暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

韓国を訪ねる旅ー5  日韓茶の湯交流茶会

2016年10月30日 | 



最終日(4日目)には、韓国で唯一「茶道科」のある大学・「釜山女子大学」の茶室で「日韓茶の湯交流茶会」が予定されていました。
日本茶道のお点前で日本から一時里帰りする高麗茶碗(協賛:銀座 古美術桃青)を用いて茶を点て、韓国の皆さまと交流するそうです。

この日のために着物一式を持参し、「どんな茶会になるのかしら?」と、Fさん共々楽しみにしていました。
最初に釜山女子大学の茶道博物館を見学しました。
ここには高麗時代から李朝朝鮮時代にかけての高麗茶碗が時代を追って展示されており、とても勉強になり見ごたえがありました。
茶碗だけでなく、伝統衣装やポシャギなど興味深い展示室があったので、また訪れたいところです。



釜山女子大学付属の幼稚園に茶室があり、「日韓茶の湯交流茶会」はそこで行われました。
八畳に床の間のある茶室で、毎月1回福岡から先生が来られて、表千家流茶道を学んでいるそうです。
ツアー主催者の丸山陶李先生(表千家流)が席主で茶会を催し、お客さまは釜山女子大学の関係者10名様です。

交流茶会のために、銀座の古美術商・桃青さんが日本に伝世する高麗茶碗2個を持参し、この茶碗で茶が点てられました。
点前はTさん(庸軒流)とFさん(裏千家流)、裏千家流のOさんと暁庵、そしてS氏(石州流?)の3人が半東と水屋を担当しました。
(なんと!嬉しいことに全員がお茶を嗜んでいました)

   

桃青さんが持参の茶碗について熱く語るのを伺いながら、点前が進んでいきました。
2つの茶碗ですが、1つは銘「両国」、茶を介する韓日両国の歴史を象徴するような銘の高麗茶碗、もう一つは塩筍のような黒高麗でした。
実は水屋と半東でウロチョロしてまして、桃青さんのお話をじっくり伺えなかったのが心残りです。
でも、先ずは交流茶会を粗相のないように成功させなければ・・・という思いでいっぱいでした。





お茶が一巡すると、今度は伝統衣装チマチョゴリを着た韓国の方が点前座に座り、表千家流の美しいお点前で私たちに薄茶を点ててくださいました。
韓国らしい菓子「バクダン?」(雷オコシを連想)と薄茶を美味しく頂戴しました。
お茶だけでなく、着物とチマチョゴリの民族衣装の共演もあり、夢のような茶の湯交流のひと時でした。

それから、隣りの幼稚園舎へ移動し、韓国茶礼を興味深く拝見しました。
韓国では茶の栽培があまり適さなかったことから、茶以外のとうもろこし茶やゆず茶などが伝統的に親しまれてきました。
近年では茶の栽培も盛んとなり、独自の茶道「韓国茶礼」が盛んになっているそうです。

    

   

伝統音楽のテープに合わせ、チマチョゴリを着た女性が流暢な点前でお茶を淹れました。
日本で拝見した韓国流茶道(?)とは異なり、抹茶ではなく煎茶(?)を淹れて飲みます。
目の前の茶道具一式で実際に茶を淹れる、韓国茶礼の体験をさせて頂きました。
小ぶりの茶道具一式は園児用で、この幼稚園では園児が韓国茶礼を習っているそうです・・・いいですね!

交流茶会が終了し、遅めの昼食(東采名物・ハルメパジョン)をしっかり平らげて、釜山空港から成田へ。


  帰りの飛行機からパチリ

一期一会という言葉は茶事だけでなく、ツアーにも通じることを実感した、韓国を訪ねる旅でした。
丸山陶李先生、ガイドの文仙姫(ムン ソンヒ)さん、同行の素晴らしい皆様に心から感謝です。
持参した茶箱の出番はなかったけれど、充実した4日間でした・・・。

         
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韓国を訪ねる旅ー4  陶芸家・閔泳麒(ミン・ヨンギ)と魚屋(ととや)

