駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『HISTORY BOYS』

2014年09月11日 | 観劇記/タイトルは行
 世田谷パブリックシアター、2014年9月10日ソワレ。

 1980年代の英国。高校の進学クラスで学ぶ8人の生徒たちは、オックスフォードやケンブリッジなど名門校を目指し受験勉強に励んでいる。校長(安原義人)はひとりでも多く名門校に入学させたいが、一風変わった老教師のへクター(浅野和之)が詩歌を引用したり歌を歌ったりの型にはまらない授業を行うため、オックスフォード卒のアーウィン(中村倫也)を臨時教師として迎えることにした。若きアーウィンはへクターとは対照的な徹底した受験指導を行っていくが…
 作/アラン・ベネット、翻訳/常田景子、演出/小川絵梨子、美術/堀尾幸男。2004年ロンドン初演、映画化もされたトニー賞受賞作。全2幕。

 デイキン役の松坂桃李くんも好きですが、『フル・モンティ』がよかった中村倫也の初主演作とあって出かけてきました。新進気鋭と今話題の小川演出は『クリプトグラム』、『OPUS/作品』を観ています。
 いやぁしかしよかった! シビれました。久々に脚本が読みたいなと思った作品でした。私は戯曲を読むのがそんなに得意ではないし、台詞が舞台上でわからなかったとかそういうことではなくて、でもただ活字で、文字で、再び捕らえなおしたいなと思ったのです。オタクなので。それくらいいいことを言っていた、含蓄に富んだ台詞が多かったと思うので。
 簡素なセット、床に敷いた紙を答案用紙にしてビリビリ破いていってしまうアイディア(既出のものだそうですが)、最後の残りが棺というか遺体を覆うシートのようになって持ち去られる演出…素晴らしかったです。

 好みとしてはデイキンがもうちょっとだけ小さいか、アーウィンが細くてもいいから背が高いとよかった。つまりふたりの背の高さ、体格が同じくらいだとなお萌えられたのです。私はBLで受け攻めに体格差がありすぎると男女を想起して萎えるので。
 でも余計にせつなくなったかな。アーウィンの心情を慮ると、もうやめてあげてデイキン!と何度も叫びたくなりました。
 だから私はデイキンが死ぬのかと思いました。アーウィンの車椅子の原因はへクターのバイクだろう、事故に巻き込まれたか何かして怪我をするのだろう、と終盤近くなって思いつき(一幕のうちはむしろ病気か何かにかかったのかと思っていました。たとえば筋ジストロフィーとか、そんな)、デイキンもまたその事故に巻き込まれて命を落とすのだ、あるいは轢かれるのだ、と。
 だっていかにもありそうじゃないですか。デイキンはなんでも持っている。ハンサムで成績優秀で校長に目をかけられクラスメイトたちの人気を集めガールフレンドまでいる、何不自由ない不遜な少年。そんな人間こそが若くして命を落としそうなものじゃないですか。
 でも違いました。バイク事故で亡くなったのはへクターでした。せっかく失職が免れたのに。もうすぐ定年だったのに。
 ヘクターは死に、デイキンはその後も羽振りのいい人生を歩んでいく。人生って確かにそういうものだけれど、そんな皮肉をつきつけてしまうのがこの作品だったのでした。

 デイキン自身は自分や現状に満足してばかりでもなくて、でもとにかく「持てる者」の明るいオーラは灯りが蛾を引き寄せてしまうようにある種の人間を捕らえて放さないのです。たとえばポズナー(太賀)、たとえばアーウィン。愛されるからますます自信をつける、ますます輝く、それがますますそうした人を魅了する。でも彼らが愛し返されることは決してないのです。
 ポズナーにも、アーウィンにも、スクリップス(橋本淳)にも、おそらくこの世は生きづらいところなのでしょう。今なお彼らはあまり幸せではないかもしれない。けれど生きていくしかない。生まれてきてしまったから。荷物を次に渡さなければならないから。
 この台詞の原語はなんでしょうね? 「荷物」というと日本語としてはやや負荷とか負担を思わせるように感じます。でもヘクターが言う「自分が受け取った荷物を次の人に渡せ」というのは、単に自分が受け取ったものを、というだけのようにも聞こえます。
 自分が受け取ったもの。命。教育。教養。愛。何かそういったもの。周りに、でもいいし子供や孫といった次の世代、ということでもいい。とにかく誰かに。自分のところで終わりにしないこと、渡すこと、それが大事。
 それができる人間を育てることを目指して、ヘクターは生きていたのではないでしょうか。それが教師としてのあり方だと考えていたのではないでしょうか。

 一方でアーウィンが教えるような受験テクニックもまた必要な場合がもちろんあります。結局は名門校に合格することだけでなく、世間で生きていくためのテクニックに通じたりもするからです。
 でもアーウィンもまだ勉強中の人間なのでした。教師に恵まれなかったのかもしれないし、志望校に合格できなかったことも大きいのかもしれないし、何しろ彼は若いのです。
 その後も彼は生きづらく暮らしているのかもしれませんが、スクリップスとの再会がいい方へと変わる転機になることを祈りたいです。スクリップスにとっても。

 私はマスコミに勤めていてもジャーナリズムを担当したことがないのですが、その痛烈な批判には心が冷えました。創作とは対極にあるものだと作者は考えているのかもしれませんね。

 シニカルで、でもユーモアがあって、深くて、悲しくて、乾いていて、でも温かくて、うっすらと明るい。そんな美しい舞台でした。
 あと紅一点の鷲尾真知子が素晴らしかった!



