暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

西予の旅  石鎚山登山

2011年08月21日 | 2011年の旅
                     (頂上・弥山から天狗岳をのぞむ)

西予の旅の仕上げは、最終日にトライした石鎚山登山です。
石鎚山は標高1982m、白山以西の最高峰であり、日本百名山、
日本七大霊山にも名を連ねています。

石鎚山へ登りたいけれど大丈夫だろうか?・・・と心配でした。
旅へ出たら、めまいもほとんどなく暑さにも対応できたことと、
主人の叔母さんの一言で決まりました。

「明日は土小屋まで行く予定だけれど、山へ登れるかしら?」
すると、
「土小屋まで行くのなら、ゆっくりでも登りなさいや。
 石鎚山は気持ちのええ山だから大丈夫。
 私も三度登ってますらい」
腰と膝を悪くして杖を突いて歩行している叔母さんですが、
そう言っている顔に力が漲って、今でも登りたい様子でした。

                 

内子から久万高原を抜け、石鎚スカイラインを走り、土小屋へ向かいました。
国民宿舎石鎚に泊まり、翌朝7時に朝食、8時に出発です。

土小屋から二の鎖小屋までは急なアップダウンもなく、
マイペースなら比較的楽なコースです。
途中、アザミ、下野草、小あじさい、葉隠れ釣舟草、黄蓮華升麻、
小オニ百合、ミソハギなどの花を鑑賞しながらゆっくり登りました。

                 
                 

二の鎖小屋で先へ行ってもらった息子たちが待っていてくれまいsた。
ここから頂上まで約40分のはずですが、
ペースが違うのでまた先へ行ってもらいました。
二の鎖小屋のすぐ上に49mの大鎖が打たれた岩壁があり、
昔(三十年前?)主人とよじ登った記憶が幽かに残っています。

「鎖を登れば直登だから、あいつらを追い越せるぞ」
軽やかに上った昔の記憶を頼りに二の鎖場へ挑みましたが
10メートルも登らないうちに後悔しました。

でも下りる方がもっと怖いのです。
金具や岩の窪みに必死に足を掛け、重くなった身体を腕の力で引き揚げました。
追い越すどころか、撒道よりもずっと時間が掛かってしまいました。
最後の難関・三の鎖はパスして、撒道の急な階段を登りきると、
頂上・弥山(みせん)に到着です。

                 
                 
「遅かったね。大丈夫?」
(・・・少しは心配してくれたのかな?)
頂上は晴れたり、ガスで見えなくなったり、刻々天気が変わります。
石鎚神社・頂上社へお参りしてから、頂上小屋へ入り、
熱いみそ汁とコーヒーを頼んで早めの昼食です。

天狗岳をバックに記念撮影をしてから、また若者二人と別れ
花や風景を撮影しながらゆっくり下山しました。
国民宿舎石鎚へ到着したのは13時、約5時間の行程でした。

                 

石鎚山登山に挑んだおかげで、やっと体に自信が持てました。
久万高原の古岩屋荘に寄って温泉で汗を流してから、松山空港へ向かいました。

十数年ぶりの家族旅行でしたが、みんな楽しかったようで良かった!
もちろん私も最高に楽しい西予の旅でした。

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西予の旅  追善和讃

2011年08月13日 | 2011年の旅
                      (懐かしきふるさとの海、ふるさとの人)
今日は迎え盆です。
昨年は母の新盆でした・・・。

今年は主人の母の三十三回忌にあたり、久しぶりに愛媛県西予市へ帰省しました。
臨済宗の菩提寺で追善供養の経をあげていただきました。
経は般若心経、観音普門品偈(かんのんふもんぼんげ)、
追善和讃(ついぜんわさん)などです。

「臨済宗聖典」が用意されていて、和尚様から全員へ配られました。
初めて聴く「追善和算」の経が美しく、わかりやすく、心に残りました。
和尚様の読経に皆で和しながら、今は亡き人たちを思い浮かべ涙がこぼれました。

一冊分けて頂きましたので、「追善和算」をここに記して唱え、
有縁無縁の御霊がやすらかであるようお祈りします。

                   

