駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『Shakespeare’s R&J』

2018年01月28日 | 観劇記/タイトルさ行
 シアタートラム、2017年1月26日19時。

 鐘の音に24時間を支配されている、厳格なカトリックの全寮制男子校でクラス4人の学生たちは、抑圧された環境の下、夜中にこっそりベッドを抜け出し、読むことを禁じられているシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』のリーディングを始める。見つかってしまう不安に怯えながら夢中になっていく学生たちは、ロミオ、ジュリエット、修道士ロレンス、乳母たちさまざまな登場人物を演じていくうちに…
 原作/W・シェイクスピア、脚色/ジョー・カラルコ、翻訳/松岡和子、演出/田中麻衣子。日本初演は2005年、全1幕。

 パルコ劇場での初演も観ていて、そのときの感想はこちら
 当時は、おもしろい企画だなと思ったものの戯曲や舞台の真価を私が完全には捕らえきれなかったような、そんな印象が残っていました。その後私もいろいろな舞台を観てきて、ちょっとは進歩したんじゃない?と思えたのが今回の観劇でした。
 まず、前回は役者の個性というかぶっちゃけ顔形がうまく見分けられなかったせいで、誰が誰だか今ひとつ捕らえきれず、学生たちが素の自分として『ロミジュリ』の台詞を言っているのかそれとも『ロミジュリ』のお話の世界に入り込んでしまってそのキャラクターとして台詞を言っているのか、が区別できずもったいない気がしたものですが、今回はそんなことはなかったのです。
 まず学生1の矢崎広はアカレンジャー・タイプというか、いかにも主人公というかヒーローというかクラスの人気者というか、要するに「主にロミオを担当」する生徒にちゃんとハナから見えたのです。丸顔で目鼻立ちもはっきりわかりやすくて、上背もある、というような。
 そして学生2の柳下大はその双子のような背格好に見えて、でもよく見るとこちらの方が顔の造作が中央に集まっていてより精細に、なんなら女性的に見える。だからジュリエット役者に見えるのです。
 続く学生3の小川ゲンが、眼鏡をかけていたこともあるのですが、ふたりより小柄で細面で、だからちょっと神経質そうな優等生っぽそうなキャラクターに見えました。学生4の佐野岳は彼と同じくらいの背でやはり小柄で細面で、こちらはなんとなくマッチョな顔立ちに見えました。そしてその立ち居振る舞いから、道化役というかグループの中で賑やかし役を進んでやりそうな生徒に自然と見えたのです。学生3がキャピュレット夫人やマーキューシオを、学生4が乳母やティボルトを演じる役回りになるのはとても自然なことに思えました。
 この作品にはオリジナルの台詞がなくて、すべてがシェイクスピアの、『ロミジュリ』でなければ『夏の夜の夢』などの台詞から取られています。学生たちはあくまで最初は単なる朗読のようにして読み始め、やがて興が乗って感情的になっていき、お芝居ごっこを始めるようにして役になり出し台詞を語り始めます。でもロミオ役の学生1とジュリエット役の学生2が、お芝居としてなんだけれどキスしたときに、嫉妬のようなヒステリーのようなものが仲間たちの中に渦巻いて、読んでいた『ロミジュリ』の本のページが数ページ引き裂かれてしまうくだりがあります。
 台詞がわからなくなったロミオ役の学生1はそこで「君を夏の一日にたとえようか?」というシェイクスピアのソネット集からの一説を暗唱することで芝居をつなぐのですが、今の私がそれがわかってこの舞台にニヤリとできるのは、宝塚歌劇宙組の『Shakespeare』を観ているからです。あの作品の中でウィルがアンに言ってみせるくだりがあったからです。こういうことがあるから、観劇は楽しいし、知識や教養は多い方がいろいろな物事を楽しめるのですよね。
 学生たちは同性愛者ではないけれど、思春期にいる男子たちであり、そのエネルギーがあちこちにぶつかり爆発して、それがこのお芝居ごっこを盛り上げます。