2016年10月29日 | 

  宿泊先の「山清韓方コンド」からの眺め


  閔泳麒(ミン・ヨンギ)先生の自宅(李朝の両班様式)   

韓国の旅の3日目に、山清窯の閔泳麒(ミン・ヨンギ)先生を訪ねました。
慶尚南道山清(サンチョン)は、古都・晋州(チンジュ)から北に20キロ余、智異山を仰ぎ、鏡古川の清流を望む佳境で、周辺には李朝朝鮮時代の古窯址が点在しています。

山清で生まれ育ったミン先生は、1973年に唐津の十三代中里太郎左衛門の陶房に入門し、5年間陶芸の基本を学んだ後、1978年、古窯址のある山清の土地を選んで窯を開きました。
今でこそ高速道路が近くに走っていますが、当時は橋もなく、大橋が出来るまでの8年間は舟が交通手段の辺鄙な場所だったそうです。


 放牧里窯址・・・山清窯ギャラリーの裏山


 栗拾いではありません、陶片を捜しています

山清窯を築いて以来、茶陶一筋にロクロを挽き、登り窯の火を焚いてきたそうですが、
林屋晴三先生の御縁で、日本に伝世する多くの高麗茶碗を手に取って高麗茶碗のなんたるかを会得する機会を得て以来、高麗茶碗(井戸、魚屋、粉引など)に挑戦しています。

  
  試作用の小型の窯       笑顔の閔泳麒(ミン・ヨンギ)先生


 家族総出のおもてなしに感激・・・高麗茶碗で一服



高麗茶碗を生み出した先人の偉大さに驚嘆し、作っては壊す毎日の中で
「目を高く掲げて、高みを目指していかないと良いものは出来ない」
という先生の言葉が深く心に響きました。
「魚屋は6、7種類の土を混ぜて作りますが、全体的に魚屋のもっているものを表現できている・・・と思えるようにやっとなりました。
ギャラリーに展示されている作品は、焼成した膨大な数の作品からセレクトしたもので、自分の魂と心が入っています」







山清窯のギャラりーでいくつかの素晴らしい魚屋(ととや)茶碗に目が留まりました。
素晴らしい・・・と魅入ったのは茶碗の内外に現れている様々な色合いの火色の景色でした。
火色の景色の出方は茶碗によって一つ一つ違い、実に個性豊かでいつまでも見飽きません。
中でも上品で柔らかな雰囲気を感じる魚屋に魅せられました。
椎茸高台と呼ばれる高台もびっくりするほど精巧で味わい深いものでした。





・・・そういえば、今まで魚屋の茶碗を間近に見る機会もなく、伝世の魚屋についての知識も全くありません。
でも、かえって予備知識がなかったのが良かったのかもしれません・・・。
自分の感性を大事にして、「茶事に使うならこの魚屋を・・・」と1つ選び、清水の舞台から飛び降りる気持ちで購入を決めました。「ふぅ~!」 
それに・・・陶芸家・閔泳麒(ミン・ヨンギ)の魂と心が込められている魚屋だし、
先生の素朴で温かな人柄や作陶への熱い一途な思いに触れて、リスペクトの念を抱いたからでもあります。

帰ってから早速、韓国土産の魚屋で薄茶を点ててツレに喫んでもらいましたが・・・・値段は勿論ナイショです。  


魚屋(ととや)(茶道大辞典より)
斗々屋とも書く。御本手に属する高麗茶碗の一種で、その名からして堺の魚商の元締めであった納屋衆、利休や津田宗及などが所持したか、そのゆかりにつながる茶碗と考えられる。
普通、朝顔形に口の開いた平茶碗が多く、高台は小さく整っている。
ねっとりとした鼠色の土が細幅の轆轤目を幾筋も際立たせ、その肌に枇杷色、茶色の火色が現れて景色をつくるが、この現われ方が魚屋の最大の見所とされる。
ごく薄い水釉が総体にかかっている。



