駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

ディナーショーが好きです

2014年09月06日 | 日記
 といってもタカラジェンヌのにしか行ったことがありません。松田聖子とか小林幸子とかすごそうだし楽しそうですけれどね。
 最初に行ったのはなんだろうなあ、覚えてないなあ。わりと宝塚歌劇を観始めてすぐの頃に、ワケもわからず先輩に連れて行かれたんだと思います。たぁたんだったんじゃないかなあ、歌が上手いとは思っていたけれど舞台の男役の声と違って柔らかな女性の歌声で驚いた記憶があるなあ。
 やや観劇から遠ざかり気味だった間にお酒を覚えたので(笑)、ファン復帰してからはお酒がじゃんじゃん呑めていい気分になったところに綺麗なスターを普段の舞台より近くに見られる夢の時間、という捉え方になりました。もちろん高額だし大人の贅沢なんですけれどね。
 でもショー、公演のひとつのスタイルとしてとてもおもしろいものだと思うし、観劇のように楽しんでいるところはあります。
 あと私は、歳をとって年々ずうずうしくなっているということもありますが、もともと外弁慶というか、知り合いの前だとテレたりええかっこしいでスカしてできないことが知らない人に対してだとできるというか、「旅の恥はかき捨て」をモットーとしているというか、一期一会を楽しむワザを習得してきたというかで、ひとりで参加してその回に一緒になったテーブルの人とその場限りの楽しいトークをするのがものすごく好きなんですね。
 だいたいがみんなそのスターのファンなんだし、目当てが違っても少なくとも宝塚歌劇のファンではあるんだからたいていは話が合います。たまに好き方が著しく違って話が合わないな、というときももちろんありますが、そのときは黙って周りの話を聞きながらひとりで飲み食いするのも私は全然平気。いたたまれないとかない。
 先日は、お友達同士が三組、あとはみんなおひとりさまのテーブルで、最初のうちはその三組はそれぞれのお友達とだけ話していておひとりさま組は無言、だったんだけれど、私が隣の組に話しかけたらそれがあっという間に向かいの組に拾われて、テーブル中でひとつの話題になってみんなで話ができてとても楽しかったことがありました。そういうコミュニケーションがものすごく好き。ショーは付け足し課と思うときすらあります(笑)。
 いやでもやはりショーも大事なので。てかディナーショーなので。
 そこで提言があるのですが、ディナーショーの会場は劇場ではなくホテルの宴会場で、要するに平場です。劇場の客席のように傾斜がついていることはない。なので舞台をもっと高くしてくれないと、遠い席からでは演者の下半身がほとんど見えないときがあります。
 別に下半身が見たくて言っているのではなくて、でも演者というものは全身を使ってパフォーマンスするものだから、顔さえ見えていればいいというものではないはずなのです。舞台を高くできないのなら、見切れることを折り込み済みで後方席は安くするべきです。同じ額を払って配席次第という博打を打つには高額すぎると私は思う。払える大人だからこそ言う。ここで書くだけでなく伝わるところに伝えます。
 そしてみんながもっと楽しめるといいな、と思うのでした。

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黒娜さかき『青春♂ソバット』(小学館IKKI COMIX全4巻)再読

2014年09月06日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名か行
 清く正しい童貞・有田青年と深く濃ゆ~いゲイ・白洲くんの嬉し恥ずかし青春譜。

 完結巻購入時の感想はこちら。当時はなんかぴんと来ないまま、それでも愛蔵していたんですね。
 て、久々に再読したのですが、なんかすごく萌えました。そしてするりとハマった。
 そして「私が読みたいユリは、このユリ版だ!」とひらめきました(笑)。