 ラストは、学生1の夢オチ…ということではないとは思いますが、私は初演観劇時の印象よりも、寂しく感じました。3人の学生たちが学生1をおいて現実に戻っていってしまったことを暗示しているようで…確か『ナルニア国物語』では、四兄弟のうちひとりだけが早く大人になってしまって、洋服ダンスの奥に別世界なんかない、私は行かない、と言い出すのではなかったでしたっけ。そんなことも思い起こして、ちょっとほろ苦く感じたのでした。
 でも本当におもしろい作品だと思います。そしてこうやっていろいろな翻案作品が生まれるシェイクスピア戯曲というものは本当にものすごいものなんだろうなあ、と改めて思いました。でもやっぱり大元の戯曲を今まんま上演されても観るのは絶対につらすぎる…とも改めて思いましたけれどね。それは学生たちが読み上げる台詞があまりに詩的でかつ長々しく、とても現実の人間が現実の生活の中で話す言葉とは思われなかったからです。もちろんそれはあたりまえで、シェイクスピアはこれをリアルなお芝居ではなく、あくまで詩の朗読に近いようなものとして書いたのだろうなとはわかっているのですけれどね。
 簡素な美術や音楽も美しく、このごくシンプルな台詞劇をしっかり支えていたと思いました。いい舞台でした。役者さんたちはみな若く、映像なんかでも露出がある人たちなので、若いファンが劇場に来るきっかけになるといいな、とも思いました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宝塚歌劇宙組『WEST SIDE STORY』

2018年01月28日 | 観劇記/タイトルあ行
 東京国際フォーラム、2018年1月19日11時、15時、21日11時。

 1950年代、アメリカ。ニューヨークのウエストサイドでは、若者たちがジェッツとシャークスに分かれて戦いを繰り広げている。リフ(桜木みなと)をリーダーとし、この地域を支配しているジェッツはヨーロッパ移民の親を持つアメリカ生まれの白人の青年たち。一方ベルナルド(芹香斗亜)を中心に置くシャークスは、アメリカに移住してきたプエルト・リコ人の青年たちだ。縄張り争いが続く中、リフは決着をつけるために親友トニー(真風涼帆)の助けを求める。トニーはかつてリフとともにジェッツを作ったが、今は仲間から離れてドク(英真なおき)が経営するドラッグストアで働いていた…
 原案/ジェローム・ロビンス、脚本/アーサー・ロレンツ、音楽/レナード・バーンスタイン、作詞/スティーブン・ソンドハイム、オリジナルプロダクション演出・振付/ジェローム・ロビンス、演出・振付/ジョシュア・ベルガッセ、演出補・訳詞/稲葉太地、翻訳/薛 珠麗。1957年ブロードウェイ初演、1961年には映画化もされた傑作ミュージカルで、宝塚歌劇では1968年に月組、98年月組、99年星組で上演。レナード・バーンスタイン生誕100周年にあたる今年、再度上演。全二幕。

 映画はもちろん観ていて(映画館ではなく、テレビやビデオでですが)、宝塚版は初演はさすがに生まれていませんでしたが1000days劇場公演は観ています。ただしこのブログでの観劇記録が2001年分からしかなくて、自分でも記録がないと細かいことは残念ながら思い出せません…プログラムとチケットは取っておいてあるんだけど。今回の演目発表に「やっと歌えるマリアがキタ!」と思った記憶があるので、ユウコもユリちゃんもダンサーだったよね…ということでしょうか。そのあとだと、たとえばこちらなどを観ています。
 映画は古典的名作であり、観ているのは教養のうち…という考えはもう古くて、残念ながら作品の存在すら知らないお若い層も増えているのでしょう。劇団四季でもしばらく上演がないのかな? なのでこういう形で宝塚歌劇で再演され、新たに知られていくことは良いことなのでしょう。ミュージカルとして素晴らしく、まったく古びていないことはもちろん、内包する問題が今なお未解決の現代的なものであるからです。
