暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

ブータンの旅 (5)  民族衣装 「キラ」

2010年09月30日 | ブータンの旅-2010年9月
ブータンの旅の最後は「キラ」のお話です。
ブータンの人たちは、男性は「ゴ」、女性は「キラ」という
民族衣装を着ています。ちょっと着物に似ています。

旅するうちに、少しずつ「ゴ」や「キラ」に関心がでてきました。
「ハ」の弓の試合場で見た選手たちは、バリッと「ゴ」を着ていて、
とてもカッコよかったし、ガイドのキンレイさんと運転手のダモンさんも
仕事着は「ゴ」でした。時々、別の「ゴ」に着替えるオシャレさんです。

ガイドのキンレイさんは、
ウォンディポダン・ゾンやティンプーのタンチョ・ゾンの入り口で、
必ず「カムニ」と呼ばれる白い布を肩にかけて、正装していました。
正装が要求される場所が決められているそうです。

             

              
              
やっと「キラ」へ関心が向いたのは、帰る3日前のティンプーでした。
ティンプー滞在中のYさんが「キラ」の店へ連れて行ってくれたのです。
「キラ」は、綿、生シルク、シルクなどの素材、手織りか機械か、
模様の複雑さなどによって値段や使い方が違います。

手の込んだ模様と素敵な色合の「キラ」が店の奥の壁に掛かっていました。
「これは?」と、尋ねると
アンティークで8万ニュル(16万円)もする「キシュタラ」という
ブータンでも有名な織物で、「キラ」1着分織るのに何年もかかる芸術品です。
「新しいものだと20万ニュル(40万円)位でしょうか?
 でも、もうこれだけの織物を織れる人がいないのです」

ブータンの女性は「キラ」道楽が多く、お気に入りの「キラ」を着て、
ツェチュ祭へ行くのを何よりも楽しみにしています。
毎年、特別注文で豪華な「キラ」を1年がかりで織ってもらい、
ツェチュ祭が終わると売ってしまう人もいるとのことです。
「キラ」への並々ならぬ意気込みを感じさせるお話でした。

              
              

観光客が「キラ」を試着しているのを見学しました。
丈が短かめの「ハーフキラ(略式のキラ)」を一部折り返しながら
腰に巻きつけ、帯(ケラ)で止めます。
(1枚の布でロング巻スカートを折ってまとう感じです)
上半身は、シルクのブラウス(ワンジュ)を着て、上着(テュゴ)を着ました。
袖が長くなっていて、ブラウスの袖と衿を外側に折り返して、出来上がりです。

私たちも試着し、Mさんはキラ一式を、私はハーフキラとケラを買いました。
早速ホテルに帰って着てみると、思ったより着やすく、動きやすく、
とても暖かく、稽古着にどうかしら?

              


翌日、ティンプーのタンチョ・ゾンで行われた「ツェチュ」祭では
女性たちのステキな「キラ」、豪華な「キラ」が気になって、
そちらばかり観ていました・・。

                                    
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    写真は上から
       「おみやげの可愛いゴ(右)とキラ」
       「正装したキンレイさん」
       「ティンプーの伝統技芸院で機織を学ぶ生徒たち」
       「キラの着付け  帯(ケラ)を巻いているところ」
       「キラの着付け  ほぼ完成です」
       「購入したハーフキラと帯(ケラ)」


ブータンの旅 (4)  「ツェチュ」祭

2010年09月27日 | ブータンの旅-2010年9月
「ツェチュ」と呼ばれる祭りが年に一回、各地の寺院で行われています。
ツェチュとは「(月の)十日」を意味します。
八世紀にチベット仏教をブータンに伝えたグル・リンポチェ(パドマサンババ)に
まつわる十二の故事に因み、各月の十日(ブータン暦)に法要を行います。

「ツェチュ」祭は、グル・リンポチェを再び目の前に拝み、法要を行う、
一年のうちでも大切な日だそうです。
滞在中、9月15日~17日にウォンディポダンで、
9月17日~19日には首都ティンプーで「ツェチュ」祭が行われていました。

特にウォンディポダン・ゾンで行われた「ツェチュ」祭は3日間、
毎日通いましたのでとても印象に残っています。

15日(初日)に川の合流点にそびえ立つウォンディポダン・ゾンへ行くと、
門前町には老若男女が集まり、車が溢れ、食べ物や玩具の出店でごったがえし、
ものすごい人と活気でした。
ゾン(城塞・寺院・官庁)の中は広場を囲んで回廊がめぐらされ、
広場の中央では伝統的な舞踊が繰り広げられています。

