暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

原三溪と蓮華院  その4

2011年08月31日 | 三溪園&茶会
                

隣花苑(りんかえん)は、横浜三溪園の蓮池に隣接していますが、
今は直行叶わず、正門からぐるっと歩いて5分位でしょうか。

世界の食物に精通し、食通を自認していた三溪翁が考案した料理を
味わうことができる料理店で、現在のオーナーは曾孫にあたる西郷槇子さんです。
昭和38年(1963)に槇子さんのお母さんが始められ、
三溪翁が好んだという「隣花不妨賞」(りんかしょうずるをさまたげず)
より隣花苑と命名しました。

茶事懐石を手作りしたという三溪夫人屋寿(やす)さん、
長女の春子さん、槇子さんのお母さん、曾孫の槇子さんと、
女系相伝で三渓翁ゆかりの料理が受け継がれてきました。
特に、中華風の三渓そば(通年)と蓮華飯(れんげはん、季節限定)が有名です。

                

玄関から入ると、盛夏(7月末)というのにひんやりとした広い土間、
太く黒光りした柱や梁、囲炉裏が切られた板の間、仏壇と蓮の花、
何処か懐かしい田舎家が現存していました。
庭の畑にはトマト、きゅうりなどが植えられ、料理の一品に使われています。

この田舎家は、昭和5年に西郷春子・健雄夫妻が翁指導の下、
静岡県田方郡大仁町にある広瀬神社の神官・西島氏の家を移築したもので
築600年、奥の二間は徳川時代に増築されたそうです。

三溪翁はこの田舎家と娘・春子さんがお気に入りだったようで、
茶事の客に西郷春子の名前が登場しますし、
晩年の三渓翁が西郷邸でたびたび茶事をしていることに、興味を覚えました。

「三溪園100年の歩み」から関連記事を拾ってみると、
  明治27年(1894)1月  長女 春子誕生
  大正2年(1913)5月3日  長女 春子、西郷健雄と結婚する
  昭和5年(1930)     自邸奥に伊豆大仁から田舎家を移築し、増築部分を加えて
                 西郷健雄(長女 春子の婚家)の家を建てる
  昭和12年(1937)3月23日 西郷邸にて茶事を催す
            8月6日  長男 善一郎脳溢血で逝去(享年46歳)
  昭和13年(1938)4月3日  西郷邸にて灌佛会を催す
          10月28日  西郷邸にて連雀の侘茶を催す
          11月     西郷邸にて茶事を催す
  昭和14年(1939)8月16日  原三渓(富太郎)逝去(享年70歳)
  昭和26年(1951)     三溪の長女 西郷春子が「三溪集」を刊行する
                 (出版の2カ月前に春子は他界し(享年57歳)、
                  春子の夫である西郷健雄が完成させた)
    
                 

隣花苑では旧燈明寺三重塔が見える、三方開け放たれた座敷へ通されました。
以前伺った時と印象が違っていて、椅子席で料理が出されました。
料理内容(七品のコース)も現代風に洗練されています。
Kさん、Iさんと歓談しながら美味しく食べていたら、
急に眩暈がして気持ちが悪くなって・・・ダウンしてしまいました。

仲居さんを含め隣花苑の応接が素晴らしかったです。
騒がずあわてず的確に応対してくださって、心から感謝しています。
次の予約の方がいらっしゃるとかで、奥の別間へ移り長々と休ませて頂きました。
回復すると、サービスのデザートまでお心づかい頂きました。

KさんとIさんも感激して
「あの何事にも動じない、ゆったり感が素晴らしいわねぇ~。
 応対の仕方に懐の深さを感じて、今日一番のお勉強になりました・・・」
そして私は、「迷惑かけてごめんなさい! ご馳走と蓮華飯が食べれず残念・・・」
それで、9月にリベンジを・・・と懲りずに考えています。

                            

       (原三渓と蓮華院 その3へ)       (隣花苑の蓮華飯へ) 

           

茶事支度  名水点

2011年08月29日 | 茶事
 ・・・今日は誕生日です。
去年は夏期講習会の最中でして、胸きゅんとなるほど懐かしいです・・・。

私にとって夢のようなことですが、当ブログの訪問者がもうじき10万人になります。
誕生日にその日が重なるかしら?と思っていましたが、喜びは先送りになりました(乞ご期待!)。

