暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

土本宗丘先生を偲んで・・・

2020年05月16日 | 茶道楽

    裏千家 今日庵の兜門

 

2月にS先生のお稽古に伺った時、土本宗丘先生がお亡くなりになったことを伺いました。

心からご冥福をお祈りいたします。 合掌・・・

土本先生は私のことを覚えていらっしゃらないと思いますが、先生との朔日稽古(ついたちけいこ)でのお出会いは昨日のことのように鮮明に思い出されます。

2013年2月1日、今日庵の茶室が修復工事に入り、新しく建てられた平成茶室で初めての朔日稽古が行われ、Oさんとお伺いしました。

〇〇の間(名前が・・・)で十数名の方と待っていると、襖を開けて現われたのが土本宗丘先生でした。お顔は緑の教本(裏千家茶道教科)でお目にかかったことがありますが、お名前がわかりませんでした。

 

    (甘野老(あまどころ))

 

真之炭手前と真之行台子のお稽古が緊張の中に始まり、すぐに先生から次のような質問が出されました。

「真之行台子では火箸を1本ずつ扱って台子横に置きますが、何故このようにするのでしょうか? どのような意味があるのでしょうか?」

そのお答えがないまま・・・稽古が進んでいき、真之行台子ではOさんと一緒に客席に入らせていただきました・・・。稽古を見学しながらも、先ほどの質問が頭を離れません。

先生にお尋ねするにしても、自分なりの答えを用意してからと思い、必死に考えました。何とか答えをひねり出して解答を待っていたのですが、先生は全く質問には触れずに・・・朔日稽古が早や終わりそうになりました。

心臓がパクパクでしたが、思い切って

「先生、お尋ねしてもよろしいでしょうか? 

 真之行台子で火箸を1本ずつ扱うことについて質問が出されましたが、その答えが全くわかりません。何卒お教えくださいませ」

すると、先生の顔が別人のようにパッと輝き、笑顔になったのです。後で思うと、その瞬間にまさに別の扉が開かれた気がします。

それから30分ほどでしょうか、火箸の扱いに対するお考えだけでなく、真之行台子の点前の格や役割、ふさわしい道具など、今まで伺ったことのないようなお話をしてくださったのです。

一同、襟を正し、先生のお言葉を一言も漏らさじと必死に耳を傾けました。

土本先生が伝えたいお茶への思いが溢れ出るようなお話ばかりで・・・素晴らしい時間でした。

それを傾聴している私たちが全て理解できたかどうか・・・はわかりませんが、土本先生のお茶の真髄に少しでも触れることができて、もう二度とこのような朔日稽古は経験できないのではないか・・・とさえ思いました。

今でも思い出すと涙がでてきます・・・。

 

  (山法師の花が早や咲き始めました)

さらにその後に素晴らしいことが続きました。

夢の中のような朔日稽古が終わり、兜門を出たところでご指導を頂いているS先生にばったりお会いしたのです。私は興奮冷めやらずの状態で・・・

「S先生! 今、〇〇の間で素晴らしいお稽古をしていただきました。先生のお名前がわからないのですが、今までの朔日稽古で一番の感銘を受けました!!」

するとS先生はにっこりなさって

「それは良かったですね! 〇〇の間の先生は土本宗丘先生ですよ」と教えてくださいました。

土本先生も・・・ですが、不肖の弟子の言葉を温かく受け止めてくださったS先生もなんて!素晴らしい先生なのだろう・・・と二重に感激したのでした。

土本宗丘先生を偲びながら、こうしていろいろな形で伝えられる先生方のお教えを今、有難く思い出しています。  合掌・・・

 

 


庸軒流・伊藤庸庵を尋ねて・・・

2015年10月01日 | 茶道楽

庸軒流の茶人、伊藤庸庵を探索中です。
 
 「伊藤庸庵師略伝」 (東京堂 桑田忠親編 茶道辞典より)
  伊藤庸庵  明治32年-昭和55年(1899-1980)
  現代の茶人、庸軒流、名は毅、号は紫雲軒
  昭和24年1月 増田酉庵の門へ入る
  昭和26年4月 庸軒流の茶書「茶道望月集」49刊を復巻す
  昭和30年 庸軒会を改組す


