暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

金沢・南砺の旅  城端曳山祭宵山

2011年05月30日 | 2011年の旅
5月4日、レンタカーで金沢から五箇山へ行き、帰りは城端町を通り抜けて
宿のある福光まで戻り、福光華山温泉へ。
城端曳山祭の情報収集をしていなかったので、
着くとすぐに宿の方に見所や駐車場などを教えてもらいました。

「今日(4日)は宵山で、山車の曳き回しはないのですが、
 18時~22時まで曳山と庵屋台が六つの町内に展示され、
 御神像は各町の山宿に飾られます(飾り山)。
 約1時間で全ての飾り山を見て回れると思いますので
 砂風呂に入り、夕食をすませて是非お出かけください」

名物(?)の砂風呂サービスが付いていたので、最上階にある砂風呂へ行きました。
湯浴み衣に着替え、係りのおじさんが整えてくれた砂の寝床へ横になると、
胸から下へシャベルで砂がかぶせられました。
「約20分たったら合図してください」

砂の温度はそれほど熱くないのですが(たぶん42℃くらい)、
15分過ぎた頃から顔にも汗が吹き出しはじめました。
すると、おじさんが冷たいタオルで顔を拭いてくださって、気持ちが好かったです!
身体の芯から温まって汗が旅の疲れを流してくれました。

           
           

夕食後、薄暗くなった道を車で城端町へ。
伝統芸能会館「じょうはな座」へ入ると
舞台が神輿の御旅所になっていて、折しも神輿の前で庵唄が奉納されていました。
「庵唄って?」
最初、「あんうた?」と読んでいましたが、正しくは「いおりうた」です。
庵唄(いおりうた)は、江戸情緒あふれる端唄です。
その昔、江戸や端唄の流行に憧れた先人の粋な遊び心から生まれたそうですが、
三味線、笛、太鼓に合わせて唄う庵唄に、城端という土地の文化的成熟を感じました。

また、20代から30代の若連中によって継承されていることにも驚きです。
そして、女性がいないことにも・・・。
毎年、年が明けると若連中は庵唄を選び、「寒稽古」と称して
稽古を始めるそうです。
先ず宵山で、御旅所の「じょうはな座」でその年の曳山順に御旅所へ参拝し、
庵唄が奉納されます。

私たちが「じょうはな座」で聞いた庵唄は、
五番山・東上町の「宇治茶」(松声会)と六番山・大工町の「辰巳」(冠友会)でした。

 「宇治茶」 
   宇治は茶どころ さまざまに 仲に噂さの 大吉山と
   人の気に合う 水に合う 色も香もある 濡れたどうし
   粋な浮世に 野暮らしい  こちゃ こちゃ こちゃ
   濃い茶の 仲じゃもの

こんな粋な宇治茶の端唄があるなんて・・・。
なんか濃茶を点てたりのんだりが粋で楽しくなりますね。
 
           
           

「じょうはな座」を出て、六つの飾り山をまわりました。
山車と庵屋台がライトアップされ、御神像は山宿に飾られています。
山宿では御神酒や赤飯を供え、きれいな生け花を飾っています。
御神像もそれぞれ立派ですが、壁に立てられた豪華な屏風にも目を奪われました。

           

「こんどはどんな設えかしら?」とワクワクしながら
飾り山をまわる人の群れについて古い街並みの残る町を歩きました。          
どの宿も山宿を提供できた喜びと祭りにかける心意気を感じます。
宿が手狭な場合は町内会館を使っていて、これにも感心しました。

途中の曳山会館前の特設会場で、六か町の庵唄が再び披露されていました。
その後、若連中は22時過ぎまで自分の町内を練り歩きます。
明日(5日)はいよいよ本祭です。

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金沢・南砺の旅  幻の城端塗

2011年05月28日 | 2011年の旅
              (城端線の終点「城端駅」・・・木舎の駅と木の看板をパチリ!)
城端塗のことを知ったのは、
3月3日、「瀬谷の吊るし雛と茶会」のお客様を駅へ送る車中でした。