「追善和讃」

帰命頂来仏法僧      火宅無常の世にあれば
受くる悩みは多けれど   死別にまさるものぞなし

生縁すでにつきぬれば   富も位もなにかせん
もろき生命はうたかたの  はかなく消えてあともなし

親子のゆかり深くとも   魂よびかえすすべもなし
比翼のちぎりかたくとも  伴い行かん道ならず

つきぬ名残の野辺送り   忌日数えて嘆けども
やがて去る者日にうとく  その面影はうすれゆく

されどこの世は短くて   流転輪廻の果もなし
因果の道理わきまえて   後世の大事を思うべし

今霊前にささぐるは    知恵の灯慈悲の花
香のかおりも清らかに   金口の経をとなうれば

煩悩はらう鐘の音に    いつか長夜の夢やぶれ
元より空に有明の     真如の月は圓かにて

有縁無縁のへだてなく   みな信心の花ひらき
無上菩提の実をむすぶ   回向の功徳ありがたき

不生不滅を悟りなば    生死即ち涅槃なり
逝くも残るも仏国土     常に諸仏の目のあたり

大悲の御手に抱かれて   永遠の生命に生きる身の
幸を悦びいざともに     報恩行にはげみなん

南無や大慈の観世音    南無や大悲の観世音

               
                       合掌    

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西予の旅  大洲・臥龍山荘

2011年08月12日 | 2011年の旅
平成18年3月、四国遍路(一巡目)の時に
大洲(おおず)市にある臥龍山荘を初めて訪ねました。

第四十三番札所明石寺(めいせきじ)を打ってから卯之町の松屋旅館に泊まり、
翌朝、卯之町から鳥坂峠のへんろ道を越え、大洲を目指しました。
午後になってようやく大洲へ辿りつき、
肱川の対岸に臥龍山荘を見たときの印象は今でも鮮明です。

清らかな水を満々と湛える臥龍淵の崖の上に
茅葺き屋根の風流な茶室(不老庵)が浮いているように在り、
一幅の山水画のようでした。
対岸に座り込んで眺めていましたが、どうしても寄りたくなったのです・・・。
その時のことを思い出しながら、西予の旅の初日に臥龍山荘へ行きました。

                 

「蓬莱山が龍の臥す姿に似ている」ことから、第三代大洲藩主・加藤泰恒が
この地を「臥龍」と命名したと言われ、幕末まで歴代藩主の別荘地でした。
明治になり、荒れたままだった庭園を貿易商・河内寅次郎が買い取り、
10年かけて臥龍山荘を築き、明治40年に完成しました。

母屋の臥龍院には、清吹(せいすい)の間、壱是(いつし)の間、霞月(かげつ)の間があり、
それぞれに風流な意匠が凝らされています。

清吹の間は四季を表わす欄間の透彫が美しく、光と影を巧みに取り入れていました。
春は西側の書院窓の花筏、夏は北側窓の水、秋は南側欄間の菊、
そして冬は東側の雪輪の窓・・・この裏は仏間になっていて蝋燭を灯すと、
清吹の間からは雪明かり、霞月の間からは月明かりとなっています。

                  

                  

臥龍山荘で一番素晴らしいのは露地の石組みです。
一つ一つ吟味された石が使われていて、神戸の庭師「植徳」さんが
10年がかりで作庭したそうです。
飛び石に使われているてまり石、臼石、伽藍礎石が青苔に映えていました。

                  
                  

石組を楽しみながら進むと、昭和24年に浴室を茶室へ改造したという
「知止庵」(ちしあん)がありました。
二畳の小さな茶室ですが、「知止」の扁額は十代藩主・加藤泰済の筆、
壁の腰張は第三代藩主・加藤泰恒の「茶方日記」の反古です。

大洲藩で陽明学を教えていた中江藤樹の説いた教えから
「知止」という庵名が付けられました。
「知止」とは、「人というものはいつでも止める(止まる)ことを知らなくてはいけない」
という意味だそうです。
どこかの国の首相に聞かせてあげたいな・・・と、つい考えました。

                   
                  
                    
最後に、あの不老庵です。
臥龍淵の崖の上に舞台造りに建てられた数寄屋で、
生きた槙の木が捨て柱として使われていました。
この庵そのものが舟に見立てられ、
天井は弓のように曲げられた網代張の一枚天井。
川面の月光を天井に反射させる趣向になっているそうです(・・・ステキですね)。

三方開いている不老庵の広間は涼しい風が通り抜け、
大の字になって寝ていたいと思う空間でした。
広間の入り口に茶室(三畳台目)がありましたが、見学できず残念です。

あとで、息子たちが
「風が吹いて気持ちが良かったので不老庵で寝ていたよ」

                           

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西予の旅  大洲城にて

2011年08月11日 | 2011年の旅
旅の初日、大洲(おおず)市へ寄りました。
大洲には清流肱川(ひじかわ)が流れ、川を望む風光明媚な丘に大洲城があります。

西予市へ帰省のたびに、肱川と城の石垣や櫓を眺めるのが楽しみでした。
主人の好きな映画、山田洋次監督の寅さんシリーズ「男はつらいよ・寅次郎と殿様」で
大洲城が登場し、殿様役は嵐寛寿郎さんだったとか・・・いつも拝聴しています。

