駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『白鳥の湖』

2014年09月11日 | 観劇記/タイトルは行
 シアターオーブ、2014年9月11日マチネ。

 初来日公演時に観劇したときの感想はこちら
 今回プログラムを購入しなかったのですが、「アドベンチャーズ・イン・モーションピクチャーズ」という団体名ではもう活動していないのかなあ? というか「マシュー・ボーンの『白鳥の湖』」ってタイトル、死ぬほど恥ずかしいんですけれど…
 アドベンチャーズ~の『ザ・カーマン』の感想はこちら
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 『ドリアン・グレイ』の感想はこちら

 この日のザ・スワン/ザ・ストレンジャーはアメリカン・バレエ・シアターのプリンシパル、マルセロ・ゴメス。王子はクリストファー・マーニー、女王はアンジャリ・メーラ、ガールフレンドはキャリー・ジョンソン、執事がポール・スメサースト。
 とにかくおもしろかったということだけ覚えていて、久々にチケットを取ったのですが、やっぱりスリリングでエキサイティングでおもしろかったです。
 でも初観劇時の自分の感想を読んで、いろいろ印象が違うのにけっこう驚きです。
 今回の王子は少年のようには見えませんでした。小柄ですががっしりしている感じで、少なくとも成人はしている感じ。そんなに神経質そうでもない。でも生きづらさは感じていて、母親がハンサムな衛兵をエスコートに摘発するのを嫌がったりそうかと思えば赤ちゃん返りというにもどうなのというくらいの執着っぷりを見せたりして、自分でも自分をもてあましている感じでした。
 そこに現われたザ・スワンは王子より大柄で、鳥なんだけど肉食の獣のようにも見える。誘惑する同性愛者とか自由気ままに生きるボヘミアンというよりは、ただただ人外のようでした。でも王子に対して優しいところもある。その不思議さ。それで確かに王子は救われたのでした。
 でもザ・スワンと瓜ふたつのザ・ストレンジャーは猛々しいマッチョな「男」で、宮廷の夜会をかき回し女王すら虜にします。執事とは顔なじみ、というかそれこそゲイカップルに見えました。執事がロットバルトだとは思わなかったな、でも彼らは確かにこの国をのっとろうとしているのでした。
 王子が死んで、女王は未だ色気を失っていないとはいえさすがに新たな子供を産めそうな歳には見えず、跡継ぎのいないこの国は執事とザ・ストレンジャーに牛耳られ蹂躙されて滅ぶ未来が見えます。王子もまた、天国でザ・スワンと幸せになりました、というようには見えません。
 そもそも白鳥たちは何故ザ・スワンと王子を攻撃したのでしょうか。王子がザ・ストレンジャーにふらついたのを怒って? ザ・スワンはそれには怒らず、王子を庇って仲間たちに責められて死んだ? ラストがやっぱりよくわかりませんでした。
 人はここではないどこかでないと愛する者と結ばれない、ということかしら。ここではないどこかでないと、自分らしくのびのびと生きられないということかしら。悲しいなあ…
 初演からだいぶ月日が経っていることでもありますし、ラストの解釈、ないしラストそのものがまた違ってきてもいいのかもしれません。
 ああでもまたバレエ・ブランが観たくなりましたよ、年内のバレエのチケット取ってないなー、何か行きたいなー。バレエファンにこそ観てもらいたい舞台だとも思いました。
 チャイコフスキーも喜んでいると思います。少なくともおもしろがってはいると思います。隠れて生きた同性愛者だったそうですしね。あるいは性的嗜好にかかわらず、芸術家というものは多分に生きづらいものではあるのかもしれません。だからこそ美しい芸術が生み出せる、という皮肉な考え方は、あまり支持したくないのですけれどね…

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『HISTORY BOYS』

2014年09月11日 | 観劇記/タイトルは行
 世田谷パブリックシアター、2014年9月10日ソワレ。

 1980年代の英国。高校の進学クラスで学ぶ8人の生徒たちは、オックスフォードやケンブリッジなど名門校を目指し受験勉強に励んでいる。校長(安原義人)はひとりでも多く名門校に入学させたいが、一風変わった老教師のへクター(浅野和之)が詩歌を引用したり歌を歌ったりの型にはまらない授業を行うため、オックスフォード卒のアーウィン(中村倫也)を臨時教師として迎えることにした。若きアーウィンはへクターとは対照的な徹底した受験指導を行っていくが…
 作/アラン・ベネット、翻訳/常田景子、演出/小川絵梨子、美術/堀尾幸男。2004年ロンドン初演、映画化もされたトニー賞受賞作。全2幕。