                 

朝茶事を9月に控え、お客さまを粗相のないようお迎えしたく、
茶事支度にいそしんでいます。
茶事の楽しみは「亭主八分・・・」とか言われていますが、
10日ほど前の茶事支度はゆったりとした気分でシュミレーションが楽しめる、
とても幸せな時期です。

一昨日は、釜を選び、風炉と合わせてみました。
茶事の趣向に合わせて風炉釜を選ぶのですが、今回は冒険をしてみます。
久しぶりに灰型の稽古もスタート。
昨日は、木地釣瓶に水を張り、様子を確かめ、注連縄と御幣を用意しました。
今日は、庭の草取りとデッキ洗いかしら? 
関守石の紐結び、それと炭も洗わなくっちゃ・・・。

                 

初めて朝茶事で名水点をした時のことです。
釣瓶に注連縄をつけるのは中立の時にすれば・・と思っていたら、
注連縄に御幣を挟むのが大変で間に合わず、冷汗たらたら
セロテープで止めたという、苦い経験があります。

それで、早めに取り組んでみました。
注連縄の男結びを確認し、御幣を作って注連縄に挟みました。
道具(目打ち)を使ったので、スムースに出来てお奨めです。

難しかったのが御幣づくりでした。
長さと太さのバランスが今一つ決まらず、何度もやり直しました。
でも、おかげで一つクリアーした気がします。

教本では、釣瓶正面と裏に「ハの字」に二枚ずつ、
客付と勝手付に一枚ずつとなっています。
業躰先生によっては御幣は全部一枚ずつというご指導もあるそうで、
「神社などで注連縄の飾り方をよく見ておくように」と、先生から宿題が出ています。

               
               
                ( 観音水  愛媛県西予市 )

名水を汲み、釣瓶や釜に汲み入れるのを楽しみにしています。
陰陽五行から考えると、当日の寅の刻(午前4時)に汲むそうですが、
湧水を汲む場所が遠いので、前日に汲む予定にしています。

ところで、何故寅の刻なのでしょうか?
「寅」は五行の木火土金水では木に相当し、木は五行の相生(そうしょう)の最初にあって、
万物を生じさせるという意味だそうです。
それで、茶家の新年は、元日寅の刻に井戸の水を汲むことから始まります。

昔からの言い伝えに、午の刻(昼12時)を過ぎると井戸の水に毒気を生じ、
夜中の子の刻(午前0時)を過ぎれば生気にあふれた新鮮な水に変わるそうです。
山頂に近い山の湧水なので昔の言い伝えには当てはまらない気もしますが・・・。

いっぺんにすると大変なので、少しずつ間に合うペースでやっていくのが
今の私に出来る茶事支度です。
利休さまの七則を唱えながら・・・。

   茶は服のよきように点て
   炭は湯の湧くように置き
   花は野にあるように
   夏は涼しく冬あたたかに
   刻限は早めに
   降らずとも雨の用意
   相客に心せよ

                      
        


いちねん会  茶箱付花月

2011年08月27日 | 七事式&いちねん会
暑い~暑い~と、息も絶え絶えに過ごしていましたら、
はや秋雨前線とかで、雨空が続き、急に涼しくなりました。
そんな中、8月20日のいちねん会で久しぶりに五人が勢揃いしました。

Kさん宅に伺うと、桔梗、高砂百合、瑠璃やなぎ、水引が咲き乱れ、
床には紫野 寛道和尚筆 「滝 直下三千丈」、
唐物写の籠に秋海棠が一輪生けられています。

八月の課目は茶箱付花月です。
黒の紅鉢に掛けられた鉄瓶が音を奏でていて
「すぐに出来るようにお支度しておきました」とKさん(いつもアリガトウ・・)。
「暑気払いをしましょう」と、近所のレストランでランチを予約してあるのです。

                

ご挨拶をして札を引くと、一回目の花(主)でした。
茶箱付花月は卯の花点で花月を行います。
この時になって、素敵な(?)古帛紗と新しい帛紗を持って来なかったことを
後悔しましたが、あとのまつりです。
稽古に使っている古帛紗と朱の帛紗を茶箱に仕組みました。

正客から順に席入り、迎い付けの挨拶をし、客は「お先に」の挨拶で
四畳半へ入ります。
いつもは帛紗を腰に付けてから四畳半入りですが、
茶箱付では茶箱に仕組んだ帛紗(主の)を使うので帛紗をつけません。

