暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

正受庵と阿弥陀堂だより

2010年08月10日 | 2010年の旅
新潟・長野の旅の終りに正受庵(しょうじゅあん)を訪ねました。

正受庵は長野県飯山市大字飯山上倉にある臨済宗の寺です。
2002年に製作された映画「阿弥陀堂だより」(小泉尭史監督)で
主人公の孝夫(寺尾聡)の恩師夫妻(田村高廣、香川京子)の住まいとして
ロケに使われた場所で、落ち着いた佇まいが印象的でした。

さらに、映画の中で正受庵開山の慧端(えたん)の遺偈(ゆいげ)が
恩師の臨終の床の間に掛けられていたことを後年知り、
前から正受庵を訪ねてみたいと思っていたのです。

オカトラノオが咲き乱れる石の階段を上っていくと、
藁葺き屋根が美しい正受庵本堂があり、
「在釜(ざいふ)第一日曜日」の木札が掛けられていました。
その日は第三日曜日だったので残念・・。

                 

慧端(正受老人)(1642~1721)は
松代藩主真田信之(幸村の兄)の庶子と伝えられ、飯山城で生まれました。
19歳の時江戸へ出て至道無難禅師に師事し奥義を極めますが、
信州飯山に正受庵を立てて隠棲し、世俗的な栄達に目を向けることなく、
禅に精進する日々を正受庵で過ごしました。

老年になっても気力少しも衰えず、病もなく、朝早く遺偈を書かれ、
和歌を読み、坐禅をされたまま坐死されたと、伝えられています( 享年80歳)。
正受老人の遺偈とは

坐して死す

末後の一句
死,急にして,道(い)い難し
無言の言を言とす.
道(い)わじ道わじ

(とつぜん死がやってきたので、末期の一句を言おうと思ったが、
 何もない。無言の言を言とした。道(い)わじ道(い)わじ)

正受庵本堂で、一人旅の男の方にカメラのシャッターを頼まれました。
彼も映画「阿弥陀堂だより」を見て以来こちらへ来たくなったそうです。
阿弥陀堂は映画のセットですが、そのまま残されているらしい
と教えてくれました。これから行って見るそうです。

              

本堂の縁先に座り、四季の移ろいの景色を想像しながら
涼やかな風に吹かれていましたが、
午後の陽射しの影は色濃く、帰る刻限を告げています。
やっと重い腰を上げました・・。

映画も良かったのですが、先に南木佳士の小説を読んだせいか、
そちらの印象の方が強いです。
家に帰って、「阿弥陀堂だより」を読み返しながら
今回の旅を想いだしています。
堂守のおうめばあさんの言葉を綴った「阿弥陀堂だより」が秀逸です。

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良寛さん

2010年08月07日 | 2010年の旅
暑い夏ですが、ようやく今日が立秋ですね。ふうっ~~。
うんうん唸って?書いた「良寛さん」の原稿が一瞬で消えてしまって
大ショックでした。ようやく思い直して書いたものを投稿します。
不思議なことに前稿とは全く別のものになりました・・・。

夏休みの旅行で新潟、長野方面に出かけました
旅の主な目的は長岡市近辺に点在する良寛の書と旧跡を訪ねることでした。
出発前にあわてて本2冊を読み、インターネットで調べたものの
良寛について今ひとつピンと来ませんでした。

「天上大風」
という書(コピー)を見たとき、
「えっ!これが有名な良寛さんの書?」

良寛が托鉢のため里へ下りていくと、村の子供たちが紙と筆を持ってきて、
「これに字を書いてくれ」とねだりました。
良寛がどうするのかと尋ねると、凧にするというのです。
「よしよし」と快く書いたのが「天上大風」だったそうです。

ほほえましいエピソードを読むと
「天上大風」の凧が大風に乗って勢いよく空高く上がっていく様と
子どもたちに慕われたという良寛像が想像されます。

出雲崎の生誕地に立つ良寛堂を訪れました。
堂内の石塔には、良寛が持ち歩いたという枕地蔵と
生母の故郷の佐渡を歌った自筆の和歌が刻まれていました。

   古へに変はらぬものは荒磯海と
      向かひに見ゆる佐渡の島なり

                


良寛の書に初めて出会ったのは出雲崎町の良寛記念館でした。
展示されている書には和歌、俳句、漢詩、経文、手紙などがあり、
書体も楷書、行書、草書と多彩です。
書かれた年代も様々なので、同一人の書とは思えないものもありました。

