駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇宙組『天は赤い河のほとり/シトラスの風-Sunrise-』

2018年06月21日 | 観劇記/タイトルさ行
 宝塚大劇場、2018年3月16日15時(初日)、17日11時、18日11時、26日13時、4月1日11時、3日13時、18時(新公)、14日18時、15日11時、15時、22日15時(前楽)、23日13時(千秋楽)。
 東京宝塚劇場、5月11日15時半(初日)、15日18時半、23日13時半、29日18時半、31日18時半、6月14日18時半、17日15時半(大楽)。

 紀元前14世紀、古代オリエント。ヒッタイト帝国の首都ハットゥサは、黒海へと流れ込む赤い河マラシャンティアに抱かれ、皇帝シュッピルリウマ一世(寿つかさ)の治世の下、繁栄のときを迎えていた。皇帝の第三皇子カイル(真風涼帆)はその血筋に加え優れた才能を持つ世継ぎと一目置かれている。暁の明星が輝くある明け方、王宮で、カイルは呪術の形代としてタイムスリップさせられた現代の女子高生ユーリ(星風まどか)と出会うが…
 原作/篠原千絵、脚本・演出/小柳奈穂子、作曲・編曲/青木朝子、下村陽子。1995年から2002年まで連載された同名の少女漫画をミュージカル化。

 原作コミックスを予習した際の記事はこちら
 大劇場初日はこちら。その他、こちらこちらこちらこちらなど。
 以上で、だいたい書き尽くしている気はしています。
 なんと言っても大入り満員で、そこはよかったのではないでしょうか。私も、もちろん頼んだ日時にもよるでしょうが、『エリザベート』のときですらこんなにはお断りされなかったよ!?というくらいにお取り次ぎのお断りがありましたが(劇団から会に降ろす枚数が減っているという噂ははたして本当なのでしょうか…)、逆に盛況で人気なのを肌で感じられて、嬉しかったくらいです。まあ中身としてはアレですし(オイ)、やや飽きましたし(オイオイ)、ありがたくも十分観ました。入り待ちにも博多座や青年館に浮気した日以外はほぼ通えましたし(出待ちは嫌いなのでほとんど行きませんでした、すみません…)、楽しい日々でした。満足です。
 大楽のカーテンコールでゆりかちゃんも言っていましたが、いつもより少し長い公演期間で、特に東京公演は寒暖差が激しい日々もありましたが、ひとりの休演者も出すことなく無事に全員で完走できて、本当によかったです。ゆりかちゃんのご挨拶が、もちろんものすごくしっかりはしていたんですけれど、けっこう感極まっていて、傍目には余裕綽々のトップスターぶりに見えましたがやはり当人的にはテンパっていたのかな、プレッシャーや責任感に押しつぶされそうになるときもあったのかもしれないな、でもやり遂げたったー!って達成感と心地良い疲労感に光り輝いている笑顔だなと晴れがましく、また頼もしく、愛しく感じました。
 お疲れ様でした、改めてお披露目おめでとうございました。

 観劇に同伴した知人や周りの感想はよっつに別れていて、原作漫画のファンで「あのエピソードもない、これもない、何もない、なんでこんなになっちゃったの!?」って人と「あんな長いものをよくまとめたねえ、おもしろかったよよかったよ!」って人、原作未読で「なんかすごいダイジェストを見せられた気がする…つまらなかった…」って人と「もっといろいろあるんだろうなとは思ったけれど、フツーにおもしろかった! 漫画も読んでみたくなった!!」って人、という感じでした。まあそうですよね、いずれかに大別されますよね、というところでしょうか。あとは宝塚歌劇と少女漫画のどちらに比重があるファンかや、組ファンかどうか、組子に贔屓がいるかどうかでも見方は変わるのかもしれません。まあでもトータルでは、みんながみんなケチョンケチョンに言うような駄作、大失敗作認定ではなかったかと思います。よかったよかった(低すぎるハードル…)。

 そして私のタイムライン調べでは、もちろんバイアスが超盛大にかかっていることは承知しているつもりですがそれでも、あっきーネフェルティティ王太后陛下の評判が良くて、安心するやら嬉しくて小躍りするやら、だったのでした。
 せーこナキアが主人公のゆりかカイル、ヒロインのまどかにゃんユーリに対する悪役、敵役として屹立しているのはもちろん、そこにさらにネフェルティティをここまで立てたことで、物語に厚みや深みが出た部分はあったことでしょう。ただ、カイルはネフェルティティとはまったく絡まないから、結果的にどうしても、ユーリとナキアとネフェルティティという三人の女たちの生き方の違い…みたいな色がより強くなってしまい、それはトップスターが演じる男性主人公を一番に立てるべき宝塚歌劇としてどうなんだ、って問題が出てきちゃいはしたんですが、観客のボリュームゾーンとしては実は「キャー、カイルさまカッコいいー!」みたいな層よりは「ナキア、ちょっと呑もうか…」とか「わかるわネフェさま、おつらかったわよね、私もよ…」みたいな層の方が多かったのかもしれないし(^^;)、なのでこれで結果オーライだったのかもしれません。
 私は当初は、「なーこたんもっと上手くやれよ、もっと上手くできただろう!?」とか思ってイカイカしていたワケですが、だんだん、どうせこんな長い話を90分でやるのなんて無理なんだし、だったらもうやりたいようにやっちゃおう、ってな確信犯で、なーこたんはあえてこの三人の女たちの対比をぶっ込んできたのかな、とも考えるようになりました。せーこはともかく、あっきーの起用はそういう意図ですよね。番手その他の問題ももちろんあったかもしれないけれど、あえて男役に演じさせてまである種のインパクトを演出しようとしたキャラクターなんだと思います。そしてそこまでして、かつわざわざ、愛ちゃん演じるマッティワザとまったく絡ませなかったのも、あえてのことなのかもしれないな、と今は思います。
 そりゃあんなキンキラキンの超豪華お衣装だし、頭飾りもあってでっかくて目立つし、とにかく美貌なことは満場一致だろうし、プロローグを除けば出番は二場面だけなんだけど、たとえボーッと観てても「アレ誰だったの?」って注目するキャラになっていましたよね。そんな大役をやらせていただいた、ありがたいことです。
 中の人は当初はとにかく「男役でないこと」をただただ嫌がっているだけのようでしたし、不慣れなことや支度その他がやはり大変なようでもあって、特に大劇場公演前半ではやたらとバタバタしていていっぱいいっぱいであるようなことしか窺えないようなところがあり、不機嫌そうとまでは言わないまでも不安そう、楽しめていなさそうに感じないこともなかったのですが(個人の感想です)、東京公演ではぐっと落ち着いてきたように見えましたし、時間が有効に使えているようで(東京の方が大休憩が長いですしね)楽屋での暇な時間も楽しめるようになっているようだったり、着込んでいないから寒いと愚痴って笑ったりバレンタインに渡せなかったものが渡せて恥ずかしかったけどよかったと笑ったり(!)、とにかく余裕と前向き感が出てきたように感じられたんですよね(あくまでも個人の感想です)。それは私たちが必死のパッチでお手紙その他で褒め称え励ましまくり勇気づけアゲまくったからかもしれませんし(でも別に嘘やおべんちゃらじゃないんだ、私たちは本当に純粋にそう思ってただ思いを伝えただけなのです)、やっと自分でも納得して芝居ができるようになったり、役の性別にかかわらずその役を生きることを楽しめるようになったり、なんらかの手応えを感じられたりするようになったのかなー、とも思ったのでした。個人的にはあまり芝居が変わらない、初日にある程度仕上げてくるタイプの役者だと思っていたのですが、今回はさすがにけっこう変化を感じて、それも新鮮でした。しかし「さらに女度に磨きをかけてがんばります」みたいな冗談口が聞ける日が来ようとは、漏れ聞いたあの集合日の様子からはよもや思えませんでしたよ本当に…(笑)ああ、よかったよかった。
 ネフェルティティの人生については作中ですごく具体的に描かれているわけではないし、むしろとおりいっぺんに近い説明が台詞の中でなされているだけなのですが、それをちゃんと意味や深みや情感を持って聞かせて、想像させなんなら落涙させる芝居を、贔屓はしてみせていたと私は思っています。
 良かったよ、起用に応えていたよ、大役を果たしていたよ、。役者としてスターとして、確実にひとつステップアップしたと思うよ。女役で剥き出しの肩とか腕とか見られちゃったヒャッホーイ、なんてこと以上の収穫がありましたよ。それが本当に嬉しい公演でした。
 これを踏まえての『WSS』リフ、本当に楽しみです! ショーでは男役をやっているけれど、当人的にはどうやら芝居の男役とは違うもののようで、芝居で男役に戻ることを当人もとても楽しみにしているようでした。これはもうワクワク待つしかありませんね。歌も踊りもがっつりありますが、できることは知っています。全然心配していません。エビちゃんとのカップルも楽しみすぎます! ニマニマして待ちたいと思います!!

