東京文化会館、2007年7月13日ソワレ(初日)。
結婚式前夜、憂いに沈んだオデット(カースティ・マーティン)は、婚約者であるジークフリート王子(ダミアン・ウェルチ)の愛情に不安を感じている。結婚式のあと、愛する新郎の心が、実はロットバルト男爵夫人(ルシンダ・ダン)のものだったことに気づいたオデットは、悲嘆にくれ狂気に陥り、サナトリウム に入院させられてしまう…振付/グレアム・マーフィー、音楽/ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー、構成/グレアム・マーフィー、ジャネット・ヴァーノン、クリスティアン・フレドリクソン、装置・衣装/クリスティアン・フレドリクソン。2002年初演、全4幕。
ベタだろうがなんだろうが、私はバレエの演目では『白鳥の湖』が一番好きで、何度でも、どんなバージョンでも観てしまいます。
マシュー・ボーンも『アクロバティック白鳥の湖』も刺激的でしたが、今回の版もたいそうスリリングでした。なんてったってモチーフはダイアナ妃です。
今回、席は一階後方でしたがどセンターで、舞台が非常に見やすくて感動的でした。
さて、舞台のイメージは1900年のジュネーヴなのだとか。
いわゆるプロローグはおびえるオデットと、愛人と切れない王子。オデットは、結婚へのときめきや恥じらいや幸せの予感におののいているのではなくて、明らかに不安におびえています。
そして第一幕はいきなり結婚式、というかそのあとの披露宴。ポスターなどに使われた、長く裾を引いたウェディングドレスで踊るオデットには躓かないかとヒヤヒヤでしたが、そのあとは軽いドレスに着替えます。しかしこのペチコートの裏地が黒なんですね。
一般に『白鳥』の世界では、白と黒が、聖と俗、善と悪に対応していますが、この作品ではそうではないのです。私は最初、ロットバルト男爵夫人のファーストネームはオディールなのかなと思ったのですが、オディールはむしろふたつに別れて、オデットの中にも夫人の中にもいるのです。
オデットはただの無垢で純真なだけの娘ではない。というのは、何もしていないくせして王子に愛されたがっている、驕慢があるからです。王子に不穏な噂があるのを承知していながら、結婚に応じた、ある種の打算があるからです。
男爵夫人は、優しい夫も愛らしい子供たちも年下の情熱的な愛人も何もかも手にしていて、大得意の悪人かもしれない。しかし彼女は家柄か何かの関係で王子 との結婚を許されなかったか、男爵との結婚を選ばざるをえなかったかして、「一番愛している人の妻の座」にはつけなかった女性です。彼女にも手に入れられ なかったものはあり、その口惜しさをおしてでもなお王子とつきあっているということは、そこにはたしかにある種の真実の愛があるということなのです。彼女 はあらゆる努力をして王子との関係を育んできたのかもしれない訳ですし。実際に第三幕で黒い衣装で踊る夫人のペチコートの裏地は白であり、誠意を表しているのです。王子がオデットの手を取ったあとの夫人の嘆きのソロは劇場を最も沸かせるものでした。
チャイコフスキーのもともとの楽譜では、「黒鳥のパ・ド・ドゥ」は第一幕にあったとのことですが、この曲は披露宴で、王子と夫人が人目もはばからず仲睦 まじいのにキレたオデットが、いきなりその場の青年貴族たちと戯れ踊り始めるのに使われます。なんたる皮肉。そのあと、32回転はありませんが、おぞましくも悲しいパ・ド・トロワになります。そしてオデットは惑乱し、絶望し、狂気の淵に立ち、冷たい氷の湖に身投げしようとするのです。
第一幕ラストに、あのいわゆる「ザッツ・白鳥の湖」のメロディが流れ、普通この曲は、王子が森へ出て湖に誘われるのに使われると思うのですが、この作品 ではサナトリウムとは名ばかりの精神病院へオデットを収監しようと現れた看護師の登場の音楽に当てられます。なんたる皮肉。
第二幕はオデットの幻想シーンです。入院している若い娘たちはみんな浮世離れした白鳥のよう。見舞いに訪れた王子を拒むオデットは、いっそ汚い人間なんかやめて鳥になりたいと願います。でも王子が夫人と立ち去るのを見れば心は乱れる。
