prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「崖の上のポニョ」

2008年08月23日 | 映画
オープニング、普通に海の上に浮かんでいる型の船が海の中にいて、しかも海の泡が水の中に空気があるのか空気の中にぷよぷよした水の塊があるのか、どっちとも見える画を見て、こりゃ水の中と外とがはっきり分かれていない世界を描こうとしているのか、と思う。
このあたり、一見して近いモチーフの「ファインディング・ニモ」とはっきり違うところ。

水の外の世界の描写を見ても、道や建物などフリーハンドの線で描いているせいか、特に自動車が走るカットでパースが微妙に狂っているのがわかる。あと、水の線が普段でも異様に高い。あと、海水でいきていたポニョが淡水にいきなり入れられても平気でいる。つまり論理的というかロゴス的な整合性とは別な法則、というか世界像で成り立っている。

視覚的な意味での遠近法だけでなく、人間と人間以外、海と陸、生と死といった要素が順序立てて遠近法的に(つまり人間中心的に)配列されているのではなく、互いに入れ子になって混ざっているよう。

それが一気に炸裂するのが嵐の描写から後で、陸上の世界だった道路や建物の上で泳いでいる魚がやたらと奇妙な形をしているののが多いこと、深海や大昔の海までが混ざりこんでいるかと思わせる。

ポニョが人魚から人面魚、それから人間の姿を行き来するのがその典型ということになる。人面魚といっても、鳥のような足をしているあたり、爬虫類の感じも混ざっているし、「ハウルの動く城」の城も鳥の足をつけていたな、と思わせる。あれはロシアの魔女のバーバ・ヤーガの住む小屋から取ったのかと思ったが。

こういう幽明定かならない世界は、年をとってぱっと飛躍する時に割りと見られる。世評にしきりと年寄り扱いして排撃しようとする向きがまま見られるあたり、かつての黒澤明の扱いと同じ。そういうのは言う側の根拠のない若さ自慢、というより傲慢と未成熟しか実は語っていないのだが。

エンド・タイトル、宮崎駿の名前は大勢のスタッフの中に混ざって特に目立たないように現れる。「マジック・アワー」の三谷幸喜もそうだが、イヤでも宣伝の中心になる人はそうやってバランスをとりたがるみたい。
(☆☆☆★★)


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