暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

北村美術館と四君子苑ー3

2013年11月28日 | 美術館・博物館
                 京都御苑の秋景
(つづき)
席主の北村謹次郎氏は表千家流なので、中門まで進み、
座ってご亭主の迎い付けを受けました。
頃合いを見て、蹲踞へ。
蹲踞は横長の大きな自然石、穿たれた水穴に水が満たされています。
身心を浄め、躙口から茶室・珍散蓮(ちんちりれん)へ入りました。

           
               北村美術館二階から見た四君子苑

正面に台目床があり、茶室は二畳台目中板。
床の掛物は、伝藤原行成筆の久松切「歳暮」(「夕ざりの茶」展示中)です。
     ゆく年の惜しくもあるかなますかがみ
         みるかげさへにくれぬとおもへば

座してみると、中板があるので亭主との距離もあって落ち着きます。
突上げ窓があるので、暁の茶事も行われたことでしょう。
客の増員に備えて、勝手付に一畳の相伴席が設けられています。
相伴席の畳と給仕口の敷居が可動式になっていて、
引き戸をはずし、収納場所へ入れ、敷居を奥へずらし、畳を移動させると、
敷居のない相伴席に変身するところが茶室建築の見所になっています。

点前座の中柱をお尋ねすると、ナンジャモンジャの木だそうです。
洞庫があり、そこにも水屋側から中の様子がわかる工夫があり、
茶室の使い勝手、バリエーションがよく考えられたた茶室でした。

            
                    朝陽に照る紅葉

さらに、近代の茶室建築らしく冷暖房完備です。
特に夏の茶会に備えてとのことですが、我が灌雪庵でも
夏期の茶事のためにあわてて冷暖房機器を購入したので大いに納得です。
最初から冷暖房機器を見えないように設計してあるのにも感心しました。

西側の二枚障子(貴人口)を開けると、広縁があり、池に面しています。
席入の時に見えないのですが、ここで初めて池に出合うという、
客には嬉しいサプライズです。
広縁の障子の下方が孤篷庵・忘筌のように解放されているせいか、
狭い空間が池を取り込んだ、のびのびと快適な場所になっていました。

             
                      鴨川の鴨たち

夏は手すりにもたれ、屋形船の風情で涼みながら、中立をするのでしょうか。
夕方になると、鉄銹の美しい釣り灯籠に火が灯され、
袈裟形手水鉢に灌ぐ筧の水音が夕ざりの茶に一層の風情を添えたことでしょう。
左側の壁に軽い掛物を掛け、広縁の右端に風炉を置き、
こちらで一服という趣向もあったそうで、茶人・謹次郎氏の感性が輝いていました。

茶室の西側の妻に「珍散蓮(ちんちりれん」の扁額があります。
しゃれっ気たっぷりの命名は松永耳庵翁、説明がうろ覚えなのですが
謹次郎氏は芸事が達者で、後入りの合図に三味線を弾いたとか
・・・なんて粋なんでしょう! 
   チンチリレン チリトツチリトツ  チンチリレン  

給仕口の、色鮮やかな七宝(桃山時代)の引手に惹きつけられました。
この七宝引手を使いたいために給仕口の引き戸を作ったのでしょうか。
三味の音色といい、どこか艶やかな色気を感じる「珍散蓮」でした。
(色気といえば、横浜三溪園・春草爐が懐かしい・・です。
 あらっ・・ホームシックかしら?)

          

茶室「珍散蓮」に出逢えただけで感激でしたが、
他の建築物や庭の眺めも素晴らしく、何度も行ったり来たり、
結局、閉館までねばることになりました。
次回の「四君子苑」春の公開を見学してから続きを書ければ・・と思います。

                                  

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北村美術館と四君子苑-2

2013年11月27日 | 美術館・博物館
                  四君子苑の表門

大変遅くなりましたが、(つづき)をアップします。

四君子苑(しくんしえん)は北村美術館に隣接し、
眺めの良い鴨川べりの、借景に大文字山を望む地にあります。
実業家であり茶人であった故・北村謹次郎氏がここに住み、
茶室・茶苑と数寄屋造りの建物(旧北村邸)が現存しています。
普段は非公開ですが、春と秋の一定期間のみ公開されていて、
10月27日の最終日に駆けつけました。