 それにしてもこれを無邪気に「アメリカの『ロミジュリ』みたいな話なんですね」とか「『ロミジュリ』のパクリじゃん」とか言っちゃう人がいるのはさすがになあ、と鼻白みましたよ…盗作は犯罪です。このレベルでやっていて取り締まられていないならそこには何かあるはずだ、くらい考えてものを言っていただきたいものです。これはそもそも『ロミジュリ』に着想を得て、1950年代のアメリカに舞台を移して翻案されミュージカル化された作品なのです。そういうことを知識としてすら知らない人がいるんだなあ、ということに驚かされましたが、これが正しい知識を得るいいきっかけになることを祈ります。こちらなどでも簡潔に説明されています。毎度素晴らしい劇評です。
 そして今観ると、フレンチ・ミュージカルのプレスギュルヴィック版『ロミジュリ』も『WSS』をかなり意識しているのだろうか、と思わせられました。シェイクスピアの元々の戯曲からどこをどうミュージカル・ナンバー化しショー・アップするか、というのはいろいろなやり方があるはずですが、今回観ていて、「ああ、これは『ヴェローナ』だ、ああここは『いつか』だ、ああ『天使の歌が聞こえる』だ…」といちいち符合するようでおもしろかったからです。もちろん「クール」が「世界の王」か? 「アメリカ」が「結婚のすすめ」か? と言われれば微妙なんですが。ともあれこの『ロミジュリ』星組初演も爆泣きしたものでしたが、今回もその思い出もフラッシュバックして、もうずーっとずーっと泣いていました。
 確かに、宝塚歌劇でやると、まして宙組でやると、スタイリッシュすぎるとかスマートすぎるとか荒々しさに欠けて見える…という点はあるのかもしれません。でもそこを含めて、私はリアル男女役者で観るにはつらい演目だと思うのでこれでよかったなと思っています。また、組ファンとしてはみんなが当人比でものすごくがんばって不良少年をやっているのがわかるので、胸アツでしたしそれだけで感動的でした。

 幕が開くと、上手にジェッツのメンツがたむろしていて、音楽のアクセントとともにひとりずつ動き出す…もうそれだけでゾクゾクしました。りく茶レポによれば、このプロローグはジェッツの縄張りにシャークスが進出してきて抗争が激化していって…というここ数年の出来事を見せている態になっているそうなのですが、そういうことより、人数が劣勢だと小さくなっていて優勢になると攻勢に転じる男子のアタマの悪さと卑怯さ、凶暴さが早くも露呈している場面でもある点に、すでに胸塞がれます。
 そんな中で、早くもいいなと思わせられたのがモンチのビッグディール(星吹彩翔)のキャラクターです。眼鏡をかけているけれどいわゆるメガネくん、つまりオタクだったりおとなしいいじめられっ子だったり逆に優等生で秀才でグループの頭脳派で…なんてキャラではなくて、単なる近視なのでありみんなと変わらずやんちゃなごんたくれなんですよ。それがいい。
 それとりりこのエイラブ(潤奈すばる)ね! てか新公含めてりりこがこんなに台詞をもらって芝居をさせてもらえてるのって初めてでは? そしてめっちゃできるやん超鮮やかじゃん! 目が覚めるようでした。アントンのAをもらってニックネームにしちゃうような子なんだよね。あきものベイビージョン(秋音光)とともにリフたちよりちょっと下の世代なんだろうけれど、その感じがよく出ていていじらしくて可愛くておもろくて、素晴らしかったです。もちろんあきももいい、でもこれはできるの知ってたから!(笑)
 そして、お互い無視して通り過ぎればいいのに最後の最後にちょっかい出すことにするのがかなこのスノウボーイ(春瀬央季)なんですよ、ホントわかってるわあ…!って感じですよね(どんな感じだ)。美貌でさすがに不良感が一番なかったかもしれません。そこもまたかなこだよね。
 シャークスはさすがキキちゃん、赤いシャツにブラックデニムで脚の長いこと、まさに宙スタイル! 無言で立っていても存在感がありましたね。ジュリエットの従兄だったティボルトがマリアの兄のベルナルドになって、映画では確か「アメリカ」のナンバーにもいるんだけれどミュージカル版には実は歌やナンバーがない役です。それでも二番手の役にちゃんと見えました、たいしたものです。ようこそ宙組へ!