            

これらの舞踊はチベット仏教の教義に基づく神聖な儀式で、
法要そのものを表しているそうです。
また、舞踊や劇は難解な教えを民衆にわかり易く伝えるためと言われています。

僧侶たちがきらびやかな衣装をつけ、太鼓を持つ舞い、剣を持つ舞い、
仮面をつけた舞いを踊り、村の娘たちが稲刈り唄のような民謡を踊ります。
舞いには「死後の世界で生前の行いを捌く」「不倫をいさめる」など、
いろいろな物語(教訓、示唆)があるそうですが、
観光客の私には今一つ解りにくく、飛び跳ねたり、くるくる廻ったり、
1時間も躍動的に踊り続けている姿にびっくりです。

            

面白かったのは、アツァラと呼ばれる仮面を被った道化役です。
村人が演じていますが、滑稽な(ちょっと卑猥な)仕草で笑わせたり、
会場整理をしたり、舞台と観客のつなぎ役をしています。
子供たちにも大人気でした。
ウォンディポダンでは外国人観光客が優遇されていて
舞台に近い席で見学できましたが、あとでアツァラがお布施を集めに来ました。
そんな役目もしっかりしています。

            
            

朝早くから近在の人たちが一家総出でお弁当を持ち、
広場に敷物を敷いて座り込み、延々と続く伝統にのっとった法要を
炎天下でも静かに見守っています。

生後1ヶ月くらいの赤ちゃんを抱いた若いお母さんが乳を飲ませ、
オムツを替え、二人の男の子を従えて、悠然と座っている様子に
親しみと逞しさを感じました。
親類縁者に囲まれて、何があっても安心なのでしょうね。
子供たちは行儀がよく、小さい子の面倒をよく看ているのに感心しました。

日本人が見失いつつある、いろいろなこと
・・・死者の幸せな再生を願う信仰心、生きものへの思いやり、
譲り合いや助け合い、大家族制の良さなどを感じました・・・。

           

舞踊に退屈すると、観客やアツァラの道化ぶりを観たりしながら、
初日だけでも昼食をはさんで4時間は居たでしょうか。
「ツェチュ」の法要の場に居ることが、礼拝そのものであり、
長く礼拝するほど徳を積むことになるそうです。
私たちもきっと・・・!
                            
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   写真は上から
         「ウォンディポダン・ゾンのツェチュ会場」
         「太鼓を持った踊り」
         「仮面舞踊・・・あの世での裁きか?」
         「観客とアツァラとのやりとり」
         「お布施を集めるアツァラ・・手にお札を持っている」
         「ツェチュで出会った女の子たち」
                                  


ブータンの旅 (3)  タクツァン僧院

2010年09月25日 | ブータンの旅-2010年9月
パロ谷をパロ・チェ(川)沿いに北へ向うと、
タクツァン僧院が垂直に切り立った岩の上に見えてきました。
8世紀、初めてブータンへ仏教を広めたパドマサンババ(グル・リンポチェ)は
虎の背に乗ってこの地へチベットから飛んで来たと伝えられています。
タクツァン(虎の巣)と呼ばれ、チベット仏教圏でも指折りの聖地です。

日帰りトレッキングコースとして外国人観光客に人気がありますが、
地元の団体さんや高校生など、たくさんの巡礼者が登っていました。
ガイドブックには駐車場(標高2300m)からレストハウス(標高2800m)まで
登り約2時間と書いてありましたが、とてもきつい登りでした。

標高が高いせいでしょうか、少し登ると息苦しくなって続かず、
一休みして呼吸を整え酸素を補給してから、また登りました。
亀の如くゆっくりゆっくり登り、対岸にタクツァン僧院が間近に見える
レストハウスまで3時間近くかかりました。

                
                

「大丈夫ですか? 先へ行きますか?」と心配そうなガイドのキンレイさん。
「OK! ゆっくり行きましょう」
レストハウスからさらに奥の展望台へ到着すると、もう一度確認されました。
ほとんどの日本人観光客は展望台で引き返すそうです。

でも、再び訪れることは無いであろうと思ったので
「大丈夫です。僧院までゆっくり行きましょう」と、Mさんと私。
展望台から狭い石段を降下し、滝のしぶきを浴びながら対岸へ渡り、
今度は急な登りです。
休んでは登り、やっとやっとタクツァン僧院へ辿り着きました。

パドマサンババが祀られている本堂と二つのお堂を巡拝し、
ブータン式の参拝も板についてきました。
参拝の仕方は、先ず立ったまま顔の前で手を合わせ上中下と三回祈った後、
跪いて両手を床に伸ばして額を床につけて拝みます。これを三回繰り返します。
僧院には入場制限(拝観許可)があり、私たちが最後の参拝者だったらしく、
もう登ってくる人はいませんでした。

キンレイさんから頂いた美味しいリンゴで元気をもらい、
登り口の駐車場まで戻りました。
結局、5時間30分かかったことになりますが、
タクツァン僧院を参拝できて、とても良い旅の記念になりました。 ヤッタネ!