           
                   近くの鴨川

           
                   鴨川の鴨たち

数寄屋造りの建物は、京数寄屋の名工・北村捨次郎が腕をふるい、
昭和15年に着工し昭和19年に完成しました。
戦後、進駐軍の接収期間もあり、一部改築されましたが、
昭和38年に吉田五十八氏の設計により母屋が近代数寄屋建築に改築され、
新座敷棟となっています。

四君子苑という素敵な名前の由来は、
菊の高貴、竹の剛直、梅の清洌、蘭の芳香を
四君子と中国で讃える風習があり、その菊、竹、梅、蘭の頭の文字が
「きたむら」と読めることから、北村謹次郎氏が命名したそうです。

           

はじめて中へ入り、茶室入口の扁額を見て「あっ!」と思いました。
松永耳庵筆で「珍散蓮(ちんちりれん)」。

横浜三溪園・春草爐如庵のことを調べていた時に
「珍散蓮」という名の茶室が本に載っていて、記憶に残っていました。
でも、何処の茶室なのか、覚えてなくって、やっと回路が繋がり、
「珍散蓮はここだったのね・・・」
忘れていた恋人に出遭ったように嬉しくなりました。

案内人から説明を聞いた後に案内書を手に、
謹次郎氏のお茶事へ招かれた如く、もう一度辿ってみました。
よろしかったらご一緒しませんか?
(撮影禁止で写真がないのが残念ですが・・)

           
                  稲穂垣と石灯籠

表門から入ると珍しい稲穂垣と巨大な敷石(九条家の御駕籠石)があり、
茶事の緊張感でどきどきしながら玄関へ。
(四君子苑は「石造物の宝庫」とも言われ、約六十点あるそうで、
 それらを見るだけでも価値のある庭園ですが、今日はほどほどに・・・)

飛び石の組み方が美しい内露地があり、蹲踞や灯篭を横目で見ながら
玄関石に草履を脱いで揃え、二畳の寄付へ。
北側に一畳分の板の間があり、隅に丸炉が切られています。
ここで支度を調え、次の長四畳(鞘の間)へ進みました。

鞘の間の東側にエントランスの庭がありました。
坪庭のように仕切られた空間に伊賀・六角石灯籠(永禄7年銘)と
山田寺の四天柱石水鉢(飛鳥時代)、二つの石の語る言葉に圧倒され、
落ち着きの中にも身が引き締まる佇まいです。
筧の水音に「ほっ」と癒されました。
丸炉の湯で香煎がだされ、水音を愛でながら美味しく頂戴しました。

           
                石造物(四方仏)・・白沙山荘にて

半東の案内に従って土間を通り、片流れ屋根の渡り廊下を進むと、
右手に腰掛待合(雪隠付)があり、こちらで迎え付けを待ちました。
渡り廊下の左右の庭や露地には北村氏が蒐集した石造物が配置され、
ことさらの静寂や無常観を感じるのは私だけでしょうか。
その一つ、腰掛待合隣りにあるクスノキの化石、
円座を敷いて補助腰掛待合にするとか・・・。
石のベンチはステキですが、露地は薄暗く人恋しいような佇まいでした。

          (つづく)         やっとできました 「ふぅ~」

 
   
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炉開き(2013年11月)の日に

2013年11月24日 | 稽古忘備録
               (写真がないので昨年の写真です

2013年11月23日は先生宅の「炉開き」でした。
毎年、11月の最初の稽古日が「炉開き」となり、
先生が私たちのために濃茶を点ててくださる、嬉しい祝い日です。

床には「万年松在祝」、江雪和尚筆が掛けられ、
素晴らしい瀬戸の祖母懐(そぼがい)の大茶壺が置かれていました。
濃い紫の飾り紐で真行草に結ばれています。
この茶壷にまた逢えて嬉しく、見ただけで「炉開き」が実感されます。

床柱の花入には白玉椿と伊予水木が生けられていました。
花入は竹一重切、淡々斎銘「遠音(とおね)」です。
口切のあと、水屋から聴こえる石臼を引く音を
「遠音」と言うのでしょうか。

               
                     東福寺の紅葉 (21日撮影)

ご挨拶の後、台子の初炭手前から始まりました。
Fさんが緊張した面持ちでふくべ炭斗次いで灰器を運び出しました。
鐶(石目)が掛けられ、釜が上げられました。

釜は菊地文真形で五代寒薙造。
江戸時代後期でしょうか、時代を経て好い鉄味が出始めています。
浮き出た菊の花が炉開きに華やぎを添え、
淡々斎好の松唐草蒔絵の炉縁の立派さに目を見張りました。

