駒子の備忘録

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月組『夢現クルン』初日雑感

2019年03月17日 | 日記
 宝塚歌劇月組『夢現無双/クルンテープ』大劇場公演初日と翌日11時の回を観て来ました。以下そのごく個人的な雑感です。ネタバレしていますし、観てきた方向けの感想かと思います。よければおつきあいください。

 お芝居の原作小説は、私は未読です。宮本武蔵に関しても剣豪であること、佐々木小次郎との決闘にわざと遅刻して勝ったこと、いわゆるヒロインとされるお通が吉川英治の創作であること、くらいの知識しかないままに観ました。
 なので、そのせいもあるのかもしれませんが、全体にパラパラした、エピソードの羅列になってしまっているな、という印象です。原作小説を読んでいる人からしたら「あ、これはあのキャラクター!」とか、「このエピソードはこうして来たか」とかの発見や楽しみもあるのかもしれませんし、上手く補完できるのでしょうし、長大な物語をよく刈り込んで上手くまとめた、と思えるのかもしれません。でも私には、軸となるドラマがどうにもない気がして、キャラクターやストーリーにどう気持ちを添わせ盛り上がって観ればいいのか、よくわからない舞台になっちゃっているんじゃないかな…という気が、どうしても、しました。
 いや、軸となるのは「強くなりたい!」とか、「天下無双に、俺はなる!」とかってことなんでしょうが、それってホントいわゆる男のロマンで、ぶっちゃけ女にはどーでもいいことだと思うんですよね。少なくとも私は興味ナイです。強いってナニそれ美味しいの?ってなもんです。吉野太夫が言っていましたが、女は男とは違う勝負をしているものですしね。
 でも、男性はこのテーマだけで酔えるんでしょうし、ヨシマサもそれで萌えて燃えて作っているんでしょう。でも私は、珠城さんファンだから珠城さんには甘いけれど、だからって珠城さんのやる役を無条件で好きになるというほど観客として甘くはなくて、むしろキャラクターとしての魅力をきちんと見せてくれてからでないと主人公として認めないよ?くらいのスタンスでいる人なので、この武蔵の描かれ方には「うーん…」としか言えませんでした。
 おそらく父親も剣豪で家庭を顧みることがなく、それで母親は出ていったんだと思うんだけれど(「出ていかなければならないのです」みたいな台詞があったと思うけれど、原作では実際のところはどういう経緯になっているんでしょう?)、少年武蔵はそれでそんな父親を恨みに思うようになって、父親以上の剣士になって父親を見返してやると決意して…みたいなベタだけどわかりやすい流れがあれば、まだ人の気持ちの流れ、感情のドラマとして納得しやすかったかもしれません。今、武蔵が強くなりたがる理由が明瞭には描かれていないので、そこがまず共感しづらいんですよね。
 あと、そんな少年武蔵はだから腕白できかん気で乱暴者でやりすぎちゃっているところがあって…ということなんだと思うんだけれど、その描写も中途半端です。いじめっ子たちからお通を守っているだけ、野武士たちからお甲たちを助けてあげただけ、不当逮捕された姉を役人たちから救おうとしているだけ…に見えます。売られた喧嘩を買っているだけですらない、ただ人助けをしているだけの、真面目な義理堅いいい人に見えちゃっているのです。これは演出が甘い。武蔵がもっとカッとなって我を忘れて、またなまじ剣の技があるもんだからやりすぎちゃってちょっと残虐でひどすぎるかも…ってのをもっとちゃんと見せないと、そこから、真の強さを手に入れるために人格磨きの武者修行に出るのだ、という舞台全体の流れが導けないと思うのです。
 ここがクリアになるだけで、観客はもっと楽にこの物語を観ていけるようになるはずなんですよ…もったいないです。
 また、『エルベ』『黒い瞳』と場面転換が流れるようだった作品を観てきたために(一本立てミュージカルだからちょっとノリは違うけれど、『CASANOVA』も同様)、そのあたりがいかにも無骨で雑に見えたのもマイナスだったかな…
 あとは、まあ、みやちゃん以下スターの出番はみんなパラパラしているんだけど、逆に言えば役はわりと多くて組子みんながいろいろ仕事していると言えば言えるので、まあ組ファンなら意外と楽しく通えてしまうのかもしれません。