 そして『WSS』と言えば、というあの脚上げシルエットのダンスはキキちゃんにりくにさお。りくの軽々ひょいっと上げる脚の高さが絶品でしたね。チノ(蒼羽りく)はこれまた意外に踊らない役なんだけれど、台詞がなくてもダンスがなくてもちゃんと芝居をしているりくから滲み出るものが素晴らしかったです。
 大公にあたるシュランク警部補(寿つかさ。絶品の嫌みったらしさよ!)が出てくると仲良さげな振りをする彼らは、自分たちをギャングと呼んでいるけれどギャングでもましてマフィアでも全然ない、単に大人たちに反抗しイキがっているだけの不良非行少年グループにすぎない、ということがよくわかります。
 それにしてもこのあたりで交わされる移民差別の言葉の応酬のひどさときたら…アメリカは移民の国であり、真の意味での「アメリカ人」と言えばそれはむしろネイティブ・アメリカンのことになるはずです。シャークスの少年たちはプエルト・リコからやってきていて、人種的にはヒスパニックですがプエルト・リコはアメリカ領なので彼らだって「アメリカ人」なはずなのです。なのにジェッツの少年たちは彼らを「スペイン野郎」と呼んで罵る。シャークス側も自分たちが外国人扱いされていることはわかっていて、ジェッツを「アメリカ野郎」と呼んで蔑む。ポーランド野郎、イタリア野郎、アイルランド野郎とも呼ぶ。ジェッツの両親世代はそれぞれそれらの国から来た移民で、しかし彼ら自身はもうアメリカ生まれなのでした。日本には移民問題はないとされていますし、人種と国籍と国土と国家がほぼほぼイコールであるごくごくまれな国です。そんな国に暮らす我々にとってこうした問題はほとんど知識でのみ知るものですが、しかしこうした差別がもっと他のいろいろなものに及ぶ悲劇は他人事ではなく、ヒリヒリさせられます。
 彼らの怒りやいらだちは思春期特有のものでもあるし、親世代同士のいがみ合いを見て学んでしまったものでもあるのでしょう。てもそこから、違う大人を知り違う社会を知り違う未来を夢見て仲間の輪から外れつつある、青年になりかけているひとりの少年がいました。トニーです。トニーの家がとりわけ裕福だとか、彼だけがとりわけ勉強ができたとか、そういうことではないのでしょう。ただ偶然ドクと知り合い、目が開かされただけなのでしょう。ちょっとだけ地に―の心が柔らかく、その出会いを受け入れられたということだったのかもしれません。そして今は恋の予感に胸ときめかせている…男臭いのが身上みたいなゆりかちゃんがまた、上手くキラキラとした若い青年を演じていて微笑ましくて、もうそれだけで泣けました。歌もがんばっているよねえ…! この作品は古いだけあってかなりオペラチックで、トニーはダンスよりむしろテノールがやるような花形スター歌手役なんですよね。でも大健闘だったと思います。トニーの前ではリフが弟キャラになる感じもまた微笑ましかったです。
 一方のマリアは、アメリカに来て一か月、家と職場の往復に飽き飽きしています。彼女が白人に対して思うところが特にないのは、両親が大事に育ててきたからであり(彼らはスペイン語しか話せないようでもあります)、アメリカに来てからも兄ベルナルドにがっちり保護されていてまだ怖い思いをしたことがないからです。まだ汚れていないだけで、この先はわからない、でもその前に、彼女はトニーに出会ってしまったのでした。
 マリアの姉貴分でありベルナルドの恋人アニータ(和希そら)は大役ですしどんぴしゃ配役でしたが、本当に素晴らしかったです。大人ぶりだがるマリアをいさめる一方で、マリアをあまりに過保護にするベルナルドを牽制したりもできる、そして恋人と対等であろうとし相手にもそれを認めさせようとする、広く新しい見識を持った大人の女性を、賢く色っぽく強く美しく演じてくれていました。
 「感じるのは、見たときじゃないねえ」より私は、マリアのドレス姿を褒めるベルナルドに対して仕事着のスモッグをすぐさま脱ぎながら「聞こえないなあ」と言ってのけるのがいいなとシビれました。こういうときに綺麗に着飾るのはもちろんまずは自分のためなんですけれど、自分をエスコートする彼氏をよりカッコよく見せるためでもあるわけで、ならば彼にはそれをありがたがりこちらを褒め評価する義務があり、だからこちらとしてはそれを要求する権利がある、「俺の権利を行使する!」ってなワケですよ(作品が違います)。その考え方が素晴らしいし、そしてこう言われたベルナルドがテレるでもなくまた嫌がるでもなく、ちゃんと「すごく綺麗だ」と言う男であることがまた素晴らしい。欧米文化ですよねえ。それをこの短いやりとりで見せる脚本がまた素晴らしい。
 ふたりのディーブであろうキスに目を背ける初心なマリアと、そもそも店に入るのにすらおたおたしているチノも愛らしい。「女の人の店だろう?」だなんて、またいい台詞だよなあ。別に結婚式は女性のためだけのイベントではないのだし、両性のものだろう…というフェミ的野暮つっこみはここでは置きます。というかチノにとってはここは単に「お洋服屋さん」「ドレス屋さん」で、それは女性の領域である、という程度のことなんでしょうからね。
 体育館のマンボではジェッツの女のエビちゃんヴェルマ(綾瀬あきな)とゆいちゃんグラツィエーラ(結乃かなり)が素晴らしいですよね! ちっちゃくて青いエビちゃん、おっきくて黄色いゆいちゃんが美人オーラをガンガン飛ばしてキレッキレでバリバリに踊るのがホントたまらん!! そしてグラツィエーラとスノウボーイがカップルなのがまたたまらん、この器量好みめ!