幻想の中で、オデットは王子の幻と楽しく美しく踊りますが、それを中断させる白鳥たちは『ジゼル』のウィリたちのようです。ここの「四羽の白鳥の踊り」 はポピュラーな振付を踏襲しつつもマイナーチェンジしてあっておもしろかったです。また「大きな白鳥の踊り」もことに素敵でした。下手で踊ったダンサーは すばらしかったなあ。
第三幕は男爵夫人の夜会。王子とはほぼ公認の恋人同士のように振る舞っています。そこへ、普通ならオディールの登場に使われるファンファーレとともに、幽霊のような白いドレス姿のオデットが招かれてもいないのに乱入します。
ここでのオデットと王子のアダージョに使われた音楽は知らないものでした。一般的な『白鳥の湖』にはカットされてしまっている曲なのかな? そういえば民族舞踊も第一幕で夫人からの結婚祝いの出し物に踊られたチャルダッシュ以外はカットされています。
さてこのアダージョですが、これはなんとも解釈がしづらかったです。
オデットは王子をことさらに誘惑している訳ではありません。ただ、幽霊めいた、幻めいたところはずっと続いていて、要するに別に完全に健康になったり 吹っ切れたりして病院を出てきた訳ではないのです。彼女は現実をきちんと見てはいず、ただ王子の隣にいるべきは自分だとばかりに振る舞っているうちに、王 子の方が、折れてくるという訳でもないんだけれど、同情なのか少しはあった愛情が再燃したのかはたまたここで初めて本格的に自分の妻に恋したのか、とにかくふたりはほぼずっと組んで踊り、夫人は王子に拒絶されます。
そうなると客も現金なもので、正当な夫婦の方の味方をしたりします。王子とオデットは去り、客たちも去り、夫人はひとり広間に残され、椅子に座ります。 かつて第一幕幕切れの同じ場所で、夫人は王子に、女王も座った玉座に自分を上がらせ王子を跪かせました。王国そのものを狙うくらい、いっときは不遜なもの を抱いていたというのに、いまやこうです。
第四幕で、オデットと白鳥たちは黒いドレスを着て踊ります。これはある種の葬送なのでしょうか。王子は追いかけてきた夫人を再び拒絶し、オデットと踊り ますが、結局オデットは黒衣の娘たちに紛れて去り、暗黒の中に消えていきます。暗い夜の湖に身投げした、というようにも、見えました。あとに残るは王子ひとり…
というわけで、設定が現代的な分、結論も現代的な「愛の敗北」を描くもので、全然ロマンティックではありません。
物語というものは不思議なもので、この世は大昔から男社会であり物語をものすのも男性に決まっていたのですが、描かれる物語世界では真実の愛とかなんとかいう「女性原理」が働いているんですね。でもこのルールの前に男性キャラクターってけっこう無力です。
今回の王子も、単に新しい女に気が移ったってだけなら、やっぱりそんな愛は「真実の愛」からほど遠いし、王子はそれに足る相手ではありません。夫人との 愛も本物だったしオデットとの愛も本物だった、ただ時が移ろっただけだ、というのが現実に近いところだろうという解釈もありますが、それはやはり「真実の 愛」というには俗っぽすぎてしまう。世の男性物語作者たちは、我が身と、物語が進むべき真実の道との乖離に悩んだでしょうが、その上手い融合を5000年くらいかけた今でも見つけられていないということなんでしょうね。そういう意味では不完全燃焼だったし不愉快なお話なんですがね。でも「悲しいけど、でも 現実ってこんなもんかもしれないなあ」という感想があまりに強くて、理想を打ち砕いてしまうのでした。
しょせんこの世に真実なんかない、しょうもない男どもは現世に残して、真実を求める女たちはさっさと神の国へ行くしかない…というほどニヒルな結論でも ないとは思うんですけれどね。でも、とりあえず現世では誰も幸福になれていないという事実の前には、理想論も悲しいのかもしれません…
たとえば『ミス・サイゴン』なんかだと、明らかに男が悪く見えて、「ヒロインの代わりにおまえが死ね」と思えるんだけどなあ…うむむむむ。
ところでオデットはブロンドでやってもらえると、ブルネットの夫人と対照が出てよかったと思います。
あと個人的にはオデットに冷たい女王(シェーン・キャロル)が妙にツボでした。映画『クイーン』をちょっと思い起こしてしまった。結局夫人の存在を知りながらも、夫人との結婚は許さずつきあいもなかば黙認しつつ、王妃を迎えさせた女王が元凶なんじゃん、とは言えると思うので…
悲しいことです。