 ただ、せっかくのたまさくお披露目なんだから、ラストはもうちょっとどうにかならんかったんかい、とはなるかな…おそらくラジオドラマ『君の名は』が当たったように、新聞連載だった原作小説は連載時に、この何度も約束しては別れて再会してまたすれ違って…みたいなふたりにそのターンごとにすごく盛り上がったんじゃないかと思うんですよね。でも一時間半の芝居にまとめて観ると「またかーい!」ってつっこみたくなるし、ラストも結ばれないにしてももうちょっと見せ方あったんじゃないの?と言いたくなるわけですよ。さくさくが可憐でいじらしくて愛らしくて、お通をとても良く好演しているだけに、報われなさが不憫すぎて…「好きだ、必ず帰ってくる、待っていてくれ」なんて簡単に言えない珠城さん武蔵、ってのももちろんキュンキュンするんだけれど、でもこんだけお預け食らわされてるんだからラストくらいご褒美がほしいワケですよ。今はせつなすぎる、しょっぱすぎるよヨシマサ…もっとラブをくれ、乙女心にケアしてくれよ…
 ま、さくさくが上手すぎて最後の声が悲痛すぎるってのはあるかな。なんかもうちょっと、信じて待ってる明るい声音にするだけでも、だいぶ印象が違うのかもしれません。
 このあと大劇場新公は観劇予定ですが、あとは東京で、それも回数は観ないかもしれないので、そんなに変化は追えないかもしれませんが…良くなることを祈っています。

 そして『クルンテープ』、宝塚歌劇には珍しいタイランド・ショーです。『EXISOTIKA』とか『ジャンプ・オリエント!』あたりともまたノリは違いましたね。ま、ザッツ・大介ショー様式だったから、というのはあるかな。
 でも、あまりにマンネリで自作の縮小再生産ばかりで、「休んでよ大介…」と言いたかった最近の作品からしたら、目先が変わっていてそれだけでもよかったと思いましたし、よくあるパリ縛りとか世界各国巡りとかじゃなければどこでもよかった、ということではなくタイでなければダメなんだ、という大介先生の並々ならぬこだわりと攻めの気持ちを強く感じたので、私はかなり好きです、このショー。きらびやかで華やかで楽しいとか、さくさくがどの場面でも可愛くて満足、とは別に、そのアグレッシブさ、挑戦の気概を買いたいと思いましたし、『BADDY』とはまた違った意味でなかなかの問題作なのではないかと私は考えているのです。
 では先にその他の部分を講評しておきますと、急な蘭世くんのピックアップは何がどうしたんですかねやるなら初組子のときくらいからやっていてもおかしくなかった気はしますけどね…ってのは別にして、プロローグから大階段ってのはやはりアガりますし、大介と言えば小林幸子だと思うので最初の珠城さんのお衣装はもっと派手でもよかったくらいですよね(笑)。でも珠城さんがここが黒髪ロングで、後半の仏さまになると金髪ロング、ってのもいい。スターの銀橋渡りと芸名にちなんだ歌詞、というのもベタでいい。たまさく結婚式場面があるのもお披露目っぽくていい。ムエタイ場面は思っていた踊りまくりダンス対決みたいなんじゃなくてだいぶコミカルだったけど、楽しいのでOK。なっちゃんさちか、じゅりとゃんゆいちゃんのシンメが効いています。おだちんと夏風季々ちゃんに一曲一場面、というのもいい。そのあとのたまみや場面が、みやちゃんは別に女装していなかったのでガチBLだったら私はヤダなと身構えたのですが、ミツエ先生の振付は妖艶ではありつつも淫靡ではなく、魂の兄弟のようなふたりがシンクロして踊る、美しく悲しい場面で、心にしみました。ふたりの体格差も効果的だったと思います。そこからのさくさくのアイドルはSSAKUCHANG感があって良き(あれはヨシマサのネタだけど)(ネタ言うな)。歌はハロプロなんだとか? るねっこれんこんのシンメもやたら使われていましたが、私はれんこんも好きなのでバリバリ踊ってくれていて嬉しかったです。柊木くんがここに入ってくるのも良き。
 中詰めの話は後述として、ショーあるあるの男女の諍いから死そして再生へ、という場面がれいこさくさくカップルにたまありカップル、というのもまたよかったですね。レディレオンの金のジャケットにビスチェにホットパンツ、のありちゃんがたまりません。ここのさくさくのプリンセス感もたまりませんし、いいふくらはぎなんだホント!
