パルコ劇場、2005年2月17日ソワレ。
舞台は厳格なカソリック系の全寮制男子校。勉強、懺悔、夕べの祈り…生徒は行動のすべてを厳しい規則でがんじがらめにされており、道徳を乱すものはいっさい禁止されている。シェイクスピアの戯曲さえ、ここでは禁止項目のひとつだった。だが、4人の生徒たちが、消灯後、密かに『ロミオとジュリエット』のリーディングを始める。彼らはすぐに読むだけでは飽き足らなくなり、寮を抜け出して実際に演じ始めるが…脚色・演出/ジョー・カラルコ、翻訳/松岡和子、美術/マイケル・フェイギン。1998年オフ・ブロードウェイ初演。
キャストは、主にロミオの台詞を担当する学生1が首藤康之、ジュリエットとベンヴォーリオを演じる学生2が佐藤隆太、マキューシオとロレンス神父とキャピュレット夫人を演じる学生3が小林高鹿、乳母とティボルトとバルサザールの学生4が浦井健治。この4人だけ。そしてゲイの物語ではない。
つい先日、藤原竜也や鈴木杏が口にしていたセリフを、今度はまたちがった形で男性4人の口から語られるのを聞くのは、なかなかにおもしろかったです。
ただ、やはりちょっと、企画倒れなのではないかとも感じました。というか、やはり、シェイクスピアの戯曲や台詞が教養としてほぼ暗記されている文化の土壌に育つ環境にないと、この舞台は完全に楽しめないのではないかしらん、と思ってしまうのです。少なくとも私はこれでもけっこうシェイクスピア劇は読んだり観たりしているつもりだしそれこそロミジュリは先日観たばかりなわけですが、それでもしんどく感じました。
それから、学生4人に特にキャラクターの描き分けが感じられなかったのは、そういう演出意図なんでしょうか。私だったら4人に真面目だとかお調子者だとかいろいろと類型的なパターンを振って、そういう男の子が役の台詞を読んでいるうちに変化していって…というドラマを作ろうとするだろうので。ある程度役者のキャラクターに任されていたのかな? あるいは単に弱くて読み取れなかっただけか、私に読み取る力がなかったか…
だってキャピュレット夫人と乳母のシーンがものすごくおもしろかったんですよ。それまではロミオとその友人たちのシーンだったので、彼らもほぼ素で台詞を読めていたのが、女役をやらなければならないとなって、思春期の男の子たち特有の恥ずかしがりやテレの裏返しで、ハイになってオカマ言葉の感じで始めるんですね。胸だのお尻だのを強調しようとするポーズもそういうセクシャルヒステリーというか。それが、ふと真顔になって、人間としての役の捉え方をし始め、ジュリエットが加わって…というところが、本当に何かの化学反応を見ているように鮮やかだったのです。
そんな感じで、「こういう男の子がこんなふうに変化しました」というのを、もっといろいろと観たかったかな、と思ってしまいました。
でも本当に企画としてはこの翻案は見事で、若者たちの恋のエネルギーほとばしるロミジュリの物語は思春期の少年たちの衝動に通じるものがあって、ものすごくシンプルなセットと最小限の小道具、ものすごく印象的な赤い布の使い方も美しい舞台で、よかったです。
で、終盤に近づくにつれ、
「で、オチはどうするんだろう」
と心配になった私です。学校の抑圧から逃れる喜びを知って少年たちが学校を飛び出すというようなハッピーエンディングなのか、また灰色の日々に戻っていくだけというようなエンディングなのか、はたまた…と。
生活としてたまたいつもと変わらない日常が戻って来るけれど、だけど心は物語の喜びを知った、みたいなラストはパターンのひとつかと思いますが、今回のそれは、「だからいいじゃん」とも「だけどむなしい」ともつかない、不思議な余韻を持たせて終わる、ちょっと特異なもので、私は好もしく感じました。
本当にどちらとも言えない口調で、学生1が「夢を見た…」とつぶやくのが何度かリフレインされる…というものなのです。ううーん、なんか心に残りました。
口舌と演技が一番よかったのは、やはりナイロン100℃出身の小林高鹿。ビジュアル的にも惚れてしまった私なのでした。