 では以下、簡単に組子の感想を。
 ゆりかちゃん、押すに押されぬヒーローっぷり主役っぷり座長っぷり、素晴らしかったです。わかりやすくカッコいい場面があまりない主人公でしたが、それを保たせたのは当人のスター力だと私は思います。いつかがつんとニンにはまる役を見たいし、また全然違う顔を見せてくれるような作品も観たいです。楽しみしかない、がんばってください!
 まどかにゃん、垢抜けたよね可愛くなったよね上手くなったよね綺麗になったよね! トントン拍子に抜擢されかつ順調に応えてきてのあっという間のトップ就任で、逆にあまり評価されていない気もしますが、すごくポテンシャルを持っているスターだと思うし、それってけっこうすごいことだとも思っています。本質的にはもっと大人っぽかったり暗かったりウェットな役も上手いタイプだと思うので、そういうお役も観てみたいし、こちらも楽しみしかありません。キキちゃんとの映りがいいのも素晴らしい。歌えるのも素晴らしい。次のマリアはさらに深めてくるんだろうなー、楽しみです。
 キキちゃん、改めて、ようこそ宙組へ。いやーいい子をもらった、もう放しませんよ(笑)。二番手っておいしいポジションではあるけれど、花組への組替えではここまでブレイクしなかったんだから不思議なものです。まあ個人的には『カリスタ』は嫌いじゃなかったんですけれど、『ハンナ』も『MY HERO』もあまりピンとこなかったからな…ともあれ、ラムセスという役がよかったというのもあるし、もちろんその役をより魅力的にしたのはキキちゃんの地力だと思うし、歌えるし、まかキキ愛の並びもいいし、スタイリッシュでちょっとスマートすぎる宙組男役陣の中では目立つ華や濃さを持っていて、目立ちます。善譲のときまでさらに磨かれていくことでしょう。大空さんはまゆたんの上にカットインしてそれは申し訳なかったけれど、のちに二番手がテルに替わってそれは効果があったと思うし、テルは今度はまぁ様(とキタさん)を呼んでこれまたよかったと思うし、そんなまぁ様のところに今度はゆりかが来て、そしてゆりかの代になったときにキキが来た。こうしてつながっていくものなんだと思います。この先が楽しみです。
 そして愛ちゃん、それでも初の生え抜き宙組トップスター目指してがんばっていってほしいと思っています。原作漫画の大ファンでスーパーバイザー、素晴らしい。宝塚オタクなところも生かして、芝居でもショーでも少ない出番でも印象づけていたと思います。アタマいいんだよね、そういうのってとても大事だと思う。あとは役と作品に早くもっと恵まれてほしいです。ベルナルドはもちろん楽しみだけれど、もっとできるしハマる役があると思うんですよ、もちろん二の線でね! 期待しています。
 ずんちゃんは、こうなると小さく見えちゃうところが本当に損でもったいないんだけれど、これまた歌えるし踊れるしなんでもできるんだから上手い起用をしていってほしいです。ザナンザのユーリへのときめき芝居にときめかない観客はいなかったと思うのよ…! 頼むよ劇団。
 りくそらの起用も頼みます、りんきらまっぷーかけるさおが上手いのも知ってますが二の線もできるスターなんでよろしくです、モンチりおかなこのことも頼みますよ、まりなもやらせればできるんですよ、もえこあーちゃんももっと冒険させようよね、ゆいちぃやあきもも上手いよ、あとなっつやナベさんの手堅さもね、そしてりっつやわんたが出てきたよね、でもキヨもアラレもいてさらにこってぃどってぃ、楽しみすぎます…!
 娘役陣はきゃのんやエビちゃん、もあちゃんあたりがいい芝居していて、ありさしーちゃんなきあとの歌はせとぅーとさよちゃんが担当していて、春乃さくらちゃんも歌えて、ららが可愛くて、でもまいあにマジで新公ヒロインやらせてくださいねと言っておきたいところです。じゅりちゃんの加入はもちろん心強い。ひろこちゃんもキュートでさらちゃんはラブリーで、夢白ちゃんは美人。楽しみしかありません。
 マギーさん、ご卒業おめでとうございました。その日の24時にツイッターとインスタを始め、翌朝には所属芸能事務所が発表されるようなはりきりぶり、嫌いじゃないです。第二の人生にも幸多かれと祈っています。
 ゆいちゃん、ゆうこさん、りりこにも幸多かれ!


 さて、ロマンチック・レビュー『シトラスの風-Sunrise-』の作・演出は岡田敬二。
 何度でも言いますが私はショーの見方が下手なので、そんな私が下す評価になんの意味もないかもしれませんが、今の組の状態や何よりトップスターの持ち味に合っていない作品を当てたことには私は心底抗議したいと思っていますし、それを別にしてもレトロでオーソドックスでクラシカルでいいって言うよりはやっぱり古くてダサくて新鮮みがなくて単調だったんでないかい?という感想なので、もう語ることはありません…
 とりあえず中詰め、大劇場前半では黒タッセルのイヤリングでそれも素敵だったことは覚えておきたいと思います。
 次はほぼほぼ全員が初シャベになる日本物ショーですね、みんながんばれー! 楽しみにしています。

 宙組誕生20周年、改めておめでとうございました!









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宝塚歌劇月組『THE LAST PARTY』

2018年06月16日 | 観劇記/タイトルさ行
 日本青年館、2018年6月15日11時。

 1940年12月21日、ハリウッドにあるシーラ・グレアム(憧花ゆりの)のアパートメントで、アメリカ文学を代表する小説家スコット・フィッツジェラルド(月城かなと)が死を迎えるまで、あと2時間。彼の脳裏に、その華やかな人生を取り巻いた人々の姿がよみがえり、最後のパーティーの幕が開く…
 作・演出/植田景子、作曲・編曲/吉田優子、瓜生明希葉。2004年に宙組と月組で宝塚バウホール初演、2006年に共に東京で再演された作品を、ダンスナンバーと衣装を一新して再々演。全2幕。