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田中ロミオ『人類は衰退しました』(小学館ガガガ文庫全9巻)

2014年09月11日 | 乱読記/書名さ行
 わたしたち人類がゆるやかな衰退を迎えて、はや数世紀。すでに地球は「妖精さん」のものだったりします。平均身長10センチで三頭身、高い知能を持ちお菓子が大好きな妖精さんたち。私はそんな妖精さんたちと人との間を取り持つ「調停官」となり、故郷クスノキの里に帰ってきました…ゲーム・シナリオライター田中ロミオの作家デビュー作で、テレビアニメ化もされた人気シリーズ。

 男子向けライトノベルもレーベルによって特徴があるでしょうし、また作品によってもかなり傾向が違うのでしょう。その本当の良さは男子にしかわからない、というタイプのものから、実のところ読者の性差をあまり問わないものまでいろいろのようです。
 この作品は後者の典型的な例かと思います。リリカルなイラストは女性読者が眉をひそめるタイプの萌え絵とは違う、可愛らしく叙情的なものですし、主人公はごく普通の女性です。ちょっと人見知りで頑固なところがあって、周りの人より妖精が見えて妖精とつきあえる、という変わったところはあるにしても、それはあまり性差によるところのものではない。ジェンダーフリーな作品なのでした。
 何より古き良きSFの香り、サブカルの香り、ジュヴナイルの香りに私はシビれて、本当に楽しく読みました。
 それになんといってもタイトルが、つまり「人類がゆるやかに衰退してはや数世紀」という設定が素晴らしい。
 私がものごころついてSFを読み始めた頃は50年代アメリカSF黄金期の影響を引きずっていて、ワープ航法とか光粒子なんちゃらエンジンのロケットだかなんだかで人類が銀河系だのアンドロメダ星雲だのを飛び回り版図を広げまくりちゃんばら大冒険を繰り広げるようなスペースオペラがある一方で、コンピュータだの人工子宮だののハイ・テクノロジーが開発されてなお子供が生まれなくなり人口が減り文化が爛熟し文明が滅びミュータントとかエスパーとかの新人類が生まれちゃうような諦観に満ちたディストピアものがあって、そういう世界観というか宇宙史観というかは私の心に決定的に確立されました。
 高度成長期に育ちバブルがはじけるどころかまだその泡が生まれきっていないころにおいてさえ、しかしこのまま人類が発展を遂げ続けることなどありえない、種としては終わりに近づいており、我々の前に西暦で2000年ほどの文明の時間があったからといって未来に同じだけの時間なんてあるワケない、30世紀の未来とかちゃんちゃらおかしい、このあとせいぜい10世代くらいしかもたないんじゃない?というのが私の人類観だったのでした。
 だから最近、それが共通認識でないことに驚きです。たとえば少子化対策のジタバタっぷりとかね。何やったって無理なんですよ、人類は生殖の欲望も能力も失いつつあるんだから、種として終わりに近づいているんだから。女性の活用とかバカ言ってんじゃないよ、女性のせいじゃないの、とフェミニズムとは違った意味で怒っていました私。ただもちろん今現在が本当にたくさんの人にとって生きづらい社会であることは確かだから、是正はされるべきだと思うし、それでなるだけたくさんの人がなるべく幸せに生きていくべきだと思いますが、しかしそうした社会が実現しても子供は増えないと思う、だって人類はもう終末を迎えているのだから…
 という考え方があまり一般的でないことに私は驚愕しましたねホント。いいじゃん滅んでも。仕方ないじゃん。滅ばないものなんか何もないんだよ? すべてのものがいつかは滅ぶの。何故人類だけ特別だなんて思えるの?
 イヤもちろんこういうふうに考える私の方が少数派なのでしょうが、しかしだからといって少数派が必ずしも正しくないということではではない。
 何度でも言いますが人類は衰退しているのです。近々に滅亡するとまでは言わないまでも現在絶賛進行形で衰退しているのです。それは認めましょうよ、進化と発展繁栄はすでに終わったのだと認めましょうよ。
 あきらめてるのではない、投げ出しているのではない、ただ事実を事実だと捉えるだけのことです。
 誤った現状認識でなされる施策は無意味でありむしろ有害です。私が政府に、少子化対策なんちゃらとか女性活用なんちゃらとかに言いたいのはそういうことです。
 そしてこの作品はそんな思いをすくいとってくれたのでした。人類が衰退を迎えて数世紀たったころの物語です。しかるべき未来の話としてまっとうに正しいし、若者が読むライトノベルとして正しい。若い心を持った読者にも沿うでしょう。不幸にして今までこういう未来のヴィジョンをもたなかった者には良き啓示となるはずです。いいSFってそういうものです。
 でも各巻はただの(ただの言うな)サブカルおたくニヤニヤ話です。それも楽しい。
 そして最終巻が前巻から一年以上開けて刊行という力作っぷり。ここが本当にSFとして真骨頂、そして素晴らしいシメでした。
 人類は衰退し、かわりにいつの頃からか妖精さんたちが生まれていました。生まれて、といっても楽しいと湧いてきて増えて楽しくないと減って消えるという怖ろしい生き物です。というか生物と言っていいのかさえ怪しい存在です。妖精の命はあいまいなのです。
 一方で決してあいまいでないもの、あらゆることを大断絶前はできていたかもしれない人類が唯一自由にできなかったもの、それこそが「命」なのでしょう。子供が増やせなくなっていることもそうだし、死んだ人を生き返らせられないのもそうです。命はあるかないかしかない、あいまいではない。魂は違うにしても。
 だから今ある命を大切にして、むやみに投げ出すこともなく無理に増やそうとすることもなく(しかし助手さんとのラブコメ展開はあってもいいのだが!)、淡々と生きていけばいいのです。それが全人類がすべきことです。今と変わらない。
 そして命を大事にして無理せずていねいに生きていけば、絶対に楽しいことは生まれてしまう。それが人類の凄みであり強みです。だから妖精も寄ってくる。
 楽しいことは大事です。ただ生きていればいいのではないのです、楽しまなければいけないのです。それは人類の義務です。
 宿命であり呪いかもしれない。でも私たちはそういう種族なのです。これはそんなことを言っている小説なのだと私は思いました。
 人類がついに絶えるその日に、そばで見守ってくれているであろう妖精は、守護天使のように見えるのでしょうか。いつも心に妖精を。いいキャッチだと思うなあ。