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韓国を訪ねる旅ー3  井戸茶碗づくり&熊川窯茶会

2016年10月24日 | 

    熊川窯茶会

このツアーの日程内容に次のように書かれていました。
◎ 現地の「三白土」を用いて井戸茶碗の作陶体験
  井戸茶碗の釉薬をかけて伝統の薪窯で焼成します
◎ 古陶磁陶片ギャラリー見学
◎ 崔熊鐸(チェ・ウンテク)先生宅で茶会

 

  熊川窯(ウンチョンヨ)の古陶磁陶片ギャラリー

「作陶なんてしたことないし、井戸茶碗をつくるなんて無理!」と思っていたのですが、
たくさんの陶磁器を見たせいか、やってみたい・・・と、その気になっていました。
熊川窯の工房で、早速、チェ先生が蹴(け)ロクロを左足で蹴りながら、アッという間にいろいろな茶碗を数個作って見せてくれました。
作陶をしている時のチェ先生のなんて魅力的なこと!
顔つきが鋭く、雰囲気も近寄りがたいのですが、崇高で素敵です。

  
           
隣室に電気ロクロが4台あり、最初にチェ先生に呼ばれてFさんが果敢に挑戦しました。
でも見ているとロクロを回す速度の調整や、特に形が出来てからの仕上げ部分が難しそうです。
井戸茶碗に魅せられて退職後に陶芸を始めたというSさん、さすが年季が入っていて次々と立派な井戸茶碗を制作しています。

暁庵も恐る恐る電気ロクロの前に座り、右足で速度を調整し、
「チェ先生、ヨロシクお願いします・・・」
あとは先生が手をしっかり添えてくださって、何とか形になったけれど難しかったです。
・・・なんと、結果的に大井戸になりました 
桃青さん(銀座で古美術店を経営)を除く6人が井戸茶碗の成形を終え、
あとの作業(高台削り、名入り、釉薬、焼成など)はチェ先生にお願いしました。





熊川窯の登り窯を見せてもらうと、とても大きく、太い薪(松)が山のように積まれています。
作品がたまってから火を入れるそうで、作った茶碗の焼成はずっと先になるとのことでした。
いつか焼成された井戸茶碗を持ち寄って、銀座の桃青さんに集まりましょう・・・なんて話が盛り上がって、出来上がるのが待ち遠しいです。

その後、古陶磁陶片ギャラリーへ戻り、茶会をしました。
正客はチェ先生、連客はガイドのMさん、丸山陶李先生、ツアーの全員、お点前はFさんとTさんです。
茶碗はチェ先生愛蔵の粉青沙器、全員が別の茶碗で薄茶を味わいました。


 茶会の準備中です


 粉青沙器(ふんせいさき)で茶を点てるTさん

窓の外に広がる自然豊かな風景、美しいお点前、侘びた茶碗で喫む薄茶・・・・・
静かに流れる茶会のひと時は、井戸茶碗づくりと共にとてもステキな思い出になりました。


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韓国を訪ねる旅ー2  井戸茶碗の故郷へ

2016年10月22日 | 

 金海茶碗の巨大なオブジェ (金海粉青陶磁館にて)                        
10月11日(2日目)は2つの陶磁館、金海粉青陶磁館と熊川陶窯址展示館を見学、その後、崔熊鐸(チェ・ウンテク)先生の熊川窯(ウンチョンヨ)を訪問しました。


 金海粉青陶磁館 

釜山のすぐ北にある金海(きんかい)は粉青沙器(ふんせいさき)の故郷の1つであり、「金海」と名付けられた高麗茶碗が日本では有名です。

「金海」(きんかい)(茶道大辞典より抜粋)
 高麗茶碗の一種。現在の釜山の北、金海の窯に注文して焼かせた御本茶碗。
 肌に「金」あるいは「金海」の彫名の入ったものがあるので、この名が出た。
 磁器質の胎土に青味のある透明釉がかかり、かなり高温で焼かれている。
 形はふっくらした碗形で、口辺を捻って桃形や州浜形にしたものがある。
 高台は外に強く張った撥(ばち)高台が普通で、割高台にしたものは特に喜ばれる。
 釉の上から引掻き疵を付けたものがあり、金海の猫掻(ねこがき)といって珍重される。