結婚式前夜、憂いに沈んだオデット(カースティ・マーティン)は、婚約者であるジークフリート王子(ダミアン・ウェルチ)の愛情に不安を感じている。結婚式のあと、愛する新郎の心が、実はロットバルト男爵夫人(ルシンダ・ダン)のものだったことに気づいたオデットは、悲嘆にくれ狂気に陥り、サナトリウム に入院させられてしまう…振付/グレアム・マーフィー、音楽/ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー、構成/グレアム・マーフィー、ジャネット・ヴァーノン、クリスティアン・フレドリクソン、装置・衣装/クリスティアン・フレドリクソン。2002年初演、全4幕。
ベタだろうがなんだろうが、私はバレエの演目では『白鳥の湖』が一番好きで、何度でも、どんなバージョンでも観てしまいます。
マシュー・ボーンも『アクロバティック白鳥の湖』も刺激的でしたが、今回の版もたいそうスリリングでした。なんてったってモチーフはダイアナ妃です。
今回、席は一階後方でしたがどセンターで、舞台が非常に見やすくて感動的でした。
さて、舞台のイメージは1900年のジュネーヴなのだとか。
いわゆるプロローグはおびえるオデットと、愛人と切れない王子。オデットは、結婚へのときめきや恥じらいや幸せの予感におののいているのではなくて、明らかに不安におびえています。
そして第一幕はいきなり結婚式、というかそのあとの披露宴。ポスターなどに使われた、長く裾を引いたウェディングドレスで踊るオデットには躓かないかとヒヤヒヤでしたが、そのあとは軽いドレスに着替えます。しかしこのペチコートの裏地が黒なんですね。
一般に『白鳥』の世界では、白と黒が、聖と俗、善と悪に対応していますが、この作品ではそうではないのです。私は最初、ロットバルト男爵夫人のファーストネームはオディールなのかなと思ったのですが、オディールはむしろふたつに別れて、オデットの中にも夫人の中にもいるのです。
オデットはただの無垢で純真なだけの娘ではない。というのは、何もしていないくせして王子に愛されたがっている、驕慢があるからです。王子に不穏な噂があるのを承知していながら、結婚に応じた、ある種の打算があるからです。
男爵夫人は、優しい夫も愛らしい子供たちも年下の情熱的な愛人も何もかも手にしていて、大得意の悪人かもしれない。しかし彼女は家柄か何かの関係で王子 との結婚を許されなかったか、男爵との結婚を選ばざるをえなかったかして、「一番愛している人の妻の座」にはつけなかった女性です。彼女にも手に入れられ なかったものはあり、その口惜しさをおしてでもなお王子とつきあっているということは、そこにはたしかにある種の真実の愛があるということなのです。彼女 はあらゆる努力をして王子との関係を育んできたのかもしれない訳ですし。実際に第三幕で黒い衣装で踊る夫人のペチコートの裏地は白であり、誠意を表しているのです。王子がオデットの手を取ったあとの夫人の嘆きのソロは劇場を最も沸かせるものでした。
チャイコフスキーのもともとの楽譜では、「黒鳥のパ・ド・ドゥ」は第一幕にあったとのことですが、この曲は披露宴で、王子と夫人が人目もはばからず仲睦 まじいのにキレたオデットが、いきなりその場の青年貴族たちと戯れ踊り始めるのに使われます。なんたる皮肉。そのあと、32回転はありませんが、おぞましくも悲しいパ・ド・トロワになります。そしてオデットは惑乱し、絶望し、狂気の淵に立ち、冷たい氷の湖に身投げしようとするのです。
第一幕ラストに、あのいわゆる「ザッツ・白鳥の湖」のメロディが流れ、普通この曲は、王子が森へ出て湖に誘われるのに使われると思うのですが、この作品 ではサナトリウムとは名ばかりの精神病院へオデットを収監しようと現れた看護師の登場の音楽に当てられます。なんたる皮肉。
第二幕はオデットの幻想シーンです。入院している若い娘たちはみんな浮世離れした白鳥のよう。見舞いに訪れた王子を拒むオデットは、いっそ汚い人間なんかやめて鳥になりたいと願います。でも王子が夫人と立ち去るのを見れば心は乱れる。
幻想の中で、オデットは王子の幻と楽しく美しく踊りますが、それを中断させる白鳥たちは『ジゼル』のウィリたちのようです。ここの「四羽の白鳥の踊り」 はポピュラーな振付を踏襲しつつもマイナーチェンジしてあっておもしろかったです。また「大きな白鳥の踊り」もことに素敵でした。下手で踊ったダンサーは すばらしかったなあ。