ここで炉中、先ず下火について、
風炉と違い、炉用の炭は大きいので、炭の置き方を頭に描いて
下火3本の位置を考えるように、早速、講義が始まりました。
湿し灰の撒き方、灰匙の持ち方、撒く位置、何故撒くのか・・・。
さらに稽古か茶事か、風炉か炉か、炭火を早く熾したいか否か、
場合に応じた炭の継ぎ方を考えて、炭を置くように・・・など。

内心「へぇ~ほう~ひっ~!」
驚いたり感心したりため息をついたりしながら・・・
先生の手の動きを必死で追いかけます。
Fさんもきっと汗を掻きながら、身体と頭をフル回転させたことでしょう。

               
                       朝の東福寺・通天橋にて

火が熾きるのを待って、粟ぜんざいが運ばれ、美味しく頂きました。
先生と奥様が作ってくださったもので、嬉しいご馳走です。
いよいよ濃茶です。
先生のお点前を拝見できる好機ですので、皆、真剣そのものです。
し~んと静まり返り、緊張感のある空気の中、濃茶点前が行われました。

腰から紫の帛紗がとられ、帛紗を捌き、茶入、茶杓を浄めていきます。
蒸気を上げている釜から素手で蓋がとられ、蓋置へ。
台子正面にまわって柄杓がとられ、茶碗に湯が汲まれます。
茶筅通しの茶筅と茶碗の清め、濃茶が茶碗に入れられ、
柄杓から流れ落ちる湯の流れと音・・・・
いつもの点前風景ですが、夢の中のワンシーンのような・・・。

                
                   京都は今が見ごろです (21日撮影)

現実に戻り、濃茶を取りに出ました。
濃茶は柳桜園詰「炉開き抹茶」、
甘みと、渋みが少し効いている、マイルドな濃茶でした。
「大変美味しく頂戴いたしました。
 心をこめて先生が練ってくださった濃茶を頂けて、一同幸せでございます。
 ありがとうございました・・・」
というような気持をお伝えしたかったのですが、何と申し上げたか・・・
すっかり舞い上がって記憶がありませんの。

先生の濃茶の後、Nさんの台子薄茶点前で薄茶を頂戴しました。
昼食後、Sさんの行之行台子、貴人清次花月と稽古は続きました。
炉開きの日の充実した稽古に感謝です。

                           


いけばな小原流展と茶席

2013年11月21日 | 京暮らし 日常編
 

         大作「秋郊」  いけばな小原流展にて


11月17日、お友達のTYさんが出品するというので
いけばな小原流展「古都・秋華」へいそいそと出かけました。

展示会場の祇園・ハ坂倶楽部(祇園甲部歌舞練場内)は
大正時代に建てられた国の有形文化財で、中へ入るのは初めてです。
来場者が多く二階会場へ行くのに入場制限があったそうですが、
大いに納得の風格ある建物でした。

TYさんが入口で待っていて、早速案内してくださいました。
広い会場はパートごとに秋に因む題名(秋興、秋趣など)が付けられ、
照葉、紅い実、洋花などを生けた作品が溢れています。

その中に「秋郊」という大作がありました。
中央に大樹が生けられ、遠山を望む郊外の景色でしょうか。
遠山の手前の大きな水盤に、思い思いの秋景が生けられています。

「秋郊」は28人の合作です。
全体の大景と個々の小景がしっかりと構成され、
見る場所によって印象が変わるという雄大な作品でした。
この空間を創りあげたプロデュース力と、パーツを受け持つ方の連帯感など
「いけばな小原流」の力量に感嘆しました。

「この場所で初めて、全体の構想と花と花器を知って生けるの」
とTYさん。門外漢の私にはこれも凄いことです!

           
                TYさんの作品(「秋郊」のパーツ)

写真がないのが残念ですが、
小原流家元・小原宏貴氏の作品が印象に残っています。
古典的な手法や花材を抜け出し、未来へ向かう熱い何かを感じました。
花材に使われていたバナナの花のせいかもしれません。
異色な花材と思うのですが、それが不思議と融和して、迫力のある作品でした。

茶席のある庭へ回わると、回遊式庭園になっていて、
池には鯉が泳ぎ、榎の大樹が色づき始めていました。
庭園の向こうにある茶室(広間)が立礼席になっていて、
祇園界隈の喧騒がうそのような別世界です。


              

           

           

