prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」

2006年01月19日 | 映画
オープニング・タイトル、人名の姓と名がなぜかjohnMADDENという具合に間をあけずくっついて表示されるので、なんだろうと思っていたが、エンドタイトルが出た時、同じJohn Maddenがちゃんと間をあけて表示された時、なるほどと思った。

くっついてしまっていたものが離れる話だということに思い至ったからだ。娘の父親離れの話でもあるし、もう一つ大きいと思うのが、天才と狂気は紙一重と言われるが、狂気に乗っ取られてしまっていた天才が切り離される話、だからだ。実際その紙一重がなくなってしまったら、この映画の晩年のアンソニー・ホプキンスや「ビューティフル・マインド」のジョン・ナッシュではないが、人格は荒廃して天才の輝きも何も失われてしまう。

グウィネス・パルトロウは、もともと日本人の眼には肌がガサガサなのが目立つのだが、ここではほとんどスッピンではないかと思わせるメイクで登場、父親譲り(?)の内面の荒廃を形にして見せる。汚な作りというのとは違う、一見そのまんまと思わせて見ているとかなりアッチの方に入っているのに気づく、という表現だ。アンソニー・ホプキンスは正気と狂気をカードを切るようなメリハリでないまぜて表現しているが、こちらはもう少しべったりくっついている感じで、「恋に落ちたシェイクスピア」の監督でもあるし、ふっとハムレットを周囲の宮廷の人間が見たらあんな感じかと思った。

パルトロウがノートにあった数学の画期的な証明(原題はただの'proof')が自分のものであるのを認めることで、父と共にあった狂気から手を切るラストで、精神病患者が自分の症状の直視したくない核心を認め、言葉にすることができたら、それはいわば精神の患部を切り離すようなもので、自然治癒に向かうものだとどこかで読んだ話を思い出した。
数学の証明なんて非情緒的で無味乾燥に思えるものがドラマになるのかといささか危惧していたのだが、数というのは、まぎれもなく一個の言語、というよりごまかしをもっとも徹底して認めない点で究極の言語であり、ドラマの論理そのものではないか、などと思った。

余談だが、ここでは数学者のことをしばしばgeekと呼んでいて、オタクと訳していたが、プログレッシブ英和中辞典第4版では「1 米‘食いちぎり師’生きたヘビなどの首を食いちぎる異常な見世物師. 2 変態, 異常者; ばか.」というヒドい意味。
私がこの言葉を覚えたのは、「フレッド・ブラッシー自伝」の原題のPencil Neck Geekからで、ブラッシーが噛み付き攻撃を考えたのは、ニワトリの首を食いちぎる見世物(日本なら、さしずめヘビの頭をくいちぎる見世物小屋のヘビ女)から、というのが興味深かったので。
(☆☆☆★★★)

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