世田谷パブリックシアター、2024年12月10日18時。
19世紀末のロシア。桜の木々に囲まれた美しい屋敷に、長らく外国暮らしをしていた女主人ラネーフスカヤ夫人(天海祐希)が帰ってきた。母親を迎えにパリまで赴いたのは、17歳の娘アーニャ(大原櫻子)とその家庭教師シャルロッタ(緒川たまき)だ。華やかな女主人の帰還に、兄のガーエフ(山崎一)、留守宅を切り盛りしていた養女のワーリャ(峯村リエ)、老僕フィールス(浅野和之)たちは手放しで喜ぶが、実のところ屋敷の財政事情は火の車。この家の元農奴の息子で、今はやり手の商人となっているロパーヒン(荒川良々)は、抵当に入れられた屋敷を救うために繰り返し救済策を提案するが、ラネーフスカヤたちは厳しい現実に向き合おうとしない…
作/アントン・チェーホフ、上演台本・演出/ケラリーノ・サンドロヴィッチ。20年4月に初日直前にコロナ渦で中止になったが、一部配役を変更して上演。全2幕。
ケラ氏がシス・カンパニーとのタッグでチェーホフ四大戯曲を上演してきたシリーズの、完結編。『かもめ』の感想はこちら、『三人姉妹』はこちら、『ワーニャ伯父さん』はこちら。去年観た『桜の園』はこちら。
以前の配役を覚えていませんが、今回は一部ミスキャストでは…などささやかれていたのも耳にはしていました。まあ確かにユリちゃんはラネーフスカヤってタイプじゃないかもしれないけれど、いつもいつもバリキャリのハンサムウーマンばかり演じるのも芸がないだろうし、観てみないことには…と、素直に出かけてきました。で、私は好きでした。というかこの舞台が、そもそもの戯曲がとても好きだなあ、と思えました。何もない話にわりとイラッとしがちな私ですが、チェーホフは、そういうものだと思って観るからかもしれませんが、わりと好きです。そうでない作品もあるのかもしれませんが、不勉強ですみません…
ラネーフスカヤは、蝶よ花よと育てられた深窓のお嬢様がそのまま大人になったような、なんなら中年女性になったような、夢見る夢子ちゃんの…という役作りもあるかとは思いますが、ユリちゃんはさすがもうちょっとナチュラルで、だけど現実につい目を背けてしまう、心が弱いというのとはちょっと違うのかもしれないけれど、勇気がないというか根性がないというか、これまでも何もしなくてもなんとかなってきたし今後もそれなりになんとかなりそうな、しかしそうしてゆっくりと零落はしていくのではあろう…という風情の女性になっていて、味わいがありました。「だってしょうがないじゃない。私、馬鹿なんだもの」みたいな台詞が、甘えのような開き直りのような単なる事実の表明のようなあるいは単なる口癖のような…で、なんとなくクスリとさせられましたしね。
もちろん桜の園も屋敷も人手に渡ることになって、彼女は激しく慟哭するのだけれど、けれど思い出は失われないし、パリまでの旅費は手に入れたし、そこには待っていてくれる男もいるしで、そこでまたのらのら暮らしながら甘い感傷に浸り続けることくらいは、彼女はやっていくのでしょう。少なくとも何かを悲観し絶望して猟銃自殺するようなことはしない、それだけでも幸せ者です。のんきさとか天真爛漫さとかよりも、しょうもなさとか生っぽさ(兄が言うところの「ふしだらさ」)がある、いいラネーフスカヤ像だなと思いました。周りがマドンナ扱いしているからといって、作品としては彼女を聖女のように描いているわけではありませんしね。華があり、見目が美しく声も良くて、台詞も演技も明晰で、絶妙にチャーミングで、やはり舞台でも素敵な女優さんだなと思いました。また新感線にも出てもらいたいけれど(笑)、いろんなお仕事をしていってくれるといいなと思います。宝塚の現役時代から知っている、少し年上の女性…応援しているのです、私は。
その他のキャストもみんな手練ればかりで、もちろん戯曲に強度がありどんなふうに芝居しても演出しても成立しそうな気はしますが、みんなが個性を発揮しつついい感じにまとまりつつしかしなお好き勝手にやっている感じが、この群像劇にふさわしく思えて、観ていて楽しかったです。
カテコでユリちゃんをエスコートしたのはヨチオでしたが、トロフィーモフ(井上芳雄)ってこんな設定でしたかね?(笑) というか少なくとも日本の観客は男性の頭髪、というかその薄さ、要するに禿げに関して笑いすぎではあるまいか…というか禿げを笑っていいものとして刷り込まれすぎているので仕方ないんでしょうが、冷静に考えて頭髪の薄い人なんていくらでもいるしどうでもいいというか本質的なことじゃないというか、男性たち自身が気にするのとは別に、特に笑うことじゃないですよね、と思うし、今ならむしろ引っかかってしかるべきだし、チェーホフが言うファルス(笑劇)ってそういうことじゃないと思うよ、と思いました。というか冒頭から荒川良々がなんか言うだけでウケるのはやめてくれ、ロパーヒン(荒川良々)がおもしろいのは、というかその言動から笑いが生まれるのはそういうことではないだろう、と思うんですよね…たとえもっと真性のコメディ作品だろうと、笑いに来ている観客が私は嫌いなので(もちろん私もおもしろかったら笑います)、そのあたりはやや鼻白みました。
ユリちゃんとヨチオのコンビになるのは、スターの格としてそうなのかもしれないし、作品における新旧世代代表みたいなことなのかもしれませんが、彼らはそこまで対立していたようでもなく見えたので、むしろ荒川良々がユリちゃんをエスコートしてもいいのに、ともちらりと思いました。それくらいロパーヒンが良くて、これは彼の物語でもあったのだなあ…と思えたので。彼はこれが初・海外戯曲なんだそうですね、でもホントいい役者さんですよね…!
