暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

しばらくお休みいたします

2017年11月22日 | 暮らし
              
              
               鎌倉建長寺の柏槙(ビャクシン)、和名イブキ(ヒノキ科)


いつも当ブログをお読みくださいまして ありがとうございます!

年末に向かい寒さが厳しくなりますが、
どうぞ風邪など引かぬようお過ごしください。
諸事が重なりまして、しばらくブログをお休みいたします。

また、ブログにて元気にお会いしたいですね。


                      

”全慶應茶會” in 2017 へ

2017年11月15日 | 茶事・茶会(2015年~他会記録)
           
              

2017年11月3日、根津美術館(東京都港区南青山)で行われた”全慶應茶會”へ出かけました。
”全慶應茶會”のしおりの題字は松永耳庵翁です。
この茶会は慶応大学の茶道部である慶應茶道会と、そのOB組織である三田福茶会による茶会で、毎年ひらかれているそうですが、三田福茶会Sさまのご縁で初めて参加しました。

大寄せ茶会が苦手な暁庵が参席したのは、上田宗箇流16代家元・上田宗冏 (そうけい )氏が濃茶席を持つと伺ったからでした。
なぜか上田宗箇流には関心があり、5年前に京都から広島の上田宗箇流・和風堂の初釜へ参席させて頂いたことがあります。
その時、御家元自らお点前してくださった濃茶のおもてなしが忘れられず、是非茶会へ・・・と思ったのでした。

           

寄付は一樹庵、掛物は「拾得図」、尾張徳川家二代・徳川光友画です。
珍しい広島焼の香炉が荘られていました。
上田宗箇流らしい銅蟲(どうちゅう)の盆で出された黄身瓢(空也製)、白餡を黄身餡で包み瓢形にしたもので、美味しく頂戴しました。
お菓子と一緒に上田宗箇流独特の折り方の懐紙が回され、中の四角の懐紙を濃茶で使ってくださいと。

本席の被錦斎へ席入りし、点前座が良く見えるが席へ座ります。
お点前さんは袴姿の男性、お運びも男性で、お点前をしっかり拝見させて頂きました。
武家流なので帛紗は右に付け、柄杓を左手に持たせ左膝に立て、右膝上で右手だけで帛紗を捌いたりします。
袱紗捌き、茶入や茶杓の清め方、茶巾の扱い、全て裏千家流とは違うので興味深く目を凝らしました・・・・。

御家元が出ていらしてご挨拶され、
全慶應茶會で釜を掛けるのは9年ぶりになります」
「釜を掛ける」とはよく言ったもので、この釜が圧倒的な存在感を放っていて、私には一番の垂涎ものでした。
形は立口木瓜、古武士を連想する鉄肌といい、鉄蓋の侘びた味わいも素晴らしく、シュッシュッと気持ち良い音をたてて湯が沸いており、濃茶への期待が高まります。

本席の掛物は、羽与一(細川三斎)消息です。
羽与一(細川三斎)から上主様(上田宗箇)宛に書かれた贈答品の御礼状で、二人の親密な様子がわかります。
十一月四日の日付があり、それで11月3日の慶應茶会へ掛けられた・・・とのお話でした。
花入は宗箇作の一重切、花がえ~と竜胆ともう一種?・・・・思いだせません。
箱書に宗箇様より拝領と書かれているそうですが、私の脳裏に今だ焼き付いている上田宗箇作の一重切(鋭く切り落とされ鉈目の迫力、勇猛にして繊細な味わい)とは違う作行でした(ショボン・・・)。
濃茶を4人で頂戴しました・・・が、練りが足らずこちらもショボンです(期待が大きかったので・・・)。

          

以下、濃茶席の会記から記します。
  香合   柿  平戸青磁
  釜    立口木瓜   浄清 造
   炉縁  イジ塗    道恵
  棚    四方棚    信斎
  水指   上田家御庭焼 葵  四代大機院(重羽)作
  茶入   瀬戸渋紙手 竹の子
       銘「細川」     松永耳庵 所持
   仕服  龍紋緞子
  茶碗   大徳寺呉器
  茶杓   古田織部 作
        筒 紹易
   蓋置  染付千切
   建水  砂張合子
   御茶  三春の昔      一保堂詰

