駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『仮面のロマネスク』夜話

2012年02月09日 | 日記
 しつこく『仮面のロマネスク』のことを考えています…

 いつもはもっとアタマ切り替えられるのに、今回全然ダメです。
 アタマの2割くらい、ココロの6割くらい中日に置いてきちゃってる気がする。
 会社に出ててもクールな仕事人ぶれないよー、早く週末来て!(^^;)

 というワケでさいとうちほ『子爵ヴァルモン』(小学館flowersフラワーコミックスα全2巻)を再読しました。
 そういえば原作にファーストネームが出てこないキャラクターがわりといるので、こちらではトリスタン・ド・ヴァルモンにイザベル・ド・メルトイユとなっています。ダンスニーはラファエル。
 まあそれはともかく。

 こうして読むと、やはり現代の視点があるというか…フェミニズムっぽい、というのとも違うと思うのだけれど…やはり少女漫画というものは時代の最先端をいくのだなあ、と思います。
 逆に言えば、あの原作を『仮面のロマネスク』に改変した柴田先生の視点は、やはりロマンチストのそれなんだなー、というか…
 もちろんそれは宝塚歌劇として正しいことだと思います。宝塚歌劇はトップコンビの純愛を描くべきものである、というのが私の持論だとは先日も書いたとおりなので。
 そしてそれって恋愛に対して保守的というか少女趣味的というか楽観的というか乙女チックになるってことなんだよね、と改めて思った、というか…
 つまり『子爵ヴァルモン』のメルトイユの絶望というのは現代女性のそれに通じるものがあると私は思うわけですが、その回答はないわけですよ。回答がないところで物語は終わっている。
 物語はもちろんそれでいいのだけれど、私たちはこの現代を生きていかなければならないわけで、そこにもまた回答はない。まだ、なのかもしれないけれど。しかし怖ろしいことです…

 『子爵ヴァルモン』では、簡単にまとめると、「男は馬鹿だ」と言っています。
 そして女には二種類あって、そんな男と幸せに恋愛できる女と、そうでない女とがいる、と言っているのです。
 前者がトゥールベルであり、後者がメルトイユです。
 メルトイユは決して策に溺れた間抜けな策士、フラれ女のような描かれ方はしていません。
 美しく賢く誇り高く生まれつき、才覚を駆使して生きている。しかし賢いから男を愛さないということはない。彼女もまた愛と幸福を求める、その意味でごく普通の女性なのです。
 けれど最終的に、メルトイユの愛には誰も応えてくれずに物語は終わる…
 それはざっくりいうと社会のせいだし、メルトイユのせいでは決してないのに、相手がふがいないせいで幸せになれないことになっているのだ、という話ですよねこれは…
 怖い。

 そして、ヒロインをトゥールベルにして愛の物語を描いているわけでもない。
 結果的にヴァルモンもトゥールベルも死んで終わるのですし、それはやはり愛のある種の敗北だからです。
 誰もが敗者である、というこういう視線って、やっぱりものすごく現代的だと思うなあ。

 だけどロマンチック・ラブ・イデオロギーの世界では、つまり宝塚歌劇ワールドでは、愛は絶対で愛こそすべてで愛イコール幸福です。
 だからメルトゥイユがヒロインで、ヴァルモンとの愛が完遂されて舞台は終わる。死や別離でも分かてない愛がそこにはあったとされているのです。
 愛はある、けれどふたりは死と別離で引き裂かれる、その悲しさを描いているのですね。それは絶望とは違うと私は思う。もっと甘美で美しいものだもん。

 トゥールベルは…原作では修道院でそのまま息を引き取りますが、『仮面のロマネスク』では、革命騒ぎのさなかであっても法院長は迎えに行ってトゥールベルを連れ出して、田舎に逃げたりするんじゃないかしらん。
 つまり彼女は死なないのではないでしょうか。なんとなくそんなふうに思えます。
 もちろん彼女はヴァルモンの愛を失ったので、生きていさえすれば幸せということではないかもしれない。でもきっと法院長は優しいよ。そして彼女はなんらかの新たな生き方を見つけるのではないかしらん。
 つまり、宝塚歌劇は女性キャラクターを不幸せにはしないということですよ。セシルだってダンスニーと仲良く所帯持つだろうし。台詞がなくなっていましたが彼は勝ち方についていたはずなので。
 すべての女が幸せになる。それは理想論だし、だから在り方として正しい。
 そして現代少女漫画はそうではないということですね。常に時代を反映し、極北目指して進化しているからです。たとえ時代とともに行き詰ろうと、ね。すごいなあ。

 韓国映画『スキャンダル』では、イ・ミスクがペ・ヨンジュンより完全に年上マダムに見えたこともあって、また印象が少し違いましたが、ラストシーンに関しては意外に優しい視線があります。
 チョ・ウォン(ヴァルモンに当たる)にかつてもらった小さな花束を押し花にしておいたものを、外国に逃れる船の上でチョ夫人(メルトゥイユに当たる)が手に取り、懐かしみ、その花が風に取られて空に舞う…
 かつてのウォンの微笑の回想がそこに重なって映画は終わります。あるとき確かにヴァルモンとメルトゥイユの間にあった愛を提示して終わるのですから、感覚としては『仮面のロマネスク』に近い。ただしウォンは決闘で傷つき、ヒヨン(トゥールベルに当たる)のもとへ向かおうとして落命しますが。
 また、クレジットとともに、ウォンの子を宿したソヨン(セシルに当たる)がチョ夫人の夫に側室として嫁ぐ(つまりこの映画ではメルトゥイユは未亡人ではなく、ジェルクールと夫婦のような形になっているのです)ことを暗示する場面が流れるのですが、これもまたセシルが不幸に堕ちてはいないのだということを示していますし、セシルが修道院に戻ってしまう『子爵ヴァルモン』とは明らかに違う演出です。
 女の幸せは神のもとにしかないのか…それは『源氏物語』の宇治十帖のラストのようですね。ヒロインは男たちから逃れて身投げするないし出家する。もはや恋愛を放棄することでしか幸福はないという、そのすさまじい人生観…『源氏』って怖ろしいほど現代的です。1000年たっても違う回答を我々は得られていないとも言える。
 大和和紀の『あさきゆめみし』もそこまで描ききっていたけれど、さいとうちほが『源氏』を描いたらどうなるんだろう、とか思ったり…あるいは現代少女漫画は未だ『源氏』の向こうを描けていないということか。あら話が逸れたかな。

 つまり、どんな形であれ男と女が愛し合い幸せになることを常に観せてくれる宝塚歌劇は素晴らしい、という話です。
 それが望ましい形である、と私は考えているからです。



(「BS宝塚歌劇夜話」なんて番組できればいいのに…あ、CSでも)
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