prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

六本木アンティークマーケット

2006年01月28日 | Weblog
あおい書店の前のスペースにて。
オシャレな街代表である六本木でアンティークを売るというミスマッチ狙いなんでしょうが、なぁに、ここから通り一つ隔てた所には未だに古本屋があります。











「綴り字のシーズン」

2006年01月28日 | 映画
形の上ではスペリングのコンテストに出場する女の子一家の話だが、パックにあるものは相当に観念的で大きい。帰りで年配の女性客が「こんなに難しい映画だとは思わなかった」と言っていた。

先日読んだ清水義範のエッセイで人類史上最大の発明は何かといった議論があることが紹介されていて、筆者は「文字」と答えていた。人類の文明を支えているのは言葉だが、それを記録する文字がなかったら時間や空間を越えることはできないから、という理由だ。

オープニング、「甘い生活」の冒頭の空飛ぶキリスト像のごとく、大きな「A」の文字がヘリコプターで運ばれてくる。実際言葉=文字=ロゴスはここではほとんど神のように扱われている。

主人公の女の子が言葉のスペルを思い出そうとすると、たとえばその言葉が「子葉」だったら、服の地の草から実際に(CGの)芽が出て伸びてくるという具合に、言葉が実際の物に先立っている、あるいは言葉に実在がついてくる。
district spelling beeと大会の表示にあって、ミツバチの絵まで描かれているので、この場合のbeeとはどういう意味だろうと思って調べると、(競技の)寄り合い、集まりといった意味があるのだそう。ここでも言葉=文字が先にあって、実在のハチが後を追っている構造は一貫している。

リチャード・ギアの父親は古代の神秘主義者の言まで引用して、言葉(ロゴス)を通じて世界の始原=神に向かおうとする。
一方で、母親は万華鏡や顕微鏡を覗いたり光る物を集めたりして、ばらばらになった世界に光をあてて回復させようとするが、途中で力尽きて入院する。

「光あれ。すると光があった」(創世記)と「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神だった」(ヨハネによる福音書)の対立、旧約と新約の対立のごとしだが、ただ言葉を奉じる父親はユダヤ系で、母親は元カソリックという具合に、対応関係はねじれている。

父親に反発した息子がインドのクリシュナ教に傾倒したり、クライマックスのキーワードが「折り紙」ORIGAMIだったりという具合に、東洋志向も入っている。オリガミという言葉が問題として与えられると折り紙の鳥(これもCG)が現実にあるかのようにまざまざと目に見えて現れ、ORIGAMIの文字を指し示すと、少女はその文字を答えるのを拒否する。図式化して言ってしまうと、現代の実在軽視とロゴス過剰批判といったところか。

息子のガールフレンドがチャーリーという男名前で、しかもスペルがchaliというねじれ、その飼い犬の名前がtigerというねじれ。言葉は真実を指し示すわけではないというモチーフは細部にまで及んでいる。さらにtigerというのはエンドタイトルを見ると本当にその犬の名前なのだから、ややこしい。

実際は仏教徒のギアにクリシュナ教徒たちに喧嘩を売らせているのもひねっている。
(☆☆☆★★)



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