 有田はノンケです。白洲にキスされたときも、それを加藤さんに見られて、白洲のことを好きらしい加藤さんの心情を思いやるような、優しく気のいい好青年です。
 好青年だから、白洲がゲイだと知っても、まして自分を口説いたんだと理解しても、引いたり気持ち悪いとか思ったりしない。それはそれとして、友達として普通につきあう分にはいいヤツじゃん、とか思ってしまえる心のしなやかさを持っている。
 でも白洲はゲイなので、口説いてフラれたのなら有田と普通の友達づきあいをする気はない。だから距離を置こうとする。なのに有田はあくまで友達として懐いてくる。
 白洲はゲイで有田のことが本当に好きだから、ノンケの有田を尊重してただの友達でいようとする。
 有田はノンケだけど白洲のことが本当に好きだから、そして童貞で性的なことに興味があるから、キスくらいならいいよとか触るだけならいいよとか言ってすり寄っていく。
 白洲には今もこれまでも彼氏がいたしいるし性体験はある。ネコだが正式(?)な挿入はされたことがないようで、だから有田と性的にじゃれてもそれはほとんどマスターベーションの延長に過ぎないようにも見える。
 同性同士の挿入のない性行為に私があいまいなロマンを感じるのはまさにこの点なんですね。女性同士だとどちらもペニスを持っていないからそもそも挿入・被挿入(?)ができないわけですが、男性同士だとできてしまう。でも私はホントのところはわからないけれど男性にとって被挿入というのはかなりハードルが高いのではないかと思っていて、ノンケがあっさりここを乗り越えちゃう展開のBLってちょっと嘘くさいのではないかと思っているのです。ゲイでもみんながみんな挿入行為をしているわけではないのではないかとも思っています。
 だからって男女の挿入行為だけがセックスだ、と言いたいわけではないのですが、しかしそういう凸凹感(?)がない場合、他人なんだけど形としてはあくまで自分と同じタイプの肉体を持った相手を愛撫する場合、それってすごくハードルが低いと言うか、ちょっとうっかりしたら愛とかなんとかとかがなくても乗り越えちゃえそうな、ホント自慰の延長でできちゃえそうな行為に私には思えて、そのあいまいさ、はかなさ、あやうさ、いい加減さに何故かすごくときめくのですよ。ロマンを感じると言うか、興味があると言うか。愛ではなく好奇心や単なる性欲だけでやってしまいそうな。
 でも自慰って当然自分のことが好きで自分を喜ばせるためにするわけで、自分と同じくらい相手を好きじゃないと自慰の延長のノリで相手の肉体に手を出したりしないだろうし、でも自慰ってする自分が楽しいからするようなところもあるから相手は自分じゃなくてもいいというか、相手が自分じゃなかったら自慰じゃないんだけど、でも要するに行為としてはほぼ同じことをするだけだったら自分と同じくらい好きな相手にするんでも同じじゃん、というか、でもそれって要するに挿入がないだけで立派なセックスだよね、とか。
 でも自分と同じくらい相手のことを好き、なんてあるかな、それってちょっとすごいよね、それって立派な愛だよね、と思う一方で、好きなんて気持ちはとてもあいまいであやういものだし…とかとかいろいろ考えてしまうのです。
 で、この有田と白洲は、有田はあいかわらずノンケのまま、白洲はあいかわらずゲイでネコのままで、友達とも恋人ともセフレともカテゴライズできないまま、あるいはしないまま、でもお互い他に誰かを作ることもなく、10年後も、20年後も、つきあっていてお互いの誕生日を祝ったりなんかしている。
 そういうことが、いかにも嘘くさいイージーなBLよりはリアリティがあるような、でも恋愛というか人間関係のあり方としてとてもロマンチックででもファンタジックでもあるような、そんな不思議な感じがして、それで私はこの作品が好きなのでした。
 そして、話が最初に戻りますが、こういうユリ、つまりこれの女性キャラクター同士版を読んでみたいな、と思ったのでした。たとえば私が志村貴子『青い花』に求めて得られなかったと思ったのは、たとえばそういう部分だったのです。
 女の子同士で、友達で、仲良しで。でも一方はストレートで処女で、もう一方はレズビアンで性経験がある。性指向と性経験に差があって、でも同性で好意があって、そうしたらふたりの間に横たわるハードルってけっこう低いんじゃないの?みたいな。でも乗り越えていいの? それって愛? ただの好奇心? 同情? マグロでいるだけなら誰でもできるしね? でもそれでいいの? そんなことがしたかったの? それが欲しかったもの? …みたいな話を、読みたい。ものすごく個人的な嗜好ですみません。
 でもそこに、こんなにも女子が好きなのに(笑)異性にしか性欲が持てず異性としか性経験がない自分にとってのドリームとファンタジーがある気がするんですよねー。
 まあとりあえずユリに関してはジャンルとしてもまだまだ開拓中なのだろうし、実際はかなりニッチな業界なのだろうなとも思うのですがね…まあ要するにまずはもっといろいろ読んでみたいということですかね。
 …ヘンなまとめになってしまった。これは書評じゃないだろう日記だろう。でもまあいいか。

