鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

京都祇園祭のチマキの護符「蘇民将来之子孫也」に込められた感激

2010-08-16 | Weblog
 マンション9階の我が家の玄関先に京都・祇園祭の際に買い求めたお守りが飾ってある。竹の皮で包んだチマキの束に「蘇民将来之子孫也」と書かれた短冊が掲げてあり、いかにも家の守りにふさわしい感じが気に入っている。掲げてから約1カ月、幾人かの問者があったが、一人としてこの「お守り」について尋ねた人はいない。京都の祇園祭の宵山を訪れた人でないとわからないだろうし、人の家の宗教について話題にするほど付き合いの深い人はいない、ということなのだろう。
 「蘇民将来の子孫也」のお守りは宵山で32ある山鉾のうち、たまたま訪れた蛸薬師通りの「橋弁慶山」の山車の展示場で、山車の上に飾る弁慶と牛若丸の立ち姿の説明を聞いているうちに後で売っていたチマキのお飾りを来年の祇園祭まで飾っておくのだ、と聞いて買い求める気になったものだった。32の山鉾それぞれで売っているチマキのお飾りで、なんでも八坂神社の祭神のスサノヲノミコトが宿を探していた時に貧しい「蘇民将来」から手厚いもてなしを受けて、喜び「蘇民将来之子孫也」を意味する護符を持つ者を疫病から守ると約束したことに由来する、という。
 チマキの護符となったのは食べ物を確保するという意味があったのかもしれない。以前に祇園祭の時期に京都へ観光に訪れた人がチマキと思って買って持ち帰り、食べようとしたところ、中にチマキが入ってなくて怒った、という話があるくらい、祇園祭で由来を聞いたうえでないとその有難味がわかりにくい。
 蘇民将来というのが名前であるとは思わなかったが、蘇が古くからある国なり、土地の名であり、そこの民はだれであれ、未来永劫にわたり、神さまが守ってやる、という響きがある。その「ソミン ショウライ ノ シソン ナリ」という音の響きが心地よい。将来というのは文字通り、将来にわたって子孫の繁栄を見守る、という意味が込められている、と思うとなおさら意味深く感じられてくる。
 別に京都の蛸薬師通りの橋弁慶山の地元の氏子ではないが、玄関にゆかりの護符を飾ることによって、氏子になったような気がする。玄関の戸を開けると、正面に京都駅構内の民芸品店で買い求めた祇園祭の竿灯をあしらった置き物があるので、なおさら祇園祭の雰囲気が漂っている。
 なによりも初めて京都・祇園祭を見た感激が残っていて、それをチマキの護符を見る度ごとに味わっている、ということなのだろう。
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