富山県南砺市ご出身のSさんから南砺市の話を興味深く伺っていると
城端(じょうはな)という地名が出てきました。
「じょうはな? どんな字かしら?」
「高岡から出ている城端線の終点で、絹織物で栄えた町です」
すると、Nさんが
「城端といえば城端塗を思い出します。
 以前、先生宅で見せて頂いた棗が素晴らしくて・・・」
城端塗の棗のことを話すNさんの声音がいつまでも耳に残りました。

それから二、三日後、小京都のテレビ番組を見ていると、偶然「城端」でした。
古い織物工場や街並み、曳山祭や祭の準備の様子が紹介されていて、
行ってみたい・・と思いました。
調べてみると、城端曳山祭が5月5日(宵祭4日)とわかりました。
GWの旅行先は金沢・能登(輪島)へ決まっていたのですが、
急遽、金沢・南砺へ変更し、城端と曳山見物が旅のハイライトになりました。

さて、城端塗ですが、城端へ行けばきっと出合える気がしていましたが、
未知の町、しかも曳山祭の最中ということもあり、難しかったです。

曳山会館・土蔵群・蔵回廊でやっと城端塗(蒔絵)に合うことが出来ました。
当代の16世小原好喬氏の作品も常設展示されています。
一子相伝とのことで、小原好喬氏(イケメンです!)のブログから
城端塗について抜粋させてもらいました。 詳しくはブログをご覧ください。

               
                (15世小原治五右衛門好博作 「城端蒔絵鶴文棗」)

                   
                (16世小原治五右衛門好喬作 「城端蒔絵琉金文飾筥」)
 
    城端蒔絵は「城端塗」または「治五右衛門塗」とも呼ばれ、
    一般的な蒔絵は「金」が主ですが、城端蒔絵は白をはじめとする鮮やかな「色」が特色です。
    城端蒔絵の作品には密陀絵法(みつだえほう)と白蒔絵法の2つの技が存在します。

    密陀絵法とは密陀油(乾燥剤として一酸化鉛を混入したもの)を溶いた漆を用いて、
    色彩の自在さと発色のよさを得る技法で、
    唐風様式を特徴として城端蒔絵初期の作品に多く見られる技法です。

    一方の白蒔絵法は、密陀絵法を基にして創出された小原家独自の彩漆描法で、
    和風様式を特徴とします。 小原家では現在、後者を主流としております。

    元来、漆で発色することのできるのは、黒・朱・茶・黄・緑の5色に限られ、
    白をはじめとする鮮明な中間色を発色することは不可能とされていました。
    私の先祖はこの白色の表現を実現させ、花鳥文様などを生態そのままの色調・ぼかしで
    表現できる技法を編み出したのです。
    そして、この技を一子相伝の秘法として今日まで伝え、
    代々「治五右衛門(じごうえもん)」の名を襲名しています。
 
               
               
                (曳山の山車の華麗な装飾・・・これも城端塗かしら?)

今回の旅では曳山会館で城端塗を拝見できただけでしたが、
またの出合いのご縁を楽しみにしています。
幻の城端塗(どういうわけか棗なのです)の追っかけが当分続きそうです・・・。

「城端曳山祭」については次回へ続きます。

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静嘉堂へ  日本陶磁名品展

2011年05月27日 | 美術館・博物館
5月21日(土)、静嘉堂文庫美術館の「日本陶磁名品展」へ行きました。

折しも5月17日(火)の讀賣新聞の夕刊「ぎゃらりいモール」に
戸栗美術館「青磁の潤い 白磁の輝き」に展示されている
「青磁染付 樹鳥文 葉形三足皿」の魅惑的な写真が載っていました。
杉谷香代子学芸員の解説も興味深く、我が家では陶磁器にがぜん話題沸騰!
直前まで戸栗美術館展(6月26日まで)へ出かける話になっていたのです・・・。

でも、会期が短い「日本陶磁名品展」(6月12日まで)へと話がまとまり、
二子玉川の某所へ車を預け、歩いて静嘉堂へ向かいました。
昭和44年(1969年)まで東急玉川線の支線・砧線が走っていた通りを
その名残りを捜しながら行くと、二子玉川郵便局近くに
「砧線中耕地駅跡」という石碑を見つけました。

                