 デイキン役の松坂桃李くんも好きですが、『フル・モンティ』がよかった中村倫也の初主演作とあって出かけてきました。新進気鋭と今話題の小川演出は『クリプトグラム』、『OPUS/作品』を観ています。
 いやぁしかしよかった! シビれました。久々に脚本が読みたいなと思った作品でした。私は戯曲を読むのがそんなに得意ではないし、台詞が舞台上でわからなかったとかそういうことではなくて、でもただ活字で、文字で、再び捕らえなおしたいなと思ったのです。オタクなので。それくらいいいことを言っていた、含蓄に富んだ台詞が多かったと思うので。
 簡素なセット、床に敷いた紙を答案用紙にしてビリビリ破いていってしまうアイディア(既出のものだそうですが)、最後の残りが棺というか遺体を覆うシートのようになって持ち去られる演出…素晴らしかったです。

 好みとしてはデイキンがもうちょっとだけ小さいか、アーウィンが細くてもいいから背が高いとよかった。つまりふたりの背の高さ、体格が同じくらいだとなお萌えられたのです。私はBLで受け攻めに体格差がありすぎると男女を想起して萎えるので。
 でも余計にせつなくなったかな。アーウィンの心情を慮ると、もうやめてあげてデイキン!と何度も叫びたくなりました。
 だから私はデイキンが死ぬのかと思いました。アーウィンの車椅子の原因はへクターのバイクだろう、事故に巻き込まれたか何かして怪我をするのだろう、と終盤近くなって思いつき(一幕のうちはむしろ病気か何かにかかったのかと思っていました。たとえば筋ジストロフィーとか、そんな)、デイキンもまたその事故に巻き込まれて命を落とすのだ、あるいは轢かれるのだ、と。
 だっていかにもありそうじゃないですか。デイキンはなんでも持っている。ハンサムで成績優秀で校長に目をかけられクラスメイトたちの人気を集めガールフレンドまでいる、何不自由ない不遜な少年。そんな人間こそが若くして命を落としそうなものじゃないですか。
 でも違いました。バイク事故で亡くなったのはへクターでした。せっかく失職が免れたのに。もうすぐ定年だったのに。
 ヘクターは死に、デイキンはその後も羽振りのいい人生を歩んでいく。人生って確かにそういうものだけれど、そんな皮肉をつきつけてしまうのがこの作品だったのでした。

 デイキン自身は自分や現状に満足してばかりでもなくて、でもとにかく「持てる者」の明るいオーラは灯りが蛾を引き寄せてしまうようにある種の人間を捕らえて放さないのです。たとえばポズナー(太賀)、たとえばアーウィン。愛されるからますます自信をつける、ますます輝く、それがますますそうした人を魅了する。でも彼らが愛し返されることは決してないのです。
 ポズナーにも、アーウィンにも、スクリップス(橋本淳)にも、おそらくこの世は生きづらいところなのでしょう。今なお彼らはあまり幸せではないかもしれない。けれど生きていくしかない。生まれてきてしまったから。荷物を次に渡さなければならないから。
 この台詞の原語はなんでしょうね? 「荷物」というと日本語としてはやや負荷とか負担を思わせるように感じます。でもヘクターが言う「自分が受け取った荷物を次の人に渡せ」というのは、単に自分が受け取ったものを、というだけのようにも聞こえます。
 自分が受け取ったもの。命。教育。教養。愛。何かそういったもの。周りに、でもいいし子供や孫といった次の世代、ということでもいい。とにかく誰かに。自分のところで終わりにしないこと、渡すこと、それが大事。
 それができる人間を育てることを目指して、ヘクターは生きていたのではないでしょうか。それが教師としてのあり方だと考えていたのではないでしょうか。

 一方でアーウィンが教えるような受験テクニックもまた必要な場合がもちろんあります。結局は名門校に合格することだけでなく、世間で生きていくためのテクニックに通じたりもするからです。
 でもアーウィンもまだ勉強中の人間なのでした。教師に恵まれなかったのかもしれないし、志望校に合格できなかったことも大きいのかもしれないし、何しろ彼は若いのです。
 その後も彼は生きづらく暮らしているのかもしれませんが、スクリップスとの再会がいい方へと変わる転機になることを祈りたいです。スクリップスにとっても。

 私はマスコミに勤めていてもジャーナリズムを担当したことがないのですが、その痛烈な批判には心が冷えました。創作とは対極にあるものだと作者は考えているのかもしれませんね。

 シニカルで、でもユーモアがあって、深くて、悲しくて、乾いていて、でも温かくて、うっすらと明るい。そんな美しい舞台でした。
 あと紅一点の鷲尾真知子が素晴らしかった!