その中で「国上(くがみ)の山を出づるとて」という
「安之悲幾能(あしひきの)・・」に始まる長歌に惹きつけられました。
現代語訳でご紹介します。

   あしひきの 国上の山の やまかげに 庵しめつつ
   朝にけに 岩の角道 ふみならし いゆきかへらひ
   まそかがみ 仰ぎて見れば み林は 神さびませり
   落ちたぎつ 水音さやけし そこをしも あやにともしみ
   春べには 花咲きたてり
   五月には 山時鳥 うち羽ふり 来鳴きとよもし
   長月の しぐれの雨に もみじ葉を 折りてかざして
   あらたまの 年の十とせを すごしつるかも 
                        良寛書

国上山の五合庵、雪に閉ざされた静寂の中、
無駄なものを一切削ぎ落とした庵の暮らし、
精神を集中して書に向っている良寛の様子、
書へ打ち込まれた気迫が行間から迫ってきました。

崩した万葉仮名はほとんど読めないのですが、
それでも香りたつような書の魅力を感じました。
伸びやかな筆の気品溢れる書です。
「こんなに素晴らしい歌と書を書く御方だったのだ!」
はるばる訪ね来て良かった!と思いました。

              
              

「天上大風」とは趣の異なる良寛の書に主人も感動したようです。
主人のお気に入りは扇面に書かれた俳句です。
短いので原文のままと現代語訳と、両方を書いてみましたが、
原文はまるで?判じ物のようです。

   秋日寄里 世無羽す々 め能者遠東 可那   良寛書
   (秋日より 千羽雀の 羽音かな)

良寛の書に触れて、やっと良寛さんが心の中に浮かんできました。
またどこかで良寛さんの書に出会うのが楽しみになりました。
 
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   写真は、「良寛と夕日の丘公園から佐渡を望む」
        「良寛堂の石碑」 「国上山の五合庵」 「五合庵内部」    

木村茶道美術館 (2) 清風茶席

2010年07月23日 | 2010年の旅
待合の床に正岡子規の俳句が掛けられていました。
   夏帽や布起と者(は)されて濠に落つ

本席の床は、大綱和尚の和歌「暁鐘」です。
余白を生かすのは大綱和尚の得意とするところですが、
白と水色の掛け分けになっていて、右半分に和歌が書かれていました。

       暁鐘
   き可左りし事も阿りし可此こ路ハ
       寝佐めし天まつ暁乃可祢
   (聞かざりし事もありしかこの頃は 寝覚めして待つ暁の鐘)

つい、「私(暁庵)のための歌のようですね・・・」と申しましたら、
館長さんはにっこり笑っていました。
桂籠に斑入りススキ、半化粧、河原撫子が生けられ、
官休庵お好み桐木地蜂文香合が荘られていました。

               

席へ座ると、私たち二人のためにお点前が始まりました。
とても贅沢な気分でした。
ご亭主は表千家流の方のようで、素敵な着物を涼しげに着こなしています。
袱紗さばきのポンという音に、私も背筋が伸びる思いでした。

黒楽の馬盥にふっくらと裏流に点てられた薄茶は、
湯加減がほど良く、渇いていた喉が染み入るように潤い、
とても美味しく頂戴しました。
半分ほど頂くと、茶碗の見込みに楽の黄印が見えてきました。

「茶碗は黒楽の馬盥で、慶入作です。
 楽印が二ヶ所ありますので、それぞれ楽しんでください」
主人も小振りの三島茶碗で美味しそうに喫んでいます。

抹茶は小山園の吉祥、菓子は最上屋製の白山の里という練切で、
蕪のイメージだそうです。
あっという間に至福の時が過ぎていきました。

               

・・すると、ご亭主から
「会記の裏に替茶碗が書いてございます。
 ご希望があればお持ちしますので、どうぞご覧ください。」

  飴釉茶碗   九代大樋長左衛門
  青白磁茶碗  塚本快示(人間国宝)
この二碗の拝見をお願いしました。

飴釉は程良い大きさの薄づくりの茶碗で、意外な軽さに驚きました。
青白磁茶碗は青みがかかった白磁に近い茶碗で、
これも手にとって拝見できて嬉しい出会いでした。

口縁にへたの地紋がある茄子釜は大西浄林造、
水指は絵唐津、十三代中里太郎右衛門造です。
拝見に出された棗は内田宗寛の作で、時代を経た赤漆が
何ともいえない落ち着きと味わいがありました。

茶杓は、松浦鎮信の作で、共筒だそうです。
時代を経た風格のある茶杓は意外にも華奢な作りで、
平戸・鎮信流の風雅な茶室を思い出しました。

館長さんも唐津、有田、伊万里へ最近行かれたとのことで、
しばし茶道具や窯元めぐりの話に花が咲きました。

次のお客さまが大勢見えられたので、
「こちらへいらしたら、ぜひ又お寄りください」
という言葉に送られて、お暇しました。

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木村茶道美術館 (1)