 蘭くんがSのロケットはわりと普通の振り付けだったかな。みやちゃん餞別場面の黒燕尾銀橋は、本舞台でくれあ姐さんと絡んで別れを告げるさちか、という構図も手厚く素敵でした。そこに腕まくりして着崩した燕尾にターバンの男役群舞、再びセリ上がって戻ってくるみやちゃんをみんなして迎えて…というのはやや破格の構図なんだけれど、この場合は万人が認めるものでしょう。ピラミッドはれいこありおだちんと綺麗に作られて盤石。
 そこに現れるピンクのドレスの王女様のさくさくの愛らしさよ…! そしてまさかヤンさんがこんなにキュートでラブリーなデュエダンを振り付けるとは、というちょっとお芝居みたいなラブラブデュエダンがまたたまりません。リフトもきっちりあって、銀橋からのハケは手に手を取ってで、はーキュンキュンした! エトワールは新組長、副組長のるうさんなっちゃん、というのもなかなかよかったかと思います。

 で、問題の中詰め、レビュークラブ場面は、とっぱしのまゆぽんがまずさすがです。なのでこのあとのブランコ珠城さんはお衣装の派手さが足りないと感じました。これじゃフツーのラテンだもん(笑)。続くスターの銀橋渡りはちょっと定番すぎて芸がない感じでしたが、歌なしダンスのみで場を保たせるありちゃんがさすがでした。退団者のひびきち、くれあ姐さん、音風くんにきちんと銀橋を渡らせているのもとても良き。
 で、この一連の流れのシメが珠城さん演じる国花、ラーチャ・ブルックなんですが…これが、キましたねぶっ込んできましたね大介先生!
 周りの男役たち含めて、赤いハットに赤いスーツに赤いシャツ、赤い靴。でも珠城さんの靴のヒールは細いんです、女靴仕様なんです。そしてハットの下から覗く前髪がちょっとウェービーで、モサモサして見える。私は初見時、これはハットを脱いだらオールバックとかのバリバリの男としてのダンス、なのではなくて、天使みたいなふわふわくるくるパーマとかが出てきて、中性っぽさを売る少年の男娼のダンス、を意味しているのだろうかさすがタイのショーだぜ大介先生ぶっ込むぜ…!とか思ってニヤニヤ眺めていたのです。そう思って見ると、珠城さんの笑い方とかもいつもと違う方向のセクシーさでしたしね。
 しかして場面ラスト、ハットを取ったらこぼれ出たのは金髪ロングヘアーだったのです。それをバサッと振るって艶然と笑って、暗転。
 つまりここの珠城さんは、女性役なんですよ。それが、すごいことだと思うのです。大介先生、本気だな、と思うのです。
 この場面のとっぱしのまゆぽんに「性別なんて関係ない」「Be Free!」と歌わせて、確かレインボー・ワールドへようこそみたいな歌詞もあったし、七色のライトも使っているんですが、本気なんですよ本気でSOGI(Sexual Orientation&Gender Identity)フリーを訴えているんですよ。
 ここのまゆぽんは、私は、ショーでよくある男役の女装だと思いました。ガチで美女になっちゃうヤツじゃなくて、オカマっぽさ(あえて言っています)が出ちゃうのをよしとする方の女装です。ドラァグクイーンの役と言ってもいい。このまゆぽんが扮しているのは、男性の身体に生まれたけれど性自認は女性のトランスジェンダーで男性が好きなヘテロセクシャル女性が女性の衣装を着ている、でも性転換が済みきっていなくてちょっと男性っぽさが残っていてゴツい…という姿なのではなく、男性の身体に生まれて性自認も男性で男性が好きなシスジェンダーでホモセクシャルの男性が趣味ないし商売で異性装つまり女装している姿、だと私には捉えられたのです。だから高い声でも低い声でも歌う。そして必要以上に化粧が濃い(あのまつげ!)。まゆぽんは男役なのだから、女装する男性の役に扮して不思議はないわけです。
 でも、シメの珠城さんは違う。あれは私には、いわゆるオナベに見えました(わかりやすさのためにあえて言っています)。女性の身体に生まれて性自認は女性で女性が好きなレズビアン(シスジェンダーホモセクシャル女性)のタチが、ことにノンケ(これまたあえて言っています)女性相手の商売としてしている男装姿…だと思ったのです。それを表現しているんだと捉えたのです。珠城さんは女性ですが男役で、なのにただ女装しているのではなく女性の役を演じていてかつその女性がビアン、という事態になっているんだと私は思ったのです。これは新しいし、かなり越境し踏み込んでいる案件なのではないかと私は思いました。
 宝塚歌劇が芝居でもショーでも男役同士(男性キャラクター同士)の友情以上すぎるある種の関係を描いてきた例は枚挙にいとまがありませんが、娘役同士(女性キャラクター同士)の例がほとんどない(私は『ヴァレンチノ』のナジモヴァのナターシャへの執着とか重用はレズビアン関係を匂わせているのかなと考えたこともあったのですが)のはもっぱら禁忌扱いされているからだろう、と私は考えてきました。タカラジェンヌは実際に女性同士なので、女性同性愛の存在を認めてしまうと世間から思わぬ邪推を呼ぶこともあろうと案じて、存在そのものを認めない、ないことにしているんだと私は考えてきたのです(実際の中では外と同じにないわきゃないとも私は考えていますが)。だからちょっと匂わせる程度のユリっぽいことも絶対にしない。性差別的だとかSOGI差別だとかいうことより、単に不都合だから無視してきた、ないことにしてきたのだろう、ということです。
 なのに、単に男装する女性ということはなく、ビアンの女性をトップスターに演じさせた、しかも現トップ中最も男度が高いのではないかと思われる珠城さんにさせた(双璧はゆりかちゃんかなと思うのですが、ゆりかちゃんは素がそれこそ「ゆりかちゃん」っぽいことがけっこう知られているじゃないですか。でも珠城さんって素もそんなにみきちゃんっぽくないですよね。もちろん、だからって男だってことにはならなくて、あくまで女性なのは大前提なんですが)という、これはけっこう画期的というか驚きの案件だと私は思うんですけれど、それって穿ちすぎですかね…?