 本編は完結しましたが、番外短編集の刊行予定ありとのこと、楽しみです。
 あとがきとかも大好きでした。エッセイストとかもできそうだけどなあ。その後の新作も期待したいです。


 










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『ifi』

2014年09月11日 | 観劇記/タイトルあ行
 青山劇場、2014年9月9日マチネ(Aバージョン)。

 ニューヨーク・マンハッタンでインディペンデント系の映画監督として数々のヒット作を生み出していたユーリ(蘭寿とむ)は、映像カメラマンのヒロ(Aバージョンではジュリアン)と暮らしていた。仕事に明け暮れるユーリに対し、ヒロはふたりの将来のことも話したがったが、それでもふたりは平穏な日々を送っていた。だがある日、ユーリとヒロは若者たちの喧嘩に巻き込まれてしまい…
 作・演出/小林香、音楽/スコット・アラン、扇谷研人、堀倉章、KENSHU、SUPA LOVE、映像・空間監督/東市篤憲、振付/SHUN、ケント・モリ、エイドリアン・カンターナ、ANJU、黒須洋壬、ティム・ジャクソン、chaos。
「もしもあのとき違う選択をしていたら…」がテーマのダンス・パフォーマンス・ショー…かな? 前花組トップスター蘭寿とむの女優デビュー作。

 小林香の作品は『ピトレスク』、『TATOO14』を観ているのですが、ものすごーく「!」だったことはない印象で、でもまゆたんの卒業後初舞台ですし、出かけてきました。
 普通のミュージカルとは違う、ストーリーのあるダンス・アクト、という意味では『La Vie』に近いのかな、とか思いつつ、楽しく観ました。映像の使い方やスクリーンの模様などの中二感にもニヤニヤしつつ楽しめましたし。ただ気持ち長かったかな、2時間でもよかった。ダンスを見せるにしては冗長に感じられる場面がありました。
 あと、ヒロインのユーリってヘンな名前ですね。恋人がヒロなんだから彼女も日本人か日系人だろうし、普通の日本女性の名前をつけたんじゃダメだったの? ミナでもユキてせもなんでもいいじゃん。
 あと「ヒロの弟(パク・ジョンミン)」ってヒドいよね、なんか名前つけたっていいじゃん。彼はユーリに横恋慕しているだけで最終的にユーリとくっつくとかいう展開のキャラクターではないからこの程度の扱いでいい、ってこと? でもキャラクターに対して失礼だろう。あと単に不便では?
 占い師(ケント・モリ)のそばでいつも舞うのが「謎の男(ストリードボードP)」なのはいいにしても、「大ヒット作曲家(辻本知彦)」と「友人(ライアン・カールソン)」って…私は彼は音楽の精みたいなものなのかと思ってしまいましたよ。ちゃんと名前付けてキャラクターとして扱ってあげてくれ…
 ところで「愛を選べない男(ラスタ・トーマス)」がこれまた「友人(Aバージョンでは佐藤洋介)」に結婚を止められ結局デキちゃうのはいいとして、作曲家と友人もそんなような関係に見えるから、ゲイ・カップルが2組も出てくる舞台なんですね。イヤいいんだけど。レズビアンのキャラクターはいないのにね。まゆたんがせっかくのヒロインなのに兄弟に取られ合うってほどでもないし、ちょっとしょぼん。