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田中ロミオ『人類は衰退しました』(小学館ガガガ文庫全9巻)

2014年09月11日 | 乱読記/書名さ行
 わたしたち人類がゆるやかな衰退を迎えて、はや数世紀。すでに地球は「妖精さん」のものだったりします。平均身長10センチで三頭身、高い知能を持ちお菓子が大好きな妖精さんたち。私はそんな妖精さんたちと人との間を取り持つ「調停官」となり、故郷クスノキの里に帰ってきました…ゲーム・シナリオライター田中ロミオの作家デビュー作で、テレビアニメ化もされた人気シリーズ。

 男子向けライトノベルもレーベルによって特徴があるでしょうし、また作品によってもかなり傾向が違うのでしょう。その本当の良さは男子にしかわからない、というタイプのものから、実のところ読者の性差をあまり問わないものまでいろいろのようです。
 この作品は後者の典型的な例かと思います。リリカルなイラストは女性読者が眉をひそめるタイプの萌え絵とは違う、可愛らしく叙情的なものですし、主人公はごく普通の女性です。ちょっと人見知りで頑固なところがあって、周りの人より妖精が見えて妖精とつきあえる、という変わったところはあるにしても、それはあまり性差によるところのものではない。ジェンダーフリーな作品なのでした。
 何より古き良きSFの香り、サブカルの香り、ジュヴナイルの香りに私はシビれて、本当に楽しく読みました。
 それになんといってもタイトルが、つまり「人類がゆるやかに衰退してはや数世紀」という設定が素晴らしい。
 私がものごころついてSFを読み始めた頃は50年代アメリカSF黄金期の影響を引きずっていて、ワープ航法とか光粒子なんちゃらエンジンのロケットだかなんだかで人類が銀河系だのアンドロメダ星雲だのを飛び回り版図を広げまくりちゃんばら大冒険を繰り広げるようなスペースオペラがある一方で、コンピュータだの人工子宮だののハイ・テクノロジーが開発されてなお子供が生まれなくなり人口が減り文化が爛熟し文明が滅びミュータントとかエスパーとかの新人類が生まれちゃうような諦観に満ちたディストピアものがあって、そういう世界観というか宇宙史観というかは私の心に決定的に確立されました。
 高度成長期に育ちバブルがはじけるどころかまだその泡が生まれきっていないころにおいてさえ、しかしこのまま人類が発展を遂げ続けることなどありえない、種としては終わりに近づいており、我々の前に西暦で2000年ほどの文明の時間があったからといって未来に同じだけの時間なんてあるワケない、30世紀の未来とかちゃんちゃらおかしい、このあとせいぜい10世代くらいしかもたないんじゃない?というのが私の人類観だったのでした。
 だから最近、それが共通認識でないことに驚きです。たとえば少子化対策のジタバタっぷりとかね。何やったって無理なんですよ、人類は生殖の欲望も能力も失いつつあるんだから、種として終わりに近づいているんだから。女性の活用とかバカ言ってんじゃないよ、女性のせいじゃないの、とフェミニズムとは違った意味で怒っていました私。ただもちろん今現在が本当にたくさんの人にとって生きづらい社会であることは確かだから、是正はされるべきだと思うし、それでなるだけたくさんの人がなるべく幸せに生きていくべきだと思いますが、しかしそうした社会が実現しても子供は増えないと思う、だって人類はもう終末を迎えているのだから…
 という考え方があまり一般的でないことに私は驚愕しましたねホント。いいじゃん滅んでも。仕方ないじゃん。滅ばないものなんか何もないんだよ? すべてのものがいつかは滅ぶの。何故人類だけ特別だなんて思えるの?
 イヤもちろんこういうふうに考える私の方が少数派なのでしょうが、しかしだからといって少数派が必ずしも正しくないということではではない。
 何度でも言いますが人類は衰退しているのです。近々に滅亡するとまでは言わないまでも現在絶賛進行形で衰退しているのです。それは認めましょうよ、進化と発展繁栄はすでに終わったのだと認めましょうよ。
 あきらめてるのではない、投げ出しているのではない、ただ事実を事実だと捉えるだけのことです。
 誤った現状認識でなされる施策は無意味でありむしろ有害です。私が政府に、少子化対策なんちゃらとか女性活用なんちゃらとかに言いたいのはそういうことです。
 そしてこの作品はそんな思いをすくいとってくれたのでした。人類が衰退を迎えて数世紀たったころの物語です。しかるべき未来の話としてまっとうに正しいし、若者が読むライトノベルとして正しい。若い心を持った読者にも沿うでしょう。不幸にして今までこういう未来のヴィジョンをもたなかった者には良き啓示となるはずです。いいSFってそういうものです。
 でも各巻はただの(ただの言うな)サブカルおたくニヤニヤ話です。それも楽しい。
 そして最終巻が前巻から一年以上開けて刊行という力作っぷり。ここが本当にSFとして真骨頂、そして素晴らしいシメでした。
 人類は衰退し、かわりにいつの頃からか妖精さんたちが生まれていました。生まれて、といっても楽しいと湧いてきて増えて楽しくないと減って消えるという怖ろしい生き物です。というか生物と言っていいのかさえ怪しい存在です。妖精の命はあいまいなのです。
 一方で決してあいまいでないもの、あらゆることを大断絶前はできていたかもしれない人類が唯一自由にできなかったもの、それこそが「命」なのでしょう。子供が増やせなくなっていることもそうだし、死んだ人を生き返らせられないのもそうです。命はあるかないかしかない、あいまいではない。魂は違うにしても。
 だから今ある命を大切にして、むやみに投げ出すこともなく無理に増やそうとすることもなく(しかし助手さんとのラブコメ展開はあってもいいのだが!)、淡々と生きていけばいいのです。それが全人類がすべきことです。今と変わらない。
 そして命を大事にして無理せずていねいに生きていけば、絶対に楽しいことは生まれてしまう。それが人類の凄みであり強みです。だから妖精も寄ってくる。
 楽しいことは大事です。ただ生きていればいいのではないのです、楽しまなければいけないのです。それは人類の義務です。
 宿命であり呪いかもしれない。でも私たちはそういう種族なのです。これはそんなことを言っている小説なのだと私は思いました。
 人類がついに絶えるその日に、そばで見守ってくれているであろう妖精は、守護天使のように見えるのでしょうか。いつも心に妖精を。いいキャッチだと思うなあ。