金海では今なお陶磁が盛んに行われていて、金海粉青陶磁館のまわりには陶磁器の店が立ち並び、有田や信楽を思い出しました。
展示も粉青沙器(ふんせいさき)の古窯址からの出土品だけでなく現代作家さんの作品もあり、特に公募展の入選作4点がどれも垂涎ものでした。




  公募展の入選作 (金海粉青陶磁館にて) 

再びマイクロバスに乗り込み、「井戸茶碗の故郷」の一つ慶尚南道熊川へ向かい、熊川陶磁址展示館へ行きました。

     
 熊川陶磁址展示館         
 
そこで熊川窯の崔熊鐸(チェ・ウンテク)先生とお会いし、展示館にある出土品や、写真ですが喜左衛門井戸(孤蓬庵)や熊川茶碗・千歳(五島美術館)もあり、先生から説明を受けました。
このツアー主催者の丸山陶李先生の熱心な解説も加わり、大徳寺・孤蓬庵で本物の「喜左衛門井戸」に触学させて頂いたというチェ先生の井戸茶碗への思いが重なる展示館でした。

 
 熱く解説する丸山先生(中央)           焼く茶碗を乗せる陶枕に心惹かれて

 
 整備された丘に古窯址がいくつもある         発掘された登り窯址

裏山には古窯址が整備され、大きな登り窯址や作陶体験室などを見て歩きました。
実はこれからがめったにない貴重な体験でした。
近くに15世紀頃の古窯址が眠っているそうで、チェ先生が先頭に立って案内してくださいました。
小さな川沿いの道なき道を草に足を取られ、生い茂る草木を振り払いながら進むこと10分位でしょうか、
「ここです」と指さす先には土塁のような草に覆われた小丘がありました。


 15世紀の登り窯の址


 川で陶片を洗っています

でも、バカみたいに真面目で熱心な私たちツアーの7人は陶片を夢中で探し始めたのでした。
(陶片は日本へ持ち帰れないのでチェ先生のギャラリーへ寄贈です)
足場が悪く、私はすぐに陶片探しをあきらめ、これからチェ先生宅で行われる茶会のために野の花を採取しました。
ススキ、猫じゃらし、赤まんま、黄色い野菊など・・・日本とほとんど同じ植生のようです。


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韓国を訪ねる旅ー1  粉青沙器(ふんせいさき)って?

2016年10月19日 | 

 美しく精密な文様の高麗青磁の壷(釜山青磁窯址)
 ・・・最初に訪問した東亜細亜文化財研究院にて


10月10日から3泊4日で韓国・慶尚南道(キョンサンナムド)を旅してきました。
慶尚南道は韓半島(朝鮮半島)の東南側、釜山広域市の西側に位置しています。

  慶尚南道(キョンサンナムド)のマップ     

高麗茶碗のふるさとの古窯址を訪ね、井戸茶碗や魚屋(ととや)茶碗に取り組んでいる陶芸家たちと出合い、さらに釜山女子大学を訪ね、「日韓茶の湯交流茶会」で茶の湯を愛する方々と交流した旅でした。
中身の濃い、他では経験できない旅だったので何から書いたら・・・と迷いますが、最初に一番わからなかった粉青沙器(ふんせいさき)について書くことにします。

粉青沙器の古窯址を訪ねたのですが、井戸茶碗など高麗茶碗の故郷らしい・・・くらいの知識しかなく、粉青沙器という言葉も初めて聞いたのでした。

今回のツアーで訪ねた粉青沙器の古窯址   
   昌原市鎮海区 ★頭洞里窯址(熊川古窯址)15-16C★
   熊川陶磁資料館
   山清郡丹城面 ★放牧里窯址 15-17C★
   河東郡辰橋面 ★白蓮里窯址 15-16C★★


今年初めて発見された金海粉青磁器窯址の出土品の説明を受ける
(最初に訪問した東亜細亜文化財研究院にて)

