キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに

 「その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(ピリピ3:6-9)

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 パウロの回心について。
 この回心の体験そのものは、上の「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに」というところに凝縮されている。
 以前のものは、このキリストのゆえにどうでもよくなり、代わりに、新しくそして好ましいものが、一気に換気したように入ってくる。
 その後もこの世で苦闘することに変わりは無いし、しかも、どうでもよくなった以前の価値観の中での苦闘になる。
 しかし、新しくそして好ましいものがあまりに素晴らしいので、今日もこのイエスの道を歩み続ける。

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 ヨハネ伝の10:28まで続けて読んできましたが、しばらくアトランダムに進めます。

 健やかな一日をお祈りします!

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