今は幻となった砧線跡の道路に別れを告げ、そこで右折しました。
中耕地商店街を抜けて丸子川に沿って左折し、
川添いにしばらく行くと、静嘉堂のバス停が右手に見えてきます。
ここは多摩川の河岸段丘(国分寺崖線)で、
門をくぐり、鬱蒼と茂った樹木の道を上っていくと、
段丘の上に静嘉堂文庫美術館があります。
二子玉川駅から徒歩20分位でしょうか。

               
               静嘉堂バス停近くの小公園にある道しるべ

今回は、仁清(京焼)、織部(美濃)、唐津、伊万里など、
日本の焼物が中心ですので、時代も比較的新しく、身近な感じがしました。
特に、昨年のGWに訪れた平戸、有田、伊万里、唐津
名品に逢えて嬉しい限りです。

一番のお気に入りは、尾形乾山作「銹絵染付春草図筒茶碗」(18世紀)です。
特別出品の酒井抱一作「麦穂菜花図のうち 麦穂図」と共に展示されていて、
その一画に吸い寄せられました。
空いていたので好きなだけ何度も見ることが出来ました。

それから、野々村仁清作の「銹絵白鷺香炉」。
今回の名品展の目玉は、野々村仁清作の「色絵吉野山図茶壺」と
「色絵法螺貝香炉」(17世紀、共に重要文化財)のようですが、
「銹絵白鷺香炉」は品が良く、白鷺の形や目が深く印象に残りました。

もう一つ、有田の「銹釉染付鷺文輪花皿 5枚」(17世紀)。
どうしたら磁器に、こんなに繊細に白鷺が描けるのでしょうか?
不思議な気持ちで眺めました。
吸坂手(すいさかで)と呼ばれるもので、
染付の白鷺が浮き出るように渋い銹釉が掛け分けられていて、
色の対比も素晴らしい優品でした。

              

              

帰りに屋根を葺き替え中の「岡本民家園」へ立ち寄り、
川添いに二子玉川駅へぶらぶら戻りました。

                                 

富士庵流茶会 (2)

2011年05月23日 | 茶会・香席
  (つづき)

富士庵流同門茶会では四席全部をまわりました。
どの席もそれぞれ違う趣向があり、印象に残っていますが、
最後に入った天佑庵席について記しておきたい・・と思います。

茶会参席のきっかけになった天佑庵席に並びました。
今年は五席から四席になったせいでしょうか?
昨年より並ぶ人が多いようです。
その中で、第三席で同席させて頂いた富士庵流お家元が客の一人として
一緒に並んでいるのです。茶友のKさんは
「なかなかできないことですよね。
 このことだけでもお家元の姿勢や教えがわかる気がします・・」

私たちはお家元より一つ前の席でした。
「お先に失礼いたします」
祈りが通じたのか、なんと!天佑庵の小間(三畳台目)へ入りました。
最も古い表千家・不審庵写しと言われ、
高橋箒庵が名古屋から東京向島へ移築し(嬉森庵)、その後
関東大震災と太平洋戦争の空襲から奇跡的に助かり、
「天佑庵」(天のたすけ)と名づけられた、箒庵ゆかりの茶室です。

               

床に五世(当代)家元筆の色紙が掛けられていました。
「月和水流」 (月 水に和して流れる)
「お客さまから天佑庵を拝見したい」という要望が多く、
 今回は菓子席として使ってみました。手狭でございますが・・・」
席主のご配慮に感謝しつつ、薯蕷の「菖蒲饅頭」(ふたば製)を
天佑庵に坐して頂き、とても幸せです。

突き上げ窓をはじめ、窓が多く、とても明るい席でしたが、
客が寿司詰め状態でして、肝心の点前座がよく見えません。
凡人茶好きの私は、次はここでお点前を・・と密かに願い、
足ることを知らず、恥ずかしい限りです。

               

本席(八畳広間)の床の軸は、「万歴清風」。
清風とはお茶のことを意味するそうです。
これまでのように同門茶会があい和し、研鑽を重ねながら
末永く続いていくことを願って掛けられたのでした。

