4月26日~5月6日まで京都市と京都八幡市の19社寺で
春の「京都非公開文化財特別公開」が開かれています。
初日の4月26日にかねてより見学したいと思っていた
「大徳寺(本坊)」と「真珠菴(大徳寺塔頭)」へでかけました。
大徳寺は、臨済宗大徳寺派の大本山(京都市北区紫野大徳寺町53)、
広い寺域に本坊の他、別院二ヶ寺と二十一の塔頭(たっちゅう)を有します。
鎌倉時代の末期、宗峰妙超(大燈国師)は紫草繁る洛北の野原に
大徳という小庵を創りました。
宗峰妙超の学徳は次第に世に知られ、花園・後醍醐両天皇の帰依をうけ、
勅願所となりました。
嘉歴元年(1326年)に法堂が完成し、龍宝山大徳寺と命名されました。
室町時代には幕府の保護を辞退し、在野の禅院として独自の立場を貫きましたが、
応仁の乱で建造物のすべてを焼失しました。
その後、四十七世住持・一休宗純が堺の豪商の保護を受けて復興し、
豊臣秀吉や諸大名により寺領や建物が寄進され、江戸時代初期には
現在の建物のほとんどが整えられました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/f2/f5c3340e151f2384398916b8226eea4e.jpg)
(雨後の大徳寺参道)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/61/7d9924e20950967a8f75db4d5da9f87d.jpg)
(利休に因む三門・金毛閣)
いつものように総門から入り、勅使門の前を通り、三門(山門)を見上げました。
この三門は金毛閣と呼ばれ、大徳寺最古の建造物の一つです。
応仁の乱で焼失後、大徳寺中興の祖・一休禅師の参徒である
連歌師・柴屋宗長の寄進により一階が創建されました。
60年後に千利休の寄進により現在の二階二層門になったそうです。
残念ながら今回、見学はできませんでしたが、京の茶所の一つです。
楼上には釈迦如来像や利休寄進による羅漢像が安置されていて、
天井の龍図は長谷川等伯筆です。
そして、この楼上に利休木造を置いたことが豊臣秀吉の怒りを買い、
利休切腹の原因と言われているのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/8b/f8dc1043c5b6aea5b1070c6db8d72972.jpg)
(仏殿)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/e9/cd08614d98b8e5d8cb31c1c3c0d6a81a.jpg)
(大徳寺のイブキ)
続いて仏殿にお詣りしました。
仏殿はがらんとした禅宗独特の様式で、いつも清々しい気持ちになります。
仏殿前に大きな木、「大徳寺のイブキ」がありました。
仏殿は寛文5年(1665年)に再建され、その頃に植栽されたと思われます。
イブキはヒノキ科で、別名イブキビャクシンまたはビャクシンと呼ばれています。
ビャクシンといえば鎌倉建長寺の巨木を懐かしく思い出しました・・・。
やっと今回目的の本坊です(ふぅ~)。
庫裏から入り、応接室のような板敷の大きな部屋でしばし休憩、
古い木のテーブル、がっしりとした長椅子と肘掛け椅子、
どれも広い空間に合わせて大きいこと!
肘掛け椅子に腰掛けて廻りを眺めると、
華鬘のような形の喚鐘(?)があったり、特大の鉄風炉が備えてあったり、
興味津々です(撮影禁止なので・・・)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/c7/5d1f4f4ac248a42dac5bfbf04d282cf2.jpg)
国宝の方丈と唐門へ。
方丈の廊下は鶯張、歩くたびに心地よい音が響きます。
通常の方丈は住持の居室や修行の場に使われますが、
ここ大徳寺は特別に、開祖・大燈国師の塔所(墓所)である雲門庵を
中心に構成されていて、建築様式も他とは違っています。
方丈建築は、前後2列、左右3列の計6室を並べる平面形式ですが、
大徳寺方丈は前後2列、左右4列の計8室をもつ特異な形式になっていて、
向かって右から2列目の前後2室は、大燈国師の塔所・雲門庵となっています。
雲門庵の一部は方丈北側に突き出ていて、渡り廊下から確認することができます。
宗峰は、
「自分の死後に、墓所として別の寺院を建てるには及ばぬ」
と遺言したため、このような形式になったそうです。
方丈の襖絵は狩野探幽筆、四季山水の水墨画などが描かれていましたが、
傷みもかなり進んでいて、この先心配です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/ae/f93b6a8048566445b75891a6910d7f78.jpg)
(歴史を感じる瓦)
(こちらは西本願寺の国宝・唐門です)
方丈前庭は天佑和尚の作庭、禅問答そのものの枯山水の庭です。
白砂の掃き方に二種あって静と動、あるいは大と小の波を表わしているとか。
広縁に長時間坐してみたい庭でもありました。
前庭の向こうに国宝・唐門がありました。
村上周防守が聚楽第の遺構を譲り受け、
明治になって明智門があった今の場所へ移築されました。
彫刻や金具が豪華ですが、先日見学した西本願寺の唐門(伝・聚楽第の遺構)より
ずっーと落ち着きがあり、小振りのような(?)です。
それが禅院にふさわしい気もしました。
方丈の東側の庭は小堀遠州の作庭です。
のち
のち ![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_cloud.gif)
京の茶所-2 真珠菴へつづく
春の「京都非公開文化財特別公開」が開かれています。
初日の4月26日にかねてより見学したいと思っていた
「大徳寺(本坊)」と「真珠菴(大徳寺塔頭)」へでかけました。
大徳寺は、臨済宗大徳寺派の大本山(京都市北区紫野大徳寺町53)、
広い寺域に本坊の他、別院二ヶ寺と二十一の塔頭(たっちゅう)を有します。