それで帰ってから、韓国やきもの史をにわか勉強してみました。その概要を記します。

韓国やきもの史
☆紀元前後
中国から轆轤(ろくろ)と窯の技術が伝わり、瓦のような瓦質(がしつ)土器が作られました。

☆三国時代
高句麗・百済・新羅・伽耶(かや)では、瓦質土器を元に陶質(とうしつ)土器と呼ばれる灰黒色の土器が作られました。
土器の時代を経て、7世紀の百済では緑釉を施した陶器が、9世紀の新羅時代に中国の越州窯青磁の影響を受けて、朝鮮でも青磁が作られ始めます。

☆高麗王朝時代(918-1392
12世紀になると中国の青磁の影響を離れ、「翡色(ひしょく)」と呼ばれる深い青みを帯びた美しい高麗青磁が作られ、透かし彫りなどの装飾が加えられるようになります。
12世紀後半には白や黒に発色する土をはめ込んで装飾する象嵌技法が発達し、高麗青磁の中心的な装飾技法となりました。
銅を含んだ顔料で紅色を発色する辰砂の技法、鉄絵具で文様を描く青磁鉄絵も盛んに作られました。
13世紀にモンゴル人の侵入が始まり、高麗王朝の衰退とともに高麗青磁は姿を消します。


 青磁茶碗 高麗時代(釜山女子大・茶道博物館)

☆李氏朝鮮時代(1392-1910)
李朝になると青磁に代わって粉青沙器が中心になり、高麗時代と比べて産地は大きく拡散します。

粉青沙器・・・この名称は古いものではなく、1930年頃に韓国の美術史家・高裕變(こうゆうへん)が「粉粧灰青沙器」という名称を提唱し、略して「粉青沙器」という名称が定着したそうです。

日本では、この種の器が高麗茶碗の一種として珍重され、作調によって「三島」「刷毛目」「粉引」などと呼ばれました。
粉青沙器の素地は、青磁に用いられるのと同種の灰色または灰黒色の土で、これに白の化粧土を掛け、さらに透明釉を施して焼成したものです。


 粉青沙器「刷毛目」茶碗 (熊川陶磁址展示館)
   

 粉青茶碗 李氏朝鮮時代 (釜山女子大・茶道博物館)

15世紀には象嵌や菊花文のスタンプを一面に押し、そこに白土を埋めた「印花」という技法が盛んに行われました。
その後、刷毛目を用いて白土を塗った刷毛目や、器表全面に塗られた白土を削り取って模様を表わす掻落しの「彫三島」などが作られました。
15世紀から16世紀にかけて鉄絵具で文様を描く「鉄絵」が盛んになり、特に忠清南道公州郡鶏龍山の周辺で焼かれたことから「鶏龍山」とも呼ばれた粉青鉄絵が作られました。
16世紀後半になると、ほとんどの窯が白磁窯に転向していき、粉青沙器は姿を消してしまいます。


 高麗雲鶴茶碗の一種・「狂言袴」筒茶碗 (N氏蔵)

一方で、15世紀前半には雪のように白い上質の白磁が完成され、本格的に作られていました。
15世紀後半からコバルト顔料を用いた青花(染付)磁器が生産され、17世紀になると中国からのコバルト顔料の輸入が困難になると、褐色に発色する鉄絵具で文様を描く鉄砂(てっしゃ)が流行します。

16世紀末、豊臣秀吉の侵略によって国全体が戦火にまみれ、各地の窯は大きな打撃を受けました。
多数の陶工が日本へ連行され、陶磁器の生産は著しく停滞しました。

1639年から1717年まで釜山にある窯で、「高麗茶碗」と呼ばれる日本の茶人向け(輸出用)の茶器が焼かれました。


 暁庵愛用の茶碗、「高麗御本三島」 

1752年に広州分院里に官窯ができると、青花、鉄砂、赤色に発色する辰砂などを用いた作品や、文人好みの文房具や酒器も作られました。

19世紀後半になると外国勢力の侵入によって社会や経済は混乱し、国力は衰退して、朝鮮陶磁器の伝統は衰退していきました。

         
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