうね…。

[11年2月某日/都内・某所にて収録]

山田さんのプロフィールを紹介します。

>やまだ・えいじ■元『フルコンタクト空手』編集長、現『BUDO-RA BOOKS』編集長。格闘技興行の花がまだ咲き乱れる前の80年代後半から、「やる側」の視点で格闘技の編集などを手がける。プロレスファンからは本気で嫌われた大ヒールだが、非常に熱くておもしろかった時代を結果的に演出してくれた。口癖は「ザンス」らいしいけど、一度も発しなかった。なぜだ!?

(引用ここまで)

さいごに山田氏の写真を。



引用はこちらから。

(了)

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ミャンマーの旅 2011年 夏 (39)

2011-10-30 03:47:53 | 旅(ミャンマー)



気温自体が低いわけではもちろんないのですが、木の床なので涼しく感じました。



こちらでは僧侶たちが豪快に食事をしていました。





つかれたので寝転がります。天井が見えました。すこしうとうとしてしまいます。海外でこんなことをするのは致命的にまずいのですが、ちょっと寝てしまいました。





しかしほかの方々も寝ていますね。



またまた豆をいただいてしまいました。



私に豆をくれたのは、こちらの方々。私が写真をとっていいかとたずねると、快く了解してくれました。で、メルアドをもし持っているのなら写真を送ると英語で話をすると、彼女らの1人がビニール入りの紙のおしぼりをくれました。そこにメルアドがあったので、これか? と思ったら、タイのアドレスだったので、あれ、この人たちタイ人? と一瞬思ったら、彼女らは手真似で汗をかいているからこれでふきなさいと私に伝えました。彼女らの親切さ、優しさに、さすがの私も思いっきり感動してしまいました。先ほどと同様、丁重にお礼をのべてその場を去りました。



なんだかお菓子の家みたいです。



右側の男性はなかなかカラフルな服を着ています。わりとこの国は、カラフルに着飾っている人がいるような気がしました。また、左側の男性は、写真屋さんです。この国では、まだ国民一般がカメラを持つにはいたっていないということなのでしょうね。











こういった建物の連発には少々圧倒されました。

(つづく)

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梶原一騎と極真空手についてのおもしろいインタビュー(2)

2011-10-29 04:06:56 | 格闘技

―(聞き手)昔はルールを過激にするだけで、非常に求心力があったわけですね。もちろん大山倍達にも魅力があったんでしょうけど、梶原先生は極真という過激なルールに惹かれたんでしょうか?

山田 もちろん過激なところに惹かれたんでしょうけども、大山倍達と梶原一騎の二人はもっと頭がよくて、いまの格闘技のルールの過激化によって、その先がないなということを当初から理解していたんです。

―それはどういう見立てなんですか?

山田 簡単に言うにはどうしたらいいのかな? 要するにですね、一番わかりやすい例が宮本武蔵なわけですね。みんな宮本武蔵が一番強いと思ってるじゃないですか。じゃあ宮本武蔵がいまの剣道の大会に出たら、まず遅刻していくわけですよね。

―まあ、そうですね(笑)。

山田 その時点でエントリーできないですよね。で、試合が始まったらいきなり長い木刀を振りかざして反則負けになる。そうすると優勝できない。ということは、武蔵は強くないじゃないですか。

―いわゆる競技としての試合と実戦は違うものだっていうことですよね。

山田 そうです。で、大山倍達がはじめに設定したのは極真ルールじゃないんですよ。対戦相手は牛なんです。

―ああ、競技じゃなくて牛ですね(笑)。

山田 対戦相手が自然石、対戦相手が十円玉、ドラム缶。こんな設定で考えた人はいないでしょう。

―いないですねぇ(笑)。

山田 大山倍達は屠殺場に行ってね、牛をどうやれば倒せるのかを考えたわけですよ。それは批判がいっぱいあるにしろ、実際にそれをやってのけたわけですね。もし「牛殺し選手権」があったら、大山倍達は相当強いわけですよ。