 パーティー司会者のほまちゃんグラッドハンド(穂稀せり)がまたいいキャラクターだし、上手いのです。彼が、男女に分かれて二重の円を作ってパートナーチェンジをしましょう、と言うのに対して「あんたはどっち?」みたいな揶揄が飛ぶんだけど、彼は別にオネエっぽくもなんともないんですよ。ごく普通にきちんと丁寧な言葉でしゃべっているだけなの。でもそれがジェッツにしたら男らしくないってことになっちゃうんですよね。マッチョじゃなければ男じゃない、オカマだ、みたいなその愚かさ、幼稚さ、病がこれまた短くもきちんと表現されているのです。
 ベルナルドにダンスの輪に混ざることを禁じられて、端っこで踊るマリアとチノがまた愛らしい。そこへトニーがやって来て…こんな混沌の中で、トニーとマリアは出会ってしまうのでした。
 この雷が落ちたような一目惚れは…まあ、お話の中のことなのでしょう。でも、お話だからここまで純化されて表現されているだけで、一目で好印象を抱き恋心が芽生えてしまうことは現実に全然あるわけで、リアリティはあるのでした。周りが見えなくなって、お互いの声しか聞こえなくなって、でも何もしゃべれなくなって…
 そしていわゆるバルコニー場面へ、そしてかの有名な「トゥナイト」へ。まどかの歌唱が本当に素晴らしくてまたダダ泣きでした。ジュリエットはロミオに名を捨てるように言ったけれど、マリアはトニーの本当の名前を聞きます。トニーは「アントン」と答える。ここでマリアが両親とスペイン語で会話するのを聞いて、トニーもなけなしのスペイン語の知識を引っ張り出して来て、やっと言うのがまず「Si」なのがまたとても良い。はいとかいいえとかこんにちは、ありがとうくらいの挨拶の外国語なら知っているじゃないですか。始めるのはまずそこからじゃないですか。でもそうやって自然に相手に歩み寄ろうとする、相手の言葉で話そうとするトニーが、いい。もちろん恋ゆえではあるのだけれど、そうやって人はつながれるはず、わかりあえるはずって思えるじゃないですか。名を明かし、愛していると伝え合い、今は別れるふたりはそれでも輝いていて美しい。涙せずにはいられません…
 ベルナルドやアニータたちも帰宅して…かの有名な「アメリカ」へ。プエルト・リコも、サン・ファンもいいところだったよ、と歌う純朴なロザリア(花音舞)がきゃのんなのがまたよかったですよね。しっかりしたお姉さん役に回されることが多いのだけれど、こういう役も抜群に上手い。そしてそらメインの圧巻のダンス! 唯一名前がついていなかったけれど花宮沙羅ちゃんもとってもよかったです。
 シャークスの女たちが新天地を謳歌しようと踊る一方で、男たちはドクのドラッグストアに集って戦争会議を始めます。「戦争」「会議」! その愚かさに驚きますし心が冷えます。ここでアクション(瑠風輝。あのもえこがこんなイカイカした役を!というだけで泣けました)がドクに言う「あんたが俺たちの歳だったことがあるのかよ!」みたいな台詞は、あったんだからちょっとアタマ悪すぎでこれは訳が悪い。今回は全体に翻訳も歌詞も自然でいいなという印象だったのですが、ここは引っかかりました。そういう時もあったのかもしれないがそれは今じゃない、今あんたは俺たちの歳じゃない、だから黙っていろ、というような文脈なはずなので、ここは工夫していただきたかったです。
 翌日のブライダル・ショップ、マリアに会いに来たトニーがアニータに会ってしまうくだりでの、マリアの口調をアニータが口真似するところ、ホント最高でしたね。乳母もジュリエットの口真似をしましたもんね。そして「15分だけよ」と釘は刺すけれどふたりだけにしてあげて去れるアニータの素晴らしさよ…! ベルナルドを挑発するために「トニーは可愛いわ」と言ってみせたりもしたアニータですが、マリアの相手として白人のトニーがまったくナシではないと考えられる彼女はすごいものです。もちろん恋が他人に止められるものではないと知っているからこそ、なのかもしれませんが…
 そして始まる結婚式ごっこで、わりとトニーがヘタレでマリアが意外にちゃっかりしていたりしっかりしている感じなのがまたいいですよね。実年齢はともかく、精神年齢で言えば女の方が男よりはるかに上なワケです。それをまたトニーがナチュラルに受け入れているのも良くて、ここでマッチョぶらないのがトニーのいいところでありトニーがトニーである所以なのでしょう。もちろんこれもただ恋ゆえに、というのはもちろんあると思うのですが。