 Bバージョンも観ないと演目としての最終的な判断は下せないのかもしれませんが、私は1回しか観ないのでとりあえず私なりの感想ですが…
 ユーリは自分のせいでヒロを失ったと思っていて(まあぶっちゃけほぼそのとおりなんだけれど)、選択を誤ったと悔やんでいる、彼を取り戻したいと思っている、というところから始まる物語なんだけれど、ヒロが死んでいるのか、たとえば意識不明の重体で回復の見込みがないとかの状態なのかが不明瞭でしたよね?
 でも死んでしまっているのだとしたら(そして事実死んでいたのですが)、占いに依存しがちになるのはともかく、ヒロを取り戻そうとするというのはかなりユーリがやばい人に見えませんかね? ファンタジーの域を超えているというか。
 逆に言うとオチが見えているというか。ヒロが帰ってきちゃったらホラーでしょ、ギャグでしょ。
 でも最初からユーリが編集中の最新作が『オルフェ』だったりするので、当然それは死んだ妻を取り戻しに冥界に行って、でも取り戻せないで終わるオルフェウスの話だと誰でもわかるので、ユーリがヒロを取り戻しにいっても同じことになるのだろうという推定はできる。
 まあその上で観ても途中をおもろしがることは同じようにできるんだからいいんだけれど、「愛の奇跡を信じる!」みたいな構成にはなっていないので、私はちょっと出オチ感というかネタバレ感を感じました。
 ただ、「Aバージョンではユーリは恋人を取り戻しに」行き「Bバージョンではユーリは過去を変えるために」行く、となっているので、このあたりは全体を通してまた新たに見えてくるものがあるのかもしれません。
 でも、映画でも最近前後編みたいなものがあったりしましたが、普通の人は一回しか観ないし両方観ないとわからないとかいうんだったら二本立てにして一回にまとめてよ、という気もするので、あくまで一回観ただけの感想を私は語ります。
 だからそもそものユーリの行動拠点が違うし展開もまた違ってくるのかもしれませんが、私は各場面でユーリが選択する「This or That」がA、Bバージョンで違うのかな、でも結局結果は変わらない、というようなことになるのかな、とちょっと予想しました。
 だって過去は変えられないものだから。
 それを認めて、喪失を乗り越えて、未来に向かって生きていく、これはそんなヒロインの物語だと思うから。

 というワケでまゆたんは、私の好みとしてはもう少し髪が伸びていてほしかったのだけれど(私はとても単純なので長い髪は女らしさの象徴だと思っています)、パンツスタイルでもちゃんと女性だし白いワンピースやお臍も披露するし歌もダンスも楽しそうで、よかったのではないかと思います。
 ファンはもっとバリバリ踊ってもらいたかったのかもしれないけれど、やはり宝塚歌劇のトップスターとはこれからはあり方が違ってくると思いますからねえ。ミュージカル女優になるのかな、ストレート・プレイもやるようになるのかな、ダンサーとしてやっていくのかな、楽しみです。
 その他、「ダンス」というくくりは同じでもいろんなジャンルの違ったパフォーマーたちのいろんなタイプのダンスが見られて楽しかったです。でもプログラムの主催者の挨拶文のダブルクォーテーションの使い方はいかがかと思いましたけれどね。ダンサーはダンスで仕事しているのであって名前で仕事してないんじゃないかなあ…このダンス公演の意味、わかってんのかなあ…
 そこはちょっと残念でした。

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宝塚歌劇宙組『SANCTUARY』

2014年09月08日 | 観劇記/タイトルさ行
 宝塚バウホール、2014年9月6日ソワレ(初日)。

 16世紀、ヴァロア王朝下のフランスはカトリックとプロテスタントの対立が貴族の勢力争いと結びつき、崩壊寸前にあった。フランス国王シャルル9世(秋音光)の母后カトリーヌ・ド・メディチ(純矢ちとせ)は王家の安泰のため、娘のマルグリット・ド・ヴァロア(伶美うらら)と南仏の小国ナヴァールの王子でプロテスタントのアンリ・ド・ナヴァール(愛月ひかる)の結婚を目論む。カトリックの立場に甘んじていては、ローマ教皇の後ろ盾を持つパリ随一の大貴族ギーズ公(凛城きら)に国政を牛耳られてしまうと危機感を覚えていたのだ…
 作・演出/田渕大輔、作曲・編曲/斉藤恒芳。全2幕。愛月ひかる待望のバウ初主演作、『Victorian Jazz』でデビューした田渕先生の第二作。

 この日しか行けなくて、初日を観てきました。ナウオンの初回放送を録画し忘れたのでまだ見られていません、「歌劇」やスカステニュースの対談しか見てません。
 そんな段階で書いています。ごくごく個人的な感想です。完全ネタバレしています、これからご観劇の方はご留意ください。

 さて、『ヴィクジャズ』は遠征していないのでスカステ放送で一度しか見ていないのですが、可もなく不可もなく…というかなんでもできるだいもんにはやや役不足の舞台だったか…という印象しか残っていません。
 今回の田渕先生はそれからするとかなりがんばったのではないでしょうか。もちろん完全オリジナルではなく史実が元にあり、かつ有名な映画『王妃マルゴ』(原作はアレクサンドル・デュマの小説)があるということはありますが。
 少なくとも私は好きです。しかしだからこそもったいない、だったらもっとこうしたらよかったんじゃないの?と思えるところがいくつかありました。舞台に関する前情報も少なく、萩尾望都『王妃マルゴ』(集英社愛蔵版コミックス、既刊2巻)を読んだくらいなのとうっすら持っている西洋史の知識だけで観ましたが、宙組子と宝塚歌劇に関する情熱においては人後に落ちないものがあるといらぬ自負を持っておりますからね。愛とこだわりがあると毎度語りが長いです、すみません。

