駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇星組『大海賊/Amourそれは…』

2015年06月14日 | 観劇記/タイトルた行
 神奈川県民ホール、2015年6月13日マチネ。

 17世紀後半、カリブ海のスペイン領サンタ・カタリーナ島がイギリス海賊の首領エドガー(十輝いりす)によって襲撃された。両親を海賊たちに殺された総督の息子エミリオ(北翔海莉)は追っ手を逃れ、ひとり海へ飛び込む…
 作・演出/中村暁。2001年月組の紫吹淳お披露目公演で初演、全国ツアー上演したものの再演。みっちゃんふうちゃん新生星組プレお披露目公演。

 初演の感想はこちら
 演目発表の瞬間から「何故あの駄作をわざわざ再演?」と話題になったものでしたが…みっちゃんは当時研4、本公演ではエドガーの手下を演じ新公でエドガー、全ツで聞き耳をやったそうです。
 全ツの演目はある程度の選択肢の中からトップスターが選べると聞きますが、今回も確かにみっちゃんセレクトだったそうで、群集芝居が多く組子みんなとお芝居ができそうだから、ということで選んだようです。
 確かに下級生までけっこう出番は多く、主人公も常にグループ芝居の輪の中にいるようなところがあるので、新しい組で新しい関係を作っていくのにはよかったのかな、と思いました。
 リカクラよりみちふうの方が断然歌が上手い、というのもありましたし、そういう点では新鮮でした。
 ただ、新曲が増えたり歌の位置が変わっていたりはするようですが、基本的な構成やストーリーラインはまったく変わっていないので、まあ駄作は駄作ですね。凡作以下のレベル。
 幕が開いて30分、主人公が少年のままで話がまったく展開しないし、次の30分がたたないと主人公とヒロインが出会わない。そしてチャンバラやってみんな死んで主人公は再び海へ…はっきり言って学芸会レベルのお話だと思います。子供が考えたお話みたい。
 海賊に両親を殺された少年が生き延びて海賊になる、それはいい。だったら故郷の町が襲撃された場面の後はもう大人になっていて、なんならもう船長として海賊たちを率いていてもいいんですよ。プロローグで主人公が海賊であることはもう見せているんだから、間のことはあとから台詞で言ったって十分です。海賊になった彼がそれでどうするのか、仇とは出会えるのか、それがお話の眼目なはずなのですから。
 なのに何故くどくどと焼き討ちにされる街や漂着する主人公、その特訓過程なんかを描くのか。それで何を表現しているつもりなのかサッパリわかりません。キッド(礼真琴)やアン(音波みのり)、聞き耳(壱城あずさ)たちのキャラクターを見せるエピソードならエミリオが大人になってからでもいくらでも作れそうなものでしょう。時間の無駄、構成のミスですよ…
 わかりやすくて楽しい、と言えば言えるかもしれません。各所で初めて宝塚歌劇をご観劇になる方々に馬鹿にされないことを祈るばかりです…
 その点に目をつぶれば、懐かしかったり新生星組の輝きを堪能できたりして楽しかったです。
 みっちゃんは何をやっても達者だし、持ち味的に大人っぽいのでカマトトに見えないかなと心配していたふうちゃんが驚くほど可愛くてキラキラしていて、愛され力がある! トップ娘役としてとても大事!! と脳内代絶賛に忙しかったです。
 まさこが悪役を楽しそうにやっていて、まこっちゃんやしーらんやみっきぃがさすがに上手くてはるこが可愛くて…
 そして初演当時そのクールな美貌が素晴らしかった大空さんの演じたフレデリック(十碧れいや)ポコちゃん! サラサラ金髪ロングだった大空さんと変えて巻いてきた金髪がまた素敵。というか押し出しよくなったよねポコちゃん、プロローグの海賊役からもう目が釘付けでした。
 まおくんが初演のタニとまったく同じにダイコンだったのもご愛嬌。この人はいつ上手くなるの…?(ToT)
 夏樹れいのシブさがまた素晴らしかったです。

 ロマンチック・レビューは2009年宙組のタニウメのサヨナラ公演を再演。みっちゃんは当時宙組三番手で出演していましたね。私も大空さんがここに落下傘するというので観に行った記憶アリ。
 これまたタニウメよりみちふうの方が断然歌が上手いので、主題歌の聞こえ方がもう違う(笑)。そしてこのクラシカルでロマンチックで古き良き宝塚、みたいな感じは全ツにはふさわしくていいんじゃないかなー、とすごく楽しんでしまいました。星組子および組ファンにはなじみのないノリだったかもしれませんが、何ごとも勉強ですよ。
 まこっちゃんが番手的にまさこと常にシンメなのが、さすがに小さく見えて気の毒でした。私はまこっちゃんを小さいと思ったことはないので。でもしーらんみっきーで挟んでさらにその外にポコまおを置いたりすると、中低で並べたんですねって感じが出ちゃってどうにも…
 でもダンスは本当に上手いし見せ方も心得てるし歌も武器だし、いいスターですよね。初演でみっちゃんがソロを取った「夢アモール」はまこっちゃん、当然ですね。
 ふうちゃんはサンファンの娘Sみたいのはバリッと上手くやるだろうと思っていたのですが、イゾルデも可愛くキラキラやってみせたことに本当に感心しました。みちふう、ホントいいコンビになりそうで嬉しいです。少しも早くオリジナル当て書き二本立てが欲しいです。
 でもエトワールをトップ娘役にやらせるのは反対です。残念。
 ところでご当地出身者ってトップの紹介でしたっけ? 組長じゃなくて? まあいいんだけど。ノリノリでやっちゃうみっちゃんが愛しかったです。新生星組に幸多かれ!