 続く「トゥナイト」クインテットで一幕終わりかと思った、という意見が少なからずあったのは、みんなイケコの一本立ての一幕ラストに影響されすぎだと思います(^^;)。まあベルナルドとリフの出番が二幕にほとんどなくなってしまうことを考えれば、決闘場面は二幕に回した方が、という意見もアリなのでしょうが、でも今回に関してはこの一幕ラストがいいんだと思うんですよね。私は拍手もしたくないくらいでした。どよんとしたまま幕間に突入したい、幕間もどよんと過ごしたい、それくらい物語に没入したい、そんな作品でした。
 でもやっぱり、マーキューシオが殺されたからといってロミオがティボルトを刺し殺してしまうことに納得ができなかったのと同様に、トニーがベルナルドを刺してしまうような人間には私にはやっぱり思えず、その困惑は残るのでした。リフは弟のような家族のような我が身のような大事な存在だったから、ついカッとして逆上してやり返してしまった、それが男というものだ男の友情だ…というのはわかるけれどもしかし、というもやもやがどうしても私にはあるのです。この問題については最後にまた語りたいと思います。

 二幕、マリアの家での女子会の「I feel pretty」、もうめっかわ! ロザリアの「アメリカでは初夜の前に結婚するんだって!」というのはちょっとわかりにくいけれど仕方がないかな。そしてチノが知らせを持って駆け込んでくる…
 マリアがベッドのそばのマリア像に祈る「本当じゃなくしてください」という言い回しの幼さに爆泣きしました。なんでもできるアメリカ、どんなやり直しもできる世界にも、取り返しがつかないことというものはあるのです。ここではないどこかなら…「サムウェア」の美しさこそこの作品の真骨頂ではないでしょうか。どうにかして、いつか、どこかで、愛にあふれた平和な世界を築きたい…女たちは白人もプエルトリカンもすでに同じ白いドレス姿です。男たちは同じ白いシャツだけれど、ジェッツはブルーデニムでシャークスはブラックデニムという違いがまだある。男たちは常に遅く、女たちの方が常に先を行く。でも社会を先導しているのは男たちなのでした。だからベルナルドがリフを殺しトニーがベルナルドを殺したことは覆らない…
 スケルツォ・メンバーの若手ダンサー、デュエットの男女のダンサーの選出の確かさに震えます。さよちゃんのカゲソロの素晴らしさにも震えました。
 「クラプキ巡査」のナンバーなんかも、長い、古いと簡単に言ってしまうことはできるのでしょうが、ここで揶揄されている少年裁判や精神科医、カウンセリングやソーシャルワーカーなどのケアが、機能していないと皮肉られようと当時のアメリカにすでに制度としてきちんとあったこと、翻って現代日本ではまだまだ形だけですら整っているとは言えないお寒さであることに思い至れば、聞き入ってしまって長いなんて言って簡単に切って捨てられません。そしてジェッツの少年たちの小芝居がもちろんうまく、見ていて飽きません。名無しのきよもこってぃもいい仕事してるんだ、これがまた。あ、バリバリ踊っているわけではないけれど、まっぶーの完全復帰も嬉しいことでした。
 寝入ってしまったトニーとマリアはアニータの来訪に目覚めます。マリアとアニータの叫び合うような二重唱がせつない…そして『ロミジュリ』の仮死状態になる薬なんてものの代わりに、アニータが遣わされることになるのでした。
 ドクのドラッグストアは、ロレンス神父が薬草も扱うような人だったところからきているのでしょうが、マツキヨみたいな薬屋ではなくて、煙草や酒や馬券を売り主に男性が集うようなパブ…みたいなものなのでしょう。警察がトニーを探していることに怯えたジェッツの男たちが集まり、そこにマリアのトニーへの伝言を持ってアニータが飛び込んでくる…
 ここでアニータに浴びせられる言葉の汚さといったら! そして問題のレイプのくだり、もっと言ってしまえば輪姦のくだりは、私は心配していたよりはだいぶうまくダンスに模されているなと思いました。それでもそらの悲鳴はつらい。いつも男たちに混ざりたがり、将来の夢はコールガールなんて言っちゃうエニボディーズ(夢白あや。すごくがんばっていましたね!)が、徐々に輪を外れてジュークボックスの陰に隠れてしまうのが哀れでたまりません。同じようにベイビージョンも、仲間たちの行為に背を向けて、膝を抱えて小さくなる。でも男たちはそれを許さないのです。彼を抱えてアニータに跨らせる。この暴力も見過ごせません。なんて残酷で凶暴で醜悪なことでしょう。確かに演じる側にもなんらかのケアをしてほしいものです、でも残念ながらそんなことしてないんだろうけどね。それはどこの演劇の現場でもそうなんだろうけれどね。それはともかく、私たち観客は目を背けることを許されません。それは現実にあることだから。そして私たちが愛するタカラジェンヌがまさに身を挺して演じて見せていることなのだから。真摯に受け止めるしかないのです。