1年前の京都在住中に、姫路のSさまの「名残りの茶事」にお招き頂きました。
そのご縁で「横浜へ帰る暁庵さんに使っていただきたい・・・」とSさまから凡鳥棗を譲られました。
凡鳥棗には庸庵の箱書があって、
「藤村庸軒好 凡鳥棗 之ヲ写 庸庵」と書かれていました。 
詳しい経緯は「茶道具こわい in Kyoto」をお読みいただけたら・・・と思います。

いざ、凡鳥棗を使う段になって、写しを作らせた横浜の伊藤庸庵のことが気になってきました。
庸庵のことを調べ出したのですが、なかなか実像に迫ることができません。

H氏からお借りした「茶道望月集抜粋編」(伊藤庸庵編纂、昭和40年発行)の奥付に
「発行所 庸軒会」横浜市神奈川区高島台45とあったのを手掛かりにその場所を尋ねることにしました。
事前調査で高島台45の番地は現存しないことがわかっていました・・・。
でも、もしかしたら土地の古老が知っているかもしれないし、兎に角、行ってみようと。
9月28日(月)のことです。

      
         ゆるやかな坂道                  台町公園    

横浜駅から北(沢渡方面)へ進み、鶴屋町交差点を越すとゆるやかな坂になりました。
旧東海道を横切ると、すぐに高島台という表示のビルが現れ、急坂になります。
坂を登り切り、交番脇の細い坂道を逆方向(南へ)へ上っていくと、台町公園に着きました。
横浜駅から意外と近く、徒歩10分くらいです。
台町公園は幻の45番地の候補地の一つですが、近くにはマンション群ばかり・・・です。

気を取り直して、東や南へ歩き始め、長年住んでいそうな方々にお尋ねしましたが、
伊藤庸庵(本名 毅)氏を知っている方にはとうとうお会いできませんでしたし、住んでいた処もわかりませんでした。。
庸軒流の普及や取りまとめに活躍していた方でも35年経つとその存在すら分からなくなってしまうという現実に、人の一生のはかなさ、長大な時の流れの中の無力さを感ぜずにはいられません。

                 
                      とにかく坂道が多い・・・

                 
                      途中の公園で一休み・・・

歩き回ってみると、高島台は横浜駅からすぐ近く、丘陵の上なので眺めも良く、
丘の東から南にかけて旧東海道の神奈川宿があったという歴史のある場所でした。

横浜の埋め立て事業を行った高島嘉右衛門(1832年-1914年)が明治9年に大綱山荘(現・横浜市神奈川区高島台)に一時隠棲していたことから高島台と呼ばれ、今も末裔の方が住んでいます。
高島嘉右衛門は占いの「高島易断」でも有名な方で、「易聖」と言われ、その顕彰碑が敷地の一画に建てられています。

                 
                  本覚寺・・・鎌倉時代に栄西が開いたと伝えられる
                  開港当時、ハリスがここをアメリカ領事館とした

3時間ほど高島台を歩き回り、土地の古老たちとお話しできたことに満足して、急坂を下り、三宝寺と本覚寺の門前を通り、横浜駅へ向かいました。
今度はゆっくり、東海道・神奈川宿を探訪したいと思いながら・・・。
                    
                          その日は   暑かった!                             