 


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『TABU』

2015年06月14日 | 観劇記/タイトルた行
 新国立劇場、2015年6月7日ソワレ、12日ソワレ。

 ドイツ名家の御曹司で人並み外れた色彩に関する共感覚を持ち、写真家として成功を収めたゼバスチャン・フォン・エッシュブルク(真田佑馬)。ある日、彼が若い女性を誘拐したという通報により緊急逮捕された。是バスティアンは自らの弁護をベテラン刑事弁護士ビーグラー(橋爪功)に依頼。ビーグラーは彼の元恋人だというソフィア(大空祐飛)とともに事件の真相解明に動き出すが…
 原作/フェルディナント・フォン・シーラッハ、原作翻訳/酒寄進一、上演台本/木内宏昌、演出/深作健太。全1幕。

 原作小説を読んだときは意味がわからずおもしろくもなかったのですが(^^;)、マイ初日でもそんな感じでした。ああ、この場面をこう舞台化したのねとか、ああそういやこんな場面あったなとか、ほほうなるほどとか考えてまあまあ楽しく観たんだけれど、「で?」みたいな感じでやっぱりサッパリわからなくて。
 二度目に観たときは、ビーグラーの療養場面で毛糸球が客席に落ちるハプニングがあり、客席が笑ってちょっと空気が緩んだりして、その後もユーモラスなことには笑う、みたいな空気が生まれたのですね(ちなみに毛糸トラブルに関して言えば、私は無視するというか笑うのを抑えるのが観客のマナーなのではないかと思うのだけれど…舞台は確かにすぐそこ、手の届くことろにあるけれど、そこで演じられているのは別空間の物語であって地続きではないということになっている、という鑑賞のお約束を破ることになる気がする。こういうとき笑うのは歌舞伎で黒子に注視しちゃうのと同じで、「黒子が見える!」と言うのは「王様は裸だ!」と言うのとは意味が違うと思うのです)。
 そんな中で観ると、この話は猟奇殺人ミステリーとかではなく、芸術家の悪ふざけってことなのかな、とふと思えたのです。
 というか、事件の真相ってそういうことなの?とやっと思い至ったのですが。死体はなかった、被害者はいなかった。被害者の写真だと思われていたものは合成で、通報は妹がした嘘? 手錠についていた皮膚や残っていた血痕も嘘の仕掛け? それらすべてがインス他レーションだかなんだか知らないけどゼバスチャンの芸術だか作品だかで、裁判官たちは振り回されただけ?
 殺人事件はなかった、だからゼバスチャンは無罪である。だがそれは無実とは違う。そもそも罪とは何か? 赤、青、緑の光の三原色が混じると白に見えるがそれは無色透明と同じことではない。
 ならゼバスチャンにも罪はありますよね? こんなふうに無意味に世間を騒がせた罪が。彼にとってはそれも含めて作品だったのかもしれないけれど。
 ビーグラーはともかくモニカ(宮本裕子)やシュッツ刑事(池下重大)にはたまったもんじゃないでしょう。私はゼバスチャンを憎みますね。
 人はそもそも生まれたときから現在を背負っている、とキリスト教圏では考えられているそうだけれど、だからってよく生きようとしなくていいということにはならない。生や死や法を弄ぶようなことをして生きていくなんて、社会の一員として許されないんじゃないの? それともそんなつもりではなかったということ? それとも芸術はそうしたものの範疇外だと言いたいの?
 私はゼバスチャンが嫌いだしこの作品のこともこの作家のことも好きになれそうにありません。この解釈が全然的外れなんだとしても。私にはそう思えたしそう考えたということです。