           

薄茶席は弘仁亭でした。
こちらも偶然、上田宗箇流の学生さんの薄茶点前を拝見でき、ラッキーでした。
姿勢よくリズムよくしっかりお点前をしていたように思います。
きっと上田宗冏御家元自らご指導してくださったのではないかしら?
絶品の「亥の子餅」(塩野製)に舌鼓し、点て出しの薄茶(松の峰 三丘園詰)を頂戴しました。
慶應好はOBたちのセンスやユーモア溢れるお道具で、慶應茶道会の歴史と茶道への熱い思いが感じられ、立ち働く若者たちが眩しく頼もしく感じました。

Sさま、いろいろお世話になり、ありがとうございました。
”全慶應茶會”に来年もご縁があると嬉しいです。


松風吹く正午の茶事へ招かれて・・・その2

2017年11月14日 | 茶事・茶会(2015年~他会記録)
              

(つづき)
銅鑼が5点打たれ、後座の席入りです。
床には晩秋を感じる残花がふるさと籠にいけられていました。
ススキ、杜鵑、藤袴、白紫式部、烏瓜の5種、烏瓜の鮮やかな赤い実と蔓(ツル)が空間を見事に引き締めています。

静かに襖が開けられ、濃茶点前が始まりました。
濃茶を点てるまでの緊張感のある、沈黙の時間が大好きです。
ご亭主の袱紗捌きを集中して拝見していると、睡魔が襲ってきました。
なぜか、とっても気持ちが良いのです・・・・   
それは釜が奏でる松風のせいのようです。

あとで常盤釜を調べてみたら、玄々斎が天保14年(1843)に好まれた釜で、本歌には
「千代もなを常盤にたへぬ松のかせ(風)」と玄々斎自作の句が胴に鋳込まれていたそうです。
その後は無地で同形の釜が同じ作者・大西浄慶によって作られました)

・・・きっとそれで、常盤釜を作る釜師は「千代もなを常盤にたへぬ松のかせ(風)」を目指したのだろう、それであんなに気持ちの良い松風が吹いていたのだなぁ~~と。


             

目を閉じて半分まどろみながらうっとりしていると、突如その音は止みました。
水一杓が入れられたためでした。
まもなく芳しい茶香が鼻先に漂って来ます。
目を開け、松風がささやく余韻に浸りながら茶碗を取りに出ました。

黒楽茶碗に碧が美しく映え、よく練られた濃茶を美味しく頂戴しました。
茶銘は「万歴の昔」(伊藤園詰)です。
黒楽茶碗の銘はなんと!「松風」、昭楽造、紫野・剛山和尚銘です。

             

窠蓋(すぶた)のついた白い茶入が個性的で目を惹きました。
薩摩お庭焼だそうで、乳白色の胴に練り込みのようなすじ模様があり、こちらへ伺う折の秋空のすじ雲のように爽やかでした。仕覆はたしか?荒磯緞子です。
茶杓は「謝茶」、紫野・長谷川大真和尚の銘です。

続き薄茶で旅の思い出の茶碗や、亡き母上の手びねりの茶碗などで薄茶を頂きながら、卒寿のお茶の先輩、茶友、茶道具とのお出逢いのお話を愉しく伺いました。
本当に、出会いのご縁は何物にも変え難い、不思議で貴重なものですね・・・。

          
          11月2日は十三夜・・・居心地好くすっかり長居してしまい家路を辿りました

Hさま、素晴らしいお茶事をありがとうございました!
また、あの松風を聴けたら・・・と存じます。
五葉会の皆さま、拙い正客で失礼いたしました。
皆さまとの出会いのご縁を大切に、これからも七事式に茶事に末永く宜しくお願い致します。
 
                           やっとしました  


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松風吹く正午の茶事へ招かれて・・・その1

2017年11月13日 | 茶事・茶会(2015年~他会記録)
             
                  玄関に掛けられていたタンカ
                  (ブータン伝統のチベット仏教の仏画の掛軸)