白露の茶飲み会

2011年09月03日 | 茶道楽
9月8日は白露(はくろ)です。

二十四節気の一つ。
太陽黄経が165度のときで、暦ではそれが起こる日ですが、天文学ではその瞬間だそうです。
夜間の大気が冷えてきて、草に降りた露が白く光るころ。

白露に因んで思い出すのは、在原業平の歌です。

   白玉かなにぞと人の問ひし時
       露とこたへて消(け)なましものを    在原業平(新古今集)

  (歌の意) 草の上の露を、あれは真珠か、何なのかとあの人が問うた時、
         あれは露ですと答えて、その露のように私も消えてしまえばよかったのに。

   歌の出典は伊勢物語六段、「芥河」(あくたがわ)です。
   女を盗み出して、芥河のほとりを行くとき、
   女は無邪気に草の上の露を「あの白く光るものはなに」と男に尋ねます。

   男はそれに答える余裕もないまま、「あばらなる蔵」に女を押し込めて、
   追手から一晩戸口を守りますが、その間に鬼が女を「一口に」食ってしまう。
   折からの雷鳴のために、悲鳴も聞こえなかったのです。

   夜明け頃、女がいないことに気づいた男が、
   「足ずりして泣けども、かひなし」
   と悔しがり、泣きながら詠んだ歌です。
   女を食う鬼とは、追手というより巨大な権力や抗えない運命を
   指しているようです。

                

この歌が好きで、「白露」(しらつゆ、はくろ)の色紙をMさんにお願いしました。
山荘ピンクハウスへ一緒に泊まった夜のことです。
寝言半分のような依頼だったのですが、Mさんから
「色紙が出来あがったのでIさんと1日に伺います」と電話を頂きました。

「山荘ピンクハウスでお茶を」のことを懐かしく話しながら茶飲み会をしました。
「濃茶をのんでみたい」とIさんから所望されていたので
名水点で濃茶と薄茶を差し上げました。
名水は秦野市にある「弘法の清水」です。

「濃茶ってまろやかでとても美味しいですね!」
と気に入っていただけたようです(・・良かった!)
濃茶は伊藤園の万歴の昔、
主菓子はIさん持参の岡三英堂(松江市)製「日の出前」、
干菓子は三溪園製「餡入り落雁」です。

               

書のことが解らないので詳しく書けないのが残念ですが、
「これだ・・・」と思うまでの過程の墨書を持参して見せて頂きました。
たった二字「白露」がさまざまな表情で書かれていて、
書の持つ無限の世界を垣間見ました。
創意あふれる隷書で、二枚出来上がった色紙から一枚を選ばせてもらいました。 

「白露」の時期だけでなく、茶席ではいろいろな露が登場しますので
どんな思いで色紙を掛けるか、とても楽しみになりました。

                          
  
 


山荘ピンクハウスでお茶を

2011年07月17日 | 茶道楽
茶事懐石の助っ人のIさんからお招きがありました。
「7月に山北の家へ遊びに来ませんか?」
Iさんの山北の山荘へ前から行きたかったので
二つ返事で7月13日に伺う約束をしました。

前日に電話があり、
「京都の美味しいお菓子を用意してあるので
 お茶を点ててくれますか? 抹茶とお茶の道具をお願いします」
とても嬉しいお話で、いそいそと支度をして車で出かけました。

IさんとMさん(書道の先生)を乗せ、「洒水の滝」(しゃすいのたき)をめざしました。
神奈川県足柄上郡山北町にある「洒水の滝」は名水百選に選ばれた名水地です。
夏に行くと、滝しぶきが涼しく降りかかり、
マイナスイオンが充満している別天地です。

清涼感を期待して行ったのですが、数年前に崖が崩れたとかで、
危険なので滝近くまで行けませんでした・・・。
「洒水の滝」の湧水は健在で、お茶用にポリタンクに汲みました。

                    

                    

「洒水の滝」から「ピンクハウス」と呼んでいる山荘へ。
Iさん夫婦はミカン農家を支援するグループに所属していて
こちらにはだいぶ前から休日になると二人で通っていたそうです。
ご主人がリタイヤーしたのを機に、農のある暮らしをしてみたいと、
2年前「ピンクハウス」を購入しセカンドハウスとして住みはじめたのです。