第三幕は男爵夫人の夜会。王子とはほぼ公認の恋人同士のように振る舞っています。そこへ、普通ならオディールの登場に使われるファンファーレとともに、幽霊のような白いドレス姿のオデットが招かれてもいないのに乱入します。
ここでのオデットと王子のアダージョに使われた音楽は知らないものでした。一般的な『白鳥の湖』にはカットされてしまっている曲なのかな? そういえば民族舞踊も第一幕で夫人からの結婚祝いの出し物に踊られたチャルダッシュ以外はカットされています。
さてこのアダージョですが、これはなんとも解釈がしづらかったです。
オデットは王子をことさらに誘惑している訳ではありません。ただ、幽霊めいた、幻めいたところはずっと続いていて、要するに別に完全に健康になったり 吹っ切れたりして病院を出てきた訳ではないのです。彼女は現実をきちんと見てはいず、ただ王子の隣にいるべきは自分だとばかりに振る舞っているうちに、王 子の方が、折れてくるという訳でもないんだけれど、同情なのか少しはあった愛情が再燃したのかはたまたここで初めて本格的に自分の妻に恋したのか、とにかくふたりはほぼずっと組んで踊り、夫人は王子に拒絶されます。
そうなると客も現金なもので、正当な夫婦の方の味方をしたりします。王子とオデットは去り、客たちも去り、夫人はひとり広間に残され、椅子に座ります。 かつて第一幕幕切れの同じ場所で、夫人は王子に、女王も座った玉座に自分を上がらせ王子を跪かせました。王国そのものを狙うくらい、いっときは不遜なもの を抱いていたというのに、いまやこうです。
第四幕で、オデットと白鳥たちは黒いドレスを着て踊ります。これはある種の葬送なのでしょうか。王子は追いかけてきた夫人を再び拒絶し、オデットと踊り ますが、結局オデットは黒衣の娘たちに紛れて去り、暗黒の中に消えていきます。暗い夜の湖に身投げした、というようにも、見えました。あとに残るは王子ひとり…
というわけで、設定が現代的な分、結論も現代的な「愛の敗北」を描くもので、全然ロマンティックではありません。
物語というものは不思議なもので、この世は大昔から男社会であり物語をものすのも男性に決まっていたのですが、描かれる物語世界では真実の愛とかなんとかいう「女性原理」が働いているんですね。でもこのルールの前に男性キャラクターってけっこう無力です。
今回の王子も、単に新しい女に気が移ったってだけなら、やっぱりそんな愛は「真実の愛」からほど遠いし、王子はそれに足る相手ではありません。夫人との 愛も本物だったしオデットとの愛も本物だった、ただ時が移ろっただけだ、というのが現実に近いところだろうという解釈もありますが、それはやはり「真実の 愛」というには俗っぽすぎてしまう。世の男性物語作者たちは、我が身と、物語が進むべき真実の道との乖離に悩んだでしょうが、その上手い融合を5000年くらいかけた今でも見つけられていないということなんでしょうね。そういう意味では不完全燃焼だったし不愉快なお話なんですがね。でも「悲しいけど、でも 現実ってこんなもんかもしれないなあ」という感想があまりに強くて、理想を打ち砕いてしまうのでした。
しょせんこの世に真実なんかない、しょうもない男どもは現世に残して、真実を求める女たちはさっさと神の国へ行くしかない…というほどニヒルな結論でも ないとは思うんですけれどね。でも、とりあえず現世では誰も幸福になれていないという事実の前には、理想論も悲しいのかもしれません…
たとえば『ミス・サイゴン』なんかだと、明らかに男が悪く見えて、「ヒロインの代わりにおまえが死ね」と思えるんだけどなあ…うむむむむ。
ところでオデットはブロンドでやってもらえると、ブルネットの夫人と対照が出てよかったと思います。
あと個人的にはオデットに冷たい女王(シェーン・キャロル)が妙にツボでした。映画『クイーン』をちょっと思い起こしてしまった。結局夫人の存在を知りながらも、夫人との結婚は許さずつきあいもなかば黙認しつつ、王妃を迎えさせた女王が元凶なんじゃん、とは言えると思うので…
悲しいことです。
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