11月2日、嬉しいお茶事のお招きがありました。
五葉会(七事式の勉強会)のHさまが昨年からリフォームに取り掛かり、その際、茶室をつくられたそうなのです。
いつお招き頂けるかしら?と楽しみに待っておりましたところ、五葉会の皆さまとお招き頂きました。
ご案内によるとお茶事のテーマは「出会い」とか、どんな「出会い」が待っているのでしょうか?
不肖暁庵が正客、Kさま、Fさま、Yさま、詰はWさまです。

             

その日は台風一過、暑いくらいの日差しで高い秋の空に美しいすじ雲がかかっていました。
二階の一室が待合です。
「日々是好日」(紫野 太玄和尚筆)の色紙が掛けられ、小さな旗を掲げた舟形の煙草盆が置かれています。
あとで伺うと旗はブータンの国旗で、ブータンで出会った方々にお茶のおもてなしをされ、交流していらっしゃる・・・とのことでした。
板木が打たれ、白湯が運ばれてきました。
喉が渇いていたので、たっぷりの白湯が美味しく喉を潤してくれました。
汲み出しは九谷焼、ウン十年前にご主人と金沢へ旅した時の思い出の御品でした。
きっと亡きご主人もリフォームと新しい茶室を喜んで、どこかで応援していることでしょう。

駐車場に設けられた腰掛待合に座ると、煙草盆の火入が目に留まりました。
春慶塗の手付盆に辰砂を思わせる赤みのある楽茶碗の火入が珍しく、皆で賞玩しました。

玄関わきに新しく造られた出入り口からぴかぴかの新席へ席入りすると、そこは八畳の広間。
床に「無事」の御軸、待合と同じ紫野 太玄和尚筆です。
点前座には五行棚が設えてあり、名残のご趣向かしら。
ご亭主と一人ずつ挨拶を交わし、お招き頂いた喜びをお伝えしました。

懐石が運ばれ、一同美味しくボリュームたっぷりの懐石を有難く頂戴しました。
今日はHさまの一人亭主、懐石は全てご自分で作られたもので、それだけでも一同もう感激です・・・。
不調法の暁庵ですが、美味しい懐石とお酒(越後のさくら)につい盃を重ねてしまい、これから大丈夫かしら?

             

風炉初炭になり、前日炉開きの初稽古だったので、また炉から風炉へ頭を切り替えて・・・この時期は大変です。
釜は裏千家十一代玄々斎好みの常盤釜、美之助造、鐶付は松毬(まつかさ)です。
風炉は黒紅鉢、美しい羽根は野雁、火箸は高額に驚きながら頑張って購入したという明珍作です。
香が焚かれ、まもなく優しい香りが漂ってきました。

香合は存在感のある椎黒、中につけ干し香、小さな香片が盛り上がるようにたくさんつけられていました。
その香合は、はじめて息子さんが中国旅行へ連れて行ってくれた時に出会ったそうです。
手に取るとずっしり重く、黒檀でしょうか?
円い蓋表に桐のような樹の中に鳳凰が繊細に彫られていて、とっさに凡鳥(ぼんちょう)棗にまつわる藤村庸軒の漢詩を思いだしていました。

   元禄7年(1694)の藤村庸軒の漢詩に「鳳凰」があります。
   この漢詩は、中国の「世説新語」にある「はるばる親友を訪ねてきたが会えず、
   門上に「鳳」字を書いて去った」という話に基づいています。

       鳳凰
      彩羽金毛下世難    
      高翔千仭可伴鸞
      棲桐食竹亦余事    
      更識文明天下安


   凡鳥棗の凡鳥とは鳳のことで、鳳の字を二つに分けると凡鳥(平凡な鳥、とるに足らぬ俗人)
   というような意味で、「世俗新語」では親友に会えぬ無念さを物語っているとか。

・・・勝手ながら(きっと息子さんとの大事な思い出の御品なのだと思いながら)、鳳凰の椎黒香合が「友情」を示しているように思われ、Hさまとの十数年前のお茶の出会いを懐かしく思いだしていました。

練きり「山茶花」(和作製)を頂戴し、腰掛待合へ中立しました。(つづく)


        松風吹く正午の茶事へ招かれて・・・その2へ



「おんな城主・直虎」ゆかりの地を訪ねて・・・信康自刃の二俣城址(2日目)