 で、まず、ではあのポスタービジュアルはあれでよかったのか?という点です。
 ヒロインのマルゴはそれこそタイトルロールとなる映画もあることから、美貌で奔放で…というイメージはある程度一般的に流布していると思われます。しかしその夫となりのちにフランス国王になったナヴァール王子アンリの一般的なイメージは? ほとんど「…」なのではないでしょうか。
 そこにこのビジュアルを持ってきた。何やら黒くて悪そうで色っぽいですよね。イヤそういう意味ではキャッチーで素敵なポスターでしたよ。しかし作品全体を通して考えたときに、アンリのキャラクターとして、見せ方として、これでよかったのか?ということです。
 あるいはポスターがこれなら、舞台のプロローグの方を変更すべきではなかったでしょうか。ツイッターでもつぶやきましたが、この演目にはフィナーレがありませんでした。重厚な歴史ロマンでなかなかシブいお芝居の終わり方だったので、ないのも似つかわしくていいかなとは思いました。しかしだったらプロローグはフェンシングではなくダンスにしてもよかったのではないか。殺陣はクライマックスなどにがっつりあるからです。せっかくの新進スターの(遅すぎるくらいの!)初主演作、キラキラしたところをファンに見せたってバチは当たりません。
 何より現状のプロローグの殺陣のくんだりが、歴史考証的なこともあるのかもしれませんが二番手格のりんきらギーズ公が綺麗になでつけた金髪に白と金のお衣装でカトリック兵士もみんな白と金、対して愛ちゃんアンリは黒の乱れ髪に黒いお衣装、プロテスタント兵士も黒だったか濃い紺だったか…なお衣装でした。格闘としては互角に終わり、暗転して開演アナウンス、そして本筋に…という流れでしたが、ここで観客としてはポスターのイメージもあって「アンリってダーク・ヒーローなの?」と思ってしまうと思うのです。好戦的な肉食系に見えかねない。
 でもそれじゃまずいのではなかろうか。この物語は、主人公アンリが、白王子だったところから陰謀に巻き込まれて黒くグレ、愛を知って清濁併せ呑むことを覚え、愛する女性とともにグレーとして生き抜いていくことを選び取って終わる、といったものなのではないでしょうか。
 だから今のポスターは物語のラストというかその後、あるいは最終的な彼らの人生のイメージを表したものである、とすればそれでもいいし、なんならプロローグもこのまんまでもいいですが、しかし本編に入ってアンリが初登場するときには白系のお衣装でなければいけないと思うのです。着替える時間がないなら捻出しなきゃダメ。ずっと黒いお衣装を着せてラインナップの白いお衣装でハッとさせたかったのかもしれないけれど、最初と最後だけ白くてもその効果は十分出せます。
 冒頭で主人公(および主要なキャラクター)をどう説明し観客にどう印象づけるか、はその後に物語を展開させるにあたりとても重要な工程です。ココ試験に出ますよ田渕くん。
 なのに現状、アンリは黒王子の雰囲気をまとって現われてしまっている。それではキャラクターとしてブレてしまっているし、物語の流れにも合いません。

 本編の第一場はとてもがんばっていて、フランスの現況と主役カップルの政略結婚の経緯とその周辺事情がうまく語られていました。カトリーヌ母后は同じカトリックだけれど王権を脅かしかねないギーズ公を牽制するために、プロテスタントと手をつなごうとしているのです。
 それに対し、ナヴァール王子アンリはプロテスタントとカトリックの融和、フランスの平和のためにマルゴとの政略結婚を受け入れようとしています。のちに語られますが、彼は田舎で質素に育った純真で理想に燃える青年なのです。あくまで白王子なのです。そういう説明や印象を与える演出がここでもっと欲しい。ここでのスタートが肝心なのですから。
 しかし彼の平和への意思に反して、母のジャンヌ女王(花里まな)はカトリックに勝つよう、そしてフランス国王になるよう息子に強要して、病に死していく。アンリは母の野望に失望し、そんな血なまぐさいんじゃない生き方がどこかにあるんじゃないかなあ…と星空に歌う、ここはそんな流れでしょう! どんな歌だったか歌詞をあまり覚えていませんが(ダメじゃん)、いい楽曲だったしいい歌唱でした。愛ゆうりということでぶっちゃけ歌を一番心配していましたが、総じて健闘していたと思います。

 マルゴとの結婚式のためにパリへやってきたアンリは、マルゴの兄アンジュー公(春瀬央季)に田舎者扱いされたりマルゴに想いを寄せているギーズ公に嫌みを言われたりしながらも、そつなく流して、ついにマルゴと対面します。プログラムではマルゴは「奔放を装う」とありますが、まず彼女が奔放だとされていることを舞台上できちんと描写・説明しなければいけません。事前にたとえばジャンヌの口から「嫁に迎えるにはふしだらそうな女で悔しいが仕方ない」みたいなことを言わせたり、大広間で貴族たちに「あの尻軽が結婚なんかでおちつくのかね」とか言わせるとか。アンリの小姓オルトン(七生眞希)に「美人だけど身持ちが悪いと評判ですよ、そんな方がアンリ様の奥方様になるなんて」とか言わせて、アンリに「そんな噂を信じてはいけないよ、会って話してみないと人の本当の姿はわからないものだよ」みたいなことを言わせておくのが一番いいかな。
 そういう前情報をおいて、その上であのゆうりちゃんのそれはそれは美しいマルゴを登場させるべきでした。肩を大胆に出した紫と金の豪奢なドレス、結わずに流した黒髪! 確かに美しい、色っぽい、婀娜っぽい。しかし本当にそれが彼女の真実の姿なのか?と、「奔放だ」という前情報があれば観客は逆を読めるのです。そういう流れを作ってあげなければいけません。ココ試験に出ますよ田渕くん。
 さらに、ふたりが近づき惹かれ合うくだりは『TRAFALGAR』なんかを参考にするとよかったと思いますよ? いったいに歴史的な経緯を語る部分は簡にして要を得ていて上手かったけれど、恋愛部分の描き方が弱かったのが弱点だと思いました。宝塚歌劇としては致命的になりかねない弱点です、意識して克服を心がけてくださいね田渕くん!
 ここは白い男と黒そうな女の出会いの場面なのです。でも現状ではアンリがそもそも黒っぽく見えちゃってるし、マルゴも黒いらしいという情報がほぼないままただ美しく色っぽく現われるので、実はそれが見せかけであるとは観客には伝わりきらず、黒と黒の戦い、恋の駆け引き場面みたいに見えちゃってる。
 それじゃダメなんです。白い男と黒そうな女が出会い、男は女のうちに白い心を認め、恋をし、女もまた自分の黒い見せかけに惑わされずまっすぐ向かってくる男の白さに心打たれ、初めて愛や信頼の芽生えを感じる、そんな場面であるべきなのですから。
 主役ふたりが初めて出会って恋に落ちるくだりはどんなにていねいに描いてもていねいすぎるということはありません。ココ試験に出ますよ田渕くん!

