暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

茶飯釜の茶事

2010年04月28日 | 思い出の茶事
4月の或る日、茶飯釜の茶事へ伺いました。

その茶事へ伺いたい・・と思い始めてから
三年の歳月が過ぎていました。
露がたっぷり打たれた、新緑の瑞々しい露地を歩み、
四方仏おわす蹲で身を清め、席入りしました。

初座の床には
「応無所住而生其心(おうむしょじゅう にしょうごしん)」   
丙午年 正月 耳庵 九十ニ歳 とありました。
先だって老欅荘でご縁があった松永耳庵翁の筆です。

住する所無きに応じ、その心を生ずべし・・・
心をとらわれることなく、あるがままに自由自在にその心を向けよ
・・と、云う境地を表しているそうです。
難しい内容ですが、とても惹かれる禅語でした。

時代のある釜が煤竹の自在に吊るされていました。
釜の肩に文字が鋳込まれていますが暗くて読めません。
後で釜は寒薙造、珍しい形の鐶は轡(くつわ)鐶と知りました。
炉縁は隅田川の橋の古材で作られたとか・・・。

初炭手前になり、唐物の平炭斗に廻り炭のように
たくさんの炭が置かれ、茶筅が一つのっています。
自在の扱いが興味深く、流暢な炭手前をうっとり拝見していると
最後に茶筅がくべられ、茶筅供養となりました。

すぐに飯炊き道具一式が持ち出され、
歌舞伎「伽羅先代萩」のまま(飯)炊きの話しになりました。

   乳母・政岡は、幼君鶴千代を家中の逆臣から守るため、
   我が子千松とともに鶴千代の身辺を守っています。
   毒殺を恐れて食事をとらなかった鶴千代と千松は
   腹をすかせていますが、けなげに我慢しています。
   「はらがへってもひもじうない~ぃ」
   政岡は茶道具を使ってまま炊きを始めます。

舞台さながらに、ご亭主が金襴緞子の袋に入ったお米を
釜へサラサラと入れて自在に掛けました。
政岡はお米の袋を茶籠に隠しておいたそうです。
・・それで待合の床脇の棚に茶籠が飾られていたのだ!
やっと気がつきました。

「「伽羅先代萩」の舞台を見てから伺うべきだった・・」
と後悔しました。
すると、次客さんが浄瑠璃の一節を朗々と語ってくれたのです。
「死ぬるを忠義ということは・・・」
我が子を惨殺されながら幼君を守る、気丈な乳母・政岡、
その政岡の母としての思いに心を向ける、そんな一時でした。

              

お正客へ香盆が運ばれ
「どうぞ、お申し合わせでお香を」
正客のYさんが香を焚かれて、お相伴しました。
香銘は「角田川(隅田川)」でした。

文台と料紙、硯が運び出され、
「どうぞ一首お書きください。
 角田川に因んだ和歌、俳句、なんでも結構です」
座は一瞬パニック?になりましたが、
一同、頭をひねって一首ずつ書き上げ、披露している間に
「まま」が炊き上がり、幼君ならぬ客一同が賞味しました。

歌が書かれた料紙ですが、茶事終了後に待合で折据を廻し、
花を引いた方が頂く事になりました
幸運にも花を引き、良き思い出の品となりました。

「而生其心」の多くを書き尽くせませんが、これにて・・・。

                        

  写真は「春紫苑 (はるじおん)」と「火吹き竹」です。


奥深き五事式 (2)

2010年04月26日 | 茶事
 (つづき)
中立から亭主と半東が入れ替わりました。
銅鑼を鳴らし後座の迎え付けです。

前半は順調でしたが、後半はいろいろハプニング?がありました。
先ず、お弁当のボリュームが凄くて、お菓子を出し忘れ(?)、
濃茶の直前にお出しすることにしました。

後座はお香から始まり、香盆を運び出そうとすると、先生から
「折据が乗っていませんが、香はご亭主が焚くのですか?」
「且座なのでお香はお正客に・・と思いました」
「香元は折据を廻して札で決めてください」

折据で香元を決めるのは初めての経験でしたが、
このような仕方もあるのかと新鮮でした。
私(亭主)が月を引き、末座で香を焚き、
香炉を正客へ持って行きました。

最後に私が香を聞き、盆へ置くと正客から
「お香銘は?」
とっさに、前回の五事式の会を思い出し、
「春の苑 紅匂ふ桃の花 下照る道に 出で立つ乙女」
の和歌より香銘は「春の乙女」でございます・・・ふ~っ(汗)!
香盆は床の柱付きに荘りました。