 というワケで大空さん演じるソフィアは原作ではもっとキャリアウーマンふうだったのですが、舞台が「ビーグラーの事件簿」として編集されているので彼女のキャラクターもぐっと変わって、ゼバスチャンを心配する元カノ、ごくごく普通の女性、といった感じでした。
 大空さんは企画段階のオファーでおもしろそうだと思って引き受け、その後原作を読んでまたおもしろく感じたそうですが、それからすると舞台の脚本の中でのソフィアについてはどう思ったのかな。次のフェスタで語ってくれるでしょうか。
 私は、「普通の女のこの役の大空さん、可愛いじゃん」ときゅんきゅんしましたけどね。薄化粧、フェミニンなんだかダサいんだかよくわからないヘアスタイル、お衣装。ヒロインっぽい、娘役ちゃんっぽいオーラ。女っぽい仕草が下手だと言う人もいたけれど、私はそうは感じなかったなー。こんな女いそうじゃない?って感じで。
 確かに大空さんの起用が必要な役ではなかったかもしれないけれど、そんなのこの先もいくらでもあるだろうし、大空さんの仕事のひとつとしてはおもしろかったんじゃないのかなー、と思いました。
 でも、次の公演はミュージカルでかつコメディだろうから複数回観ても楽しいだろうけれど、今後は普通の外部公演と同じでそうそうリピートしなくなるかもな、と改めて思いました。その必要を感じない。外の舞台ならなおさら、一定のレベルが最初から最後まで求められるだろうし、だから初日から行って変化を見届けて…なんて必要ない。
 少なくとも初日が被って『王家』の方に行って私は全然それでよかったね。次も『舞音』と被っていますがそちらに行きます。現役とは見方が違う。愛が冷めた、とかではなくてね。
 そんなことも考えさせられた観劇でした。


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M・C・ビートン『メイフェアの不運な花嫁』(竹書房ラズベリーブックス)

2015年06月09日 | 乱読記/書名ま行
 「不運な屋敷」…ロンドンの高級住宅街メイフェアの、ある屋敷はそう呼ばれていた。何故かその屋敷を借りると、借り手はみな不幸に見舞われるのだ。そこで働く使用人たちも、喜劇役者のような執事、行かれる料理人、気取り屋の従僕とくせ者揃い。そんな悪評を知らずに屋敷を借りたフィオナという美しい娘と後見人が、花婿探しのためにやってくる。彼女は貴族と結婚するために社交界にデビューする気らしいのだが、ぼんやりしていて何を考えているかわからない娘で…?

 お屋敷と使用人たちがシリーズ・キャラクターで、借り手たちは入れ替わっていくという連作中編シリーズの、アタマ2作を収録した文庫でした。
 『ダウントン・アビー』ブームに乗って売られている感はありますが、執筆自体はそれより以前のものだとのこと。
 それはともかく、なかなか楽しく読みました。社交シーズンの在り方とか、どれだけ西欧文学を読んでいても今ひとつわかっていないことも多いので、いろいろなことが知れて楽しかったです。
 フィオナは「能ある鷹は爪を隠す」といったキャラでなかなかおもしろかったですが、2作目のヒロインはチャーミングさにやや欠けたかな。
 シリーズが進むごとに使用人たちも成長したり変化したりするのかな? 追っかけるほどではないけれど、ちょっとは覚えておこうと思います。怒りんぼだけどやたら腕のいい料理人が好きでした(^^)。

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『王家に捧ぐ歌』初日雑感

2015年06月07日 | 澄輝日記
 大劇場公演初日と二日目マチネを観てきました。
 プレお披露目の『TOP HAT』梅芸初日にも行きましたが、大劇場トップお披露目公演初日に立ち会ったのは『カサブランカ』以来。あのときは当事者(?)で自分の感情の処理で手一杯でしたが、今回は温かな劇場の空気なんかも味わえて、楽しかったです。やはりお披露目っていいものですね。
 まぁ様、改めて宙組七代目トップスター、おめでとうございます! 「エジプトは領地を広げてる」の歌詞を待たずとも、あなたには大きな翼があります。高く高く羽ばたいていってください!!

 さて、肝心の演目ですが、再演にあたり私が望んでいたことはこちら
 私はこれをリライトしてキムシンに郵送したのですが…別にそのとおりになるとか自分の意見が取り入れられるとか思っていた訳ではないですけれど…やっぱりちょっと、しょぼんとしたかな。
 フィナーレは、変わりました。でも若干トンチキな方面に、ね(^^;)。
 変わり燕尾の場面は素敵だったのに、何故本編でエチオピア王女だったみりおんに「♪エジプトはすごい」と歌わせるの? みりおんのスキャットはそりゃ素晴らしいよ? ジャジーなアレンジで赤と金のお衣装で揃いの髪形と髪飾りで踊る娘役ちゃんたちはそりゃ美しく可愛くてセクシーだよ? でもヘンじゃん。せめて歌詞を変えてくださいよ、「愛するってすごい」でも「あの人は強い」でもなんでもいいからさあ。無神経すぎると思いました。
 そのあとのお披露目おめでとう祭りだワッショイ場面に関しては、まあ楽しいからいいや、と思えなくもないんですけれどね…というかそういうコンセプトでコレなんだよね? センスがセンスしちゃってるよなあ…(ToT)トンチキでした。
 でもパレードのまぁ様の背負い羽根が豪華だったからヨシとしましょう…