 私は長く大空さんのファンをしているのにもかかわらず、この作品を初演も再演も生では観ていなくてお恥ずかしい限りなのですが(宝塚歌劇自体から一番足が遠のいていた時期でした)、もちろん映像では見ていますしDVDも持っていますし主題歌は愛聴しています。景子先生のバウ作品には佳作が多いですが、これもメタシアター構造とスタイリッシュな構成がとてもおもしろく美しく、傑作のひとつだよなとずっと思ってきました。
 初めて生で観て、やはり舞台で観る方がさらに格段に良く見える作品だなと思いましたし、いい意味であまり宝塚歌劇らしくないくらいの素晴らしい出来の戯曲に仕上がっているんだなと思いました。スコットを演じる役者TSUKISHIRO、がほぼ出ずっぱりの舞台で、セットチェンジはなく、背景の全面書き割りみたいなのは逆によく変わって、その「ハイ、お芝居をやってるんですよー」感がまた素晴らしく効いている作品です。今回、生演奏なのもとてもよかった!
 ダンスナンバーが変更されたのは懐かしさという意味では残念でしたが、お衣装はより華やかに鮮やかになっていて素敵だなと思いました。そして主題歌2曲やスコットとゼルダ(海乃美月)のラブソングは変わっていないので、もう前奏から痺れましたよね…あと照明もとても効果的でよかったです。
 以前の印象では、まあ主役が大空さんだったからかもしれませんが、もっとクリエイターとしての、作家としての苦悩に焦点が当たっていた印象で、それは景子先生が自分の迷いや叫びを仮託している部分もあるんだろうし、でも私は一般の観客には「知らんがな」と言われかねない部分でもあるぞ、とか危惧した記憶もあるのですが、今回は自分が歳をとったからかはたまた景子先生も丸くなったのか、それともれいこちゃんのよりマイルドなナチュラルさ故か、たとえクリエイターでなくても、人は誰でもやりたいこととやれることの落差に悩んだり、人からどう思われたいか、なのにどう思われてしまっているかといったことに傷ついたりするものなので、誰にでも共感できる、そうした普遍的なドラマとしてくっきり立ち上がっていて、静かに熱くこちらの心に迫ってくるかのように感じました。とてもよかったです。
 また、スコッティ(菜々野あり)とのくだりや公園の学生(風間柚乃)とのくだりがことによくて、でもこの場面も以前の記憶よりも、人は誰でも、親でなくても作家でなくても、誰かにボールをパスするために生きなくてはならないのだ、どんなにつらかろうと苦しかろうかろうと生き続けていかなければならないのだ…というようなことを訴えているかのように思えて、もうダダ泣きしました。ゼルダだって、別に病気に逃げてしまったわけではないし、自死したわけでもない。自殺を選んだのはむしろマッチョに思われていたヘミングウェイ(暁千星)の方だったのです。
 でもみんな、傷つきながらもあがいてころがってがんばって生きた、普通の人々だったのです。その作品は世につれて、評価はコロコロ変わるかもしれない。けれどやはりいいものは永遠に生き残るのだ、人の生き様もまた語り継がれ続けるのだ…そんな優しく、力強い、けれど決して押しつけがましくないメッセージを受信しました。大人になったなあ…そのことに、泣けました。
 この作品は、初演から2年後に機会を得て再演されたことからもわかるように、当時とても好評で高評価だったのだろうとは思うのですけれど、でも今のくーみんのような熱烈テンションで支持されていたのだろうかと思うとおそらくそんなことはなかったのだろうとしか思えず、それこそそうした評価は世につれるものなのかもしれませんが、宝塚歌劇団初の女性演出家として道を切り開いてきた景子先生には改めて敬意を表したいなと思いました。ちゃんとしている作品はとてもとてもちゃんとしているんですよマジで。大劇場ではちょっとアレレでも。きちんと評価していきたいです。
 『舞姫』も『アンナ・カレーニナ』も再演すればいいのになあ、下級生が鍛えられると思うけどなあ。これも実は生で観られていないので私が観たい、というのもありますが、企画としてご一考いただきたいです。5組回すバウWS景子文学シリーズ、アリだと思いますよ?

 では、以下、生徒の感想を。
 れいこちゃん、渋い大空さんに似合いだったスコットはニンが違うかな?と思っていたりもしたのですが、そんなことはなかった! キラキラしていて、でも根は真面目で不器用で…みたいな感じが実にスコットで、ゼルダと似た者同士感があってとてもよかったです。お衣装もどれも似合っていましたし、晩年の疲れた感じの演技もとてもよかった。大空さんはややしんどそうに歌っていた歌を(笑)明るい声で歌ってくれて、かえって泣けました。ボールの扱いが怪しいところもいい(笑)。フィナーレは踊れていなくて、ひびきちとありちゃんに挟まれるとオイオイって感じでしたが、それもまた愛しかったです。いいスターさんになりましたよね、それに本当に華が出てきたと思います。
 物語としてはけっこう渋い話だから、外部でリアル男優が演じても…とか途中までは考えたりしていたんですけれど、自分たちの写真に赤い薔薇を一輪添えて、照明絞って、立ち去っていく…なんて気障なことは宝塚歌劇の男役にしか許されないな、と痺れました。初の登場主演、おめでとうございます。まだ幕が開いたばかりですが、どんどん深まっていくことでしょう。ルキーニも楽しみです!
 くらげちゃんは本当に達者で上手いと思うんですけれど…残念ながらやはりゼルダというには美貌が足りなかったのではあるまいか…そこだけが残念でした。フィナーレのデュエダンのカバー力とかホント絶品だったんですけれどね…『ギャツビー』のデイジーに通じるファムファタルですから、やはりとにもかくにも華やかさ麗しさが欲しかったのでした。ファンの方にはすみません。
 すーさんのシーラ、なっちゃんのローラはさすが絶品でした。
 スコットが秘書に母性を求め、美人は雇わないことに関するくだりでは、なっちゃんが上手すぎるってのもあるけど客席がちょっと笑いすぎな気がして私は気に障りました。史実なのかもしれないけれど女性差別的だし、でもこういうエピソードを女性作家が嬉々として再生産してきたことって今まではよくあったことで、でもそろそろどうかと思ったよケイコ…と言いたかったです。
 ありちゃんのヘミングウェイは出番がちょっと増えていて、スコットに対する立ち位置がよりわかりやすくなり、またお話としてもより効果的になっていたと思いました。もっと場をさらっちゃうくらいにやっちゃってもいいと思うしできるとも思っているので今後に期待。フィナーレのダンスはもちろん圧巻でした。
 うーちゃんは私はちょっと判断しかねているところがあって、今回もやり過ぎない、イメージ程度のポジションであった方がいい役なんだと思うので、保留。少なくともメイクでもっと美形になる気がするので、さらなる努力に期待します。
 おだちんは上手いよね、いい味出しますよね。みりおの学生とはまた違って、でもこういう子いる、こういうこと言う若い子いるって思えたし、バイトもどれも上手かったです。
 まりんさんはなんかちょっと精彩を欠いた気がしました。ならひびきちがやってもよかったと思うよ?と個人的には思ったりしました。

 みんながたくさんバイトしてアンサンブルも務めて、でもきっちり仕上がっていた、いい舞台でした。観客がより慣れてきて、ちゃんと早くから席について、ライトが当たったタイプライターを眺めたり蓄音機の音楽に耳を傾けたりしながら、役者が舞台に出てきて照明が落ちて芝居がそっと始まるのを待てるようになると、よりいいのになと思いました。
 梅田でも観たかったかな。千秋楽まで、進化し続けてください。

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こまつ座『父と暮せば』

2018年06月15日 | 観劇記/タイトルた行
 俳優座劇場、2018年6月13日19時。

 ときは昭和二十三年七月、ところは広島市比治山の東側、福吉美津江(伊勢佳世)の家。愛する者を一瞬の閃光に奪われた底なしの喪失感と絶望の中を生きる美津江のもとに、父の竹造(山崎一)が現れる…
 作/井上ひさし、演出/鵜山仁、音楽/宇野誠一郎、美術/石井強司、照明/服部基。1994年初演、6組目の親子による上演。全一幕。