濃茶点前に入りましたが、内心ヒヤヒヤでした。
風炉点前総ざらい中でして頭と体が風炉に切り替わっています。
前日に炉の濃茶点前を稽古したのですが・・・。
濃茶から花月への流れは、仙遊之式のような仕方でした。

末客の吸い切りで中仕舞いをときます。
水一杓汲み入れて帠紗はつけずに
客付に回って「薄茶は花月で」と挨拶します。
亭主は居前に戻り、主客が同時に帠紗を腰につけます。
末客は拝見から戻って預かっていた茶碗を返し、総礼。

茶碗をすすぎ、茶巾、茶筅を入れた茶碗と建水を
持って下がりました。
干菓子を持ち出し、茶巾、茶筅を入れた替え茶碗と建水を
敷合わせに置き、亭主は仮座へ入り、通常の花月になります。

先生のお話では五事式はいろいろな仕方があるそうです。
且座、仙遊、唱和之式を取り入れた仕方があり、
七事式を極められた方がそのバージョンや応用を楽しみながら
お互いに切磋琢磨するそうです。
とても奥が深いお話でした。 ふ~っ(ため息)!

こうして、今年の先生宅の五事式が終わりました。
来年の五事式ではどんな仕方になるのか、今から楽しみです。

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奥深き五事式 (1)

2010年04月24日 | 茶事
「大好きな炉の季節も残り僅かとなりました。
 炉の名残りを惜しみつつ、五事式にて粗茶一服差し上げたく・・・」

4月の花月の稽古は、茶事形式で五事式でした。
前半の亭主はKさん、半東は私がさせていただき、中立で交替です。
水屋の手が足りないので、懐石は豪華な吸物付お弁当になりました。

前もって先生から会記を頂き、Kさんとびっくりしました。
とても稽古茶事とは思えない立派なお道具です。
「稽古でも茶事としてきちんとやりたいですし、
 お道具はしまい込んでいても仕方がないので、
 ご亭主も楽しんでください」

先輩方を四畳半台目の待合へご案内し、
外腰掛から蹲を使い、母屋の八畳へ席入りして頂きました。
本席の床は淡々斎筆の画賛、「春風」と蕨の絵です。
春風が一陣、広間にやさしく吹き渡りました。

釜は天猫、赤味を帯びた釜の形、色、艶が味わい深く、
地紋は八景で、大西清右衛門の極めがあるそうです。
棚は山雲棚、水指は明時代の色絵樹下美人、
棗は山下甫斎作の遠山蒔絵(大宗匠箱)でした。

熟練した先輩方がお客さまですので、廻り炭も順調に進み、
「炭にてお釜を」の声が正客から掛かりました。
廻り炭が早目に終わりそうなので、花寄せの準備をしました。

蘇芳、白山吹、アケビ、乙女椿、白椿、朴半、
鯛釣草、イカリ草、シャガ、浦島草、苧環・・・。
炉の名残りを惜しむ五事式にふさわしく、
花台が、そして床が春爛漫になりました。

注文していたお弁当が届かないので、お香の用意を始めました。
急いでいるせいか、なかなか香炭団が熾きません。
内心あせりながら香炉を整えていると、お弁当が到着し(ホッ!)、
花寄席で昼食となりました。
先生、見学の先輩、亭主、半東も持ち出してご一緒しました。

       (次へつづく)                 

       写真は「イカリ草」です。 
                     

浅草伝法院の茶会(2)  富士庵流茶会

2010年04月21日 | 茶会・香席
  (つづき)
茶会は富士庵流の同門茶会でした。
粗忽者の私は当日、友人から茶券をいただくまで
どこの流派の茶会か知りませんでした。
富士庵流という流派と始めて出逢ったのでした。

お点前や足の運びなどを拝見すると、表千家流に近いのですが、
棗を帠紗で清めた後の構えやキリッとした所作は武家茶のようです。

二席目に「天佑庵」席へ入りました。
三畳台目の「天佑庵」ではなく、付随している八畳の茶室がお席でした。
一畳の床には「拈花萬国春(ねんげばんこくのはる)」、
金閣寺の泰山和尚筆です。
ユキモチソウが生けられ、山国の春の到来を感じさせます。