2010年07月22日 | 2010年の旅
夏休みの旅行で、新潟、長野方面へ出かけました。
7月18日、柏崎市にある「木村茶道美術館」を訪ねました。

木村茶道美術館は昭和59年11月、柏崎市の松雲山荘内に
故木村寒香庵(かんこうあん)の篤志により開館されました。
寒香庵遺愛の書、絵画、茶道具などが主な収蔵品ですが、
各界からの茶道具の寄贈品もあり、さらに発展している美術館です。

実は「木村茶道美術館」は知る人ぞ知る美術館でして、
館蔵品の茶道具を実際に使用して、
席主が説明しながらお点前してくださる茶席(清風茶席)が
毎日楽しめるのが、最大の特長です。

これは木村寒香庵の
「使ってこそお道具であり、使わなければお道具が死んでしまいます」
との考えからだそうです。
それで今回、この茶席をとても楽しみに伺ったのでした。

                

長岡を出発して10時に着いたので、最初のお客さんでした。
館長さんが展示中の「寒香庵好展」と「掛物展」の説明を
丁寧にしてくださり、いろいろお話が弾みました。

お好み展らしく、寒香庵が考案した富士棚が目を惹きました。
下村観山が描いた富士山の絵を生かして特別に作らせたそうです。
他にも繊細で優雅な四方卓や冠卓があり、黒漆の艶やかさに魅せられました。

茶道具では、黒楽茶碗 常慶作 銘「常盤」や
古帖佐 小服茶碗が印象に残りました。
慶長の役で薩摩の島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工が
帖佐村(現・鹿児島県姶良市)で焼物を始めた事から、
その当時のものを古帖佐焼と呼ぶそうです。

                

「掛物展」では、
書に興味を持ち始めた主人のお気に入りが二つありました。
一つは加賀千代女の鶯の画賛です。
字も美しく、鶯が今にも飛び立ちそうに描かれていました。
えーと、俳句は・・・メモするのを忘れました・・。
もう一つは、魯山人が良寛の書と共に絶賛したという
副島種臣が書いた「龍」の一字です。

私は松花堂筆の布袋の画賛がお気に入りです。
余白、墨の濃淡の表現が枯淡の味わいです。
布袋らしくない修行僧のような布袋さまでした。

館長さんに案内されて、お待ちかねの清風茶席へ向いました。

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   写真は、「木村茶道美術館入り口」、「松雲山荘の東屋」、
        「茶席の花」です。     


窯元めぐり

2010年06月09日 | 2010年の旅
九州の旅途中で有田、伊万里、唐津の窯元を見て歩きしました。
或る茶事でHさんとNさんから窯元めぐりのお話を伺って以来、
いつか行ってみたい・・と憧れていました。

有田陶器市のまっ最中だったので、駐車場完備の有田陶磁の里プラザへ直行し、
近くのしん窯とお薦めの源右衛門窯を覘きました。
伊万里では秘窯の里といわれる大川内山(おおかわちやま)を歩き回り、
唐津では中里太郎右衛門窯、あや窯(中里文翆さん)、
鏡山窯(井上東也さん)へ寄りました。

「もう来ること無いかも知れないし、旅の記念になるから・・・」
と、言い訳しながら買い込んで来ました。

最初のお出合いは有田陶器市のコーヒーカップです(写真2)。
外側は青磁色、内側は白磁に呉須で椿が描かれていて、
落ち着いた雰囲気が気に入って求めました。
見切り品(?)のワゴンで白い器をお買い上げです。
十字架に見立ててクリスマスの茶事にどうかしら?

             
                    
             
上の写真3は、大川内山・文三窯(写真1)で求めた色鍋島の蓋物です。
白磁に書かれた絵と青、赤、緑、黄の色彩がすっきりと美しく
気に入りました。絵柄を合わせるのが難しい一品です。
これも早く懐石に使いたいと眺めるたびにワクワクしています。

折角のチャンスなので、それぞれお気に入りのコーヒーカップを
探すことにしました。
古典的な絵柄の伊万里焼(写真4)は主人が大川内山・富永窯にて、
絵唐津(写真5)は私用で、唐津焼・鏡山窯でご縁があり、求めたものです。

             
             

他にもお土産などあれやこれや・・・。
行きはガラガラのスーツケースが帰りはギッシリになりました。
改めて取り出して見ると、一品一品その時の情景やら
お店の人との会話が思い出されて、旅の空が懐かしいです。

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