―なるほど(笑)。

山田 同じように「自然石割り選手権」「十円玉曲げ選手権」「ドラム缶穴開け選手権」とか競技じゃない設定を作って、その中で神話性を作ってきたんですよね。

―そこには競技性からは感じられない幻想がありますもんね。

山田 でしょ? じつは宮本武蔵の神話性と一番ダブるわけですよ。で、大山倍達はおそらく極真ルールなんかできないと思うんだけども。

―始祖なのに(笑)。

山田 そんなに優勝はできないと思うんですよ。だけど、それはそれでべつにいいじゃんって思うんだよ。

―梶原一騎の膨らませ方も大山先生と同じく「牛殺し選手権」のほうですね。

山田 そう、梶原一騎も設定は劇画ということだけじゃなくて、映画とか興行とかね、いろんな設定をもってくるわけですよ。で、そこにボクシングやプロレス、空手を持ってくるわけですよ。つまり大山倍達も梶原一騎も両者とも立体的に物事を作っていく設定が極真をはじめとする格闘技ルールだとしたら、一つの物事を局面で切っていく。

―ジャンルを横断させることによって、より極真のイメージが膨らんできましたもんね。

山田 だから、ある意味で極真の歴史というのはそういう局面切りが一つずつ消えていくっていうものなんですよ。それは多局面の武道から単一のスポーツルールへの移行の歴史です。極真の幻想性も同時に消えて行くっていう。でも、それを放棄するのはもちろんしょうがないんですよ。

(つづく)

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ミャンマーの旅 2011年 夏 (38)

2011-10-29 04:06:26 | 旅(ミャンマー)



日曜だからというせいなのかどうか知りませんが、大変な数の人たちが参集しています。



いいかげん疲れたので、ちょっと私も一休みします。



するとミャンマー人の老女が、私にこの豆をくれました。とくに必要としているわけではもちろんありませんが、こういうのは断るわけにはいきませんからもちろんいただきます。



右側のおばあさんがくれました。左側の女の子は、昨日の記事の写真に写っています。



この缶ジュースまでいただきました。私は何一つ彼女らに渡せるものがありません。これにはさすがの私も恐縮の極致です。



丁重に礼を述べてその場を去ります。







欧米人の女性がたむろっていました。





こちらに上がってもう少し休みます。

(つづく)

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梶原一騎と極真空手についてのおもしろいインタビュー(1)

2011-10-28 07:46:54 | 格闘技

雑誌としてはすでに休刊している「kamipro」という雑誌、その休刊直前の156号(休刊は157号)に梶原一騎極真空手についての興味深いインタビュー記事があったのを、先日押入れの本を整理していて思い出しました。



実際、世間ではあまり読まれないような雑誌(ネット、単行本、チラシなんでもそうでしょう)のなかに「お、これは興味深い」と思うような記事はたしかにあるので、そういったものもこのブログで発掘できたらと思います。いままでこのブログで紹介してきた藤竜也薬師丸ひろ子・荻野目慶子の対談記事アニセーや、ジェーンらのインタビューもそうでしょう)を発表してきたのも同じような趣旨です。ちょうどこの秋(11月4日~6日)は、極真空手主催の世界選手権が開かれるわけで、それに合わせてみました。これからも面白そうなインタビューがあったら、積極的に記事にしたいと思います。

このインタビュー記事は、ふだんはみんな遠慮してあまり悪く言われない(かつてはひどいものでしたが)梶原一騎とこれまた必要以上に幻想を持たれていた極真空手や大山倍達についてかなり思い切った発言がされていて面白いと思ったので採録するわけです。

なお、誤植、あるいは書きちがいと思われるところは下線をひいて()内に補正しました。()はすべて採録者のものです。また、一般には必ずしも知名度が高くない人、あるいは知名度があってもどのような人物か知らなければさっぱり記事がわからないところもたくさんあろうかと思いますので、可能な限りwikipdiaその他リンクをはりました。できましたら読者の方々はご面倒ではありましょうが、参照していただければ幸いです。