菓子は「桜前線」という銘で特別に注文されたとか。
若緑に桜を表すピンクの一線が印象的な煉り切りでした。
「桜前線は今頃は東北でしょうか?」
散り去ったソメイヨシノを惜しみながら、北国の満開の桜へ
美味しい薄茶を頂きながら思いを馳せました。

               

不審庵写しの「天佑庵」のことを席主へお尋ねすると
「一席の人数が多いのでこちらを使いましたが
 にじり口を開けますので、帰りにご覧になってください」
と、気さくに対応してくださいました。

にじり口からあわただしく覗き見しましたが、
細長い三畳台目の茶室は明るく新しい感じでした。
床の位置、白い和紙が張られた床脇の給仕口、
天井の突き上げ窓、差し込む鈍い明かりが印象に残りました。

肝心な点前座は荷物が積まれて全く見えず、
心を残して「天佑庵」を去ることになりました。
またの機会を気長に待つことにしましょう。

富士庵流茶会はどの席もゆったりとした感じがしました。
なぜかしら?
伝法院の広々とした書院が持つ、開放感からでしょうか。
全体の人数が他の大寄せ茶会より少なく、
一席待てば入れますので、四席入る事が出来ました。

菓子も薄茶もゆっくり賞味することができましたし、
お道具は箱書きではなく、席のテーマに添って吟味したもので
すっきりしていて好ましく思いました。

来年の富士庵流茶会も友人と一緒に是非伺いたいと思っています。

         (前へ)          

  写真は、「天佑庵の腰掛待合」と「天佑庵席(広間)」

浅草伝法院の茶会(1)  天佑庵

2010年04月19日 | 茶会・香席
東海道ハイキングの帰りに、バスで偶然出逢った友人から
茶会へ誘われました。
「4月に茶会があるけれど、ご一緒にいかが?」
「茶会ねぇ・・(実は茶会は敬遠気味なのです)
 いつ、何処でするの?」
「去年友人に誘われて初めて行った茶会がとても良かったの。
 4月18日(日)、場所は浅草の伝法院・・」

「行きます!ご一緒させてください!」
場所を聞いてすぐに行くことに決めました。
伝法院は、茶室「天佑庵(てんゆうあん)」がある浅草寺の本坊で、
今まで中へ入れる機会がありませんでした。
しかも、茶会は五席あり、その中に「天佑庵」が含まれているそうです。

天佑庵は、天明年間(1781-1789)に尾張名古屋の茶人・牧野作兵衛が
表千家の不審庵を写して造った茶室です。
不審庵写しとしては最古と言われています。
その後、向島の徳川圀順邸、上目黒の津村重舎邸と変遷を重ね、
その間、関東大震災や第二次世界大戦による被災を奇跡的に免れました。
昭和33年10月に五島慶太氏や浅草寺婦人会の尽力によって
伝法院へ移築され、「天佑(天のたすけ)庵」と名付けられて
現在に至っています。都の重宝に指定されています。

               

名古屋から向島の水戸徳川家への移築には、
東都茶会記の筆者・高橋箒庵が深く関わっていて
地名に因み「嬉森庵(きしんあん)」と名付けられました。
大正5年(1916)12月に高橋箒庵が亭主となり、
益田鈍翁、原三渓らが招かれた茶室開きの様子が「茶会漫録」に
益田鈍翁手記・野崎幻庵併記で書かれていて興味深いです。

益田鈍翁はその席の様子を次のように記しています。

(前略)・・次に席の全体に目を放てば、新席にてしかも新席にあらず。
最も時代ある三畳台目なるが、庵主の出入口は普通の式とは反対の側にあり、
かれこれ不思議に思いおる折柄、庵主(箒庵)はその出入口をあけてヌッと出で、
三四歩進みたる処にてくるりと廻りて挨拶す。・・(後略)

さて、茶会当日、友人に連れられて伝法院通りにある大きな黒門の
脇にある通用門から伝法院へ初めて入りました。
そこは雷門や仲見世の賑わいから想像できない静かな別天地でした。

しだれ桜と若葉を美しく水面に写す池泉廻遊式庭園は
寛永年間に小掘遠州によって作庭されたと伝えられています。
茶会は素晴らしい庭園に面した大書院で二席、新書院で二席、
そして天佑庵の五席で行われていました。

         (次へ)                  

 写真は、「天佑庵」と「小掘遠州作と伝える庭園から大書院を望む」