             
             


遅い昼食を食べて元気を取り戻し、
さらに北にあるドゥゲ・ゾン(城塞址)へ行きました。
かつてこの道はチベットとの主要な交易路であり、
チベット軍の侵攻経路でもあったそうです。

1647年に建てられたドゥゲ・ゾンはチベット軍との古戦場ですが、
篭城に備え、川まで水を汲みに行く秘密の通路や、
大きな石でできた脱穀機が残っていて興味はつきません。
1951年に火事で焼け落ちて、今は住む人も居ない廃墟です。
崩れた城壁、風に揺れる屋根のススキ、荒れ果てた廃墟は閑かで物哀しい。

晴れた日にはチョモラリ峰(7314m)が遠望できるそうですが
小雨が降ったり、止んだり・・。
そちらの方面へ目をやると、久しぶりに虹を見ました。


     (2へ)       (4)へ続く           のち  


  写真は上から、「レストハウスからタクツァン僧院を望む」
           「水力で廻しているマニ車の水場」
           「タクツァン僧院」
           「城壁が崩れているドゥゲ・ゾンへの通路」
           「今は住む人がいないというドゥゲ・ゾン」
             

ブータンの旅 (2)  峠を越えて

2010年09月23日 | ブータンの旅-2010年9月
ブータンは面積38394平方km(九州の0.9倍)ですが、
険しい山岳と急峻な渓谷によって分断され、
山間にある谷ごとに多様で複雑な文化を持つ村々があると言われています。
主要幹線道路は東西に伸びていて、どこへ行くにも山(峠)越えをしなくてはなりません。

空港のある「パロ」から隣町の「ハ」へ行くにはドチュ・ラという峠を越えるのですが、
この峠(ラ)は標高3800m、富士山より高い峠越えです。
長時間のフライトで疲れている上に、曲がりくねった山道を約3時間、
高山病と車酔いで、二人ともふらふらになり吐いてしまいました。
ホテルにやっとたどり着き、夕食をキャンセルしてひたすら眠ることに・・・。

翌日は元気になり、「ハ」の町で弓の試合を見学しました。
アーチェリーに似たブータン式の弓(ダツェ)は国技だそうで、
3チームが130mほど離れた的を両側から射合っています。
射終ると、勇者をたたえるようなダンスがあり、興味深く観戦しました。

近在の農家の人たちが集まるという野菜市場を覗いてから、
「ハ」の古刹、ラカン・カルポ(白寺)へお参りしました。
私たち以外に観光客の姿はなく、若い僧侶が本堂へ案内してくれました。
サンスクリット語で書かれた古く貴重な経典が積まれていて
ちょっと三蔵法師になった気分です。
70人の僧侶がここに住み、修行をしているそうです。
ここで初めてブータン式の参拝の仕方を習いました。

              

再び、恐怖(?)のドチュ・ラ越えで「パロ」へ戻りました。
途中、ドチュ・ラ(峠)で1分だけ車から降りてみると、
白いチョルテン(仏塔)のある峠から山頂(4100m)へ向って
おびただしい数のダルシン(経文を書いた幡)が立ち並んでいます。

風が強く、とても寒かったのですが
数人の女性たちが新しい幡を建てている様子が一瞬のうちに見て取れ、
その山や峠が信仰対象の聖地であることがわかりました。
急に眩暈を感じたので、あわてて車へ戻りました。

             

             

「パロ」へ戻り、ダショー西岡氏を記念する西岡チョルテンへ行きました。
ブータンへ出発直前に、茶友Iさんのご主人が西北ネパール学術探検隊(1958年)で
西岡氏と一緒だったとお聞きし、Iさんご夫妻に代ってぜひ訪ねてみたい・・・
と思っていたのです。