 本編の方は、台詞や歌詞がちょこちょこ変更されたり、エジプト兵がキンキラキンになったり、凱旋場面の振り付けががらりと変わったり、といったことはありましたが、おおむねは初演どおりでした。ファラオのブランコも健在でした(笑)。
 で、私が提言した、というか今やけっこう多くの人が必要だと考えている、ラダメスとアイーダの出会いの場面は、結局追加されないままでした。
 「エジプトは領地を広げてる」のあと、回想みたいな形でふたりの出会いを見せてから話を始める、ってだけでも全然違うと思うんですけれど。「♪ナイルの流れのように」は壮大な曲だけれど、芝居の尺を作るためならナンバーなんかいくつかカットしてもかまわないと思います。ラダメスとアイーダの歌も掛け合いの繰り返しが多くて話が進まなくてイライラするんですよね。やはり全体にオペラチックに作りすぎだと思うなあ。退屈に感じる人は多いと思う。ソリストとコーラス、みたいな生徒の扱いもあまりにもあんまりだし。というかぶっちゃけ組ファン以外はそんなに何度もリピートしてくれないんじゃないかなあ…(ToT)
 というか、私はまずこの「エジプトは領地を~」の歌がけっこう意外だったんですね。
 ちょっとがなるように歌うところがあったワタルさんに比べて、まぁ様の歌い方はもっとマイルドというかまろやかで、優しく聞こえるんじゃないかなあ、と勝手に想像していたのです。というか全体的に、初演よりもう少し紳士的というか理知的というか優男風味のラダメスに役作りしてくるのではないかと思っていたのです。まぁ様の持ち味としても、今このときに再演するという意味においても、私の好みとしても、勝手にそう想定していた。だから期待外れだったみたいな言い方はとても勝手なのですが…
 まぁ様も意外と、凛々しく、雄雄しく、猛々しく、それこそがなるように歌いましたよね。ちょっと喉が心配になるくらいに。
 で、あっそういうキャラでいくの!?と私はちょっと驚いてしまったんですね。
 だからそこから、実は私の中でラダメスという男性像の整合性が上手く組み立てられなかったというか、混乱を感じてしまったのです。
 それもあってなおさら、アイーダとの出会いの場面、いやそもそも戦前の彼を見せるところから始めてもらいたかったな、と思ってしまったのでした。
 だって彼はおそらくそれまでは、ただの平凡な武将にすぎなかったんですよね? ファラオの命じるままに忠実に戦う有能な戦士。生きること、死ぬことの意味を戦場でしか学んでこなかった男。そこで死線を共に潜り抜けたケペルたちとの友情は築けたけれど、それ以上には何もない男、愛や人生の意味を未だ知らないでいた若者…イヤそれじゃアイーダが恋しないかもしれないんだけどさ。類推です。描かれていないからわからない。少なくとも戦いの意味とか平和とかを考えたことはなかった男。
 そんな男が、アイーダと出会って恋に落ち、敵国の女を愛すること、愛する女が愛する国を荒らしてしまったことについて、考えるようになった…のでは? で、最初は彼女の母国を解放してあげたい、というところから始まったのかもしれないけれど、やがて広く平和主義というか不戦主義というか、そういったことを考えるようになっていった…んですよね? 描かれていないけど、一応歌われる歌詞にはある。でも歌詞ってけっこう声に酔っちゃって聞き逃しちゃったりするものだから、やっぱり芝居で見せてほしいです。
 そういう土台がしっかり描かれていないと、本当にこの恋愛って成立してるのかな?とか、なんかひとりで勝手にロマンティックな世迷言、理総論を言ってるだけの夢見がちな困った青年ってことじゃないんだよね?とか、なんかいろいろ心配になってしまうんですよ私は根性が悪いので! というか今回完全にチーム・エチオピア目線で観ているので!!
 だって、アイーダを愛している、だから彼女の母国エチオピアを解放してあげたい、だからまずエチオピアと戦って勝たなくては、って実はおかしい訳じゃん。ねじれてる。勝った上で褒美としてファラオに解放をおねだりするから、ってのはわかるけど、真に平和を求めているなら戦い以外の別の方法は考えられないの?とか言いたくなる訳で。てかアイーダはそう言っている訳ですよ、「♪戦いは新たな戦いを生むだけ」と。彼女はたとえ故国のためであろうとこれ以上の戦いは望んでいない。なのにラダメスは突っ走ってしまう。
 でも世界平和なんていいんだ彼女の母国だけが眼目なんだ、なんて小さな男にラダメスを描くつもりはないんでしょう? そのあたりがいかにもザルくて観ていた私は不安になったのですよ。
 ラダメスはまず戦って勝たなくては、すべてはそのあとだ、と逸ってしまい、将軍に選ばれたいと熱望し、宣託があったときには獣じみた雄たけびを上げます。私は…ちょっと引いた。その脳筋マッチョさについていけない気がしてしまったのです。でも私はまぁ様を嫌いたくないし物語の主人公ラダメスを好きでいたいのよ、だから好きになれるよう万全を尽くして丁寧に描いてほしいのよ。でもかなりザルいよね? イヤ原作がそもそも問題なのかもしれないけれどさあ。
 シェイクスピアとかともそうですが、古典って今の視点で見ると意外に話に整合性が取れてなくてつらいものってたくさんありますよね。でもモチーフとしてはとてもおもしろいんだから、もっと思いきって手を入れるとか、精巧に理論武装するとかが必要なんだと思うんですよね…それが、この作品は怪しい。しかもせっかく再演したのに、何も変わっていない。もったいないですよ。
 だから一幕ラスト、ラダメスがせっかく感動的に「世界に求む」を歌っていても、まあ私がカマンテ・ロックオンで観てるからってのもありますが、なんかこう…嘘くさい、と思ってしまって、尊いわ素晴らしいわ、みたく泣けなくて、それが悲しかったんですよね。私はここでもっと号泣したかった。叶わないかもしれないけれど理想を追い求め希望を歌い上げる主人公にシンクロして、その心意気に感動して泣きたかった。でもそう流れていなかった。
 むしろウバルドやカマンテがギラギラした目で訴えてくる、「何を綺麗事を言ってるんだ、そんなのは欺瞞だ、偽善だ、強者の驕りだ、こっちからしたら侮辱だ、屈辱だ」っていう想いにシンクロしてしまいやすかったのです。
 でもそれじゃ駄目でしょう? ここは観客はラダメスとアイーダ、そして「賭けてみよう」と言ってくれるファラオに肩入れして観なきゃ駄目でしょう?
 イヤ大多数の人はできていたのかもしれません。私が勝手に、観たいものが観られなくて混乱し八つ当たりし贔屓にシンクロしすぎていただけなのかもしれません。でもなんかもうちょっとどうにかなったやろ!って気がしてならないのです。

