シアタートラム、2022年8月31日19時。
雷鳴がとどろき稲妻が光る中の、がらんとしたレンタルスタジオ。演出家のトーマス(溝端淳平)は、彼が脚色した戯曲『毛皮のヴィーナス』のヒロイン役のオーディションをするも、これぞという女優は見つからなかった。帰ろうとしたところに、遅刻したという無名の女優ヴァンダ(高岡早紀)が現れる。トーマスが求めるヒロイン像とは何もかもが違っていたが、強引なヴァンダに押し切られ、しぶしぶオーディションすることに。しかし相手役を務めるうちに、次第にヴァンダの演技に惹かれ出し…
作/デヴィッド・アイヴス、翻訳/徐賀世子、演出/五戸真理枝。2011年アメリカ初演、ロマン・ポランスキー監督による映画化も話題を呼んだセンセーショナルなショーケース。全1幕。
めちゃめちゃおもしろくて大興奮でした。「感染禍は未だ終息の行方も見えず、まだまだ混沌とした状況」だからこそ、「演劇の原初的な形とも言える二人芝居の上演を企画」したとのことで、続く『建築家とアッシリア皇帝』もめっちゃ楽しみです。ともに「演劇的な仕掛けを持った名作中の名作」だそうです。
男性と女性、演出家と俳優、支配と隷属、年長と年少、サディズムとマゾヒズムといったパワーバランスが逆転する、よくあると言えば言えるドラマかと思いますが、なんせ出来が素晴らしいです。作者は「パワーがテーマ」と語り演出家は「色気のあるコメディ」と捉えているようですが、けれど決して恋愛なんてベタなものには堕ちない男女ふたりのドラマで、またふたりともが上手いので、とても見応えがありました。
高岡早紀の声はちょっとかすれていたけれど、役作りなのか、公演後半で喉がつぶれかけていたのかはわかりません。でもとてもヴァンダっぽかったし、聞き苦しいことはまるでなく、滑舌が明晰で、女優として台詞を発するくだりならともかく素のヴァンダであるときの台詞としてはちょっと明晰すぎるくらいなんですけれど、つまりそれくらいよく出来た舞台だということだと思います。こんなに美人でスタイルもいいのに、蓮っ葉なダメ女優に見える演技が素晴らしい。でもその実、別にダメ女優では全然ないんですよね、視野と了見の狭いトーマスには当初そう見えたというだけで。だから台詞を合わせていくうちに、彼も観客もヴァンダの聡明さと魅力に目が開かれていく…
高岡早紀の身体が綺麗なことがまた大正解だと思うのです。これまたヴァンダとしては綺麗すぎるのかもしれない。もっと太った、崩れた肉体の持ち主の方がそれっぽいのかもしれない、そういう身体が色気を発揮し出す瞬間というものもあるのかもしれません。でもホラ我々日本人観客ってシャイだからさ、っていうかぶっちゃけ幼稚だからさ、それでこんなサドだのマゾだのの話となるとテレちゃって正対できないんですよ残念ながら。だから適度にメリハリがありつつも過度すぎない、たるみのない、清潔な、ある意味でお人形のような美しいスタイルがベストだと思いました。そして見えているようで見えすぎていない、でも過激だというイメージはちゃんと出せているお衣装(衣裳/西原梨恵)がまた素晴らしい。ドレス含め、かなり細かく戯曲に指定されているそうですが、正解だと思いました。
受ける溝端淳平がまた絶妙に上手いですよね。押されておたおたしているのはちゃんと彼の演技だと思いました。もしかしたらトーマスとしてはちょっとスマートすぎたかな、もっと暑苦しく偉そうな鼻持ちならない若い男、って感じでもよかったかもしれません。でも一見好青年に見えなくもないこういうタイプのフツーの若い男こそ、それこそ鼻持ちならなくて手に負えない、ってのはあるんだろうし、それを体現するバランスがとてもよかった気がしました。恋人?かガールフレンドへの電話の感じとかも、すごーくさもありなんでした。
ふたりともものすごい台詞の量だけれど、それを難なくこなして見えたのもすごい。芝居の稽古をしているうちに…ってお芝居なんだけれど、その行きつ戻りつの差やとまどい、揺れの表現もものすごく上手くて、おもしろくて、怖くて、よかったです。プログラムによればふたりの役作りの方向性は正反対だそうで、そういう意味でもおもしろいタッグになったのかもしれませんね。そこに、ハナからこういう舞台にしたい、というものを提示しすぎない演出家さんだったから、余計にいろいろと相乗効果があったのかもしれません。五戸さんは最近お名前を知った女性の演出家さんですが、追っかけてみたいなと思う人にまたひとり出会いました。
