5月31日
仏法部読了し、これで本朝部はすべて読み終わりました。天竺・震旦部に入る前にちょっと休もうと思っていたところ、新潮文庫から「ボヴァリー夫人」の新訳が出て、驚きました。買ってきて、シャルルがエンマと知り合うあたりまでさっと読みましたが、やはりすばらしいですね。これこそ小説、という感じです。フローベールは、文章についての談義や、人生についての談義も地の文ではいっさい触れません。すべてを物語のプロットと描写と会話の中に溶け込ませている。その潔さが猛烈にかっこいい。――この新刊の訳者の経歴のところに「失われた時を求めて 全一冊」とあったので、なんじゃそれは、と検索したら、単行本の新刊で角田光代さんとの共訳で新潮社から「失われた~」の縮約版が出たとのこと。さっそく昨日、立ち読みしました。うーん。という感じ。まあ、訳者自身があとがきで書かれているように、この本は一度全編を通読した(私のような)読者には必要ない本でしょう。でも、とにかく興味がある、という方には一冊(原稿用紙1000枚だそうです)で一応全編を見渡せるのでいいのかもしれません。ひとつ気になったのは、ボヴァリー夫人の新訳者であるフランス語の先生が、「角田さんが『ぼく』という一人称を使ったのには驚いた。日本語訳としてはじめてのことである」というようなことを書かれていたこと。それは間違いです。集英社世界文学全集で、鈴木道彦さんが「花咲く乙女たちのかげに」を単独で訳された時に、「僕」という一人称を使っています(この本も持っています)。のちに鈴木さんは全訳をされたとき、主人公の年齢が進むにつれ、「僕」が不自然に感じられたので「私」にした、と書かれていました。「ぼく」と「僕」の違いはありますが、今回の一人称が初めてなわけではありません。偉い先生にぼんくらがいうのもなんですが、本当に知らなかったのなら、ちょっと問題ではないか、と思いました。――また、私は偏見の塊なので書きますが、できればプルーストの世界に女性に入ってきてほしくありません。たぶん、女性から見れば、「失われた~」は性愛小説であり、それしか扱っていないように見えるかもしれません。しかし、ここには少年にしかわからない、数々の世界の見方が出てきて、それが物語の根底を支えています。「常に前向きにしか生きられない」女性という生き物には絶対に理解のできない部分が多々あります。母親としてなら理解できても、それは、作中で話者の母親が「女目線から見てよくないという理由で息子の読書の範囲を狭めてはいけない」との自覚からアラビアンナイトはガラン訳ではなくマルドリュス版を与える――といった程度の理解でしかなく(それでもすごくものわかりのいい対応ですが)、なぜ男には哲学(つまりおとぎ話)がなければ生きられないのか、女性には絶対に理解できないからです。――また、女性が「ぼく」と書いたり言ったりするのも虫唾が走るくらい嫌いです。実は中学の時、東京から転校してきて、文芸部というクラブを作った女の子が「ぼく」派でした(その影響を受けてぼく派が増えたものです)。――要するに、私は、「失われた時~」は、女性には必要ない書物だと思います。――よく、「哲学が理解できない」「こうすれば理解できる」というような不思議な本がありますが、自分の心が必要としなければ、別に哲学なんか理解する必要はないはず。たとえば、「有名なニーチェというやつはどういうことをいっているのか見てみよう」と、ツァラトゥストラを読んで、その趣旨を要約し、有用か無用か、文学として上質か不出来か評価を下す、なんてまったく無意味で無駄な行為です。ツァラトゥストラを読んだ時、パンセを読んだ時、砂漠で泉に出会ったように感じ、ただ何度も繰り返し読んでしまう。そういうふうにならないのなら、その本はその人にとって必要ない書物というただそれだけのことです。――私はスポーツ全般に興味がありません。もしそんな私が、知りもしないのに客観的にスポーツとはこれこれで、有用か無用か、なんて言い始めたら、それを必要としている人は激怒しますよね。本にしてもそれは同じことです。必要がない人はなにも評価しないでいい。それだけのことです。女性が「プルーストを評価をする」なんてやめていただきたい。女性には別の領分があるのだから(たとえば文学なら「嵐が丘」のような)、そちらで女王になればいいわけで、なんにでも首をつっこむのはやめてほしい。――私は「失われた~」を読んで、無意味から救われました(女性といても、無意味からは救われませんでした)。詳しくは書きませんが、この本は私にとっては水のようなもの。それも、泉鏡花のいう「水は美しい。いつ見ても、美しいな」という水としての。私がここで何度も引用したルグランダンの言葉も、その本当の切実さが女性に理解できるとは思いません。性愛にも、華やかさにも、富にも、優劣の付け合いにもなんの関係もない場面だから。でも、ここは「失われた時~」の中で、本当に大切な一節なのです。――なんのまとまりもないですが、ここでやめようと思います。
