暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

伽羅の名木 (2)

2010年03月14日 | 茶道楽
    (つづき)

「主命なりとも香木は無用の玩物」
と、価値を認めない横田清兵衛。
「このたびの渡来品珍物の第一は伽羅の本木にこれあり」
と、主張する興津弥五衛門。

口論の末、ついに清兵衛は刀を抜き切りかかりますが、
清兵衛が切れたのは茶事の心得がないことを指摘されたからでした。

弥 「貴殿が香木に大金を出すこと不相応なりと思うのは
   その道の心得なきゆえ 一徹にそのように思わるるならん」
清 「いかにも某(それがし)は茶事の心得なし 一徹の武辺者なり
   諸芸に堪能なるお手前の表芸が見たし・・」

しかし、弥五衛門は清兵衛を一打に討ち果たしてしまいます・・。

伽羅の本木は細川三斎公へ、末木は仙台伊達家へ買い取られました。
持ち帰った伽羅の本木は稀代の名木で、
  「聞く度に珍しければ郭公(ほととぎす)
        いつも初音の心地こそすれ」
の古歌にもとづき、「初音」という銘がつけられました。

寛永三年(1626)、宮中より細川家へ名香の所望があり、
「初音」を献上したところ、主上より
  「たぐひありと誰かはいはむ末匂ふ
          萩より後のしら菊の花」
の古歌の心にて「白菊」と名付けさせよとの仰せがありました。

もう一つの、伊達家所持の末木は
  「世の中の憂きを身に積む柴舟や
        たかぬ先よりこがれ行くらん」
という歌の心にて、「柴舟」という銘で珍重されました。

三斎公へ香木を参らせた弥五衛門は
「お役を果たした上は切腹仰せ付けられたく・・」
と願い出ますが、三斎公は遺恨を残さぬよう横田家との仲裁をし、
弥五衛門は切腹を許されませんでした。

三斎公卒去より13年後の正保4年(1647)12月、
興津弥五衛門は命を助けられた三斎公に殉じて切腹し、
武士の本懐を遂げたのです。

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   写真は「桃の花」
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