 ラダメスのアイーダとのラブシーンはとても素敵。地下牢銀橋場面はふたりとも落涙大熱演で、私も泣かされました。
 自分の死期が迫っても、愛する人が故国で明るく強く生きていくだろうから大丈夫、と考えられるラダメスは本当に素敵です。なのにその当のアイーダが牢に忍び込んでいたと知って、「何故そんなことを」「もう出られない…」と言うラダメスが好き。というかこのくだりの脚本の流れは本当に素晴らしい。隣の牢獄に入ってきたマッダレーナをあっさり受け入れたアンドレア・シェニエとは大違い(演じた人に責任はない、あくまで脚本の問題です)。
 ケペルたちは生きること、死ぬことの意味を戦場でしか学べなかった、まだ愛を知らなかった(「あなたはまだ愛をご存じない」byアンドレア・シェニエ)。でもラダメスはアイーダとであって愛を知り、真の生きる意味、死ぬ意味、人生というものを知った。そしてここで出るアイーダの台詞が本当にすごい。
「私たちは愛し合ったのよ。生きようと死のうと、それがすべてよ」
 なんと究極的な台詞! 愛は生死をも超えるのです。
 そして光も差さない、空気もなくなる塗り込められた地下牢で、心残りは何もないものの、ふたりが最後にひとつだけできることがあるとすればそれは…祈ること。愛と平和を、この世のすべての人々に、と。
 作者のキムシンがどう言おうと、私はこの物語は愛と平和をテーマにしていると思います。愛と平和は全然違うものだけれど、だからって一緒に語れないということにはならない。私には先生がプログラムや制作発表で語っていた違和感なるものについてよく理解できませんでした。違うけれど不可分なものなんだし、ついでに語れたらむしろラッキーなんじゃないの? 何故わざわざ平和要因を減らすのよ今このご時勢に? 今こそ必要なんだよアムネリスの宣言が、という日本はそれを敗戦後に憲法でしたんだよ?
 世界から戦争は決してなくならない。でも戦争をなくす努力を決してやめてはならない、戦争のない世界を夢見ることを決してやめてはならない。世に絶対はなくても、太陽神ラーの息子のファラオがいなくても、これは絶対の真実です。
 それを訴えなくてどーする。何故「平和への希望」と言っていたものを「明日への希望」なんてボカすんだキムシン!!
 愛は何物よりも強い。何物をも超えられる。そして愛は平和を呼ぶものなのです。平和でなきゃ安心して愛し合えもしない。愛と平和を同時に語ることになんの問題があるの? 何故分けようとするの? 「♪ありえない、わからない」って歌っちゃうよ?
 愛と平和の祈りは4500年たっても叶えられていないかもしれない、それでも祈り続ける、次の4500年も、その先も。これはそういう物語でしょう? 胸を張りましょうよ、アムネリスのように。私は剣を置いたエジプト兵たちの姿に号泣しましたよ…?
 アイーダとラダメスの息絶え方が美しくて、泣きました…