 ここでアニータがついたこの嘘を誰が咎められるというのでしょう。それにアニータが言いたかったこと、したかったことは、マリアを死んだことにするというよりはむしろ、こんなんだったら今後もう二度と女は男と関わらない、私たち女はすべて死んだものだと思ってくれ、というか男が女を殺したのだ、というようなことですよね。だからそれは嘘なんかではなくて、単なる事実なのです。
 ドクからアニータの言葉を聞いて、トニーはチノを探して街に飛び出します。マリアを撃ったというチノを撃ち殺してやりたいから、ではありません、自分もチノに撃たれて死にたいからです。マリアのあとを追いたいからです。その惰弱さに泣けるし、だったらどうしてベルナルドに向けてリフのナイフを手にしたときにたとえ一瞬だけでもそうしたことに思い至れなかったの?と思うとさらに泣けます。
 マリアが現れ、しかしトニーはチノに撃たれて死にます。「もっと信じればよかった」「愛するだけでいいのよ」。憎悪に顔をこわばらせているチノが痛々しくてまた泣けます。本当は優しい青年なのに、今はトニーどころかマリアをも憎んでいる。ざまをみろと思っている。かくも愛は憎しみに転じやすい。マリアもまた…
 「触らないで!」と叫ぶマリアの咆哮はまさしく傷ついた野獣のものであり、我が子を守ろうとする母親のものでもありました。幼い少女はわずか二日で女になり妻になり、そして大人に、聖母にすらなったのです。マリアはチノに拳銃を要求し、ジェッツにもシャークスにも自分にも銃口を向けるけれど、結局は撃ちません。女だから、弱いから、怖いから、怯えているからではありません。愛しているからです。愛する者を奪われても、愛はそこに残るからです。

 救いのないラストだ、と言う人もいるようです。『ロミジュリ』のようにふたりとも死んで、そして天国で幸せに踊るのでした…みたいな方がいい、と言う人もいるでしょう。でもこの作品ではマリアに死ぬ義理はない。トニーはベルナルドを殺した罪に殉じて死んだのであり、当然の報いとすら言えます。やり返してしまった者はまたやり返される。でもマリアはやり返さないことを選ぶことができたのです。だから生き残れたのです。暴力や憎悪の連鎖は誰かが止めなければ止まらないのです。愛する者を奪われても、自分自身も死んだようになったとしてもそれでも、自分のところで止められるだけの強さが彼女には、女には、あるのです。男には、ない。それをこの物語は描いているのです。だからこういうラストなのです。
 絶望的と言えるかもしれません。トニーを運ぶジェッツの男たちの列にペペ(美月悠)だけが加わりますが、それが融和と言えるかどうかは甚だ怪しい。そういう終わり方でもあります。でも現状、これなのです。そして60年たっても残念ながら世界はあまり良くなっていない…
 そして私は今回改めて、エニボディーズってなんなのかな?と思いました。こういう、男たちに混ざりたがる女の子のキャラクターってわりとパターンとしてあると思うのだけれど、それは何を意味しているのだろうかとか、そもそもそんなにいるものだろうか?とかね。トニーもリフも彼女を仲間だと認めなかったけれど、アクションは最後に彼女に役目を与え言葉をかけることで彼女を認めます。でもそれは進歩でしょうか? 男が女を認めたということでしょうか? それでエニボディーズは本当に幸せでしょうか? それが彼女のためになるでしょうか? 私にはそうは思えません。ここは上手く解釈できませんでした。
 そうしたことも含めて、だからこそ、繰り返し上演され意味を問われる意義がある作品なのでしょうが、でももしかしたら、単に各ナンバーがやや尺が長いとかそういうこと以上に、もしこの作品が「古い」と言えるとしたらそれは、ロミオがティボルトを殺しトニーがベルナルドを殺すことに立脚している物語であること、にあるのかもしれません。だってこれって、やられたらやり返しちゃうでしょ? そういうことってあるでしょ? ということを前提にしたお話じゃないですか。結果的に悲劇に終わるので、それはいけないことですよダメなことですよと言っている態でもあるけれど、でもそもそもそういうことがありえること、あることは肯定しちゃっているワケじゃないですか。そこからスタートする話なんだから。