梶原一騎と極真

運命の破局

BUDO-RA BOOKS』編集長
山田 英司
マスコミ畑で梶原一騎について聞くならこの人!
フルコンタクトKARATE』の元編集長、ザンス山田こと山田英司氏が登場だ!
自らも極真出身のザンス山田が、梶原作品と極真の結びつきについて語るザンス!
聞き手/ジャン斉藤

―今回は梶原一騎と極真空手の結びつきが格闘技界にどうような(原文のママ。たぶん「どのような」でしょう)影響を与えたのかをお聞きします。

山田 俺、もともと福昌堂で空手の雑誌を作っていたけど、社長が寸止め空手の人だったわけですね。で、当時の空手界が極真や大山倍達をどういう目で見てたかというと、もう悪口しか言わない。

―まあ、そうでしょうね(苦笑)

山田 まず聞いたのは「大山倍達は朝鮮人だ」と。そのときは「朝鮮人の何が悪いんだろう?」と思ったんだけど、俺がこの業界に入る前の16歳のときくらいかな。もうすでにマニアだったから、いろんな情報を聞いてたわけです。で、大山倍達に「韓国人なのにどうして日本名を名乗るんですか?」という手紙を出したら、大山倍達から丁寧な手紙が来て「日本国籍を取ったので、私は日本人だと名乗っています」と。

―そんなやりとりがあったんですか。

山田 その手紙、『月刊空手道』に載ったことありますよ。まあでも大の大人がそんなことで差別するのはどうかとは思ったよね。

―とにかく、メディア等を使ったハデな売り出し方に、従来の空手家たちは冷淡な態度をとっていたんですね。

山田 もの凄い反発があったわけですよ。「牛を殺したのもウソだ」とか、そういうことはずいぶん聞かされましたね。俺が極真を好きだから、いろいろ吹きこむわけよ(笑)。要するに「ハデなパフォーマンスをやってマスコミにのって商売上手な悪いヤツだ」っていうのが空手界の見方だったんです。

―その宣伝の旗を振っていた一人が梶原一騎だったわけですね。

山田 そうですね。ほかはあんまり仲良くなかったんじゃないかなあ。梶原一騎も当時は大山倍達以外を取り上げなかったもんね。

―梶原一騎は『虹を呼ぶ拳』で感触を得て『空手バカ一代』に向かったいうことなんですか。

山田 でしょうね。まあ、梶原一騎は隙あらば、あらゆるところに大山倍達を出してましたね。

―隙あらば大山倍達(笑)。

山田 俺、全部チェックしてたから。で、柔道VS空手というと、『姿三四郎』でもかならず空手が悪役だったわけじゃないですか。だけど梶原一騎の空手家はみんな朴訥としてて、自らの強さを隠す人格者として出てくるんですよね。

―つまり、梶原一騎の描写から空手のイメージが変わっていったんですね。

山田 で、71~77年のあいだに『空手バカ一代』が連載されるわけですけども、73年が『燃えよドラゴン』の日本公開だったんですね。で、極真の大会も69年からだから、70年代っていうのはいわゆる極真をはじめとする打撃格闘技の黄金時代だったんですよ。キックボクシングもその頃から始まって、地上波の視聴率が30パーセントも獲っていたわけ。だから70年の頃に思春期を迎えた人たちは、極真空手の魅力が凄くインプリンティングされてるわけですよ。

―そりゃあ感化されちゃいますよねえ。

山田 うん。だいたいその世代の人たちは極真の悪口を言われると感覚的にビクッとするという世代ですよ(笑)。

―もちろん、あの70年代がいまの格闘技文化の礎を築いてるところもあるわけですよね。

山田 70年代(原文のママ。70年代から高度成長はちょっと変でしょう。誤植その他と思われます)から高度経済成長に入って、91年にバブルが崩壊するわけですけども、その時期の日本経済はとにかく上昇志向でイケイケだったわけですよ。それで格闘技なんかも歴史を見ればわかるとおり、ルールをいかに過激化していくかっていう時代でね、もうまさに上昇志向そのものだったわけです。その先鞭をつけたのが極真。実際に拳を肉体に当てることで「殺人空手だ!」と批判されたわけですね。実際には当てても死ななかったけれども、当時の選手たちはみんな遺書を書いて大会に出たという世界だったんです。ところがいまは同じルールでやっても「最良の空手」と言ってるわけ。