天守が復元されたというので、久々に訪ねてみました。

パンフの大洲城年表のはじまりに、
「鎌倉時代・元弘元年(1331) 宇都宮豊房が地蔵ヶ岳に城を築く」
とあり、主人がガイドの方に熱心に質問しています。
どうもこの方が妾(わらは)の主人の家系と関係があるらしい(?)のです。

                 

鎌倉時代末期(1331)、守護・宇都宮豊房が大洲に入り築城。
当初は肱川と久米川の合流点の地蔵ヶ岳に築城したことから地蔵ヶ岳城と呼ばれました。 
宇都宮氏はその後240年間にわたり、この地を支配します。
1573年に土佐の長宗我部元親と通じた家臣の大野直之によって大洲城を追われました。
1585年にはその大野直之も小早川隆景によって攻め滅ぼされます。

その後、小早川隆景、藤堂高虎、脇坂安治など次々と城主は変わります。
文禄4年(1595)藤堂高虎が城主となり、
慶長年間(1596~1614)に大洲城天守が建てらました。
江戸時代・元和3年(1617)に加藤貞泰が大洲藩主となり、6万石を領し、
加藤氏は12代、250年余り明治維新まで続きました。

                 

明治21年(1888)に天守が取り壊されましたが、
台所櫓、高欄櫓、苧綿(おわた)櫓、三の丸南隅櫓の四つの櫓は
解体をまぬがれ、国の重要文化財に指定されています。

平成16年(2004)、明治期の写真や江戸期の木組模型などの資料を元に
四層四階の天守が木造で復元されました。
天守へ一歩入ると、全国から集められたという木材(ヒノキ、杉、松など)の
佳い香りが満ちていました。

大洲城天守の復元は、築城当時の技術を再現することを意味しています。
宮大工、左官、瓦職人など様々な分野の力を結集し、
建築技術が受け継がれたことが大きな成果だったようです。
「ものづくり日本」はまだまだ健在でした。よかった!

                  

急こう配の最後の階段を上ると、そこは天守の間。
我が家は四人揃って映画好きなので、すぐに黒澤明監督の「乱」の話になりました。
それぞれの心に残るシーンや好きなセリフが飛び交います。
妾(わらは)は秘かに「映画ごっこ」と言っていますが、大好きな遊びの時間です。

ちょっと明るいけれど木の香り溢れる天守が最高の舞台になりました。

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西予の旅  内子座

2011年08月10日 | 2011年の旅
西予の旅の途中で内子座(愛媛県内子町)を見学しました。

平成18年3月、第一回・四国遍路の時に内子座へ来ています。
大洲から内子を通り次の宿までかなりの行程でしたが、
どうしても内子座だけは見ておきたいと思いました。
あれから早や五年の月日がたっています。
とても懐かしい気持ちで内子座の前に立ちました。

                 
                 (屋根に招きキツネが・・)
内子座のパンフより
   この木造劇場は、木蝋や生糸の生産で栄えていた時代、
   芸術・芸能を愛してやまない人々の熱意によってたてられました。
   農閑期には、歌舞伎や文楽、また時には映画や落語などが演じられ、
   当時の人々の心の糧、文化的な拠り所として愛されました。

   内子座は、大正5年(1916)2月、大正天皇即位を祝い創建。
   木造二階建て、瓦葺き入母屋造り。
   ホールとして活用後、老朽化のため取り壊しになるところを、
   町民の熱意により復元。昭和60年10月、劇場として再出発。
   現在では年間7万人が訪れ、80日近くを劇場として活用されている。

                 

古き良き時代を感じる舞台には、回り舞台、花道、すっぽん(花道の切穴。七三の位置にある)、
黒簾(くろみす、お囃子のいる所)、チョボ床(義太夫語りのいる所)があり、
すぐにも歌舞伎の幕が開きそうな素晴らしさです。
客席は、一階の升席と二階の椅子席があり、定員は650。
奈落(ならく、床下)に回り舞台を人力で回す仕掛けがあったので降りて行くと、
すっかり整備されていて、回り舞台は電動になっていました。

                 
                      (舞台と升席)
                 
                      (二階席)
                 
                      (回り舞台)

・・・というわけで、取り壊されずに内子町のシンボルとして
今も文楽、演劇、コンサートなどに利用されています。
こんな素敵な舞台で演じられる人たちがちょっぴりうらやましく思います。

年に一回、「こんぴら歌舞伎」のように内子座で歌舞伎が上演されると、
内子座も町の人たちも活気づくことでしょうね。
その日が訪れるよう願ってやみません。
その時はご一報ください。 喜んで馳せ参じます。

                             
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