折据、山道盆にのせた茶箱、建水の順に運び出し、仮座へ入り、
「どうぞ折据おまわしを」
初花はIさんでした。
前回風邪のためお休みしたせいでしょうか、今回はよく花が当たりました。
きっとお茶の神様の思し召しなのでしょう。

                

二回続けて、茶箱付花月をし、曖昧なところもクリアになってきました。
振出しで総礼。正客はすぐに振出しを引きます。
菓子付きなので茶巾で折据を回します。
二回目に仕舞い花になりました。
薄茶では拝見がないので、角かけで廻した折据が定座へ戻ってから
月は茶碗、正客は振出しを返します

仕舞花は、茶碗を蓋上、古帛紗を左膝下へ取り込みます。
古帛紗を茶箱右へ戻してから、振出しを古帛紗のあとへ置き、総礼。座替わり。
仕舞い花(私)は、定法通り仕舞つけをしていきました。
建水を持ち五足下がり、敷合わせへ置き、自席へ戻ります。

主(Aさん)は建水を引きます。
正客は道具畳へ折据を戻します。
主は出て、先ず客付に座り、総礼。

花は折据を扱って懐(一番前)へ入れます。
もう一つの仕方として、折据を持って正面へ廻り、茶箱上に乗せることもあります。
正面で茶箱・盆を持って花が立ちあがると同時に、客は八畳へ戻ります。
花が挨拶をしてから、客は退出します。

                 
                      (素敵な古帛紗をパチリ  富貴長命緞子? )

暑気払いは、おじさん(シェフ)の家庭料理を謳った店を貸切でした。
勉強熱心な仲間なので、話したいことが溜まっていたのかも?
おじさんの手料理に舌鼓を打ちながらも、茶談義沸騰でした。
泊りがけで軽井沢合宿・・の話も出たほどです。 
素敵な、大好きな仲間たちに乾杯!

                                



能 「野宮」

2011年08月25日 | 歌舞伎・能など
                        ( 黒木の鳥居   野宮神社 )
8月21日(日)、横浜能楽堂特別公演 「野宮(ののみや)」を
小雨の中、観に行きました。
能は3月6日の「花軍(はないくさ)」以来です。

この日のプログラムは
  狂言 「無布施経」 (和泉流)
    シテ(出家) 野村 萬  アド(施主) 野村扇丞

  能  「野宮」  (喜多流)
    シテ(里女、六条御息所の霊) 塩津 哲生(しおつ あきお)
    ワキ(旅僧) 宝生 閑    
    アイ(里人) 野村 万蔵
    笛  一噌 仙幸  小鼓 大倉源次郎  大鼓  柿原 崇志  

源氏物語第十帖「賢木(さかき)」を題材につくられた「野宮」は、
以前から観たい・・と思っていた演目でした。

あらすじは、
   旅の僧が京都・嵯峨野の野宮を訪れます。
   小柴垣に囲まれ、黒木の鳥居が立つ秋の暮の野宮は、昔と変わらない風景です。
   そこに一人の里女が現れ
   「今日は九月七日、光源氏がここを訪れ、六条御息所(ろくじょう みやすんどころ)と
    最後の別れをした日である」と告げます。

   御息所は、光源氏への思いを断ち切るため、娘が伊勢の斎宮に選ばれたので
   一緒に野宮に籠り、伊勢に下ったことなどを語ります。
   そして自らが六条御息所であると明かし、鳥居の陰に消えていきました。

   僧が夜もすがら御息所を弔っていると、御息所が牛車に乗って現れます。
   光源氏の正妻・葵上との車争いで受けた屈辱を述べ、
   そして、昔を偲び、光源氏への思いを胸にゆったりと舞う(序之舞)うちに
   抑えがたいほど思いが昂り、涙を抑えて舞います(破之舞)。

   御息所は再び車へ乗り、去って行きましたが、
   果たして迷いの世界から解脱できたのでしょうか・・・。

                 
                  (榊  季節の花300提供)

里女(前シテ)が左手に榊の小枝を持って登場しました。
最初から、かなり長い時間、その榊は小刻みに震えています。
足元の動きは寸分の乱れも感じられないので、
榊の震えは緊張から来るものとわかりました。