―大人から子どもまで学べる最良の空手という。

山田 まあ、そんなに危険じゃないってことがわかってきたわけだけども、となると、極真育ちの人たちも「このルールで最強は決められないんじゃないか」と考えはじめた。

―さらに過激なほうに進んで、それがK-1までたどり着いちゃうわけですね。

山田 そうそう。その前に「投げを入れないといけないんじゃないか」ってことで大道塾があったり、ぶっちゃけ、どんどん過激路線にいくわけですよ。92年にトーワ杯が始まって、大道塾が『ザ・ウォーズ』をやって、正道会館が『格闘技オリンピック』をやって。そしてバーリ・トゥードジャパンが94年だった。

―90年代になって再び革命が起こった、と。

山田 そうするとどうなるかっていうと、バブルと一緒で破裂しちゃうわけですね。だって、それ以上は過激にならないでしょ。過激にならないのと同時に、最強っていう概念が「ルールを改革していけば決められるもんじゃない」ということに誰もが気づき始めるわけですね。これが格闘技バブルの崩壊で、そのあとは測定不能な武術の時代が来るって昔から言ってますけどね。実際、今後は武道とかが見直されてるでしょう。

(つづく)

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ミャンマーの旅 2011年 夏 (37)

2011-10-28 07:46:39 | 旅(ミャンマー)



こんな風に老若男女が祈っている姿は、なかなか印象的です。



子どもも元気です。







けっこうきれいな女性もいます。





ほんとうにたくさんの人たちが祈っています。











この日はひざしがつよかったので、日傘をさしている人も目立ちました。



何に祈っているのかな。



水をはこぶ人の姿も見られました。



鐘です。せっかくだから私もついてみました。それ、誰かに写真に撮ってもらえばよかったな。

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ミャンマーの旅 2011年 夏 (36)

2011-10-27 06:43:44 | 旅(ミャンマー)



糞で汚れないか心配になりました。







こんな感じで祈っている人もたくさんいます。













いろいろな想いが込められてろうそくの火が灯ります。



ブルーの鮮やかな服をお召です。



おや、真ん中の・・・



電飾された仏像 シュエダゴン・パゴダ  2011


こういうのは、いい悪いではなく日本とは感覚のちがうところですね。







(つづく)

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来週北海道に行くことにする、また北杜夫が亡くなった(追記あり)

2011-10-26 07:12:01 | 旅(国内)
ミャンマーから帰ってきて以来、しばらく自宅周辺でおとなしくしていたのですが、ストレスがひどいので北海道に旅をすることにしました、ってべつにいましがた決めたわけではなく、9月ごろから計画はしていました。

今回は安い航空券を購入して、北海道某市を拠点にして2泊3日の旅です。だから、ちょっと数回この旅の記事を書こうと思います。北海道は最後に行ったのがたぶん2002年ごろかな。10年ぶりとまではいわずとも、それに近い年月がたってしまいました。

また写真をごってり撮って、えんえん長い連載をしようか・・・とも思いますが、しかしミャンマー旅行の記事がいつまでたっても終わらないから、2~3回の簡単な記事にしようかと思います。写真は、あとで「フォトログ」として発表すればいいでしょう。

ほんとはねー、北海道に向かうのも、フェリーにのってのんびりした旅を楽しみたいのですが、ここ最近(不当に)仕事がきついのでそうも言っていられません。でも旅は私のストレス解消法です。

