拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

溜池

2023-04-08 10:29:32 | 日記

港区の溜池という地名は大したものである。一般名詞が固有名詞となり、全国溜池があまたあるにもかかわらず「溜池」と言えば人は港区の溜池を思い浮かべるのだから。これは富士山でもなしとげなかった快挙である(「山」と言っただけでは富士山にはならない)。その溜池がまだ本当の意味で溜池だった時代、そこから流れ出ていたのは汐留川。よし、今回の歩き旅は旧汐留川の川跡をたどって溜池までのルートにしよう(って、分かる方は分かりますね。ブラタモリの影響です。ただ、私の場合はブラブラではなく、シャキシャキ歩きましたが)。

スタートは、浜離宮。

左が浜離宮(南の辺)で右が竹芝埠頭。この先が汐留川の隅田川への開口部である。竹芝埠頭が埋め立てられる前は、この地点が開口部であった。川はここで角度を変えて、浜離宮の西の辺に沿って流れる。

汐留川はほとんど埋め立てられてしまっていて、現在、見ることのできるのはこのあたりだけ。浜離宮を過ぎてからしばらくは、川跡をたどる旅は埋め立てた川の上を通した高速道路に頼ることになる。しばらく行って出くわしたのが新橋。

旧汐留川にかかってた橋の一つ。その橋柱が残されているのである。新橋駅から少し離れてるが、こここそが「新橋」という地名の由来である。その向かいに「銀座9」の看板文字。

すぐ隣は銀座8丁目。銀座は8丁目まで。ここ(=高速の下)は、元々川床だったから住所はなかった。だったら、銀座9丁目にしよう、ねぇそうしてよ、という「願望」の表れが「ギンザ・ナイン」だという(だが、「銀座9丁目」は実現してない)。

さて、しばらく行ってJRの線路にぶつかるあたりで高速道路が右(北)に向きを変えるが、汐留川はまっすぐのまま。川跡をたどる旅は、高速道路と袂を分かつこととなる。川の跡地は細長く、細長い地形に適しているのはホテル、だから川の跡地はホテルの敷地になっている(ブラタモリ情報)。だから、線路をくぐった後はホテルが川跡探索の道しるべとなる。その第一号が第一ホテルである(第一つながり。第一は、ハ長調の属七和音から始まる(関係ない))。

その横(かつての川岸)を進む。同じような区画が続き、同様の幅のビルが続く。すると、大通りにぶちあたった。国道1号線、すなわち桜田通りである。

グーグルマップでは、この写真の真ん中のあたり、桜田通りの中央分離帯の位置に「虎ノ門跡」の印。そして、右側の古そうな建物の主は財務省。そう、こここそが官庁街の霞ヶ関である。心なしか、歩いている人達がみなえばってるように見える私は小市民。で、虎ノ門が現存した頃の様子がこれ(写真はウィキペディアから借用)。

ここまで歩いてきた川跡が「跡」ではなく、実際の川だった時代。滝の上の橋が土橋で、橋を通る道が現在の桜田通り。その突き当りが虎ノ門であり、このあたりの地名の由来である。後に財務省の建物が建つのはこの右奥。土橋の下は堰になっていて、滝は、そこから流れ落ちる水流である。

汐留川は、土橋の先で左に向きを変える。現在の桜田通りよりちょっと斜めに入った、金比羅神社がある通りがそのルート。その金比羅神社を過ぎたところで今度は右に向きを変える。そのあたりを歌川広重が描いた錦絵がこれ(ウィキペディアから借用)。

描かれた提灯に「金比羅」の文字が見える。川に沿って登っている坂が葵坂。江戸時代、名を馳せた坂だったらしいが、明治になって削られて坂ではなくなっている。その坂を登り切ったあたりにまた滝(堰)がある。私、当初、この堰と、虎ノ門前の土橋の堰を混同していた。「堰があってその先が溜池」という情報はつかんでいたのだが、堰は一個だと思っていたからだ。すると、いろいろと辻褄が合わない。今時点での私の理解では、堰は土橋と葵坂の二箇所にあった。二つの堰の間はまだ川の延長。葵坂の堰の向こうに至ってようやく広大な貯水池が現れ、それが溜池である(以上は古地図から確認できる)。下の写真は、葵坂の堰があったあたり(坂の名残のわずかな傾斜を手前から登ってきて(登るというほどの角度はないのだが)、それが終わったあたり)の現在の様子である。

左方向に車列が伸びているのが外堀通り。溜池は、ここから、この外堀通りに沿って赤坂見附あたりまで西北に細長く広がっていた(溜池交差点はもうちょっと先だから、溜池の中頃に位置していたことになる)。

再び広重の錦絵(ウィキペディアから借用)。今度は赤坂見附から見た溜池の様子。

現在はこんな感じ。

曲がってる角度とかは同じだ!

ちょっと堰(滝)の話に戻る。汐留川の堰は、ダムの役割のほか、東京湾からの海水の逆流を防ぐ役割もあった。「汐留」という名はそこから来ている。ただし、既述のように、堰は二つあったと思われるところ、どっちが「汐留」だったのかは不明である。両方ひっくるめてそう呼んだのかもしれない。明治になって溜池を埋め立てる際、堰の石垣を低くしたら、あっという間に水がひいて、池はみるみる小川に変貌。そして埋め立てて、外堀通りを作ったそうである。そう言えば、私が育った横浜市の中山にも鬱蒼とした森の中に池があった。グリム童話に出てくる怖い妖精が住んでいそうな不気味な池(というより沼)があったが、団地造成のためにあっという間に水が抜かれて消滅した。

さて、ブラタモリ風の視点に立つと、溜池のあたりは、全般的には丘陵地帯が始まる地帯なのだが、ところどころに谷間があり、そこを利用して溜池を作ったとのこと。そう言われてみると周囲は高い。例えば、池の端にあった日枝神社の境内も高台にあるし、

赤坂見附の先は台地である。

だから赤坂見附が溜池の北西端になったのだろう。

浜離宮から赤坂見附まではざっと6km。汐留・新橋と赤坂見附が陸続きであるのは当然と言えば当然だが私の頭の中ではつながってなかった。今回初めてつながった。歩いた時間は1時間半。稼いだ歩数は1万歩あたり。23区って意外と狭いんだねー。

ところで、新橋あたりを歩いてるとき、いきなり「いーじませんせー」と呼びかけられてた。え?こんなところで一体誰?と思ったら資格予備校んときの教え子だった。私の教え子たちは、みんな偉い先生になってるが(青は藍より出でて藍より青し)、その中でももっとも羽振りのいい一人である。「なんでこんなところに?」と聞かれたから「いやー、リタイアしてブラブラしてんだよ」(嘘偽りない)と答えると、なーるほど、と納得の彼が「私の事務所、そこ」と指さした先にある立派なビルに彼の名を冠した事務所名が書いてあった。家賃高そう(「藍より青い」は経済的にも言えること)。だけど、よく私だって分かったね。見分けがつかなくなるほどは変わってはいない、ということか。ちょっとホッとしたワタクシであった。