仏法部読了し、これで本朝部はすべて読み終わりました。天竺・震旦部に入る前にちょっと休もうと思っていたところ、新潮文庫から「ボヴァリー夫人」の新訳が出て、驚きました。買ってきて、シャルルがエンマと知り合うあたりまでさっと読みましたが、やはりすばらしいですね。これこそ小説、という感じです。フローベールは、文章についての談義や、人生についての談義も地の文ではいっさい触れません。すべてを物語のプロットと描写と会話の中に溶け込ませている。その潔さが猛烈にかっこいい。――この新刊の訳者の経歴のところに「失われた時を求めて 全一冊」とあったので、なんじゃそれは、と検索したら、単行本の新刊で角田光代さんとの共訳で新潮社から「失われた~」の縮約版が出たとのこと。さっそく昨日、立ち読みしました。うーん。という感じ。まあ、訳者自身があとがきで書かれているように、この本は一度全編を通読した(私のような)読者には必要ない本でしょう。でも、とにかく興味がある、という方には一冊(原稿用紙1000枚だそうです)で一応全編を見渡せるのでいいのかもしれません。ひとつ気になったのは、ボヴァリー夫人の新訳者であるフランス語の先生が、「角田さんが『ぼく』という一人称を使ったのには驚いた。日本語訳としてはじめてのことである」というようなことを書かれていたこと。それは間違いです。集英社世界文学全集で、鈴木道彦さんが「花咲く乙女たちのかげに」を単独で訳された時に、「僕」という一人称を使っています(この本も持っています)。のちに鈴木さんは全訳をされたとき、主人公の年齢が進むにつれ、「僕」が不自然に感じられたので「私」にした、と書かれていました。「ぼく」と「僕」の違いはありますが、今回の一人称が初めてなわけではありません。偉い先生にぼんくらがいうのもなんですが、本当に知らなかったのなら、ちょっと問題ではないか、と思いました。――また、私は偏見の塊なので書きますが、できればプルーストの世界に女性に入ってきてほしくありません。たぶん、女性から見れば、「失われた~」は性愛小説であり、それしか扱っていないように見えるかもしれません。しかし、ここには少年にしかわからない、数々の世界の見方が出てきて、それが物語の根底を支えています。「常に前向きにしか生きられない」女性という生き物には絶対に理解のできない部分が多々あります。母親としてなら理解できても、それは、作中で話者の母親が「女目線から見てよくないという理由で息子の読書の範囲を狭めてはいけない」との自覚からアラビアンナイトはガラン訳ではなくマルドリュス版を与える――といった程度の理解でしかなく(それでもすごくものわかりのいい対応ですが)、なぜ男には哲学(つまりおとぎ話)がなければ生きられないのか、女性には絶対に理解できないからです。――また、女性が「ぼく」と書いたり言ったりするのも虫唾が走るくらい嫌いです。実は中学の時、東京から転校してきて、文芸部というクラブを作った女の子が「ぼく」派でした(その影響を受けてぼく派が増えたものです)。――要するに、私は、「失われた時~」は、女性には必要ない書物だと思います。――よく、「哲学が理解できない」「こうすれば理解できる」というような不思議な本がありますが、自分の心が必要としなければ、別に哲学なんか理解する必要はないはず。たとえば、「有名なニーチェというやつはどういうことをいっているのか見てみよう」と、ツァラトゥストラを読んで、その趣旨を要約し、有用か無用か、文学として上質か不出来か評価を下す、なんてまったく無意味で無駄な行為です。ツァラトゥストラを読んだ時、パンセを読んだ時、砂漠で泉に出会ったように感じ、ただ何度も繰り返し読んでしまう。そういうふうにならないのなら、その本はその人にとって必要ない書物というただそれだけのことです。――私はスポーツ全般に興味がありません。もしそんな私が、知りもしないのに客観的にスポーツとはこれこれで、有用か無用か、なんて言い始めたら、それを必要としている人は激怒しますよね。本にしてもそれは同じことです。必要がない人はなにも評価しないでいい。それだけのことです。女性が「プルーストを評価をする」なんてやめていただきたい。女性には別の領分があるのだから(たとえば文学なら「嵐が丘」のような)、そちらで女王になればいいわけで、なんにでも首をつっこむのはやめてほしい。――私は「失われた~」を読んで、無意味から救われました(女性といても、無意味からは救われませんでした)。詳しくは書きませんが、この本は私にとっては水のようなもの。それも、泉鏡花のいう「水は美しい。いつ見ても、美しいな」という水としての。私がここで何度も引用したルグランダンの言葉も、その本当の切実さが女性に理解できるとは思いません。性愛にも、華やかさにも、富にも、優劣の付け合いにもなんの関係もない場面だから。でも、ここは「失われた時~」の中で、本当に大切な一節なのです。――なんのまとまりもないですが、ここでやめようと思います。
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