 ちなみに私は宝塚歌劇はBLに振れすぎても良くないし、女性同士の恋愛を描くのは実はもっとまずいと考えています。男役が実際の男性以上に素敵な、理想的な男性を演じてヘテロ恋愛を描いているからこそそんな宝塚歌劇を含めた世界が成立するのであって、役者も女で役も女でそれで女同士の愛を描いてそこに理想の愛があるってことにしたら、それを観た女はみんなもう現実の男なんか捨てて女しか愛さないようになりますよ。そうしたら世界は崩壊してしまう。すべての男が本質的には女嫌いでホモソーシャルな生き物であるのと同様、すべての女もまた本質的には男が嫌いでホモソーシャルな生き物だと思います。そこが人間の動物と違う不思議なところですよね。でも社会的な制約とか子作りのこととかがなければ同性同士の方がそりゃ同質で気が合って楽に決まってると思うんですよね。
 でもそれに気づかせちゃダメじゃない?と思うんです。それだと子供が生まれなくなって人類が滅亡するから、ってのもあるけれど、楽に流されすぎちゃいけないんじゃないかな、と、私は真面目すぎるのかもしれませんが、そう考えちゃうからです。面倒でも、しんどくても、嫌になって投げ出したくなっても、自分とは違う、理解し難い相手をそれでも理解ようとし、歩み寄り、協力し合い、愛し合えたら…そうしたら、同質の者同士からでは決して生まれ得ないものが生まれ、それは変化し、世界をも変え、そうして世界はより進化し発展するのだ…というようなことを、私はけっこう信じているからです。
 だから世の中がどんなになっても、宝塚歌劇くらいは、男女のヘテロ愛を推奨していくべきだと考えているのです。男の素敵さを描き、観た女に男役を通して男をも好きにならせる、という機能を担うべきだと思うのです。というかここが最後の牙城になるんじゃないかと考えているのです。少女漫画とか少女小説とかって、もっとフェミになっていってしまうだろうと私は考えているからです。
 だから、宝塚歌劇においては、女性の男役同士が演じる男性同性愛はファンタジーですむからちょっとくらいは扱うけれど、女性同性愛は洒落にならないから絶対に忌避する、ということなんじゃないかと思うのです。劇団がこんな理屈でそうしているかはわかりませんが、本能的にそういう選択をしてきたんじゃないかと思うのです。
 なのに、そこに、「珠城さんの女装」なるものをぶっ込んできた大介先生ですよ…! そのアナーキーさよ…!! 『BADDY』のスイートハート以上にものすごいことなんじゃないかと思うんだけどなあ、どうですかねえ(そしてあれも月組だった…!)。イヤ実は先生の意図は全然別のところにある、って可能性が実は大だとも思うんですけれどね…私がいろいろ難しく面倒くさく考えすぎちゃっているだけなんだろうな、とは思ってはいるのですが。
 ともあれ宝塚歌劇と同性愛、ってのはかなりいろいろ考えられるテーマだと思うんですよね。そしてタイはもちろん微笑みの国ではあるのでしょうが、いわゆるニューハーフ・ショーとか、そういった方面でも特定のイメージがある国じゃないですか。だからこそ取り上げたんだろうなとは思うわけですよ…
 平成が終わる今、ますます新しい地平に行かんとする宝塚歌劇から、やはり目は離せない、と思ったのでした。






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