ただ、彼と夫人は桜の園の売り手と買い手、奪われた者と奪った者…というバッチリ対立の構図になってしまうので、やはりラストにエスコート、というのは違うかもしれません。でも冒頭で彼が語る幼き日の思い出話は本当に美しく悲しく哀れで愛しいもので、だから彼は彼女の娘である(養女だけれど)ワーリャに気を持たせたのだろうし、結局プロポーズに踏み切れなかったのも同じ理由でしょう。ワーリャと結婚しても、彼が望むものは手に入らないのですから。あるいは桜の園だけなら、自力で買い取れたのですから。ただし彼は庭にも屋敷にも特に意味は見出さず、潰して分けて叩き売る気満々なわけですが…
そう、タイトルが登場人物の誰かとかではなく、この屋敷、その庭、というのがいいなと思いました。物語の主役はさまにこの桜の園で、これはそれが売られてなくなるまでの顛末を描いた物語なんですよね。だから一見ヒロインにはあまり関係のなさそうな登場人物たちもわらわら出てくる。けれどこういうお屋敷やそれをめぐる地域社会にはいろいろな人たちがいて、みんな自分が主役の人生を生きていて、だから桜の園をメインに切り取るとこういう形になる。そんな、いい戯曲だなと思いました。
ストプレのヨチオも私は好きですし、大原櫻子のこれまた天真爛漫とは一言で言いがたい絶妙なアーニャもよかったです。峯村さんももちろん上手いし、池谷のぶえも絶妙なドゥニャーシャ(池谷のぶえ)だったと思います。山中崇も鈴木浩介もホント上手い。シャルロッタの異質っぷり、浮きっぷりもさすが緒川たまきでした。
そしていつでもなんでも上手い、信頼しかない山崎一…しかしガーエフって男はなんなんでしょうね? この屋敷は彼の生家でもあり、彼は長男ではないのかもしれないけれど少なくともラネーフスカヤの兄で、彼が家長ならずともこの屋敷の主人であってもおかしくないはずなのに(妹は少なくとも他家へ嫁いだのだから)、なんか謎の居候というか扶養家族みたいなていで妹にまとわりついていて、男性だからというだけで代表責任者みたいな顔して競売に立ち会ったんだろうけれど別に何をするわけでもないし、それとはまた別になんの縁かコネか知らないけれど仕事を見つけてきて、しかしそれは単に役職だけで仕事らしい仕事なんてするわけなくて、もちろんできる技量もないワケですがしかしそれで食べて飲んでビリヤードができるくらいの給与は払われるのでしょう。怖い、怖いわ…この時代に独身ということはないのかもしれないので、この話にまったく出てこないだけで妻子がいるのかもしれませんが、それも怖いわ…こんなどうしようもないどうでもいい男を描く作家が怖いし、何も中身なくヘラヘラ演じる役者も怖くて、すごいです。まだピーシチク(藤田秀世)の方に中身があるだろう…しかし彼もまたあんなに足繁く通ったこの屋敷の顛末への無関心っぷり、怖すぎるのでした。でも仕方がない、彼も彼が主役の人生を生きているからです。
結局お屋敷に、そしてそのお庭に人生を、命を捧げたのはフィールスだけだった…ということです。いとあはれ…彼がこれで幸せだったのかは、誰にもわかりません。当人も幸せに死んでいったようには見えませんが、でもぼやきながら楽しそうな人っているから…それもまた人生、そんな物語かと思いました。満足!