 というワケでタイトルロールたるみりおんは、言葉はアレですがホント集大成という感じで、ようやっとヒロインらしい大役が回ってきたし、高貴で野性的で純粋で強い女性の役が本当に似合うんだなあと感心しました。歌はもちろん安定の歌唱力。さらにハートが入っていろいろ訴えられるといいなと思いました。
 ゆうりちゃんはとにかく美しくてそれは本当に素晴らしい。登場して歌い出して何小節目かですぐ声がケロッたのでヒヤッとしましたが、高音がヘロるだけで、ほぼ地声で歌う「ファラオの娘だから」はむしろ絶品! これまた感心しました。
 初演キャストと学年の違いもあるけれど、みりおんアイーダがわりと女っぽいのに対しゆうりアムネリスはまだまだ少女の香りを残していることもおもしろかったです。こういう組み合わせも、いい。
 今後の進化が楽しみです。コーラスも厚いし、生徒は本当にみんな大健闘大熱演していたと思いました。
 エトワールがこれで卒業のあいこちゃんでなかったこと、同じくこれで卒業のえつ姉にも特に美味しい餞場面がなかったことは残念でした。フィナーレでまぁ様に絡むひとくだりくらい入れてくれてもよかったのに…

***

 で、澄輝日記ですが…いやぁ新たな一面を見ましたね!
 前夜祭では私にはぶっちゃけちょっと貧相に見えて、心配だったんですよね。痩せて顔がちょっと尖っちゃってるので、そこに黒塗りとなると余計にこう…精悍とか野性的というよりは、ホント言葉は悪いけど貧相に見えてしまったので。
 ゆりかがまた押し出しがいいからさあ。顔が大きい訳ではないんだけど、面長で長身に映えるんですよね。だから愛ちゃんとかは負けてないんだけど、並ぶとあっきーは小顔すぎるように見えた。スタイルの良さが線の細さに通じて見えるようで、それもヒヤヒヤしたのです実は。
 でも、本公演では大丈夫でした。ニュー澄輝になってたよ! イヤ欲目だけど!!
 幕開き、石壁の一部が紗の扉になって、その奥にたたずむシルエットが浮かび上がり、扉が開いてゆらりと出てくる姿はまるで幽鬼、亡霊そのもの…何よりその暗い目!
 絶望に打ちひしがれているような、それでも何かをあきらめきれずに執着し続けているような、求め彷徨い歩いてきた長い時間を思わせるような、暗い暗い目。そんな目をしたこの人観たことない! いやファン歴めっちゃ浅いんだけど!!
 本編が始まってからも、カマンテはずっと怒っています。ギラギラと怒りに燃え続けている。もっと枯れた、悲哀を感じさせるような役作りで来るかなと思っていたんですよね、あっきー優しいからさ。どちらかというとサウフェを演じる方が想像しやすいというか。
 でも役を自分に近づけることをしなかった。自分が役に近づいた。敬愛していた王女に裏切られたと思い込んで、その傷心や落胆が悲しさや寂しさに転ずる優しいサウフェと違って、怒りや憎しみに転じた熱いカマンテを、熱くギラギラと演じていました。痩せて飢えて怒りに震える黒い犬!
 ラダメスが解放と平和を歌っても「けっ」って顔してるし、ウバルドが自爆テロ(とは言わないのかななんて言えばいいんだ特攻隊か?)を決意する狂気を感じさせるくだりも、おかしくなっているというよりはただただ怒っているように見えた。
 床とお友達の役だとは知っていたけれど、なんかやたらと床に寝転がるしなんかいちいちカッコいいしいたぶられ具合は痛々しくて死に様も鮮やかでそのあとはエジプト兵たちに踏まれないか心配で(^^;)、まあ観ていて飽きませんでした。
 アイーダに迫る「お前は奴隷」も、ちょっとまとぶんを思わせる歌い方をしているように聴こえたところがあったなあ。低く深い歌声で、暑苦しくてよかった!
 フィナーレも、黒塗りにシャーベット・ピンクの飾り燕尾!サークレット!!ってのがまた素敵で。
 黒燕尾がタイやカラーがなくてすぐ襟ぐりの浅い白ベストになるタイプで、首が長く見えて美しいこと! ゆりか5ではキラキラニコニコだったのにここはちょっとワルい顔して踊ることもあって、前髪がはらりと乱れたりして、ヤバい!!!
 そして星組か?みたいな編曲での(偏見です)赤と金のお衣装でのカッコいいんだけどなんかおもろい場面…激しく踊るとよだれかけみたいなデザインの襟元がどうにもアレなんだけれど、楽しそうだから、まあいいか(チョロい)。
 パレードはゆうりちゃんを真ん中に挟んで、ずんちゃんとシンメでセンター降りでした。
 ゆりかウバルドのお衣装が新調だったんだから、カマンテもサウフェもせめて丈を上げてブーツをもっと見せるデザインにしてくれてもよかったんじゃないかなー、とは思いました。完全に初演ママで、ちょっともっさり見えかねないのが残念でしたし、キンキラキンの新調で揃えてきたエジプト側に比べてぶっちゃけ冷遇されすぎやろ!と思ってしまいました。しょぼん。