ヴァンダとトーマスが台詞を読み合わせる『毛皮のヴィーナス』はL・ザッヘル=マゾッホの中編小説をトーマスが翻案したもの、という設定です。知的な美人の奴隷になりたい、仕えたいと夢見るおぼっちゃんのゼヴェリンが、美しく裕福だが男をいたぶる趣味などないヴァンダと出会い、ヴァンダはゼヴェリンに唆されて、女王様として振る舞う快感に目覚めてしまう…という物語。マゾヒズムの語源となった作品、作家です。ふたりは現代と1870年を何度も行き来し、その立場は何度も逆転し、さらに紀元前400年の女装させられたペンテウスとバッコスの信女にスライドする…バッコスとは酒の神、豊穣の神、そして演劇の神。落雷、そして…
私は、ラストは、この舞台全体が、「…という戯曲のお稽古をつけている女性演出家と、お稽古をしている男優」だった、ということなのかな、と解釈しました。ニヤリとしたし、ハッピーエンドというか、妙な多幸感を感じました。どのパートも、真剣でスリリングで怖ろしいところもあっても全体的にはユーモラスで、色っぽかったけれどダークに深刻になりすぎていず、男女の禍々しさとかパワーの争いとかいった方に舵を切っていなかったように感じられたからかもしれません。男女の共同作業としてのお芝居、その豊かさ、深さ、怖いけどおもしろいところを寿いで終わったように感じられたのです。高岡早紀も溝端淳平も、第四のキャラの顔でラストの立ち位置から出てきて舞台前方正面に並び、明るく笑ってお辞儀して、スタジオのセットの奥に消えていきました。暗転で切ることのないカーテンコールでしたが、この魔法の解け方はとてもおもしろかったです。というかカテコまで舞台の魔法の中にあったように感じられました。スタオベしたかったなー!
コンパクトなプログラムはとても読み応えがあって、すべてこうあれかしと思いました。宣伝写真(山崎伸康)もとても上品で、ヘンに扇情的すぎないところがとてもいいと思いました。
トラムの翻訳ものの1幕ものには個人的に当たりが多い印象ですが、今回もとても楽しい観劇体験となりました。もう終わってしまったけれど、『8人の女たち』同様、わかって再度観ても絶対おもしろかったヤツだと思います。また忘れたころに違う座組で観てみたい…! そのときまで、元気に劇場に通い続けたいです。
雷鳴がとどろき稲妻が光る中の、がらんとしたレンタルスタジオ。演出家のトーマス(溝端淳平)は、彼が脚色した戯曲『毛皮のヴィーナス』のヒロイン役のオーディションをするも、これぞという女優は見つからなかった。帰ろうとしたところに、遅刻したという無名の女優ヴァンダ(高岡早紀)が現れる。トーマスが求めるヒロイン像とは何もかもが違っていたが、強引なヴァンダに押し切られ、しぶしぶオーディションすることに。しかし相手役を務めるうちに、次第にヴァンダの演技に惹かれ出し…
作/デヴィッド・アイヴス、翻訳/徐賀世子、演出/五戸真理枝。2011年アメリカ初演、ロマン・ポランスキー監督による映画化も話題を呼んだセンセーショナルなショーケース。全1幕。
めちゃめちゃおもしろくて大興奮でした。「感染禍は未だ終息の行方も見えず、まだまだ混沌とした状況」だからこそ、「演劇の原初的な形とも言える二人芝居の上演を企画」したとのことで、続く『建築家とアッシリア皇帝』もめっちゃ楽しみです。ともに「演劇的な仕掛けを持った名作中の名作」だそうです。
男性と女性、演出家と俳優、支配と隷属、年長と年少、サディズムとマゾヒズムといったパワーバランスが逆転する、よくあると言えば言えるドラマかと思いますが、なんせ出来が素晴らしいです。作者は「パワーがテーマ」と語り演出家は「色気のあるコメディ」と捉えているようですが、けれど決して恋愛なんてベタなものには堕ちない男女ふたりのドラマで、またふたりともが上手いので、とても見応えがありました。
高岡早紀の声はちょっとかすれていたけれど、役作りなのか、公演後半で喉がつぶれかけていたのかはわかりません。でもとてもヴァンダっぽかったし、聞き苦しいことはまるでなく、滑舌が明晰で、女優として台詞を発するくだりならともかく素のヴァンダであるときの台詞としてはちょっと明晰すぎるくらいなんですけれど、つまりそれくらいよく出来た舞台だということだと思います。こんなに美人でスタイルもいいのに、蓮っ葉なダメ女優に見える演技が素晴らしい。でもその実、別にダメ女優では全然ないんですよね、視野と了見の狭いトーマスには当初そう見えたというだけで。だから台詞を合わせていくうちに、彼も観客もヴァンダの聡明さと魅力に目が開かれていく…