19世紀末のロシア。桜の木々に囲まれた美しい屋敷に、長らく外国暮らしをしていた女主人ラネーフスカヤ夫人(天海祐希)が帰ってきた。母親を迎えにパリまで赴いたのは、17歳の娘アーニャ(大原櫻子)とその家庭教師シャルロッタ(緒川たまき)だ。華やかな女主人の帰還に、兄のガーエフ(山崎一)、留守宅を切り盛りしていた養女のワーリャ(峯村リエ)、老僕フィールス(浅野和之)たちは手放しで喜ぶが、実のところ屋敷の財政事情は火の車。この家の元農奴の息子で、今はやり手の商人となっているロパーヒン(荒川良々)は、抵当に入れられた屋敷を救うために繰り返し救済策を提案するが、ラネーフスカヤたちは厳しい現実に向き合おうとしない…
作/アントン・チェーホフ、上演台本・演出/ケラリーノ・サンドロヴィッチ。20年4月に初日直前にコロナ渦で中止になったが、一部配役を変更して上演。全2幕。
ケラ氏がシス・カンパニーとのタッグでチェーホフ四大戯曲を上演してきたシリーズの、完結編。『かもめ』の感想はこちら、『三人姉妹』はこちら、『ワーニャ伯父さん』はこちら。去年観た『桜の園』はこちら。
以前の配役を覚えていませんが、今回は一部ミスキャストでは…などささやかれていたのも耳にはしていました。まあ確かにユリちゃんはラネーフスカヤってタイプじゃないかもしれないけれど、いつもいつもバリキャリのハンサムウーマンばかり演じるのも芸がないだろうし、観てみないことには…と、素直に出かけてきました。で、私は好きでした。というかこの舞台が、そもそもの戯曲がとても好きだなあ、と思えました。何もない話にわりとイラッとしがちな私ですが、チェーホフは、そういうものだと思って観るからかもしれませんが、わりと好きです。そうでない作品もあるのかもしれませんが、不勉強ですみません…
ラネーフスカヤは、蝶よ花よと育てられた深窓のお嬢様がそのまま大人になったような、なんなら中年女性になったような、夢見る夢子ちゃんの…という役作りもあるかとは思いますが、ユリちゃんはさすがもうちょっとナチュラルで、だけど現実につい目を背けてしまう、心が弱いというのとはちょっと違うのかもしれないけれど、勇気がないというか根性がないというか、これまでも何もしなくてもなんとかなってきたし今後もそれなりになんとかなりそうな、しかしそうしてゆっくりと零落はしていくのではあろう…という風情の女性になっていて、味わいがありました。「だってしょうがないじゃない。私、馬鹿なんだもの」みたいな台詞が、甘えのような開き直りのような単なる事実の表明のようなあるいは単なる口癖のような…で、なんとなくクスリとさせられましたしね。
もちろん桜の園も屋敷も人手に渡ることになって、彼女は激しく慟哭するのだけれど、けれど思い出は失われないし、パリまでの旅費は手に入れたし、そこには待っていてくれる男もいるしで、そこでまたのらのら暮らしながら甘い感傷に浸り続けることくらいは、彼女はやっていくのでしょう。少なくとも何かを悲観し絶望して猟銃自殺するようなことはしない、それだけでも幸せ者です。のんきさとか天真爛漫さとかよりも、しょうもなさとか生っぽさ(兄が言うところの「ふしだらさ」)がある、いいラネーフスカヤ像だなと思いました。周りがマドンナ扱いしているからといって、作品としては彼女を聖女のように描いているわけではありませんしね。華があり、見目が美しく声も良くて、台詞も演技も明晰で、絶妙にチャーミングで、やはり舞台でも素敵な女優さんだなと思いました。また新感線にも出てもらいたいけれど(笑)、いろんなお仕事をしていってくれるといいなと思います。宝塚の現役時代から知っている、少し年上の女性…応援しているのです、私は。
その他のキャストもみんな手練ればかりで、もちろん戯曲に強度がありどんなふうに芝居しても演出しても成立しそうな気はしますが、みんなが個性を発揮しつついい感じにまとまりつつしかしなお好き勝手にやっている感じが、この群像劇にふさわしく思えて、観ていて楽しかったです。
カテコでユリちゃんをエスコートしたのはヨチオでしたが、トロフィーモフ(井上芳雄)ってこんな設定でしたかね?(笑) というか少なくとも日本の観客は男性の頭髪、というかその薄さ、要するに禿げに関して笑いすぎではあるまいか…というか禿げを笑っていいものとして刷り込まれすぎているので仕方ないんでしょうが、冷静に考えて頭髪の薄い人なんていくらでもいるしどうでもいいというか本質的なことじゃないというか、男性たち自身が気にするのとは別に、特に笑うことじゃないですよね、と思うし、今ならむしろ引っかかってしかるべきだし、チェーホフが言うファルス(笑劇)ってそういうことじゃないと思うよ、と思いました。というか冒頭から荒川良々がなんか言うだけでウケるのはやめてくれ、ロパーヒン(荒川良々)がおもしろいのは、というかその言動から笑いが生まれるのはそういうことではないだろう、と思うんですよね…たとえもっと真性のコメディ作品だろうと、笑いに来ている観客が私は嫌いなので(もちろん私もおもしろかったら笑います)、そのあたりはやや鼻白みました。
ユリちゃんとヨチオのコンビになるのは、スターの格としてそうなのかもしれないし、作品における新旧世代代表みたいなことなのかもしれませんが、彼らはそこまで対立していたようでもなく見えたので、むしろ荒川良々がユリちゃんをエスコートしてもいいのに、ともちらりと思いました。それくらいロパーヒンが良くて、これは彼の物語でもあったのだなあ…と思えたので。彼はこれが初・海外戯曲なんだそうですね、でもホントいい役者さんですよね…!