 続くマルゴの寝室でのカトリーヌとの会話で、マルゴの黒さが見せかけであること、しかもそれがカトリーヌに指示されたものであることが明かされます。かつてカトリーヌはギーズ公を牽制するためにマルゴにギーズを誘惑するよう強要した。だから今なおギーズはマルゴに執着し、マルゴは奔放だとか淫乱だとかの噂を立てられているのです。マルゴは王女として王家のために母親の指示に従っていますが、本意ではないし、政治のために娘を犠牲にする家族に愛や信頼を感じられないでいる。黒に見せかけてグレーにグレている、本当は白い女なワケです。
 このあたりで観客としては、白王子と黒に見せかけて本当は白いこの王女とがいろいろあってうまくいって結ばれるか、あるいは結ばれるけど悲劇に終わるか、これはなんかそんな話なのね、と物語のゴールというか道筋というかが見えてきて、俄然このふたりを応援してお話の行く末を見守ろう、という気持ちになるのです。それが残念ながら今ひとつうまくできていない、と私には感じられました。描写が甘くてキャラがブレていてつかみづらく、物語にノリにくいのです。それではこの決して身近ではない歴史ロマンの世界に観客をひっぱっていけません。ああもったいない、あと少しなんだけどなあ。

 さてそんなワケで政略結婚にもかかわらず一目会ったときに愛と信頼の火花が散ったふたりでしたが、その火が大きく育つ前にアンリは母ジャンヌの死がカトリーヌのもたらした毒によるものであったことを聞かされます。そして彼はカトリーヌもシャルルもアンジューもそしてマルゴも信じられなくなってしまう。黒い疑惑に侵されてしまうのです。だから結婚式の誓いに言いよどむ。むしろ復讐を誓ってしまう。
 アンリに心を傾けかけていたマルゴにはそれがショックなのでした。白さを取り戻しかけていた王女は動揺し、白かった王子の心は黒く染まっていきます。この錯綜、きゃああ萌える!
 そして初夜の寝室に押しかけるギーズ、アンリを妬かせるために入室を許可するマルゴ、そこへやってくるアンリ。三角関係たるものこうでなくてはね! ところで要するにここでは初夜はなされなかったということのようですが、でも無理チューくらいあってもよかったのよ田渕くん!!

 というワケでふたりの結婚によりカトリックとプロテスタントの融和は図られた…ように見えてもそうは問屋が卸さないもので、シャルル、アンジュー、ギーズにコリニー(松風輝)さらにミシェル(遥羽らら)といろいろこじらせたあげく、サン・バルテルミの虐殺に至ってしまう。アンリはマルゴに庇われるものの囚われて改宗を迫られ、オルトンの命を救うために承諾する。幕…