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最相葉月『セラピスト』(新潮社)

2014年09月06日 | 乱読記/書名さ行
 密室で行われ、守秘義務があるため外からはうかがい知れない。呼称や資格が乱立し、値段はバラバラ。「信頼できるセラピストに出会うまで5年かかる」とも言われる。「心」をめぐる取材はそんなカウンセリングへの不審とある論文をきっかけに始まった。心の治療のあり方に迫るノンフィクション。

 私自身は、幸いなことに、本当の意味で心を病んだことはないのだと思います。
 思春期に「死にたい」と思ってみたり、「みんな死んじゃえばいいのに」とか「世界が明日終わってしまえばいいのに」とか考えたりするのはあくまで一過性のものだったと思いますし、そう深刻なものでもなかったように思えます。私にはものごころついたときから創作というか妄想というか、そういう逃げ道というか拠り所を持っていて、それで心のバランスを取っていたのだと思います。
 職場の上司と合わなくて会社に行きたくない、みたいなことに悩んだときも、本当に家を出られなくなったり電車に乗ると吐くみたいな事態にまではなりませんでした。異動の面談で希望を話せたし、結果的には離れることで解決しました。
 思うにやはり、常にフィクションというか創作というか物語を身近に生きていることが私には大きくて、そういうものを摂取して、話が合う友達と感想を言い合ったりして、もちろん世界は物語のようには美しくないし上手く進まないし丸くも収まらないのだけれど、そういうふうに把握することで自分と世界のチューニングをしているのかもしれない、と思うのです。だから狂わないでいられるのではないかなあ、私は、ね。
 でも人が心のバランスを崩したり世界とうまくいかなくなったりするのにはさまざまな理由や原因があり、一概には言えないのでしょうし、それがその人のせいだとかその人が弱いからだとか言うつもりは私はまったくありません。
 ただ、そういう人を治療する、なんとことが本当にありえるのかな、とちょっと懐疑的でいることは確かです。そんなこともあってこの本に惹かれ、読んでみました。
 結果としては、私にはよくわかりませんでした。やはりケースバイケースなのだろうし、それは著者が自分の症例を書いても表現しきれるものでもないのだろうし…
 でも無益だったとかそういうことではありません。自分は自分なりに世界と上手くチューニングを続けてがんばって生きていこうと思ったし、何か危ないなと思ったり身近に苦しんでいる人がいたらこういうところにも頼れるらしいよ?くらいのことは言える選択肢ができました。
 しかし本当に、治すことをお仕事にしている人というのは大変なんだろうなあ…とは思いました。失礼ですがなんと酔狂な…とも思ってしまいます。でも手応えがあって、意義を感じてやっているんだろうなあ。すごいよなあ、でもしんどそうだよなあ…
 ううむ、やはり私は根本的なところでは眉唾だと思っているのかもしれません、すみません。
 そんなことをいろいろと考えられた、いい読書でした。

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