 本編は完結しましたが、番外短編集の刊行予定ありとのこと、楽しみです。
 あとがきとかも大好きでした。エッセイストとかもできそうだけどなあ。その後の新作も期待したいです。


 










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『ifi』

2014年09月11日 | 観劇記/タイトルあ行
 青山劇場、2014年9月9日マチネ(Aバージョン)。

 ニューヨーク・マンハッタンでインディペンデント系の映画監督として数々のヒット作を生み出していたユーリ(蘭寿とむ)は、映像カメラマンのヒロ(Aバージョンではジュリアン)と暮らしていた。仕事に明け暮れるユーリに対し、ヒロはふたりの将来のことも話したがったが、それでもふたりは平穏な日々を送っていた。だがある日、ユーリとヒロは若者たちの喧嘩に巻き込まれてしまい…
 作・演出/小林香、音楽/スコット・アラン、扇谷研人、堀倉章、KENSHU、SUPA LOVE、映像・空間監督/東市篤憲、振付/SHUN、ケント・モリ、エイドリアン・カンターナ、ANJU、黒須洋壬、ティム・ジャクソン、chaos。
「もしもあのとき違う選択をしていたら…」がテーマのダンス・パフォーマンス・ショー…かな? 前花組トップスター蘭寿とむの女優デビュー作。