数々の賞を受賞している能楽師・塩津哲生の緊張感が伝わってきて、
動きの少ない感情表現の舞台を固唾をのんで見守ることになりました。

後半の解説に「六条御息所が牛車に乗って登場します」とあり、
興味津々で待ちかねていると、
六条御息所(後シテ)が「一声」の囃子で登場します。

牛車の登場はなく、なんと車に乗った形で舞台下手(常座)に立って、
しずかに懐旧の思いを詠います。
はかなくも美しく、高貴な御息所の魂までもが表現されていて、心に残りました。
面は増(ぞう)。

衣裳もまた素敵でした。
薄黄の長絹(ちょうけん)には菊や桐の色模様が品良く織り込まれ、
露は緋色で引き締まり、袴は高貴なる薄紫。
感動のあまり、その姿をスケッチしてしまいました・・・。

終了後、出店の本屋で「源氏物語」(円地文子 世界文化社)を買っていると、
同じ思いの女性二人と出会いました。
「あのシーンの写真(プロマイド)が欲しいわね」
俗世に生きる私たちは意気投合し、気炎をあげました。

                
                         ( 席から見た能舞台 )

さてさて、舞台では昔を偲んで、月の光のもと袖を翻して、
美しくもはかない御息所の舞が続きます。
仕舞の約束事はわかりませんが、動作が遅い分、
諸々の表現が難しいことだろう・・・と想像しています。

深遠な人間の業とそれから逃れられない人の哀しさが
能「野宮」から沸き立つように感じられ、忘れ難い一期一会の舞台でした。

                           



原三溪と蓮華院  その3

2011年08月23日 | 三溪園&茶会
一昨年の秋、念願の春草廬有楽茶会を行った時のことです。
真ML会員のごえもんちゃまから、三溪翁が浄土飯(じょうどはん、蓮華飯ともいう)で
もてなしたという浄土飯茶事のことを教えて頂きました。
以来、近代数寄者・原三溪の茶に興味を覚え、引き込まれていった気がします。

原三溪には屋寿(やす)夫人との間に四人の子供がいました。
長男 善一郎、長女 春子(西郷健男と結婚)、次男 良三郎、次女 照子です。
昭和12年(1937)8月6日、長男 善一郎が脳溢血のため46歳の若さで急死しました。
この時三溪69歳、その悲しみの深さを一連の茶事に託したのでしょうか、
初七日を過ぎてから次々と茶事を催しています。

                      

年表(三溪園100周年 原三溪の描いた風景 神奈川新聞社出版)には、
長男 善一郎を追悼するため、月華殿・金毛窟にて
朝五時より浄土飯の茶事を催す・・とあります。

客は、8月15日小林古径、前田青邨ら、16日高橋箒庵、田中親美ら、
18日益田鈍翁、松永耳庵ら、19日和辻哲郎、谷川徹三ら、
22日近藤外巻、近藤夫人ら、そして9月1日横井夜雨ら、
茶事は6回続きました。

その茶会記を高橋箒庵は「昭和茶道記」で「蓮華飯供養会」、         、
松永耳庵は「茶事三年」で「三溪園浄土飯茶事」として記しています。
供養の茶事をせずにはいられない三溪、そして客方の哀悼慰撫の情が痛いほど感じられ、
源実朝筆の日課観音図(現・福岡市立美術館蔵か?)を金毛窟の床に
掛けたという茶会記を涙して読んでいます。

                      

さて、浄土飯について松永耳庵は次のように記しています。

 ・・・広間に一同着座してあれば、
    今し蓮華浄界より浮み来りしが如き
    碧瑠璃の荷葉の華弁を敷き香飯を盛る。
    其見事さに一同嘆賞喝采、暫時箸もつけず見惚るる計りであった。
    お向うには大徳寺納豆一盞つけ、粛然いふばかりなき供養飯である。
    其香味歯牙を爽やかならしめ思はず数椀を傾けた。・・・
    
浄土飯(蓮華飯)を一度食べてみたいと思っていますが、
時期を逸して今に至っています。
蓮華院の下見の帰りに、三溪翁の長女・西郷春子さんが住まいしたという
隣花苑(りんかえん)へ寄りました。

隣花苑については次回に・・・。

                          &  &         
               
     (三溪と蓮華院 その2へ)     (その4へ)