 最後にしょっぱい話ですが、番手について。
 花組に続いて、宙組もクリアにしてきましたね。プログラムのスチールの位置もインタビューもパレードのセンター降りも、愛ちゃんががっつり三番手ポジションでした。
 私としては予想していましたしいいことだと思うし流れとして当然だとも思います。それにしちゃ役がケペルってのは気の毒でしたけれど。凱旋場面でセンターで踊っているとはいえ…フィナーレでもっとがっつり1,2,3みたいなくだりを作ってあげればよかったのにね。
 逆にそうでないなら黒燕尾のまぁゆりは余計だと私は思いました。そらゆりかだって組替えお披露目だけど、まずはまぁ様のトップお披露目だろう!そこはひとり舞台にしてやれよ!!と思った。
 で、あとはその両サイドにあきりくシンメでした。なのにパレードではりくをセンターで降ろさないという暴挙! 私はこのことの方にこそ憤りを感じるわー。愛ちゃんよりりくくんの方を早くダンサーとして抜擢起用してきたのに。新公主演を三度も任せてるのに。『NW!』のメインメンバーに入れたのに。前夜祭に出演させたのに。なんで今こんなことするの? 劇団のこういうところが本当に大嫌いです。
 で、私はあっきーに関しては今後は別格スターとして尊重していってもらえればいいです、と思っています。
 少なくとも一部がしている四番手呼びは私は嫌です。もし今の宙組にそれがあるならそれはずんちゃんのことだと思う。番手というのは下級生に降りていくもので(大空さんは特例)、かつ本人にとってはトップに向けて上がっていくべきもの。だから組替えで来た大物のゆりかはともかく下級生の愛ちゃんに抜かれた時点であっきーはもう番手スターではないのですよ。あきらとか大ちゃんとかまさこと同じ。イヤ実はみんな組での立ち位置のニュアンスがそれぞれ微妙に違うのだけれど。
 それでいいじゃん、わかってたじゃん、そんなこと。滑り込み新公主演の直後にもうひとつ何かがあったら違っていたかもしれません。でもそんなたらればを言っていても仕方がない。下級生の育成にビジョンと手腕がない宙Pが悪いんだとしても、とにかく仕方がないのです。
 それでも好きなんだから、応援するってだけのことです。
 というワケで、思いのほかワルい顔に新発見もあったことだし、やはり次はバウ二番手で美味しい悪役とかやってほしいんだけどなあ…主演より4期も上じゃ呼んでもらえないかなあ、そもそもコメディらしいから悪役なんかないのかなあ。全ツならマチウが観たいです。そしてショーでたくさん使っていただきたいです…
 というワケで遠征はあと2回4公演のみ、東京ではビギナーをたくさん同伴して通いたいと思っています。退屈されるかもしれないけれど観やすい演目だとは思うので。てかやっぱり一幕にした方がいいと思うけどね、コレ。正直に言えば、ね…
 やっと新作二本立てが来る次の本公演が楽しみです!




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ELジェイムズ『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』(ハヤカワ文庫全3巻)

2015年06月04日 | 乱読記/書名は行
 文学部の女子大生アナスタシア・スティールは、学生新聞の主筆の親友の代理で若き実業家クリスチャン・グレイをインタビューする。アナはハンサムで才気あふれるグレイに圧倒され、同時に強く惹きつけられる。グレイもアナに好意を持っている様子で、ふたりは急速に近づいていくが、実は彼にはある「ルール」があった…三部作の第一弾。