 二幕はよくできていたと思います。自分の中でキャラ補正をして観られたし、とにかく話の展開がおもしろかったです。なので逆に細かい流れを覚えていなくて怪しいです、すみません…
 軟禁状態のアンリを訪ねたマルゴは真情を吐露し、アンリのマルゴへの疑惑も晴れて、ついにふたりは心を通わせます。そしてマルゴはアンリをナヴァールに帰してあげようとする。アンリはマルゴも連れて行くと言う。愛の逃避行ですね! しかしまたまたそうは問屋が卸さないのでした。
 史実ではカトリーヌ母后はアンジュー公を贔屓というか盲愛していたようなんだけれど、せーこのカトリーヌはクレバーで本当に国家と王家の安泰を考えていて、シャルルのことは繊細で神経質すぎるのには困っているけれどちゃんと評価しているように見えます。だからアンジュー公が兄を亡き者にして自分が王位についちゃおうとするのは彼の暴走なんだけれど、そのあたりは説明がやや足りなくてキャラブレして見えたかな? でもかなこちゃんは悪巧み系美形がぴったりというか、冷酷なナルシストが似合う美貌なのでハマっていました。
 そんなワケでアンジュー公は今度はシャルルに毒を盛り、アンリの逃亡計画を潰し、マルゴとの結婚も無効にして自分の王国のために新たな政略結婚をさせようとします。マルゴは叫びます、「私の夫はアンリよ!」イイですねー、燃える展開です。
 アンジュー公が国王になるならギーズは従わざるをえません。しかし彼のマルゴへの執着はホンモノなのでした。彼は狂信的なカトリック信者に見えましたが、実は無神論者だったのでした。彼は神も宗教も信じていない、彼が欲しいのはただマルゴだけだったのでした。そういう意味では壊れてしまった男だったのでした。
 ここまではかなこちゃんの悪さ黒さがむしろ二番手格に見えたのですが、ここにきてりんきらの色悪っぷりが効いてきました。ただしただのイッちゃってる困った人に見えちゃうとかわいそうなので、宝塚歌劇的には愛に狂った悲しい男に見えるよう繊細な演出の配慮が必要です。りんきらは上手すぎて怖すぎてギリギリだったかもしれません。
 ギーズはアンジュー公を殺し、その罪をアンリに被せて、マルゴを手に入れようとします。そしてアンリとギーズの一騎打ち。活劇たるものこうでなくちゃね!
 そうして嵐は去って、王位継承権はマルゴの夫であるアンリの手に転がり込んできたのでした。しかしプロテスタントの王をフランス宮廷は認めず、戴冠式の大広間に貴族は誰も集いません。
 けれどアンリはかまわずにマルゴとともに踊り始めます。ふたりだけの舞踏会です。『仮面のロマネスク』か!
 しかしこのラストシーンは美しい。今は誰に認められなくてもいい、けれど神に定められた正統な王位はこの手にあり、神に祝福された結婚をした愛する妻の手も取っています。この愛があれば、神を信じ、民を慈しみ、カトリックとプロテスタントを結んで平和な国を作っていける。苦しい境遇の中でも希望と未来を信じる若いふたりを描いて、物語は終わるのでした…
 素敵じゃないですか!
 難点は、最終場の大広間の場面は前場からお衣装を変えて出てきてもらいたかったこと。仮にも戴冠式なんですから!
 ところでラス前のカトリーヌとルグジェリ(花音舞)の場面がとてもよかったな。タイトルの「サンクチュアリ」とは一般には「聖域」と訳されるでしょうが、プログラムにもあるとおり田渕先生は「罪人の隠れ場所」という意味もつけているようです。そしてここでのカトリーヌはちょっと痴呆が入ってしまっていて、シャルルやアンジュー公を未だ幼い子供のように語ったりしている。そもそもの元凶であったとも言えるカトリーヌが行ってしまった世界、それもまた「神の定めた聖域」サンクチュアリだったのでしょう。
 ただの歴史活劇なら、そしてただのラブロマンスならなくてもいいくだりだっただけに、私はぐっと来ました。

 …というわけで全体になかなかに重厚な歴史ロマンで、人間ドラマで、みっちり緊密なお芝居が組み立てられていて、これから緩急やメリハリがついてくればさらに陰影が出ていい舞台に仕上がるのではないかと思います。だからこそ冒頭のキャラブレだけが玉に瑕かな、あれは生徒の演技ではおそらくどうにもならないので。
 宙組の秘蔵っ子で新公主演経験もバッチリ、なのに宙組プロデューサーがなってないのか他組に比べてバウ初主演作が遅れた愛ちゃんでしたが、上背あるしスタイルいいし押し出しいいしコスプレ力あるし真ん中力もある。歌も楽なキーのものを書いてもらえたのか問題なかったし、何よりお茶会なんかでの発言もそうだったけれど本人にやる気と責任感があっていい意味でガツガツギラギラメラメラしていてとても頼もしい。もう立派なスターさんだと思います、本公演でもちゃんともっと使ってほしいわー。
 ゆうりちゃんはこれまたヒロイン経験も豊富でほぼ仕上がった娘役スターですね。歌は課題として残るものの「マイク事故?」みたいな不安定さや声量のなさは克服できたようだし、何よりこの美貌と雰囲気は武器ですよ。まあ娘役人事は相手役とタイミングによるのでなんとも言いがたいですが、ぜひ良きポストを見つけてあげていただきたいです。
 というか愛ゆうりのお似合いっぷりはハンパなかった。絵柄が同じ、掲載誌が同じってやつですオタクが言うところの。あと愛ちゃんはキスシーンも色っぽかったわー、星空をバックにゆうりちゃんを後ろからかき抱く愛ちゃん、麗しかったわー!
 りんきらは上手いのは知ってはいましたが、それに見合う大きな役をもらえてこれまたよかったよかった。というかバウの二番手ってやっぱおいしいよ、というかそうあるべきだよ、私は振り分け前はここにあっきーを期待していたのですが…まあそれは言うまい。
 で、以下、さおりおかなこまりなあきもと、みんなすごくいい仕事するんですけど!? みんなもっとちゃんと本公演でも使ってくださいよ、他組ならここまでショーで銀橋渡ってますよマジで! もちろんまっぷーは敢闘賞ものです、これまた上手いのは知ってはいましたけれどね。
 そして娘役ちゃん陣も、まずしーちゃんがルイーズ(彩花まり)というまっぷーコリニーの密偵を務める女官役で、役らしい役がついていて嬉しいよ! 美人で賢くて、秘密を聞き出すためにアンジュー公の夜伽もしちゃうのよキャー! 女スパイたるものこうでなくてはね!!
 そして愛白もあちゃんのマルゴの侍女シャルロットもよかった。何しろ声がよくて雰囲気があるので役不足なくらいでしたが、ちゃんと使われていて嬉しかったです。
 そしてそしてららちゃんミシェル、色男のギーズに捨てられてでもつきまとっちゃって、役に立とうと偶然聞いた秘密を伝えちゃう役回り。でも職業スパイじゃないから交換条件は「お慈悲」です。そしてギーズにやっとキスしてもらえる…たまらん! しかしここは「お慈悲」ではなく「お情け」だと思うぞ田渕先生!!
 侍女Sではやはり華雪りらちゃんが可愛くて目立ちました。ららりらは少しも早くダブルトリオに使おう、宙組の編成は変わらなさすぎる。ゆうりちゃんの下の代の娘役を育てて、育てて!
 座長のせーこ、素晴らしかったです。若い座組をよくまとめたと思います。
 ああ、いい演目だった、楽しい観劇だった。純粋にそう思えました。現トップスターの卒業が発表されてからその後の展開が何もありませんが、戦力はうなるほどありますよ。宙組の未来に幸多かれ!






