(丘の上記念会堂の礼拝堂)
「丘の上チャリティ茶会」へ行きたかったのには訳がありました。
3年前に野原薊さまから「社中の方が出れなくなったので、急ですが「丘の上チャリティ茶会」へ行きませんか?」
とお誘いがありました。用事で行けませんでしたが、その折に主催者の一人・高橋敏夫牧師の講演会「春日部市市民講座(第41回2022年12月7日)「茶会ー茶事と大寄せの茶会ー」)のレジュメを拝読したのです。
中でも高橋牧師が最初に表千家茶道をお習いした「横山悌子師の最後の茶事」の項を読んで、天の鞭に打たれたかのような衝撃と深い感動を覚え、涙が止まりませんでした。そして、いつか高橋牧師のお茶に触れてみたい・・と願ったのです。
暁庵にとっても忘れられない一文を備忘録として、そしてお茶を修練しているお仲間に読んでいただきたくって、掲載させていただきます。
🔶横山悌子師の最後の茶事(高橋敏夫牧師の講演会のレジュメより)
・・・いよいよ「むすび」です。ぼくが今回お話ししたかったのは、最初に学んだ先生の横山悌子先生のことでした。
この方が若かった頃は、たくさんの弟子を引き連れてお家元の処とか、久田宗匠の処とか、美味しいものが食べられる処とか、あちらこちらへ連れて行ってくださいました。先生からは「あなたは牧師だから、こういう処を知っていた方がいいわよ」って言われてね。
そんな横山先生が、ぼくたちを教えている頃に交通事故に遭われてしまい頭を打ったのですね。そのため、お年を召されてからは花の名前をみんな忘れてしまったのです。それは、お点前にも言えることで、お点前がほとんどできなくなってしまったのです。ですから、ぼくたち弟子に教える時も、「これでいいですかね」と確認されるようにすごく謙虚に教えていらっしゃいました。実際には忘れてしまっていて教えられないのに、一生懸命教えようとしてくださいました。
そうした中で、ある日、横山先生がぼくたちをお茶事へ呼びたいとおっしゃって、15人ほどで招かれました。横山先生は、もうほとんどお点前は出来ないのですけれども、亭主としてお座りになって、ぼくたちに聞きながらお濃茶を練ってくださり、お薄も点ててくださいました。料理は柿傳、お菓子も京都から取り寄せてくださったのですが、ぼくたちが知っている茶事の世界とは全く違う茶事でした。だって、亭主がすらすらと進行できず、お茶を点てることさえもできないのですからね。
でもその時に、先生は自分ができないことを恥じていないのです。花の名前さえ言えないことを全然恥ずかしいと思っていなかったのです。それこそ、これが本当のお茶人なんだなという姿をぼくに見せてくれました。
「あるがまま」なのですね。そして、何よりも楽しそうになさっていたのです。茶事が終わった後、先生は何も言わずに頭を下げていらっしゃいました。ただただ頭を下げていらっしゃる先生の姿を見て、「あぁ、ぼくはこんな素晴らしい先生からお茶を習ったんだなぁ」と思いました。
ですから、横山悌子先生のことを思うと、ぼくもお茶事をやらなくっちゃと思いました。その時は何人の方にお声掛けできるか分かりませんが、ぜひ来てください。
(レジュメの続きは略)
(庭の不思議なオブジェ・・・丘の上記念会堂にて)
さて、「丘の上チャリティ茶会」に戻ります。茶会前に上記のレジュメを再読して、いまだ感動冷めやらぬ思いでおりましたので、高橋牧師にお会いした時に・・・不遜にも
「横山悌子先生について書かれた講演会のレジュメを読んで、とても感動しました。横山先生のような茶事をなさっていらっしゃいますか?」
すると、とても真剣なお顔で(少し怖いような・・・)「今、それをやっているではありませんか!」
そのお答えを伺って、心から頷くものがありました。
今出来ることを精一杯やっていらっしゃるのだ・・・5年間に3度死にかけながら不死鳥のように回復されて、又、大事な方の死に向かい合いながら、きっと必死の思いでこの茶会に取り組んでくださっているのだ・・・。誰も先のことはわからない、今しかないのだ。今この瞬間を最後だと思って一生懸命やるしかないのだ・・・と。
ここまで書いて(書くべきかどうか、どう書いたらよいか迷いながら・・・)、
やっと「丘の上のチャリティ茶会」へ行ったのだ! ・・・という実感が湧いてきました。
野原薊様、お誘いを心から感謝しております。社中の皆様と美味しく過ごした「ほまれ」のことも忘れられません・・・。
皆様と丘の上チャリティ茶会にて、またの御目文字を楽しみにしています。
「丘の上チャリティ茶会」・・・思静荘の濃茶席(1)へ戻る