芸妓さんのお点前、舞妓さんのお運びで、薄茶を頂きました。
北野おどり以来、久々の華やいだ茶席です。
早めに並んだので次客席にてお点前をしっかり見ることが出来ました。
白魚のような指が動き、紅い帛紗を帯から取り出し、捌く様子は麗しく、
一幅の絵のように目に残っています。

          


流れるような所作、しっとりと優雅なお点前(裏千家流)を拝見して、
見習いたいもの・・・と大いに刺激を受け、もう一度基本に戻って
「お稽古しなくっちゃ・・」です。

            

           

庭の一隅に「如庵」という扁額のある茶室があり、外から見学しました。
国宝・「如庵」の写しではないけれど、甲部歌舞練場の奥にこのような茶室が
あることを知り、これも思いがけなく嬉しいお出会いでした。

                               


西行庵の朝茶-2  茶室・皆如庵

2013年11月19日 | 献茶式&茶会  京都編
(つづき)
西行庵の見どころの一つに茶室・皆如庵(かいにょあん)があり、
見学が朝茶のあとの楽しみです。

雨上がり、すっかり明るくなった露地を歩き、
皆如庵の貴人口から中へ入りました。

伺った皆如庵の歴史は複雑で、とても興味深いものでした。
ちゃんと覚えているかどうか?(西行庵にてぜひお聴きください) 
頂いたパンフには、
桃山時代、豊臣秀吉の五大老の一人・宇喜多秀家の息女が
久我大納言へ輿入れの際、引出物として持参した茶室と伝えられる
・・・とありましたが、面白い異説を聞くことが出来ました。

           

           

実は、皆如庵は切支丹大名として名高い高山右近が関わっていました。
豊臣秀吉のバテレン追放令(1587)ののち、信仰のため大名を辞した
高山右近は、天正16年(1588年)に加賀の前田利家に招かれて、
1万5千石の扶持を受けて暮らしていました。
皆如庵はその頃に高山右近によって金沢に建てられた茶室で、
茶会の名目の元、切支丹の集会場としても使われたらしいのです。

皆如庵で有名な床の創りがそのことを裏付けていて、
板敷の框床の壁には正面に丸窓があり、裏側に障子を立てています。
障子の中央に板を入れて花入を掛けることもできますが、
障子の桟を組み合わせ十字架に見立てることも可能です。


               金沢・灑雪亭の切支丹灯篭

徳川家康のキリシタン禁教令(1612)の後、切支丹への弾圧が高まる中、
高山右近はマニラへ行き、1年後にそこで亡くなりました(享年63歳)。
皆如庵の存在は次第に徳川幕府を気遣う加賀藩前田家のお荷物に
なってきます。
宇喜多秀家(妻は前田利家の娘・豪姫)の孫娘(パンフでは娘)が
久我家へ輿入れする際に引出物として持参させ、
京都市平野の久我別邸に西行庵へ移設されるまであったそうです。

・・・そんな歴史を伺いながら、
金沢・灑雪亭の切支丹灯篭を思い出したりしました。
皆如庵の正面には躙口と貴人口が並んでいて、特色の一つだそうですが、
金沢・灑雪亭も似た造りになっています。

          
                 左が貴人口、右が躙口

床の丸窓の中央に板を入れ、花入を掛ける使い方もユニークですが、
掛軸は床の左側壁に掛けるのも変わっています。
皆如庵は一名「夜咄の席」とも呼ばれ、
夜咄の茶事では水屋の灯火が丸窓の障子を通して
客座を照らし、一層の風情を添えるとか・・・。

魅力いっぱいの皆如庵ですが、
私が一番惹かれるのは「道安囲(どうあんがこい、宗貞囲ともいう)」
の茶室です。
四畳向切で、三畳の客座と一畳の点前座の間に囲いがあります。
道安囲の仕切り壁は上部が吹き抜けで中柱まで続いていて、
中柱に接して太鼓張り襖のある火灯口があります。

道安囲があっても上部が抜けていること、点前座正面と勝手口に
窓があること・・・そういえば他にも窓がたくさんあって明るく、
開放感と緊張感が複雑に交じり合う茶室です。

「夜目、遠目、傘(道安囲)の内」ではないけれど、
襖を開けたときに現われるご亭主の印象や道具類の全貌、
道安囲の演出効果やかげ点ての便利さなどいろいろ考えると、
実に使い方が楽しみな茶席だと心躍りました。

一度でいいから、皆如庵の茶事を経験したいものです・・・!
                                  


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