2017年11月11日 | 
         
                  浜松城で会った出世法師・直虎ちゃん

2日目のハイライトは浜松市天竜区にある二俣城址と清瀧寺です。
徳川家最大の悲劇と言われた家康の嫡男・岡崎三郎(松平)信康が自刃したという二俣城址と、信康が祭られている清瀧寺・信康廟を訪ねました。
朝から小雨が降り、悲劇の武将・信康を天も哀悼しているかのようです。

          
                  本丸にある二俣城天守台あとへ

二俣城は、天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害にあり、遠江の平野部と北部の山間部を結ぶ交通の要所でもありました。
二俣城を巡る攻防として次の2つが有名です(浜松市作成の二俣城址の看板より転載)。

○ 武田信玄との攻防
 元亀3年(1572)10月、信玄は大軍を率い、信濃を経て遠江に進入し二俣城を攻撃した。
武田軍は力攻めの方法はとらず、城の水の手を断つ作戦を選んだ。
徳川軍の城兵が崖に櫓(やぐら)を建て、釣瓶で天竜川から水を汲みあげているのを知り、
上流から筏を流して井戸櫓の釣瓶を破壊した。2か月ほどで二俣城は陥落した。


          
               その当時をしのぶ井戸櫓・・・清瀧寺にて

○ 天正3年の武田軍との攻防
 天正3年(1575)5月、長篠の戦で勝利を得た徳川軍は、武田勢を一掃すべく二俣城の攻防に着手した。
鳥羽山に本陣を置き、毘沙門堂、蜷原(になはら)、渡ヶ島に砦を築き二俣城を包囲した。武田軍は7か月で兵糧が底をつき城を明け渡した。
二俣城には大久保忠世が入場し、徳川氏が関八州へ移封する天正18年(1590)まで在城した。
この間大規模な修築がなされ、天守台を始めとする諸施設を構築したと考えられる。


           

○ 信康自刃事件
 大久保忠世が在城中に起こった有名な事件に家康の嫡子信康自刃事件がある。
一般には、信康とその母築山御前が武田氏と通じていたことを理由に、
織田信長が信康を切腹させるよう家康に命じたとされている。
家康はこれを受けて信康を天正7年(1579)9月15日、二俣城で切腹させた。
(同じ頃、築山御前は佐鳴湖畔で殺害された)
この事件は戦国哀史として広く知られている。


           
                    今でも美しい滝がある清瀧寺

           
              清瀧寺の信康廟・・・二度目の訪問、前回はウン十年前だった

清瀧寺は信康を供養するために家康が建立した寺で、墓地の奥の高台に信康廟があります。
うっそうと茂った木々、廟へ向かう参道の門が閉ざされていて近づけない。門の外で頭を下げる。
前回はもっと近くまで行けた気がするのだが、ウン十年前の事で自信が無い。
殉死した小姓の墓があったことだけはかすかに記憶があるのだが・・・。
信康と築山御前の横死は身震いするくらい凄惨な事件で、いつもその時の家康の気持ちを思うといたたまれない気がする
(この事件の真相については諸説あるが・・・)。
ドラマ「おんな城主 直虎」も今週あたりが信康自刃の巻になりそうで、見るのがちと辛い・・・・。

           
                   「出世城」と呼ばれている浜松城

旅も終わり近くなり、家康が29歳から45歳まで過ごしたという浜松城へ。
野面積みの石垣はほぼ当時のままだそうですが、城は再建されています。
天守まで上がり、東西南北に画かれた古図を見ながら城割りの様子を想像してみましたが、大きな建物に阻まれて難しい!
ただ、相当大きな規模の城であったことだけはわかりました。


           
                 美味しい浜松餃子を食べたい一心で並びました

城の駐車場で浜松餃子学会発行の浜松餃子マップをもらいました。
遅めの昼食は、浜松名物の浜松餃子に満場一致です。
浜松駅構内の石松という元祖・浜松餃子の人気店に並びました。
約30分並んだせいか、ことのほか美味しい餃子定食でした。

Mさん、Aさん、お世話になりました。久しぶりの大人の遠足、楽しかったですね。
でも、とても疲れていて小田原過ぎまでツレと二人とも爆睡でした・・・・ 


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