 すっごくおもしろく読みました。
 ぶっちゃけ、もっとただのSMポルノだと思っていたんですよね。それこそスポーツ新聞の風俗面のしょうもない小説みたいなイメージだったのです。そういうTLとかBLとかも仕事でたくさん読むので、その程度のノリなのかなーと思っていました。マミーポルノとして世界的にヒットしたのだという認識でもありましたし。
 でも、別にポルノではない。というかもっと純然たるロマンス小説だと思いました。世界観としてはセックス描写つきの少女漫画、というか。
 男女の普通の恋の物語を読むのももちろん楽しいです。でも個人的な好みとして、両思いなのに誤解とか障害とかがあってなかなか進展しない、という物語が好きなので、たとえば障害を身分差などに求めるときは私はヒストリカル・ロマンスなんかを読みます。
 同じノリで、障害を「同性だから」ということに求めるならBLを読みます。私が読むのは主に漫画で、BL小説をあり読んだことがないので、オススメがあればぜひ教えてください。
 で、この作品は地味な女子大生とイケメン大金持ちという組み合わせですが一応、普通の男女の物語です。しかしてその障害は、「相手がSM嗜好の持ち主だった」ということのみです。
 のみ、って言っちゃっていいのか? いいのです(笑)。
 まずすごく紳士的なんですよね、クリスチャンが。ちゃんと契約に則って、ルール内で関係を持とうと誠意を持って持ちかけてくる。だからアナもついつい譲歩しちゃうわけです。それくらいなら…みたいな。やったことないからやってみないとわからないし…みたいな。
 好きな人に求められるのは嬉しいものだし、好きな人を喜ばせたいと思ってしまうのも自然なことだし。
 でも…とか、だって…とか、迷いつつフラフラしつつ、意外にしたたかだったりかたくなだったり単に天然だったりするヒロインがまたおもしろくて、彼女の一人称で記述されることもあり、意外にじれじれとしか進まない物語を本当にワクテカと読み進めてしまいましたよ私は。
 思えばこのヒロインの造形が秀逸なのではないでしょうか。
 片親の家庭に育ちますが、養父からも愛情をたっぷり受けて、基本的には健康で健全に育った大学生で。学業に熱心で社会人になってからのプランもあって、恋愛には奥手でバージンで、着飾ったり女らしいことはやや苦手な文学少女。でもロマンティックな恋愛に憧れてはいる。親友は美人で社交家で小金持ちでジャーナリスト志望のイケイケで、性格が正反対でも仲良くやっている…現代アメリカに本当に生息しているのでしょうかこういう女性が? それともなんだかんだ言ってこういうタイプが結局のところヒロイン・キャラクターとして望まれているのかアメリカ社会では!? 要するに日本の古き良き少女漫画ヒロインですよねこれって??
 引っ込み思案で地味な少女が、学園一のプレイボーイに告白され、「ありのままのきみが好き」とか言われちゃって、彼はすべての元カノと手を切って彼女一途になる…何億回と描かれてきた少女漫画の黄金パターンです。この話は要するにそういう構造です。
 恋愛って、相手によって自分が変化することを受容できるかどうかが勝負なんじゃないかと思うことが私はあります。たいていは自分は変わらないまま相手を変えようとするのだけれど、現実にはそんなことは不可能で、むしろお互いがお互いのために少しずつ変化してかつそれを受け入れて、歩み寄り添い遂げられればそれが恋愛の成就なのではないかと思います。なので相手が「ありのままのきみが好き」と言って自分が変わらないでいられること、相手だけが変わってくれることなんてのはドリームにすぎないのですね。だからこそそういうフィクションが飽きもせず繰り返し創作されるわけですが。
 でも、この物語には、出会いによってお互いが変わっていく様子がリアリティを持って描かれていると思いました。アナがクリスチャンの「支配者と従属者という関係を持ちたい」という要望に流されてしまうだけではなくて、クリスチャンもアナの「普通のロマンティックな恋愛がしたい」という要望に応えていく。そこがいじらしいし読んでいてきゅんきゅんくるんですよね。
 セックス描写も世のロマンス小説の範囲内だと思いますし、プレイそのものもものすごく倒錯的だとは私には思えず、不快に思うこともありませんでした。
 ていうかヒロインの一人称で書かれているせいもあるけれど、支配者だのなんだの言ったって結局セックスって男性が女性に奉仕する形になるよね…? イヤそれも男性がより大きい快感を得るための手段なのかもしれませんが、要するに我々は異性の快感は感覚としてわからないので、女性読者はあくまでヒロインの快感を読書で追体験することになるわけで、ぶっちゃけそら楽しいに決まってますよね…?
 で、オチも妥当だなと思いました。
 続巻は、文庫になっていないというのもあるけれど、読まないかもしれません。クリスチャンの過去が明かされたりするらしいけれど、ふたりの間の問題はあくまで現在と未来にあるわけで、彼がこうなった経緯がわかろうとそれは変わらないので、やはりここで一度決着がついているのではないか…と個人的には思うからです。
 エリオットのキャラクターとかケイトとの関係とかは、もう少し知りたいところではありますけれどね。
 だからラストシーンにもう少し余韻があるとよかったのになあ、と思います。少なくとも編集者が工夫して、最終ページに余白を作るようにしてくれたらよかったのに。そうしたらページをめくったときに余白が目に入って、ああこれで終わるのねと意識しながら残りの文章が読めたのに、今のページ繰りは左ページの最終行まで文章があってめくったら解説、という構成なので、正直「えっ、これで終わり!?」と思ってしまいました。もちろんオチっぽいラストが書けていない作者が悪いのかもしれませんが。でも続巻へのヒキってほどでもないし、いかにも中途半端で残念でした。
 ボカシばかりだったという映画はどんなだったんだろうなあ。もっと心理戦ロマンスとして品良く作ればよかったんじゃないのかなあ。クリスチャンはホントにハンサムな俳優が演じたのかしら…
 ラノベなんかも一人称のものはアニメ化されたりしても原作の独特のノリが出ないもんなー。映像化というのも難しいものです。


 
 
コメント
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