ただ、彼と夫人は桜の園の売り手と買い手、奪われた者と奪った者…というバッチリ対立の構図になってしまうので、やはりラストにエスコート、というのは違うかもしれません。でも冒頭で彼が語る幼き日の思い出話は本当に美しく悲しく哀れで愛しいもので、だから彼は彼女の娘である(養女だけれど)ワーリャに気を持たせたのだろうし、結局プロポーズに踏み切れなかったのも同じ理由でしょう。ワーリャと結婚しても、彼が望むものは手に入らないのですから。あるいは桜の園だけなら、自力で買い取れたのですから。ただし彼は庭にも屋敷にも特に意味は見出さず、潰して分けて叩き売る気満々なわけですが…
そう、タイトルが登場人物の誰かとかではなく、この屋敷、その庭、というのがいいなと思いました。物語の主役はさまにこの桜の園で、これはそれが売られてなくなるまでの顛末を描いた物語なんですよね。だから一見ヒロインにはあまり関係のなさそうな登場人物たちもわらわら出てくる。けれどこういうお屋敷やそれをめぐる地域社会にはいろいろな人たちがいて、みんな自分が主役の人生を生きていて、だから桜の園をメインに切り取るとこういう形になる。そんな、いい戯曲だなと思いました。
ストプレのヨチオも私は好きですし、大原櫻子のこれまた天真爛漫とは一言で言いがたい絶妙なアーニャもよかったです。峯村さんももちろん上手いし、池谷のぶえも絶妙なドゥニャーシャ(池谷のぶえ)だったと思います。山中崇も鈴木浩介もホント上手い。シャルロッタの異質っぷり、浮きっぷりもさすが緒川たまきでした。
そしていつでもなんでも上手い、信頼しかない山崎一…しかしガーエフって男はなんなんでしょうね? この屋敷は彼の生家でもあり、彼は長男ではないのかもしれないけれど少なくともラネーフスカヤの兄で、彼が家長ならずともこの屋敷の主人であってもおかしくないはずなのに(妹は少なくとも他家へ嫁いだのだから)、なんか謎の居候というか扶養家族みたいなていで妹にまとわりついていて、男性だからというだけで代表責任者みたいな顔して競売に立ち会ったんだろうけれど別に何をするわけでもないし、それとはまた別になんの縁かコネか知らないけれど仕事を見つけてきて、しかしそれは単に役職だけで仕事らしい仕事なんてするわけなくて、もちろんできる技量もないワケですがしかしそれで食べて飲んでビリヤードができるくらいの給与は払われるのでしょう。怖い、怖いわ…この時代に独身ということはないのかもしれないので、この話にまったく出てこないだけで妻子がいるのかもしれませんが、それも怖いわ…こんなどうしようもないどうでもいい男を描く作家が怖いし、何も中身なくヘラヘラ演じる役者も怖くて、すごいです。まだピーシチク(藤田秀世)の方に中身があるだろう…しかし彼もまたあんなに足繁く通ったこの屋敷の顛末への無関心っぷり、怖すぎるのでした。でも仕方がない、彼も彼が主役の人生を生きているからです。
結局お屋敷に、そしてそのお庭に人生を、命を捧げたのはフィールスだけだった…ということです。いとあはれ…彼がこれで幸せだったのかは、誰にもわかりません。当人も幸せに死んでいったようには見えませんが、でもぼやきながら楽しそうな人っているから…それもまた人生、そんな物語かと思いました。満足!
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