 でももはや、それじゃダメなのかもしれません。そういうことがもう古いのかもしれません。そうじゃない物語を作ってそうじゃない世の中にしていくべきなのかもしれません、特に女たちの手によって。ロミオがティボルトに仕返ししなかったら話が始まらない、そこで復讐の手を納めたらドラマチックじゃない、というのは浅薄で、そこから始まる別の物語を構築すべきだと思うのです。それが何かは私にはまだはっきりとはわからないけれど。
 要するにこういう、仕方ないよね、ということに立脚した悲劇を涙しながら消費してきたことで、仕方がないということに慣れさせられ、肯定させられ、結果的に病んできて、ゆっくりゆっくり破滅に向かって突き進んでいる…というところが我々人類にはもしかしたらあるのではないでしょうか。それはもしかしたら、そこまでの知能は持たずただ健全に健康に生き蔓延りだからこそ滅亡などしない動物たちと人間との違いなのかもしれません。でも知性があるからこそ滅びるのだ、ということに与したくないと思う私はロマンティストすぎますか? その知性を生かし、無理やりにでも未来を明るくいい方に捻じ曲げたい、それは努力すればできることな気がする、というのは甘すぎますか?
 まあ、社会主義にせよ非暴力主義にせよ、学校で勉強したときには若き日の私は「立派な思想だけれどそれが実現できるほど人類は賢くないのではなかろうか…」とか思ったものですけれどね。でもそうやってあきらめちゃってきたから、今こういうやや残念な世界ができちゃっているのかもしれないわけじゃないですか。やはり心を強く持って、理想に向かって纐纈に邁進する覚悟…といったものは必要なのではないかしらん。
 いつまでもこういう物語に泣いていることは害悪なのではないか…とすら思い至らせてくれたこの作品に、それを成し遂げた組子に、私は感謝したいです。
 私たちには、未来のために、世界のために、まだ、もっと、できることがあるはずだと思う。やり返さないことを選択すること、それを是としその行為が報われ幸せに帰結する物語を作り流布し、それを観たり読んだりして受け取る人の心を育てること…はできるはずだと思うのです。いやむしろ、しなければならないことなのではないでしょうか。ホント、それってどんな話だよって感じなんですが。上げて下げる、下げて上げるのが物語の基本だから、たとえばトニーがベルナルドを殺さないことで一時はディーゼル(風馬翔。そもそもタイマンをそのまま彼にやらせておけばあっという間にキキナルドに勝って落着したんだよね…という説得力がすごい)たちとかにボコボコにされるんだけど、やがてはペペやチノが手を差し出してくる…とか、ありえるじゃないですか。そういうことですよ。そういう物語を描くべきだということですよ。
 そんなことをも私は強く考えさせられたのでした。

 フィナーレというか、ごく短いラインナップに至るダンスがあるのがいいですね。私が観たときにはアニータとトニーにしか拍手が入らなかったけれど、リフにもベルナルドにもマリアにもしてあげてほしいなと思いました。それはファンクラブが切っちゃえばいいと思うんですよねー。改めて、そらはもちろん、ずんちゃんもキキちゃんもまどかもゆりかもとても素敵でした。
 そして、夏の梅田公演にも思いをはせないではいられません…もちろん裏のバウ主演が野望なんですけれど、普通に考えればハコを変えてキキ主演でしょう。そこでがっつり悪役の二番手をやる…というのももちろん望ましいけれど、でも『WSS』にも出させてあげたいところだよなー、という問題です。
 その場合、ベルナルドは愛ちゃんとして、リフを任せてほしいのです。アクションでもいい。そういう役が観たい。チノではなく。それはもう観た、知ってる。贅沢で何様だよという言い方なのは承知で、それでもそう言いたいのです。お願いしますよ…!

 ともあれ、素晴らしい公演でした。チケ難でしたが、キャンセル待ちなど含めてなんとか観られた幸運に感謝、お友達に感謝です。チケットは天下の回りもの…とはいえ私もお友達のためにできることはがんばりたいです。みんなで観て、しっかり受け止めて、語り伝え、生徒さんたちを応援し続け、より良い世界を築いていきたいものです…!


 


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする