駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇雪組『ソロモンの指輪/マリポーサの花』

2010年03月19日 | 観劇記/タイトルさ行
 東京宝塚劇場、2008年10月30日ソワレ。

 とある小国。ネロ(水夏希)は高級クラブの経営者という表の顔を持つ一方で、裏では密輸取引に手を染めていた。何度も政変を繰り返し、人々が不満を鬱積させているこの国のために、ネロは密輸で得た資金で病院や学校を建設しているのだ。ネロの親友エスコバル(彩吹真央)は、自分たちの密輸は大統領サルディバル(未来優希)も黙認のことだが、目立ちすぎると危険だと心配するが…作・演出/正塚晴彦、作曲・編曲/高橋城。ショー『ソロモンの指輪』は作・演出/荻田浩一。

 私は宝塚歌劇の様式美をこよなく愛しているので、最初に30分のショーをやってそのあと2時間の芝居、というのはやはりいただけないと思いました。
 ショーはスピーディーで一瞬の夢のようで、幻想的でいいんだけれど、やはりことごとくショーの様式美に反したものでしたしね。

 芝居の内容も…ショーアップシーンの工夫はいいし、スーツは素敵だし、ストイックなキャラクターもいい。けれどやはり長いし、何よりラブストーリーとして弱いのがイタい。ヒロイン・セリアの白羽ゆりと、その弟リナレスを演じた組の三番手・音月桂は明らかに役不足で、もったいなかったです。

 そもそも題材として、ちょっと前の中南米の国をイメージさせるような、大国をバックにした軍事独裁政権にあえぐ小国、みたいな舞台を選ぶのがどうかと思います。
 宝塚歌劇の女子供のもので、きな臭い現実なんか無視していいんだ、と言いたいわけではありません。
 ただ、そういう現実の前ではどうしても愛より大義が優先されてしまうものであり、そもそもそういう世界のあり方のほうが間違っているのだ、というのが女子供の主張であり、ひいては宝塚歌劇の考えなのですから、やはりこういう世界観を宝塚歌劇に持ち込むべきではないのです。
 正塚先生、こういうことは、外で映画とか撮るチャンスがあったら、やったらいいんじゃないですか?

 キャラクターとしては他に、表向きは記者で実はCIAエージェント・ロジャー(風稀かなめ)がすばらしかったです。男臭くてホントいいんだけれどねー。
 要するにヒロインが、「男が守るべき国民の代表格」でしかないのがいけないのかもしれません。残念。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『CHICAGO』

2010年03月19日 | 観劇記/タイトルさ行
 赤坂ACTシアター、2008年10月10日ソワレ、16日ソワレ。

 夜の街にジャズの音色が響き、マフィアが暗躍する1920年代、禁酒法時代のアメリカ・イリノイ州シカゴ。夫と浮気相手の妹を殺害した、セクシーな元ボードヴィル・ダンサー、ヴェルマ・ケリー(和央ようか)が現れて歌う。途中、ナイトクラブで働く人妻ロキシー・ハート(米倉涼子)が、彼女を捨てようとした浮気相手を射殺する…作詞/フレッド・エッブ、作曲/ジョン・カンダー、脚本/フレッド・エッブ、ボブ・フォッシー、初演版演出・振付/ボブ・フォッシー、日本版演出/ターニャ・ナルディーニ、翻訳/常田景子、訳詞/森雪之丞。1975年初演、1996年リヴァイバル版上演、1999年初の来日公演、2002年映画化。

 映画は大好きでしたが、来日公演は字幕が観たくなかったので観ていません。
 映画にはないナンバーもいくつかありましたが、舞台版にはもともとある歌なのかな?

 心配していた米倉涼子の歌は上手くごまかされていて、バレエの経験がかなりあるらしくダンスはまあまあ。
 タカちゃんもダンスはさすがで、歌はいかにも元男役のアルトでしたが、聴かせてくれました。
 しかし歌はなんと言ってもビリー・フリンを演じた河村隆一が圧巻で、声量といい音程といい、すばらしかったです。
 しかし歌は訳詞に問題があるというか、聞きやすくていいんだけれど、全体的に言葉数が少なくて味気ない感じがしたのは残念だったなー。
 コロスがセクシーだったり舞台の中央に位置したバンドの絡みがおしゃれだったり、なかなかいい舞台だったとは思うのですが、どうも照明が悪いのか、舞台ならではの異空間性というのがどうもあまりよく見えなかったのは気になりました。
 でも新装されたこの劇場は非常に見やすくて好感を持ちました。
 ラストシーンは映画同様、白いお衣装に着替えるべきだったと思います。それまでずっと黒い衣装でスタイリッシュに決めてきたわけですが、フィナーレは格別なはずなので。
 しかし美脚は堪能しましたよホントに…
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キエフ・オペラ『椿姫』