高岡早紀の身体が綺麗なことがまた大正解だと思うのです。これまたヴァンダとしては綺麗すぎるのかもしれない。もっと太った、崩れた肉体の持ち主の方がそれっぽいのかもしれない、そういう身体が色気を発揮し出す瞬間というものもあるのかもしれません。でもホラ我々日本人観客ってシャイだからさ、っていうかぶっちゃけ幼稚だからさ、それでこんなサドだのマゾだのの話となるとテレちゃって正対できないんですよ残念ながら。だから適度にメリハリがありつつも過度すぎない、たるみのない、清潔な、ある意味でお人形のような美しいスタイルがベストだと思いました。そして見えているようで見えすぎていない、でも過激だというイメージはちゃんと出せているお衣装(衣裳/西原梨恵)がまた素晴らしい。ドレス含め、かなり細かく戯曲に指定されているそうですが、正解だと思いました。
受ける溝端淳平がまた絶妙に上手いですよね。押されておたおたしているのはちゃんと彼の演技だと思いました。もしかしたらトーマスとしてはちょっとスマートすぎたかな、もっと暑苦しく偉そうな鼻持ちならない若い男、って感じでもよかったかもしれません。でも一見好青年に見えなくもないこういうタイプのフツーの若い男こそ、それこそ鼻持ちならなくて手に負えない、ってのはあるんだろうし、それを体現するバランスがとてもよかった気がしました。恋人?かガールフレンドへの電話の感じとかも、すごーくさもありなんでした。
ふたりともものすごい台詞の量だけれど、それを難なくこなして見えたのもすごい。芝居の稽古をしているうちに…ってお芝居なんだけれど、その行きつ戻りつの差やとまどい、揺れの表現もものすごく上手くて、おもしろくて、怖くて、よかったです。プログラムによればふたりの役作りの方向性は正反対だそうで、そういう意味でもおもしろいタッグになったのかもしれませんね。そこに、ハナからこういう舞台にしたい、というものを提示しすぎない演出家さんだったから、余計にいろいろと相乗効果があったのかもしれません。五戸さんは最近お名前を知った女性の演出家さんですが、追っかけてみたいなと思う人にまたひとり出会いました。
ヴァンダとトーマスが台詞を読み合わせる『毛皮のヴィーナス』はL・ザッヘル=マゾッホの中編小説をトーマスが翻案したもの、という設定です。知的な美人の奴隷になりたい、仕えたいと夢見るおぼっちゃんのゼヴェリンが、美しく裕福だが男をいたぶる趣味などないヴァンダと出会い、ヴァンダはゼヴェリンに唆されて、女王様として振る舞う快感に目覚めてしまう…という物語。マゾヒズムの語源となった作品、作家です。ふたりは現代と1870年を何度も行き来し、その立場は何度も逆転し、さらに紀元前400年の女装させられたペンテウスとバッコスの信女にスライドする…バッコスとは酒の神、豊穣の神、そして演劇の神。落雷、そして…
私は、ラストは、この舞台全体が、「…という戯曲のお稽古をつけている女性演出家と、お稽古をしている男優」だった、ということなのかな、と解釈しました。ニヤリとしたし、ハッピーエンドというか、妙な多幸感を感じました。どのパートも、真剣でスリリングで怖ろしいところもあっても全体的にはユーモラスで、色っぽかったけれどダークに深刻になりすぎていず、男女の禍々しさとかパワーの争いとかいった方に舵を切っていなかったように感じられたからかもしれません。男女の共同作業としてのお芝居、その豊かさ、深さ、怖いけどおもしろいところを寿いで終わったように感じられたのです。高岡早紀も溝端淳平も、第四のキャラの顔でラストの立ち位置から出てきて舞台前方正面に並び、明るく笑ってお辞儀して、スタジオのセットの奥に消えていきました。暗転で切ることのないカーテンコールでしたが、この魔法の解け方はとてもおもしろかったです。というかカテコまで舞台の魔法の中にあったように感じられました。スタオベしたかったなー!
コンパクトなプログラムはとても読み応えがあって、すべてこうあれかしと思いました。宣伝写真(山崎伸康)もとても上品で、ヘンに扇情的すぎないところがとてもいいと思いました。
トラムの翻訳ものの1幕ものには個人的に当たりが多い印象ですが、今回もとても楽しい観劇体験となりました。もう終わってしまったけれど、『8人の女たち』同様、わかって再度観ても絶対おもしろかったヤツだと思います。また忘れたころに違う座組で観てみたい…! そのときまで、元気に劇場に通い続けたいです。
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