(稲荷社の丘から見るしだれ桜・・・3月24日に遍路道Dにて)
少し前の話になりますが、3月になると、新型コロナウイルスを身近に感じるようになりました。その疫病の正体がつかめず、得体の知れない魔物がじわじわと迫ってきます。
不条理の恐怖・・・戦争やナチスのように逃げ場のない恐怖を本能的に感じるようになりました。
・・・そんな時になぜか、坂口安吾の小説「夜長姫と耳男」(岩波文庫「桜の森の満開の下・白痴」に収録)を読み返してみたくなりました。
それは、最初はホーソー(疱瘡、天然痘)で村人の5分の1が亡くなった。やっとホーソー神が去ったと思うと、50日もたたないうちにホーソーより恐ろしい疫病がやってきて、村中に蔓延し、人がキリキリと死んでいった。そんな極限状態で展開される、夜長姫と耳男の凄まじくも美しい愛と死の物語だからです。
「桜の森の満開の下」とともに、坂口安吾の小説の中で大好きな一編です。
(村の入口にまつられた青面金剛庚申塔)
あらすじは、
耳男(ミミオ)という若い飛騨の仏師が、長者の一人娘・夜長姫の16歳の誕生日までに姫の今生後生を守るミロクボサツを彫るように依頼され、長者の屋敷内に小屋を建て、3年かけて仏を彫り始めます。
夜長姫は、光り輝くような美しい姫だが、恐ろしいほどの残虐性を持っていて、一目で夜長姫の虜になってしまった耳男の心を苦しめる。
姫のあどけない笑顔と血の匂いが立ち込める残虐さに立ち向かうため、耳男は蛇を殺し、生き血を呑みながら、心身を賭してミロクボサツを彫り上げます。
耳男以外の誰も彫れない気迫のあふれたホトケはミロクボサツとはかけ離れた仏像(悪魔逃散のためのバケモノのような仏像)でしたが、夜長姫の気に入り、耳男は引き続き屋敷にとどまって、姫の顔を写したホトケを刻ませてもらうことになった。
そのころ、ホーソーがはやり、あの村でもこの里でも死ぬ者がキリもなかった。夜長姫は耳男の彫ったバケモノの仏像を屋敷の門前に据えさせ、自らは高楼に上り、村はずれの森へ死者が運ばれていくのを、満ち足りた様子で見ていた。そんな姫に耳男は底知れない恐ろしさを感じるのだった。
やっとホーソー神が去って行って安堵したのも束の間、50日も経たないうちにもっと恐ろしい疫病が村に蔓延し始めた。耳男の彫ったバケモノのような仏像も全く歯がたたない。それでも、その仏像の祠にすがって死ぬ人を、畑で鍬を持ったまま死ぬ人を、姫は高楼からニコニコと見ているのだ。
姫は耳男に蛇をたくさん取ってくるように命じ、蛇の生き血を呑んで、死骸を高覧の天井に吊るさせた。耳男は夜長姫の命令に従い、蛇をとっては殺し、蛇の死骸を天井に吊るし続けた。
高楼から村人たちが疫病でキリキリ舞いをしながら息絶える様子を笑いながら見ている姫に、「ヒメが村の人間をみな殺しにしてしまう」「このヒメを殺さないとチャチな人間世界はもたないのだ」と耳男は思った。
心がきまると、耳男はためらわず、強い力に押されるようにヒメの胸にキリを打ち込んだ。
ヒメは耳男の手をとり、ニッコリとささやいた。
「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして・・・・」
ヒメの目が笑って、閉じた。
オレ(耳男)はヒメを抱いたまま気を失って倒れてしまった。 (終)
(春の木神社の密経塚(横浜市旭区東希望が丘))
(江戸時代中期この地に疫病が流行り、死者の家財や衣類を焼いた灰を埋め、弔った塚という)
(密経塚のタブノキの大木)
(クスノキ科の常緑樹で、名前の由来には諸説あるが、神事との関連が深く、「霊(たま)が宿る木」を意味する「タマノキ」から転訛したという説がある)
「夜長姫と耳男」を何度も読み直しています。
正体不明の恐ろしい疫病はまるでコロナウイルスみたいです。疫病が蔓延していく中、夜長姫も耳男も追い詰められていくのですが、その表現がヒメの笑顔であり、たくさんの蛇を殺して天井に吊るすことであり、それに狂ったように専念する2人の姿でした。
そんな極限状態の中で研ぎ澄まされ、やがてヒメの死へと浄化されていく二人の情念がうらやましくも美しくも感じられるのは私だけではないと思う。
夜長姫の最後の言葉がいつまでも心に響いています・・・。