 小林香の作品は『ピトレスク』、『TATOO14』を観ているのですが、ものすごーく「!」だったことはない印象で、でもまゆたんの卒業後初舞台ですし、出かけてきました。
 普通のミュージカルとは違う、ストーリーのあるダンス・アクト、という意味では『La Vie』に近いのかな、とか思いつつ、楽しく観ました。映像の使い方やスクリーンの模様などの中二感にもニヤニヤしつつ楽しめましたし。ただ気持ち長かったかな、2時間でもよかった。ダンスを見せるにしては冗長に感じられる場面がありました。
 あと、ヒロインのユーリってヘンな名前ですね。恋人がヒロなんだから彼女も日本人か日系人だろうし、普通の日本女性の名前をつけたんじゃダメだったの? ミナでもユキてせもなんでもいいじゃん。
 あと「ヒロの弟(パク・ジョンミン)」ってヒドいよね、なんか名前つけたっていいじゃん。彼はユーリに横恋慕しているだけで最終的にユーリとくっつくとかいう展開のキャラクターではないからこの程度の扱いでいい、ってこと? でもキャラクターに対して失礼だろう。あと単に不便では?
 占い師(ケント・モリ)のそばでいつも舞うのが「謎の男(ストリードボードP)」なのはいいにしても、「大ヒット作曲家(辻本知彦)」と「友人(ライアン・カールソン)」って…私は彼は音楽の精みたいなものなのかと思ってしまいましたよ。ちゃんと名前付けてキャラクターとして扱ってあげてくれ…
 ところで「愛を選べない男(ラスタ・トーマス)」がこれまた「友人(Aバージョンでは佐藤洋介)」に結婚を止められ結局デキちゃうのはいいとして、作曲家と友人もそんなような関係に見えるから、ゲイ・カップルが2組も出てくる舞台なんですね。イヤいいんだけど。レズビアンのキャラクターはいないのにね。まゆたんがせっかくのヒロインなのに兄弟に取られ合うってほどでもないし、ちょっとしょぼん。

 Bバージョンも観ないと演目としての最終的な判断は下せないのかもしれませんが、私は1回しか観ないのでとりあえず私なりの感想ですが…
 ユーリは自分のせいでヒロを失ったと思っていて(まあぶっちゃけほぼそのとおりなんだけれど)、選択を誤ったと悔やんでいる、彼を取り戻したいと思っている、というところから始まる物語なんだけれど、ヒロが死んでいるのか、たとえば意識不明の重体で回復の見込みがないとかの状態なのかが不明瞭でしたよね?
 でも死んでしまっているのだとしたら(そして事実死んでいたのですが)、占いに依存しがちになるのはともかく、ヒロを取り戻そうとするというのはかなりユーリがやばい人に見えませんかね? ファンタジーの域を超えているというか。
 逆に言うとオチが見えているというか。ヒロが帰ってきちゃったらホラーでしょ、ギャグでしょ。
 でも最初からユーリが編集中の最新作が『オルフェ』だったりするので、当然それは死んだ妻を取り戻しに冥界に行って、でも取り戻せないで終わるオルフェウスの話だと誰でもわかるので、ユーリがヒロを取り戻しにいっても同じことになるのだろうという推定はできる。
 まあその上で観ても途中をおもろしがることは同じようにできるんだからいいんだけれど、「愛の奇跡を信じる!」みたいな構成にはなっていないので、私はちょっと出オチ感というかネタバレ感を感じました。
 ただ、「Aバージョンではユーリは恋人を取り戻しに」行き「Bバージョンではユーリは過去を変えるために」行く、となっているので、このあたりは全体を通してまた新たに見えてくるものがあるのかもしれません。
 でも、映画でも最近前後編みたいなものがあったりしましたが、普通の人は一回しか観ないし両方観ないとわからないとかいうんだったら二本立てにして一回にまとめてよ、という気もするので、あくまで一回観ただけの感想を私は語ります。
 だからそもそものユーリの行動拠点が違うし展開もまた違ってくるのかもしれませんが、私は各場面でユーリが選択する「This or That」がA、Bバージョンで違うのかな、でも結局結果は変わらない、というようなことになるのかな、とちょっと予想しました。
 だって過去は変えられないものだから。
 それを認めて、喪失を乗り越えて、未来に向かって生きていく、これはそんなヒロインの物語だと思うから。

 というワケでまゆたんは、私の好みとしてはもう少し髪が伸びていてほしかったのだけれど(私はとても単純なので長い髪は女らしさの象徴だと思っています)、パンツスタイルでもちゃんと女性だし白いワンピースやお臍も披露するし歌もダンスも楽しそうで、よかったのではないかと思います。
 ファンはもっとバリバリ踊ってもらいたかったのかもしれないけれど、やはり宝塚歌劇のトップスターとはこれからはあり方が違ってくると思いますからねえ。ミュージカル女優になるのかな、ストレート・プレイもやるようになるのかな、ダンサーとしてやっていくのかな、楽しみです。
 その他、「ダンス」というくくりは同じでもいろんなジャンルの違ったパフォーマーたちのいろんなタイプのダンスが見られて楽しかったです。でもプログラムの主催者の挨拶文のダブルクォーテーションの使い方はいかがかと思いましたけれどね。ダンサーはダンスで仕事しているのであって名前で仕事してないんじゃないかなあ…このダンス公演の意味、わかってんのかなあ…
 そこはちょっと残念でした。

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