ブログはむろん毎日更新します。では旅行の記事をお楽しみに。

さて、まったく違う話ですが、北杜夫氏がお亡くなりになりましたね

>「どくとるマンボウ」北杜夫さん死去

ユーモアあふれる“どくとるマンボウ”シリーズや、大河小説「楡家(にれけ)の人びと」で知られる作家、芸術院会員の北杜夫(きた・もりお、本名・斎藤宗吉=さいとう・そうきち)氏が、24日死去した。


 84歳だった。告別式は親族で行う。

 近代短歌を代表する斎藤茂吉の次男として東京に生まれた。旧制松本高を経て東北大医学部に進学。卒業後の1954年、初の長編「幽霊」を自費出版した。

 60年には、水産庁の調査船に船医として半年間乗った体験をユーモアを交えて描いた「どくとるマンボウ航海記」を発表。「昆虫記」「青春記」などマンボウものを出版して人気を博した。

 同年、ナチスと精神病の問題を扱った「夜と霧の隅で」で芥川賞。64年には斎藤家三代の歴史を描いた「楡家の人びと」を刊行、毎日出版文化賞を受けた。「さびしい王様」など、大人も子供も楽しめる童話でも親しまれた。「青年茂吉」など父の生涯を追った評伝で98年、大仏次郎賞を受けた。

(2011年10月26日03時01分 読売新聞)


今はそんな時代ではないでしょうが、以前は高校生とかで氏とか遠藤周作氏の小説やエッセイを片っ端から読破している人も少なくなかったと思います。詳しいことは知りませんが、いまはそんな十代の人はあんまり多くないでしょうね。ついでながら、北さんのご自宅は、宮脇俊三氏の家のとなりです。

ご冥福をお祈りします。

追記(2011年10月27日)もう一つ記事を追加します。産経新聞より。



>作家の北杜夫さん死去 「どくとるマンボウ航海記」「楡家の人びと」
産経新聞 10月26日(水)9時1分配信

「マンボウ」もので親しまれた芥川賞作家で日本芸術院会員の北杜夫(きた・もりお、本名・斎藤宗吉=さいとう・そうきち)さんが24日、死去した。84歳だった。自宅は東京都世田谷区松原6の16の5。

 アララギ派の歌人で精神科医だった斎藤茂吉の次男として、東京に生まれる。兄は精神科医の斎藤茂太氏。

 幼いころは病弱で昆虫学者が志望だった。東北大学医学部に進学、在学中に詩や小説を書き始めた。卒業後は慶大医学部助手、斎藤神経科医院の医師として昭和36年まで勤務。

 その間、マグロ調査船の船医として1年間インド洋や欧州へ航海したときの経験をユーモラスに書いた「どくとるマンボウ航海記」(昭和35年)を出版し、一躍、人気作家となった。以後、多くのマンボウ・シリーズを出した。

 同年、ナチス支配下におけるドイツの精神病院を舞台にした小説「夜と霧の隅で」で芥川賞を受賞。医師との二足のわらじを脱いで作家へ転進した。

 39年、三島由紀夫に「日本で初めての市民小説」と評された1500枚を超える長篇「楡(にれ)家の人びと」を発表。楡家の3代にわたる歴史を描いた同作品は、毎日出版文化賞を受賞した。

 40年、カラコルムに挑む登山隊に医師として参加し、翌年「白きたおやかな峰」を発表。61年、南米日本人移民を題材にした大作「輝ける碧(あお)き空の下で」で日本文学大賞を、平成10年には、父、斎藤茂吉の人生を描いた四部作の評伝で大佛次郎賞を受賞した。

 躁鬱(そううつ)病に悩まされたが、鬱期には純文学、躁期にはマンボウものやユーモア小説と、書き分けた。その他の作品に自伝的小説「幽霊」や「酔いどれ船」「さびしい王様」などがある。

 20年10月には長野県松本市で開かれた「ドクトルマンボー昆虫展」に車椅子で訪れ、自身が旧制松本高校時代に採集した昆虫の標本を懐かしそうに見入っていた。

(引用ここまで)


写真は今月6日に撮影されたものだそうです。また、すでに車いすだったんですね。氏が体調が悪いという話は聞いていましたが…。
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