麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第143回)

2008-10-27 01:11:31 | Weblog
10月27日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。



先週書いたようなこと。
つまり、「私が生きているのは意味のあることである」というおとぎ話に、「道具」として組み込むことのできていた「存在」の、本当の姿が露呈してしまうことは、老いてエネルギーを失ったときにだけ起こるわけではなく、若いときにも起こります。

まだエネルギーに満ちあふれた若者に、なぜそんなことが起きるのでしょうか。
それは、まず、一面的には「誠実さ」のために起こるように見えます。

若者が誠実であればあるほど、彼は遅くとも15歳になるころには、人間社会というものが弱肉強食の生物界の一部であり、誰もが自分を生かそうとして他をおとしめ、常に他に対して優位をたもとうとあくせくしている場所であること、考えてみれば、自分も子どものころから無自覚にそういう世界に参加していて、「どうとく」の時間に先生が言った「友情」や「助け合い」も、その授業の間だけ考えて、先生に「いい」とほめられる意見を思いつければそれでいいことで、すんだら終わり。それが証拠に自分が心地よかったのは、他のやつらを見下すことができたときが多かったではないか。などということを強く自覚します。

いま自分が入試を受けようとしていることも、「(輝ける)将来のため」とか、一見清い言葉で理由付けながら、そのペーパーテストで、自分の頭の良さを示せ、自分には能力があり、その試験に落ちるやつよりは生きる意味があるということを証明しようとしているだけなのではないか。そうしてこの競争は、何億個あるかわからない銀河系のその中にまた何万あるかわからない恒星系の、その中のたった一つのゴミのような星の上で蛆虫のような自分たちの間で起こっていること。こんなアホウな努力をし続けて、その行き着く先がなにひとつ残らない「死」なのは、世界が誰かの冗談だという証拠だろう。すべてはまったくの無意味なのではないか。

というようなところに心が到達することでしょう。こういうふうになったとき、誠実な若者は、これまで無自覚にそうであった自分をつぶしにかかろうとします。「自分は“やつら”の仲間ではない」というためにです。しかし、ここで彼は、「私には生きる意味がある」というおとぎ話(もちろん、彼はそれをおとぎ話だと自覚してはいません。そう自覚するにはまだ何年もかかることでしょう。それどころか、なお多くの「これは否定できない」という神聖な例外が、彼の世界の中には残っています。それは、「母親が子どもに注ぐ愛情の神聖さ」や、自分の、「母親への愛情の真実」、といったものです)自体が、実は今自分が否定したがっているものに支えられて成り立っているということを感じます。

しかし、誠実な青年は、あり余る体力を用いて、ぎりぎりまで、この自己否定を押し進めていこうとします。このような心の状態になったとき、つまり、彼の「私には生きる意味がある」というおとぎ話の書かれたインクが限りなく薄く透き通って見え始めるとき、それと反比例して「存在」が自分を主張してくるのです。言い換えれば、彼は若さの全エネルギーを費やして、人工老化現象を引き起こしたわけです。

これまで安心してながめることのできた世界は、異様な実相を露呈し始めます。

このときの心の状態と、この状態に対する態度のとり方につて描いた小説が、サルトルの『嘔吐』と、埴谷雄高の『死霊』だといえます。



では、また来週。

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