風の通る二階の和室で昼寝の後、お茶の時間になりました。
Iさんが用意してくださった菓子は、
叶匠壽庵の「あも」(牛皮を大納言小豆の羊羹で包み込んでいる)と和三盆の干菓子でした。
抹茶は、近江朝宮「翠峰」(かたぎ古香園詰)です。

「クリーミイでとても美味しいです! もう一服いただけますか?」
義山(金箔散しの水色)と平(牡丹絵)の茶碗で交互に点て、
温度と濃度を少し変えて二服ずつ喫んで頂きました。
三人でお茶のひと時をしばし堪能しました。

                  

                  

Iさんのご主人は私が昼寝の間に畑へ出かけていました。
ご主人に一服差し上げたくて(帰宅後のビールの前に・・・)
農作業の休憩場所という古い農家へ茶道具持参で出かけました。
この昔ながらの農家がとても落ち着いていて、お茶にぴったりでした。

奥座敷で心をこめてお茶を点てました。
「初めてお茶を飲みましたが、お茶ってこんなに美味しいんですね!」
と喜び、三服喫んでくださいました。
きっと炎天下の農作業の後で喉が渇いていたことでしょう。
三服も所望されたのは初めてですが、ご主人の感激が伝わってきました・・・。

                  

                  

それから、みんなで畑へ行ってきゅうり、なす、人参などを収穫し、
ユウスゲが咲く田んぼ道を通ってピンクハウスへ帰りました。
日帰りの予定でしたが、星空が見たくて急遽一泊することになり、
夕食は大宴会でした。

翌朝、朝の一服を差し上げ、早めにお暇しました。
「また、いらしてね」 (はい! きっと・・・)

                                  


茶事支度  藁灰づくり

2011年02月12日 | 茶道楽
雪、ゆき、snow・・・と、雪のことを考えていたら、雪になりました。

久しぶりに我が家で茶事をします。
昨年2月の鶯の茶事以来です。
それで、お客さまや茶事のことを考えながら、いそいそと茶事支度をしています。

立春を過ぎたとはいえ、寒さがまだまだ厳しい時期なので、
雪の夕去りの茶事としました。
雪と寒さを愛でながら御茶一服差し上げたく・・・
と、ご案内をさしあげました。

室内はともかく、外の腰掛待合は寒く、しかも夕方から夜にかけてです。
実家から持ってきた大火鉢を初めて使うことにしました。
暖とともに赤々と炭火が映える風情を愉しんでもらおう・・・
と藁灰づくりを思いつきました。

藁灰づくりは3年前の名残の茶事以来ですが、
親友のMさんが藁灰づくりに・・と麦わらをたくさん送ってくれました。

作り方は、
麦わらを火鉢に合った長さに切りそろえ、塩水に一晩つけてから水をきっておきます。
適当量の麦わらを揃えて(曲がらないように)アルミホイルで巻き(左右は開けておく)、
焙烙へアルミホイルの束を並べます。
蓋をして紙粘土で蓋の境目をふさぎ、二か所くらい空気穴を開けておきます。
ガスにかけ、強火で約2時間加熱すれば出来上がりです。

                
                
                

ガスにかけてから気が付きました。
2年前に台所を改修してコンロを変えたのでした。
安全仕様になっていて、途中で火が消えてしまいます。
「きゃっ! どうしよう?」
あわてて炭を熾し、炉へ火を入れて、そちらで加熱しました。
屋外用コンロも七輪もなかったので、あわてて炉を使いましたが
藁灰の焦げた匂いが家中に充満し、いつまでも匂っているような・・・。

肝心の藁灰ですが、翌日冷えてからアルミホイルを開けてみると
二段に入れた上の方は加熱が足りない半黒状態でした。
いずれにしても足りませんので、前から欲しかった七輪を買いました。
これで再度、風のない日に挑戦してみます。

                       
       
やってみるといろいろありますね。
利休七則に「刻限は早めに」とありますが、茶事支度も早めに・・・ですね。
今日はまだ雨か雪が降りそうなので、明日できるかしら?