東大寺古瓦の花入に、小手鞠、黒百合、二人静が生けられ、
欅の木目の美しい舟香合が荘られていました。
宗旦好みの丸卓に染付の水指が映えています。
紀州藩御用窯であった男山焼の水指でした。
形の良い熊川茶碗で、お点前さんが点ててくださった
薄茶を美味しく頂戴しました。

帰りに庭園を歩きながら富士庵流茶会にいつも誘ってくださる友人が
「自然体で、競い合うところがないのが好きなの・・・」
(うん、うん、わかるわ・・・)

伝法院を吹き渡る初夏の風のように、気持ち好い茶会でした。

                              
       (富士庵流茶会(1)へ戻る)

富士庵流茶会 (1)  

2011年05月21日 | 茶会・香席
5月15日(日)に浅草寺伝法院で行われた
富士庵流同門茶会へ出かけました。昨年に続き、二回目です

浅草雷門で待ち合わせ、総勢四名です。
五月晴れの清々しい気候でしたので、軽くてしゃっきりした大島紬を着ました。
他の方々は無地、小紋、洋服と、思い思いの装いです。

伝法院通りの黒門から入ると、
小堀遠州が作庭したという回遊式庭園があり、この庭も見所の一つです。
緑樹が美しい庭に面して今日の茶席の書院、大書院二席、天佑庵があります。

              

第一書院席に入り、いきなり正客のご指名がありました。
どなたも正客が出来る方ばかりなのですが
「それでは順番にいたしましょう」と、素直に引き受けました。
「本日は誠におめでとうございます。
 他流でございますので、どうぞご指導を宜しくお願いいたします」
席主は、昨年天佑庵席を持たれた、柔らかく気さくな先生で、ほっとしました。

「一葉観音(いちようかんのん)」が床に掛けられていました。
「東関東大震災のあとで、茶会をするにあたり
 一葉観音の画像をお掛けしたいと思いました・・」と席主。

「一葉観音」は一葉の蓮華に乗った観音菩薩です。
その由来は、道元禅師が中国から帰国途中嵐に逢い、難破しそうになりました。
一心に念じたところ一葉観音が顕れ、荒海が凪いだという故事があるそうです。
旅の安全や水難守護を願う人々により今も深く信仰されています。

お話を伺いながら、今日のお席のテーマがよくわかりました。
花は、花筏、白紫蘭、紫鉄線が信楽の丸筒に生けられています。
香合は細かい細工のある白檀の蓋物で、中国製のお土産だとか。

お点前が始まりました。
お点前さんが茶道口に座り、敷居の上に扇子を置き、両膝の前に
手の指先をつき一礼しました。
二回目ですが、お辞儀、足の運び、帛紗捌き、茶筅通しなど、
富士庵流の所作が新鮮で見入りました。

お道具も素敵でした。
富士庵流お家元好みの無双棚に雲鶴青磁の水指です。
無双棚は黒と朱塗の無双(上下でリバーシブル?)になっていて、
弔事と慶事で使い分けられ、黒が表になっていました。
形も好いのですが、創意工夫に感心しました。
風炉先屏風も当代(五世)お家元好みで、桐地に富士山、松竹梅の透かしが
初風炉の清心の席を盛り立てています。

              

「磯あそび」(うさぎ屋製)という菓子を頂戴し、
芳香園の薄茶「妙寿」を初めて喫みました。
香り佳し、程よい苦味よし、少々熱かったのでゆっくり頂きました。
席主とお点前さんが心配そうに見ていらっしゃったので
「香りも、苦味も程よくアクセントになっていて美味しゅうございます」
最初の客、最初のお点前でさぞやほっとしたことでしょう。

あとで、富士庵流では裏千家流の濃茶点前のように
「たいへん美味しく頂戴しています」
正客が服加減を述べることを知りました・・(身体が反応できて好かった!)。

主茶碗は貫入の美しい黒薩摩、替は鉄線絵の京焼でした。
七宝の蒔絵が細かく繊細な棗は、
「こんな時だからこそ、みんなで手を取り合う気持ちが
 大切だと思い、七宝つなぎの棗にしました」 と席主。
そして茶杓は、富士庵流四世家元作の「和」でした。

初風炉の第一席で、和を大切にして前に進む勇気をいただきました。

        (富士庵流茶会(2)へ)