1964年、西岡京治氏(1933-1992)は三代国王の元、
近代化が始まったばかりのブータンへJICA(国際協力機構)から派遣され、
里子夫人と赴任しました。
2年の任期でしたが、ブータン側の要望もあり、1992年に現地で亡くなるまで
その滞在は28年に及んだそうです。

その間、近代的稲作技術の導入、野菜栽培、ジャガイモやリンゴの栽培など
農業の近代化と振興に情熱を注ぎ、多くの功績により、
1980年四代国王よりダショー(貴族・高官に贈られる爵位)の称号が贈られました。
里子夫人は帰国後、織物などブータンの工芸品や伝統文化を紹介し、
ご夫婦でブータンと日本の友好に尽力されたのです。

西岡チョルテンの周りには丹精されたバラやコスモスが咲き、
今も香華(バターランプ)が絶えることがありません。
毎日、堂守のお婆さんが来られ、祈りを奉げているそうです。

              


その日は眩暈や吐き気がなかなか治らず、二人とも昼食をキャンセルし、
明日のタクツァン僧院への山登りに備えて早目にホテルへ入り、休みました。

     (1)へ       (3)へ続く           

   写真は上から
     「ラカン・カルボ(白寺)のかわいい僧侶」
     「弓の試合会場」
     「日本に似ているパロ谷風景」
     「パロ谷の黄金の稲田」
     「ガイドのキンレイさんと堂守のおばあさん・・西岡チョルテンにて」

ブータンの旅 (1)

2010年09月21日 | ブータンの旅-2010年9月
4月のある日のことです。
札幌在住のMさんから次のようなメールが届きました。

「この9月に10日間ほど年休をとってブータンに行こうと思います。
 今のところ1人です。
 昨年7月より友人のYさんがJICA(国際協力機構)派遣で
 ブータンの首都ティンプーに滞在しています。

 幸福度指数世界1、戦乱のなかった仏教国を見にご一緒しませんか?
 来年から滞在費が一日5千円位値上がりするようですが、
 現在は、一泊200ドル(宿泊費、食事、車、ガイド、運転手など含む)です。
 体力のあるうちに、遠方の国へ行きませんか?」

Mさんとは一緒にスリランカやカンボジアへ行ったことがあり、
気心の知れた友人です。
ブータンは私にとって全く未知の仏教(密教)国であり、
Yさんが駐在しているのも心強く、彼女の仕事振りも興味深く
「体力のあるうちに・・」という最後の一言でブータン旅行を決めました。
・・とは言うものの、Mさんは仕事で忙しいらしく、
私は直前まで夏期講習会に没頭していたので
ブータンについて調べたりする時間が取れませんでした。

Yさんの紹介で、ブータンの旅行会社シデ・ブータンの青木薫さんが
私たちの意図を汲んで旅行スケジュールを練り上げてくれました。
Mさんはオグロヅルなどの自然観察とツェチュ(寺院の祭り)見学、
私は軽いハイキングや工芸品との出会いを希望しました。

ブータン政府は外国人観光客の受け入れに一定のルールを決めていて、
国内移動は全て車、1泊200ドル(割引、割増あり)の公定料金制度です。
全行程の宿泊地や経由地を確定しておかないと、ビザが取れないそうです。
「とにかくゆっくりのスケジュールでお願いします・・」
これが大正解でした。

9月11日、バンコック5:50発(現地時間、日本との時差-2時間)の飛行機に3時間乗り、
ブータンのパロ空港へ7:50(現地時間、日本との時差-3時間)に到着。
・・・と思ったら、なかなか飛行機から降ろしてもらえません。
30分ほど待たされてやっと降ろしてもらえましたが、
そこで初めてカルカッタへ着陸したことを知りました。
天候不順で山間のパロ空港へ降りれないので、ここで天候の回復を待つとのこと。

・・そういえば窓から見た景色は大きな川が蛇行して流れ、
雨季の洪水のせいか、川幅が異常に広くなっていました。
あれはインドの川(フーグリ川?)だったのだ・・・。
町並みも大きく、カルカッタと聞いて全て納得です。

空港ラウンジで待つこと、5時間。
再びカルカッタから1時間飛び、パロ空港へ15時頃到着しました。
シデ・ブータンのガイドのキンレイさんと運転手のダモンさんが
笑顔で迎えてくれました。

その日の「パロ」での見学はカットして、今夜の宿泊地「ハ」へ向いました。

        (2)へ続く                     


             

    写真は、「ハの商店、伝統建築の建物がステキです」
         「夜明けのハ谷、ハの町の標高は2730mです」