鎌倉時代の末期、宗峰妙超(大燈国師)は紫草繁る洛北の野原に
大徳という小庵を創りました。
宗峰妙超の学徳は次第に世に知られ、花園・後醍醐両天皇の帰依をうけ、
勅願所となりました。
嘉歴元年(1326年)に法堂が完成し、龍宝山大徳寺と命名されました。
室町時代には幕府の保護を辞退し、在野の禅院として独自の立場を貫きましたが、
応仁の乱で建造物のすべてを焼失しました。
その後、四十七世住持・一休宗純が堺の豪商の保護を受けて復興し、
豊臣秀吉や諸大名により寺領や建物が寄進され、江戸時代初期には
現在の建物のほとんどが整えられました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/f2/f5c3340e151f2384398916b8226eea4e.jpg)
(雨後の大徳寺参道)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/61/7d9924e20950967a8f75db4d5da9f87d.jpg)
(利休に因む三門・金毛閣)
いつものように総門から入り、勅使門の前を通り、三門(山門)を見上げました。
この三門は金毛閣と呼ばれ、大徳寺最古の建造物の一つです。
応仁の乱で焼失後、大徳寺中興の祖・一休禅師の参徒である
連歌師・柴屋宗長の寄進により一階が創建されました。
60年後に千利休の寄進により現在の二階二層門になったそうです。
残念ながら今回、見学はできませんでしたが、京の茶所の一つです。
楼上には釈迦如来像や利休寄進による羅漢像が安置されていて、
天井の龍図は長谷川等伯筆です。
そして、この楼上に利休木造を置いたことが豊臣秀吉の怒りを買い、
利休切腹の原因と言われているのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/8b/f8dc1043c5b6aea5b1070c6db8d72972.jpg)
(仏殿)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/e9/cd08614d98b8e5d8cb31c1c3c0d6a81a.jpg)
(大徳寺のイブキ)
続いて仏殿にお詣りしました。
仏殿はがらんとした禅宗独特の様式で、いつも清々しい気持ちになります。
仏殿前に大きな木、「大徳寺のイブキ」がありました。
仏殿は寛文5年(1665年)に再建され、その頃に植栽されたと思われます。
イブキはヒノキ科で、別名イブキビャクシンまたはビャクシンと呼ばれています。
ビャクシンといえば鎌倉建長寺の巨木を懐かしく思い出しました・・・。
やっと今回目的の本坊です(ふぅ~)。
庫裏から入り、応接室のような板敷の大きな部屋でしばし休憩、
古い木のテーブル、がっしりとした長椅子と肘掛け椅子、
どれも広い空間に合わせて大きいこと!
肘掛け椅子に腰掛けて廻りを眺めると、
華鬘のような形の喚鐘(?)があったり、特大の鉄風炉が備えてあったり、
興味津々です(撮影禁止なので・・・)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/c7/5d1f4f4ac248a42dac5bfbf04d282cf2.jpg)
国宝の方丈と唐門へ。
方丈の廊下は鶯張、歩くたびに心地よい音が響きます。
通常の方丈は住持の居室や修行の場に使われますが、
ここ大徳寺は特別に、開祖・大燈国師の塔所(墓所)である雲門庵を
中心に構成されていて、建築様式も他とは違っています。
方丈建築は、前後2列、左右3列の計6室を並べる平面形式ですが、
大徳寺方丈は前後2列、左右4列の計8室をもつ特異な形式になっていて、
向かって右から2列目の前後2室は、大燈国師の塔所・雲門庵となっています。
雲門庵の一部は方丈北側に突き出ていて、渡り廊下から確認することができます。
宗峰は、
「自分の死後に、墓所として別の寺院を建てるには及ばぬ」
と遺言したため、このような形式になったそうです。
方丈の襖絵は狩野探幽筆、四季山水の水墨画などが描かれていましたが、
傷みもかなり進んでいて、この先心配です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/ae/f93b6a8048566445b75891a6910d7f78.jpg)
(歴史を感じる瓦)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1b/cb/37372f442151bb87ab7f6b09f73bd7dc_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5c/cf/32eaa2a246c579bc71fb3a8b91ad7c01_s.jpg)
(こちらは西本願寺の国宝・唐門です)
方丈前庭は天佑和尚の作庭、禅問答そのものの枯山水の庭です。
白砂の掃き方に二種あって静と動、あるいは大と小の波を表わしているとか。
広縁に長時間坐してみたい庭でもありました。
前庭の向こうに国宝・唐門がありました。
村上周防守が聚楽第の遺構を譲り受け、
明治になって明智門があった今の場所へ移築されました。
彫刻や金具が豪華ですが、先日見学した西本願寺の唐門(伝・聚楽第の遺構)より
ずっーと落ち着きがあり、小振りのような(?)です。
それが禅院にふさわしい気もしました。
方丈の東側の庭は小堀遠州の作庭です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_fine.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_rain.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_cloud.gif)
京の茶所-2 真珠菴へつづく