 こまつ座作品はおもしろいと思えるものもあるし自分には合わないかな古いかなと思えるものもある気がするので、案内をいただいても行ったり行かなかったりしているのですが、教養としてやはり押さえておかないといけないのだろうなとは感じています。この作品はタイトルはもちろん知っていましたが、ヒロシマの話だとも知っていたので、なんとなくもっと暗くて重くてしんどい話かと思っていて、これまでちょっと遠巻きにしていたのですが、意を決して行ってきました。山崎一が上手いのは知っていますしね!
 で、なんというか、なんか可愛らしくて、いじらしくて、あったかくて、フツーの話で、拍子抜けするくらいだったし、それがまたせつなくて悲しくて怖くて悔しかったです。
 広島弁がものすごく味わい深くて、また方言だろうとなんだろうと敬語が綺麗で、感動しました。昔の人は本当に身内にも他人にも綺麗な敬語を使いますよね、というかきちんとした敬意を払いますよね。そういうふうに人に当たれる美津江が美しいし、彼女を男手ひとつでそういう女性に育て上げた竹造が素晴らしいし、だけど彼らは本当にごく普通の、あたりまえに暮らしていた市井の男女にすぎず、そんなところに原爆は落とされたんだ、彼らの人生を根こそぎねじ曲げてしまったんだと思うと、本当に恐ろしくて悲しくて怒りに震えます。
 私だったら、私はずうずうしいから、なんで自分だけが生き残っちゃったんだろうとか、自分には幸せになる資格なんかないとか、考えないと思う。たまたまにすぎないんだろうけどラッキー、そのラッキーを生かしてみんなの分まで幸せになってやる、って思うと思う。でないと耐えられないと思うから。
 でも美津江は真面目で優しいから、そんなふうに軽く考えられないんですよね。そんな美津江が心配で心配で、だから竹造は出てきちゃうんですよね。
 でもこれはお芝居だからさ。だから竹造は出てこられるけど、本当は人は死んだら終わりじゃないですか。だから何千もの、父を亡くした娘、その後ひとりで生きていかなければならなかった娘たちが当時たくさんたくさんいて、彼女たちの元には父は訪れず、だから優しい彼女たちは自分を責めて生きていきそして死んでいったのかもしれない…と思うと、悔しくて泣けるのでした。父の亡霊に励まされることがなくても、人は立ち上がれると、再び強く生き始められると信じたいけれど、でもわかんないじゃん。それくらいとんでもないことだったんじゃん、原爆って、戦争って。いや私は知らないのですが、両親もギリギリ戦後生まれくらいなので本当に体感としてピンときていないのですが、でも知識として知っているし、今またキナ臭い世の中になってきていることに怯えるくらいの知性はある。
 抗わなくちゃいけませんよね、怒らなくちゃいけませんよね。原爆を踏まえて、先の戦争を踏まえて、我が国は戦争を永久に放棄したのです。そのことを絶対にゆるがせにしてはなりません。
 働いて帰ったら晩ごはんの支度をしたり、雨漏りには器を当てたり、お風呂を焚いたり晩酌の用意をしたりして人は生きていくのです。普通の暮らしを侵されたくない。侵す権利は国にはない。そのことを改めて噛みしめたいなと思いました。

 全部で3場か4場の舞台だったと思うのだけれど、その暗転中にかかる音楽かなんだか妙にのんきで明るくて、それも井上作品によくある感じでよかったです。あと、移り変わる時刻とかお天気の日差しとか、心理描写を担当する照明が実に素晴らしかったです。
 初めて行った劇場でしたが、こまつ座がよくかかる紀伊國屋ホールとか紀伊國屋サザンシアターとかと似たタイプの劇場なんだな、と思いました。客層は、いつも私が行くようなところからすると男性率が高く年齢層も高い。でももっと若い層にも気軽に見てもらえるといい作品なのにな、と思いました。当時のおそらく五十絡みの竹造と二十三歳の美津江、というのは今よりだいぶおちついている感じの年齢なのでしょうが、それでもそれくらいの若さのキャストに思い切ってしてみても、いいのかもしれませんね。その方が、若い層には我がことのように思えて響くかもしれません。伊勢佳世は、プログラムで見るとフレッシュなのに舞台ではけっこう年増に私には見えました。地味でもいいけど、もっと若く見えた方が意味が出たんじゃないかな、とはちょっと思ったのです。でもとてもチャーミングで素敵でした。そして「おとったん」山崎一は逆になんか若々しくてこれまたチャーミングで素敵でした。
 ほろほろ泣き、数年前に初めて訪れた広島の街を思い、改めて自分にできることはしよう、しなければと思った観劇でした。




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『おっさんずラブ』第8話を超えて

2018年06月12日 | 日記
 先週の土曜日深夜、ツイッターでエア第8話実況を追う形で無事に「『おっさんずラブ』のない土曜日」を乗り越えました。
 …なんて、実は私がリアタイ視聴したのは最終回の第7話だけだったので、ちょっと盛った表現ではありますが、まあこのところ本当に楽しかったのは事実なので、ついでにちょっといろいろ書いておきたいと思います。てかいつにも増して丸カッコで話題がズレまくる文章多めで、ホントすんません…

 東大が女性の顔の魅力をAIで研究するとかなんとかいった「ねえ、馬鹿なの?」としか言いようがないニュースが最近ありましたが、もちろん男性の顔にも美醜(とあえて表現します。つーかこの研究者たちの容貌は醜悪に違いありません、顔にはその人の知性や教養や人柄が表れるものですからね!)はあるワケで、それで言うと私は自身の容貌に特別な自信がないせいで、やたらな二枚目とかハンサム(古い表現だな)、ザッツ・美形みたいな男性のことは敬して遠ざけるみたいなところがあるというか、恋愛対象的に向こうもそうだろうからまずこっちからアウト・オブ・眼中ぶるというか、な卑屈なところがあります。要するに面食いではまったくないのです。
 リアルでも、いわゆるタレントさんとか芸能人の好みについても同じで、イケメン枠に対してはむしろ引きます。私はスルーするのでどうぞよそで、という、まあ過剰な自意識の裏返しなんだと思ってはいるのですけれどね。
 ちなみに美人、美女は大好きですし、それを男女差別と言われようが男女は非対称なんだから仕方ないじゃんとしか私は言いようがありません。というかあくまで個人の感覚です。だが東大の研究は個人の問題ではないのだから、当然問題があるのです。ホント、馬鹿なのかな?
 前置きが長くなりましたが、そんなわけで田中圭はもともと大好きな俳優さんです。失礼ながらイケメン枠でないところがいい、と私はかねてより思っていたのです。もちろん上手い、いい役者さんですしね。私は音楽に疎いので星野源はドラマ『逃げ恥』まで知りませんでしたが、この人も同じ感覚で好感を持ちましたし、そのちょっと前に世間的にはブレイクした(あえていやらしい言い方をしています。テレビがすべてじゃないんだよ役者なめんなよな今さらブレイクとか言うな)高橋一生も同じ枠だと捉えています。万人が認めるバリバリの整ったギリシア彫刻的美形、とかではなく、ちょっと外してたり残念だったり、それでかえって愛嬌やある種の色気があるようなタイプの顔、とでも言いましょうか…まあ要するに好みだってだけの話だろ、と言われてしまえばまったくそのとおりなのですが。
 というわけでさらに前置きが長くなっていますが、私にとって田中圭は好きな俳優さんで、でもだから恋愛もののテレビドラマとかで主役を張るとかヒロインの相手役を演じるタイプではなくて、いい人だけどフラれる役とかヒロインの夫役なんだけど浮気される役とか主役ヒーローの親友役とかが似合う、でもそこがいい、とてもとても素敵な役者さん、というイメージだったのでした。
 『おっさんずラブ』に関して、そんな彼の初主演ドラマで、以前単発ドラマもあってちょっと話題になってそこからの派生企画で、ヒロインは何故か吉田鋼太郎なのである…という知識は何故かどこからか得ていて、私は仕事柄、連ドラの第1話はひととおり見ておくようにしていることもあって、見る気ではいたのですがわりと直前まで録画の手配を忘れていて、確かほとんど当日に2016年版を見ていたお友達からオススメLINEをもらって慌てて録画予約した…ような記憶があります。