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『シェルブールの雨傘』

2014年09月07日 | 観劇記/タイトルさ行
 シアタークリエ、2014年9月2日ソワレ(初日)。

 車の整備士として働くギイ(井上芳雄)は伯母のエリーズ(出雲綾とふたり暮らし。恋人のジュヌヴィエーヴ(野々すみ花)との結婚を夢見るが、ジュヌヴィエーヴの母で傘店を経営するエムリー夫人(香寿たつき)は若いふたりの仲を認めようとしない。ある日エムリー夫人の元に税金の督促状が届き…
 脚本・作詞/ジャック・ドゥミ、音楽/ミシェル・ルグラン、演出・振付/謝珠栄、翻訳・訳詞/竜真知子。1964年にカンヌ国際映画祭グランプリを受賞した同名のミュージカル映画の舞台化。2009年初演の再演版。

 初演の感想はこちら。評判が良くて、となみが観たくて、追っかけで捕ったチケットじゃなかったかなあ…今読むとけっこうキャラクターに対する印象が違うんだな、私が変わったのか演出のニュアンスが変わったのか?
 細かいことは忘れていて、今回はスミカを観たくて出かけました。スミカの卒業後の舞台はいくつも観ていて、どれもちゃんとしたリアルな肉体を持った役だったけれど、今回のハンパないフェアリーっぷりはどういうこと!? 細い! 可愛い!! いじらしい!!! はかない!!!!
 小さくて芳雄くんの腕の中にすっぽり納まって、ホントにフランスの田舎町の16歳のお嬢さんで。ママに逆らったり大人ぶったり、でもまだまだヤングなお年頃のザッツ少女。深く渋い演技はいらないかもしれない、そしてこの全編歌のミュージカルには歌唱力がやや怪しいかもしれない。でも今回のスミカは全身でジュヌヴィエーヴだった。やっぱり怖ろしい子!

 そして大人のお伽噺というか、でもリアリティあるラブロマンスというか、この作品の世界観に浸りきりました。
 悪い人はいない。カサール(鈴木綜馬)はお金でジュヌヴィエーヴを買ったのではない。エムリー夫人は安楽のために娘を売ったのではない。マドレーヌ(大和田美帆)は献身でギイの愛を買ったのではない。そういう打算や算段はなくて、ただ純粋な心のままに動いて、そこに戦争があって、狂わされた人生があった…というだけのこと。
 時がたって再会して、でもみんな幸せで、だから何も起きない。ただ雨が雪になっているだけ。せつない、悲しい、でも過去の顛末がなければ今の幸福はなく、現在と未来はそこに立脚している。だからまた別れていき、雪だけが降り積もる…

 おもしろいのはやはりフランスの文化というか社会的な空気で、未婚の母になることとか結婚しないことを日本のように悪いことだとか恥ずかしいことだとか思っていない感じなんですよね。他の男性の子供をお腹に抱えて別の男性に嫁ぐことにもそんなにハードルが感じられない。だからエムリー夫人もそういうことを理由に娘を追い込むようなことはしない。ただ娘の幸福や安定を望んでいるだけ。
 そしてそれはやはり時代柄なのか、ジュヌヴィエーヴには生死もわからないギイの帰りをひとりで待って子供を産み育てる、なんて選択ができなくて、心のよりどころを欲したし、カサールさんの好意や恩義に報いたい気持ちが確かにあったんだよね。だから売られた花嫁、みたいな悲壮感はなく、ただ悲しくせつなく嫁いでいく。でもそこに嘘がないからこそ、ふたりの間にはのちに時間をかけて愛情が育まれたのだろうと思います。
 ギイがフランソワーズに会うことを望まないのも薄情だとは思わない。自分にはフランソワがいるし、だから同じようにフランソワーズはカサールの子供なのです。血がどうとかではない。そんなのはただの感傷です。
 ふたりはほとんどお互いのことを忘れていたでしょうけれど、それでも真に忘れ過去として消化するために、この再会は必要だったのではないでしょうか。我々観客はそこで泣くけれど、彼らはそれを乗り越えて未来に向けて力強く歩き出すのです。
 そんな悲しくも美しい、物語なのでした。古いとは思わない。愛され続けていくといいなあ。

 アンサンブルの美しさ、使い方の妙が素晴らしい舞台でもありました。可愛らしいセットも作品に似合っていました。良き公演となりますように。スミカが芳雄くんファンに愛されますように!(^^;)


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