舞台は厳格なカソリック系の全寮制男子校。勉強、懺悔、夕べの祈り…生徒は行動のすべてを厳しい規則でがんじがらめにされており、道徳を乱すものはいっさい禁止されている。シェイクスピアの戯曲さえ、ここでは禁止項目のひとつだった。だが、4人の生徒たちが、消灯後、密かに『ロミオとジュリエット』のリーディングを始める。彼らはすぐに読むだけでは飽き足らなくなり、寮を抜け出して実際に演じ始めるが…脚色・演出/ジョー・カラルコ、翻訳/松岡和子、美術/マイケル・フェイギン。1998年オフ・ブロードウェイ初演。
キャストは、主にロミオの台詞を担当する学生1が首藤康之、ジュリエットとベンヴォーリオを演じる学生2が佐藤隆太、マキューシオとロレンス神父とキャピュレット夫人を演じる学生3が小林高鹿、乳母とティボルトとバルサザールの学生4が浦井健治。この4人だけ。そしてゲイの物語ではない。
つい先日、藤原竜也や鈴木杏が口にしていたセリフを、今度はまたちがった形で男性4人の口から語られるのを聞くのは、なかなかにおもしろかったです。
ただ、やはりちょっと、企画倒れなのではないかとも感じました。というか、やはり、シェイクスピアの戯曲や台詞が教養としてほぼ暗記されている文化の土壌に育つ環境にないと、この舞台は完全に楽しめないのではないかしらん、と思ってしまうのです。少なくとも私はこれでもけっこうシェイクスピア劇は読んだり観たりしているつもりだしそれこそロミジュリは先日観たばかりなわけですが、それでもしんどく感じました。
それから、学生4人に特にキャラクターの描き分けが感じられなかったのは、そういう演出意図なんでしょうか。私だったら4人に真面目だとかお調子者だとかいろいろと類型的なパターンを振って、そういう男の子が役の台詞を読んでいるうちに変化していって…というドラマを作ろうとするだろうので。ある程度役者のキャラクターに任されていたのかな? あるいは単に弱くて読み取れなかっただけか、私に読み取る力がなかったか…
だってキャピュレット夫人と乳母のシーンがものすごくおもしろかったんですよ。それまではロミオとその友人たちのシーンだったので、彼らもほぼ素で台詞を読めていたのが、女役をやらなければならないとなって、思春期の男の子たち特有の恥ずかしがりやテレの裏返しで、ハイになってオカマ言葉の感じで始めるんですね。胸だのお尻だのを強調しようとするポーズもそういうセクシャルヒステリーというか。それが、ふと真顔になって、人間としての役の捉え方をし始め、ジュリエットが加わって…というところが、本当に何かの化学反応を見ているように鮮やかだったのです。
そんな感じで、「こういう男の子がこんなふうに変化しました」というのを、もっといろいろと観たかったかな、と思ってしまいました。
でも本当に企画としてはこの翻案は見事で、若者たちの恋のエネルギーほとばしるロミジュリの物語は思春期の少年たちの衝動に通じるものがあって、ものすごくシンプルなセットと最小限の小道具、ものすごく印象的な赤い布の使い方も美しい舞台で、よかったです。
で、終盤に近づくにつれ、
「で、オチはどうするんだろう」
と心配になった私です。学校の抑圧から逃れる喜びを知って少年たちが学校を飛び出すというようなハッピーエンディングなのか、また灰色の日々に戻っていくだけというようなエンディングなのか、はたまた…と。
生活としてたまたいつもと変わらない日常が戻って来るけれど、だけど心は物語の喜びを知った、みたいなラストはパターンのひとつかと思いますが、今回のそれは、「だからいいじゃん」とも「だけどむなしい」ともつかない、不思議な余韻を持たせて終わる、ちょっと特異なもので、私は好もしく感じました。
本当にどちらとも言えない口調で、学生1が「夢を見た…」とつぶやくのが何度かリフレインされる…というものなのです。ううーん、なんか心に残りました。
口舌と演技が一番よかったのは、やはりナイロン100℃出身の小林高鹿。ビジュアル的にも惚れてしまった私なのでした。
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