 土曜深夜の放送でもあり、録画して数日後に暇ができたときにテキトーに再生したんだと思います。当初は、
「なんだなんだなんなんだコレは」
 みたいな感想だったかと思います(笑)。
 ヒロイン設定(?)は聞いていたしタイトルがタイトルなんだからいわゆる男性同性愛がモチーフのドラマ…なんだろうとまでは漠然と考えていたのですが、えっ? ライバルもいるの? それが林遣都なの? LGBTドラマ? てかBLってことなのむしろ? てかモテすぎだろうはるたん? でも古のトレンディドラマとか恋愛もののドラマとか、少女漫画、ラブコメなら定番のシチュエーション、演出のオンパレードな気も…わざと? てかパロディ? えええぇ? みたいな。正直、見方がよくわからないというか、笑っていいんだろうかときめいていいんだろうかととまどったというか、でした。
 同性愛を笑いものにしているとか馬鹿にしている…という感じは受けなかったけれど、あまりにもナチュラルに進行しすぎている部分もあるようで、それはそれでざらりとした気になりもしたし、でもきゅんとするような萌えるような気もしたんだけどそれでいいんかいなと困惑する、というか。まさにはるたんの気持ち?
 ちなみに「はるたん」というのは部長が春田を呼ぶときの愛称(?)なんだから部長派なのでない限り主人公のことは「春田」と呼ぶべきである、という考え方もあるでしょうが(普段なら私は多分こういう筋の通し方をしそうです)、今回に限り可愛いから、かつこの呼称が春田のキャラクターにとても合っている気がするから、ここでは「はるたん」呼びでいきます。

 一般的な、というか多数派的な、スタンダードなまっとうな意見をいつも言うことで私が厚い信頼を寄せているお友達が
「部長の行動はただのパワハラに見える気もする」
 と言っていたのも当時とても印象に残っていて、そうだよな、微妙っつーかグレーつっかほぼアウト? とも思いました。
 でも「ハラスメントとは相手が嫌がればハラスメントなんだ」みたいな言い方が私には引っかかっていて、相手がどう思うかとかより本来は単にその人が相手の人権を尊重できるかという問題なのであって、でも愛情云々ってそういうものとはそもそもちょっと噛み合わない、なじみにくいものだから、だから部長のこの言動はハラスメントとかとはまたちょっと違うような…という困惑も感じました。
 でも愛があればなんでも許されるってもんでもないし、でも愛は地球を救うとか言ってのけちゃうのが恋愛ものの神髄なんだし、はてこのドラマはどこを目指しているんだろう…?と困惑しつつも毎週録画をセットしたまま、ダラダラ追っかけていったのでした。
 つまらないとなれば1話で見るのをやめて脱落するのが常の私としては、まあ、何かを感じたのでしょうね。あと、やっぱり田中圭が好きだった(笑)。これはこののちのことを考えるに、私にとっては大きなことだったのでした。
 ちなみにHDDレコーダーの容量を空けるために私は見たらすぐ録画を消すタイプなので、のちに1話から5話をGYAOで買って見直すハメになりました。そのあたりまではまだこの萌えについて半信半疑だったんや…(笑)

 以後もよくわからないながらも、歯を食いしばってニヤけに耐えたり吹いたり笑ったりうっかり泣いたり、再生を一時停止したりはたまた巻き戻したりしながら毎回楽しく見てしまい(そして録画を端から消していきました。のちに激しく悔やむハメになる…)、5話放送後には職場の後輩も見ていることがわかって話が盛り上がったりと、さらに楽しく過ごしてきました。で、6話のヒキからの最終回第7話までの辛抱たまらん一週間…となったワケですが、この後輩もでしたがツイッターなどでも牧春エンドを望む声が大きくて、でもホントにそこに落とすかな?と私はこれまたけっこう半信半疑だったので、このときはそんな彼我の違いもおもしろく感じたのでした。
 キャラクターとしては牧みたいなのって大好物なはずだと自分でも思うんですけれど、私は林遣都には今ひとつそこまで興味が持てなくて(でもこれがまたどこからどう見ても120パーセント美少年!みたいな役者がやるんじゃなくて本当によかったとは思っています。てか林遣都、上手いよね! 知ってたけど!!)、というか私はあくまで、あまりにも田中圭が好きで、結果的に私には珍しく主人公のはるたんを好きになり(主人公に対してはキャラクターとしては私はわりとどうでもいいというか、みんなが好きなんだろうから私は他のキャラクターに行くね、とスルーすることが多いので、これは私には本当に珍しいことなんですよ!)、だからこそ彼の幸せだけを祈り、はたして彼にとっての幸せって、ハッピーエンドってなんだろう?と私は考えちゃったんですよね。好きな人の幸せだけを考える…牧か!(と武川さんにつっこんでほしい…てか眞島秀和もめっちゃ上手い…てか役者がみんなよかったのがこのドラマの勝因だよホント…)
 私ははるたんの本当にザッツ・男子なところを愛していて、そこがいいキャラクターなんだと思っているし(腐女子だろうとユリ好きだろうと所詮は単なるヘテロかよ自分ケッ!とか思いましたよね…)、だからやっぱりここまで、なんのかんの言っても彼はただ流されているだけで、単に優しかったり優柔不断だったり決めなかったり断らなかったりしているだけなのであり、タイミングさえ合えばちずエンドなのが一番自然で単純だったんじゃないのかなとか、でもそれもちずちゃんに対して失礼だしな(ちずや蝶子さん、まいまいなど、女性キャラクターとその俳優もまた素晴らしかったことももちろんこのドラマの勝因ですよね!)とか思うと、誰とくっつくのがゴールと言えるほど彼は未だ真剣には誰とも恋をしていないようにも見えて、みんなから逃げ出して明日はどっちだ!?みたいになるオープンエンド(用語としては正確ではないか…)にするのかな?とか私は考えていたのでした。

 が、あのラストでしたし、そもそも2016年版をきちんとなぞっていてあちらもそういうオチだったそうですし、一昨日の土曜に私は改めて1話から見直すひとり『おさラブ』祭りをしていたんですけれど、ちゃんと見れば(細かいところとかをわりとけっこう忘れていたので)やはり全体にちゃんとそういうふうにオチるよう最初からできていましたね。というかもちろん納得していますし萌えましたし最終ターンをもう何十回再生したかわかりません!(笑)いいラストでした、春牧なのもよかった!!(大笑)

 というか映像として本当によくできていたなあ…あのCM明けの道路のシーンも、車が横切って画面が途切れるとカメラが向かいに切り替わっているのとか、もしかしたら映像のプロにはごく定番の演出や編集なのかもしけないけれど、本当にシビれました。実際にはあの道路を渡るのに、次の信号までが「ちょっと待ってて」の距離なんかじゃ全然ナイ、というのも実にイイよね!(笑)
 というかやっぱりその前、「誓いのキスを」と言われて固まるはるたん、というのがもう、すべての伏線を回収する勢いで、見ていてテレビの前でマジで奮えましたよね私。
 部長はヒロインでオトメだから同棲しててもプラトニックで結婚式までは清いカラダで、ってのもあったんだろうけれど、そこはやっぱり無理強いしない大人であるとかふたりの完全な合意の上でないとしないできないとかはるたんの「そこまでウェルカムじゃない気持ち」を感じ取ってはいたんだろうでも好きで外堀埋めちゃいたかったんだろう最後の最後まで夢見たかったんだろう、とかいろいろ思うと本当にせつなくて悲しくて愛しいです。
 そしてそもそもこれら部長の迫りをパワハラだと言うなら牧の無理チューだってほとんどレイプも同然なんだけれど、そういう意見はほぼ見なかったのはやはりそこには残念ながらある種のバイアスがあるということで(ぶっちゃけおじさんはNGで若いイケメンならいいのか問題、ってことです。てかタイトルが年齢差別に対して挑戦的なものになっているのも、このドラマの特異でおもしろい点ですよね。対照として逆バージョンが話題になったときに『おばさんずラブ』ではなく『おねえさんずラブ』とされた問題もある…これについてはまた別の機会に)、それは作中でもある程度反映されていて、はるたんはどちらに対しても同じように困惑していて、かといって完全に嫌悪していたわけでもなかったのだけれど、ではどちらをより受け入れてしまっていたかと言えばやはり牧だったワケですね。ふたりに対してはるたんは一度は正式にきちんとお断りしていて、その上で牧に対しては再度正式におつきあいを了承した、という流れもありますしね。おでこチューを別にしたら、二度目のキスに関しては「いいですよ、別に」と了承(笑)してもいるワケですしね。
 これら既成事実の前に、やはり部長は引くしかなかった、敗れるしかなかったのでした。
 牧なら受け入れられる、牧にならされてもいい、牧とならできる気がする、でも部長とはできない…その認識が、主人公をライバルの元へと走らせたのでした。ヒロイン設定のキャラがライバルに負けるという、かなり珍しいパターンです。

 からの、ラストシーンですよ。
 ずっとずっとずっと、するのはいつでも牧の方から、だけ、だったのに。なのに、やっと、最後に。
 そして、その瞬間は見せない。
 憎い!
 上手すぎる!!
「んなわけねーだろっつーの」
 こっちの台詞だよ!!!(笑)

 しかし私がここに最大に滾ったのは、ふたりがやっと同等になったから、ということもあるかもしれないけれど、やはり春牧になったこと、もっと言えばはるたんが攻め、男に、雄になったこと、が個人的には嬉しかったんだろうなあ、と思うと、それはそれでなかなかいろいろ考えさせられたのでした。

 てかBLの隆盛って、男女の恋愛とか性愛における力関係の不平等さとか非対称性に対する鬱屈からの逃避って部分がかなりあるんじゃないかと私は考えていて(実はバブル期に女性が元気になりかけたときにはむしろ、もはや男女は対等になってしまってドラマを盛り上げる「障害」は消え、たとえば身分違いみたいな歴史的な障害ももう消えてなくなってしまったので、あとはもう同性同士という障害に物語は頼るしかない、だからやおい…みたいな空気も確かにあったと思うんですけれど…むしろしぼんだよねその後の社会が。全然対等じゃないよね男女、とますます露呈する現代ってなんなんだホント後退してるじゃんか…)、だからこそせっかく同性で同等なんだからリバじゃないと意味ないじゃん、とか私は思うのですが、どうも界隈ではそうではないようですよね…
 あ、あくまでBLの話です。実際の男性同性愛のことは当事者ではないのでわかりません。本物のゲイはこんなじゃないよと言われたら、どんなドラマも漫画も本物の男女はこんなじゃないし恋愛もセックスもこんなじゃないよね、としか言えません。現実とフィクションは違うし、でもフィクションにしか描けないものがあるんです。そこにしか現れえないドリームやファンタジーなるものが存在するのです。そこを踏まえての話です。

 で、一般的に、

 男/年上/支配/S/強い/能動的/攻める/挿入する/愛する/導く
 女/年下/服従/M/弱い/受動的/守る/挿入される/愛される/導かれる

 みたいな対比の構造が歴史的に社会的に、なんか知らないけど物語でも定番として、あるわけじゃないですか残念ながら。それが苦しくて、そこから逃げたくて、だからBLなんじゃないですか(ごく最近のことは正直言ってわかりませんが、少なくともやおい黎明期のころにはこういう傾向が確かにあったと体感として私は思います)。
 男同士なら、対等で同等で平等だから。
 そしてだからこそ、年下攻めもまた支持されるんだと思うんですよね。年長の方が攻め手、という定番もまたこれにより覆されるからです。私たちの反逆精神を見事に反映しているわけですよ。
 だから牧は、まあ公式のキャラクター設定が「ドS」だったこともありますが、33歳のはるたんに対して25歳と年少でもあり、だからこその年下攻め支持、牧春派が多数派、ってことだったと思うんですよね。はるたんが基本的に流されキャラ押し切られキャラなので、結果的にアレコレ(笑)受け入れる側に回りそうじゃない?と見える、というのもある。
 でも私は、さんざん語ってきましたが、腐目線で見るとか牧に萌えて見るとかよりは本当に単純にはるたんが好きでこのドラマを見ていたので、まあ普通だったらヒロインに感情移入してヒロインになりきって見て主人公が彼女と結ばれることで達成感を得るとかいう流れだったんだろうけれど何しろこのドラマのヒロインは部長なので(笑)、とにかくはるたんが幸せであればいいと思っていたし、だから相手が誰であれ、という言い方はアレなんだけれど、とにかくラストに男っぽいカッコいいはるたんが見られたことが満足だったわけです。牧を押しのけてからの、あの視線を一瞬外しつつもスイッチ切り替える感じね! その前の、牧の巨根(とあえて明言しますが)に動揺する表情との落差がまたたまりませんよね!!はー、イイ!!!(笑)

 もちろんはるたんから牧にキスしたからと言って即春牧だってことにはならないんでしょうが、そんな厳密なこと言ってたら、たとえばこの一か月ではこのふたりはまだどうもなっていないやろとしか思えないし、挿入に至るなんて精神的にも技術的(?)にもハードル高くてそんな簡単にいくワケないやろ、としか言えません。
 イヤ知らんけど。私は男性ではないのでね。
 でも少なくとも、挿入イコールセックスでないこと、セックスイコール挿入でないことは知っています。ペニスの握り合いっこなら自慰の延長で簡単にできそうな気もするので(くりかえしますが私は男性ではないので本当のところはわかりません)、そういう「セックス」ならできるだろうししているかもしれない。でもその先は多分、いかにはるたんが流され上手で牧の指導が辛抱強くて懇切丁寧だったとしてもけっこうな困難が伴うと思われます。はるたん側に乗り越えなければならないハードルが高くそびえているだろうことは想像に難くないからです。

 先ほどの男女にまつわる定説(?)を、今の社会で普通に育てば普通に思い込んで人は育ち上がります。まして男の子は、男たるもの上に立つ者で支配する者で挿入する者、さにあらざれば男にあらず人にあらず、みたいに刷り込まれてしまうんだと思います。
 その抑圧、呪縛、思い込みから逃れるのは大変です。でもそれを乗り越えないことには、はるたんは牧と結ばれることはないのです。そこにはものすごく膨大な時間がかかるんじゃないだろうかとも思われますし、発想のコペルニクス的転回が必要なんじゃないかと思うんですよ。女性はそもそももうちょっと賢いし(笑)、「普通」を押しつけられたときに「ホントかよ」って抗う瞬間が大人になる前に絶対に一度はあるものだと思うので、とりあえず従う振りをするにしても全体にもうちょっと意識的だと思うんです。
 でも男性は多分ダメだよね、押しつけられたまま「そうか、そういうものか」ってなんとなくなじんでしまうんだと思うんです。だからこそ、こういう、「今まで教えられてきたこと、そういうものしかないんだと思い込まされてきたこと」とは全然違う方向からの愛、に激しくとまどうんだと思うんです。
 大変ですよねでもざまーみろ、とも思いますが、まあそれはまた別の問題です。そんな愚かな男など死滅するがよい、とは思ってはいますがそれはそれとして、今は、ここは、はるたんの幸せを願いたい。
 となると、そんなふうにうっかり「自然に」育ち上がって、「俺はロリで巨乳が好きなんだよ!」と言ってはばからない「普通の」男だったはるたんが、牧に愛されることを受け入れるにはそりゃもう振り捨てなければいけない今までの押しつけや思い込みが山積みで、大変だろうと思うのですよ。そしてその上で、今度は自分が牧を愛してみたくなったとして、それができるようになるのにも本当はさらにもっとハードルがあるんじゃないの?とは思いますが(イヤ所詮男にとっては穴ならなんでも同じってのもあるのかもしれませんけどね…ホラこんにゃくでもいいとか言うじゃん…下品ですんません)、でも、そういうことを全部すっ飛ばして、というかそういう細かい点も全部全部内包してのあのラストシーン、牧がはるたんにキスしてはるたんが牧にキスし返す…だったんだと思うと、もうもうもう、本当に本当に心が愛で満たされて、ぽかぽかあったまりますよね! 人はわかり合える、譲り合える、思い込みを正せる、新たな道を選び直せる、幸せになれる…って、信じられるからです。そういうラストシーンになっているからです。
 そうやって相互に、って言い方もヘンかもしれませんけれど、要するに同性ならリバってのが完全な性愛の形のひとつだと私には思えるので、単なる牧春エンドでなくってよかったなと思った、というのが私のひとつの結論です。

 はるたんはゲイになったってことなの?とかもともとバイだったってことなの?とか言う人もいましたが、だからみんな、こんなにこのドラマに萌えたのだったら、これを機にちょっとセクシュアリティについて、またアイデンティティについて、人権なるものとその尊重について、ちょっとだけでいいから考えてみられるといいと思うんですよね。急に話がでかくなるようですが。
 この異性愛マンセーの世の中で、自分の性別と、性愛の指向する先が異性であることを一度も疑わずに成人することはかなりたやすいことだと思います。疑ってみることを考えたことすらない人がほとんどなのではないかしらん。
 でも本当はそれじゃダメなんだと思うんですよね。ダメというのとはちょっと違うかもしれないけれど、それこそそうやって世間がとか、常識みたく言われていることを何も考えずにただ受け入れてしまい流されてしまうんじゃなくて、一度静かに立ち止まってみて自分自身と向き合って、自分に真摯に問うてみなければいけない問題なんだと思うのです。
 だってセクシュアリティって本当にアイデンティティの根幹に関わる問題です。自分が何者で、何を愛するのか。それについて向き合ってみること、考えてみること、そういう機会や時間を持つことが大事だし、そうやって考えてみてその上で自分で選択すること、自覚することが大事なんだと思います。
 厳密にはもちろん、自分で決められるものでもないのだろうし、けっこうあいまいでバッキリ分けられるものでもないのだろうけれど、とりあえず向き合ってみることが大事なはずなのです。私たちは人間なのだから、野獣ではないのだから。
「あなたは男の子なんだから、腕白でいい、乱暴なくらいの方が元気があっていい、泣いちゃダメ、乗り物や戦隊ものが好きじゃなきゃダメ、ロリで巨乳が好きじゃなきゃダメ、威張っていいしセクハラしていい痴漢していいし呑んでつぶれていい誰かが介抱してくれるから、避妊しなくていい結婚しても家事しなくていい子供が生まれても子育て全部妻に押しつけていい、浮気は甲斐性、家計は全部背負え戦争行け」
「あなたは女の子なんだから、赤やピンクを好きじゃなきゃダメおしとやかにしてなきゃダメ、勉強ができなくても大丈夫黙ってニコニコしていれば世渡りできる化粧しろ痩せていろ美人でいろ露出しろ、誰かに勝手に触られても騒ぐな刃向かうな、早く結婚しろ改姓しろ夫を支えろ子供は三人以上産んで泣かせず育てろ保育園に頼るな社会的にも活躍しろ義理の親も介護しろ婚家の墓に入れ」
 …主に性別によるこうした押しつけをまずは疑い、考えてみましょうよ。古くからのしきたりなんだか知りませんが、単なる思い込みにすぎず不当で理不尽なことには抗う勇気を持ちましょうよ。自分が何者で自分が何を愛し大事に思うのか、自分で考えてみましょうよ。その上で男であれ女であれ、誰が誰を好きになってもいいしその愛情は同等だし、国に対して勤労や納税の義務は負うにせよ人は国のために生きるのでも産むのでも戦うのでも死ぬのでもない、人が幸せに生きるために国はあるのだ、ということに立ち返ってみましょうよ、ということです。

 セクシュアリティとかフェミニズムといった問題に対して、私自身は何故か漠然と昔から興味を持っていましたが、今も大事にしている1999年発行(私が所持しているのは2001年第4刷のものですが)の同人誌「LOVE REVOLUTION!」にあるとき出会って、ここからものすごく系統立てて学びました。
 この世には自覚なき自称異性愛者、自分のことをあたりまえに世間並みで多数派で正常でスタンダードだと思い込んでいるだけの傲慢な人間が多すぎる。まずは自覚してみることが大事、自分へのカミングアウトが大事、そしてそれがシスジェンダーヘテロセクシャルだったとしても、それは確かに最も一般的で多数派かもしれないけれどだからといってそれが正常で他は異常だということにはならないこと、に思い至ってほしい。そのプロセスがあれば、他人の性自認や性指向を尊重することも必ず覚えるはずだ、変な偏見や差別はしなくなるはずだ…といったようなことがその本には書かれていました。目が覚める思いでした。
 そして私は、性格的には女っぽくないし恋愛体質じゃないしタカラジェンヌ大好きだし、でもやっぱり自分のことを女性だと認識していて肉体への違和感もないし、男になりたいと思ったこともなくて、好きな男以外のほとんどの男は好きじゃないどころかむしろ嫌いだけれど性愛対象はあくまで男性で、要するに単なるシスジェンダーのヘテロセクシャルなんだな、と自分のことを捉えるに至ったのでした。その上で、ドリームとして、ファンタジーとして、でもまだ運命的な同性の恋人に出会っていないだけなんじゃないの…?みたいなのは、ある。でもそれはまた別の問題なので、ナイショです(笑)。

 男性は女性以上にこういったことに自覚的でないと思うので、単に男として育てられるしだから当然女が好きなんだ、と思い込んでいる人が多いと思うのだけれど、でも性指向ってもっと広いしあいまいだし、ことに男性なんてホモソーシャル大好きだし根本的にミソジニーがあったりするんだし、無自覚なだけで潜在的なバイセクシャルってのはもっとずっと多いはずなんですよね。
 でもそういうことを認めるのは男の沽券に関わるとか思ってるわけですよ馬鹿だから。男だ女じゃねーんだよ、野獣じゃなくて人間のつもりなんだったらまず考えてみろ馬鹿、そして認めろ、それが理性だろう馬鹿、としか言えません。
 ちょっと脱線しかけていますが、要するに何が言いたいかというと、だから現状この押しつけや思い込みのせいでごくごく狭い世界で生きている人は多く、だからそれを超えるのにはまあまあ高い障壁ができちゃっているんだけれど、本当はそんなことはないはずで、人はもっと自由に、豊かに深く優しく広く生きられるはずで、でもここまで女性としかつきあったことがなかったはるたんがおそらく男性としかつきあってこなかった牧とアレコレ関係を進めていくことは一筋縄ではいかなくて大変だろうけれどだからおそらくできるしなんとかなるし大丈夫だからがんばれよ、ってことです(笑)。長いな!

 おそらくこの先夏コミとかもあるし二次創作の壮大な徒花が咲き乱れセクシャルなものもたくさん世に出るんでしょうが、この物語をそうやってBLとして消費するのもいいけれど、ちょっとだけでも現実に還元して、まずみんなが自分へのカミングアウトをしてみるとか、自分や他人の性指向について考えてみるとか、そのどれもが同等で対等で数の差はあれどどれが正常で普通でどれが異常で変態だとかはないのだということに気づいてほしいし、そもそも生まれついてのものでどうにもならない部分もあるのだしそこを差別したりするのは間違っているしそのどうにもならなさを丸ごと受け入れ、認め合い、改めてお互いに尊重し合うようになってほしいのです。
 キャラクターを愛すること、ドラマを愛すること、その世界を愛し彼らの幸せを祈ることは畢竟、我々が現実に生きるこの現実の世界をより良くすることにつながります。だって夢見ているだけではダメなんですよ、夢に見合う我々でなくては。
 ドリーム上等、ファンタジー上等。それは理想であり逃避先であるのかもしれません。でも人は永遠に中二ではいられないのだから、現実の世界を理想に近づける努力をちょっとでもするべきなんです。みんなもういい大人なんだから。
 そしてそれは、別に急に社会改革運動を推し進めましょう!とかいうことではなくて、まず自分自身に真摯になること、自分を見つめ自分と語らい、世の押しつけに流されることなく自分自身を大事にしてあげること、から始められるんだとと思うんです。自分を大事にできる人は他人のことも大事にできる。他人をむやみと差別しない、きちんと尊重する、偏見のない公正で公平な視点が持てるようになる。多様性を認められる。補え合える、助け合える。そうしたら世界はもう少し、優しく、寛容になるはずなんです。その延長でこそ牧春も春牧も存在できるのです。
 愛と希望と夢を、優しさと強さと寛大さをもう少しだけ、持てるようになりましょうよ。それがこのドラマに萌えたことへの、最大の恩返しだと思います。

 最終回第7話放送の一週間後、もし「第8話」があるとすればそれが放送される時間に、公式から、はるたんが脱いで落とした白い靴の画像が上げられました。シンデレラかよ!というつっこみは正しい。
 彼らは、このドラマは、靴の片方を残して、魔法も解けて消え去ったのです。もちろん我々残された者は、王子たるべく行動を起こさなければなりません。
 それは、また来週の土曜もエア第9話実況をすること、ではないと私は思います。
 普通の連ドラは1クールが12か13話くらい? だからあと4、5回、毎週やっていってもいいけれど、どんどん人が減っていくのは寂しいし、第8話こそみんながある程度同じような、舞台は上海で大物俳優のゲストが新たなライバルとして現れてはるたんはあいかわらずで牧がカッコよく出張ってきて…みたいなストーリーの幻を一緒に見られていたと思うけれど、その先はどんどん拡散して散漫になり、やがて雲散霧消していっちゃうものでしょう? それって寂しい、悲しいことじゃないですか。だからそういうことはもう、終わりにしなければなりません。それは、エア実況を率先してやってくれた脚本家さんもわかっていると思いますよ。プロ作家ですからね。
 同様に、二期も映画化もなくていいと私は思う。何匹目かのドジョウなんて味が落ちるに決まっていますし、雨後の筍のように現れかねない同種の浅薄なBL企画もノーサンキューです。
 私たちはそんなものに頼らなくても大丈夫なはずです。シンデレラの靴を受け取ったのだから。だからこの世界の王子さまになるために、いつかシンデレラを迎えに行くために、現実を戦い始めるべきなのです。
 女子だって、誰だって、王子さまになれます。プリキュアもウテナもそう言っていました。世界は革命できるのです、それが私たちの「愛」です。愛が地球を救うって、そういうことだと私は思います。
 天に星、地には花。心に愛を、世界に革命を。
 フォーエバーおさラブ! 

 ブルーレイ、予約しました。韓ドラにハマっていた時期があるのでそのボックスはたくさん持っていますが、日本の連ドラでは私は他に『マジすか学園』しか持っていません。自分のこの揺るぎなさに奮えます。2016年版も見てみるのが楽しみです。またアレコレ長々書き出すことがありましたら、おつきあいいただけたら嬉しいです。


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スタジオライフ『アンナ・カレーニナ』

2018年06月08日 | 観劇記/タイトルあ行
 あうるすぽっと、2018年6月5日18時半。

 1870年代の帝政ロシア。政府高官のカレーニン(船戸慎士)の妻であるアンナ(この日は曽世海司)は、兄のスティーヴァ(楢原秀佳)の浮気に怒り狂っている義姉ダリヤ(石飛幸治)をなだめるよう兄に頼まれ、モスクワを訪れる。そこでアンナは若い貴族の将校ヴロンスキー(笠原浩夫)と出会い、恋に落ちる…
 原作/レフ・トルストイ、脚本/ジョー・クリフォード、翻訳/阿部のぞみ、演出/倉田淳。全2幕。

 この劇団は漫画原作ものを何度か観ましたが、映像で見た『lilies』といい、普通の戯曲のものの方がいいのではないかしらん…と思いました。イヤ、単に私がこの劇団が原作に選ぶ漫画のド世代すぎて、かえって点が辛くなっているせいもあるのかもしれませんが。でも私は『アンカレ』も大好きで、でも今回の舞台はとてもおもしろく観ました。原作小説からのおもしろい改変も含め、ここをこう切り取ったか…!といった見方が楽しかったし、シンプルなセット(美術/乗峯雅寛)も良かったし、ベタな音楽の使い方もとても良かったです。
 でも逆に言うと、これをオールメールでやる意味は私はあまり感じなかったかな…私はこの作品のことを、男女の俳優で演じるにはちょっとしょっぱすぎる内容だ、とは特に考えていないのでした。
 ただ、ドリーというキャラクターは私は不美人なんだと解釈しているので、大柄な男優が演じることでとてもそれっぽかったのはよかったかもしれません。ただ逆にアンナには美人でいてほしかったので、今回は見た目が残念だったかな…キティ(この日は久保優二)がめっちゃ美人でキュートで背が高くてスタイルが良かったのはたぎりました、とてもよかったです!
 てかみんな芝居はめっちゃ上手いよね…! だからこそすんなり楽しめました。
 作品としては、もともと原作にも都会と田舎の対比の意図はあったと思うけれど、そこをより強く押し出していて、かつアンナとヴロンスキーのカップルに対してキティとリョーヴィン(この日は山本芳樹)のカップル、という構造を強く押し出していたのが印象的でした。破滅に終わったアンナたちに対してキティたちは幸せで…という単純な見せ方にはなっていなくて、でもキティたちには子供が恵まれて、「生きねば…!」みたいになっていたのが印象的でした。逆にアンナには、本当ならヴロンスキーとの間に女の子が生まれるんだけれど、この舞台ではそれはなくて養女を迎えていることになっていて、かつ家族としての関係はあまり上手く構築できていないことになっていて、だからこそいろいろ崩壊していってしまう、という形になっているのが効果的でした。
 でもだからこそカレーニン・ファンの私としては、ラストに彼へのフォローはないの!?と泣きそうになったんですけれど、舞台には出てこなかったけれど彼の元にはセリョージャがいて、彼もまた息子のために「生きねば…!」と思っていたはずなので、ベズボワ伯爵夫人(宇佐見輝。ヴロンスキーの母親役も淑女役もめっちゃ良くて超印象に残りました!)に妬きつつも、よかったよかったと思うことにしますね…

 セルプコフスコイ(岩崎大)の人がめっちゃ声がいいな!?と思っていたら、これがダブルキャストでもうひとりのアンナだったんですね。こちらのパターンも観てみたかったです。
 そして宝塚歌劇版も再演してほしいなーと思います。いい方の景子先生作品だと思ってるんですよねー。イヤ『ラスパ』も楽しみだけどさ…
 いい戯曲でした。他の作品も観てみたいです。


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