2010年03月19日 | 観劇記/タイトルた行
 オーチャードホール、2008年10月9日ソワレ。

 19世紀のパリ、10月。高級娼婦ヴィオレッタ・ヴァレリー(この日はリリア・フレヴツォヴァ)は社交界の華であり、今夜もにぎやかな夜会を開いていた。若い学生アルフレード・ジェルモン(ドミトロ・ポポウ)が現れ、「以前からあなたに憧れていて、先日あなたが病気だと聞いたときにはとても心配していました」と告げる…原作/アレクサンドル・デュマ=フィス、作曲/ジュゼッペ・ヴェルディ、台本/フランチェスコ・ピアーヴェ、舞台監督・演出/ドミトロ・フナチューク。1853年初演、全4幕。

 新訳が出ていたので原作も読みましたが、セリフが長くてまだるっこしい話で、「さっさと話を先に進めろよ」というのが一番の感想でした。そのリリカルさを楽しまなければならなかったのでしょうが…
 比べるとオペラ版はスピーディーでよりベタで超通俗的メロドラマに仕上がっていて、やはりこれくらいシンプルじゃないと歌唱をしみじみと味わえないよね、と思いました。二幕の「浮気者!」とか三幕の「決闘だ!」とかのヒキなんかもう、韓国ドラマかと突っ込みたくなりましたからねー。

 ヴィオレッタの声はとても甘やかで、容姿も美しく、堪能しました。
 くらべるとアルフレードはももうちょっと青二才に見えるほっそりした若者に扮していただきたい役なのですが、それはやはりつらいのかなー。どうしても恰幅のいい分別盛りのおっさんに見えるので、アルフレードが青いというよりは愚かに見えてしまうし、父ジョルジュ(ミハイロ・キリシェウ)にさとされるくだりとかもお馬鹿な男に思えてしまって、本当はドラマの流れとしてはそれじゃダメなんですよね。
 ヴィオレッタの友人フローラを演じたメゾのテチヤナ・ピミノヴァが長身で素敵でした。アムネリスなんかも持ち役なんだそうだ、すばらしい。
 演奏もよかったです。
 私はこのオペラのCDはライヴ版で持っているのですが、それでもやはり生だと音の立体感がちがいますよねー。
 来月のクラシックも楽しみです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『人形の家』

2010年03月19日 | 観劇記/タイトルな行
 シアターコクーン、2008年9月25日ソワレ。

 まもなく銀行の頭取に出世しようという弁護士ヘルメル(堤真一)とその妻ノラ(宮沢りえ)は、三人の子供とともに仲むつまじく暮らしていた。だがノラには愛する夫に決して言えない秘密があった。かつて夫が重病にかかった時に、その治療のため夫の友人クロクスタ(山崎一)から借金をし、しかもその借用書の署名を偽造していたのだ…作/ヘンリック・イプセン、演出/デヴィッド・ルヴォー、英訳版/フランク・マクギネス、翻訳/徐賀世子。1879年初演。全3幕。

 なんか、思っていたのと、ちょっと違う舞台でした。
 私はフェミニストなので、自分はこの舞台を観て、「ああ、今も昔も男ってホント変わらなくてダメだよね、ノラは私たちだわ、がんばれノラ、旅立っていけ!」みたいなことを思ってスッキリ感動したりすることになるのだろう、と思っていたのですね。
 でも、なんか…

 堤真一がわりと好き、というのもあるけれど、私にはヘルメルはごく普通のまっとうな男性に見えました。
 そりゃ、愚かだったり一方的な部分もあるんだけれど、そんなにマッチョってほどでもないし、時代から言っても社会から言っても典型的な男性ってだけで、その自覚のなさや思いやりのなさは十分許容範囲の、愛すべき人物に見えてしまったんですね。
 現代女性の立場からすると、もはや男性を目覚めさせようとか改造しようとかいう夢は抱けなくて、欠点ごと愛してつきあっていくしかないじゃん、という境地になりつつある、ということもあるのかもしれません。
 大ラスでヘメルルが起きるはずもない奇跡を願ってしまうのは本当にしょうもないんだけれど、でもそれも人間の弱さ・愚かさに見えたというか…男性が男性であるが故の絶望的なダメさ加減、には見えなかったのです。

 逆に、私にはノラがわがままな女に見えてしまいました。第3幕の彼女の豹変っぷりにはだからついていけなかったし、全然共感できませんでした。もぞもぞしている観客が多かったから、意外とみんなそう感じていたんじゃないのかなあ。
 ノラはそれまで自分で自分のことがわかっていなかったくせして、へルメルを「あなたは私のことをわかっていない」と糾弾しているように見え、それはあんまりなんじゃないのかなあ、と思えてしまったんですね。
 ノラは自分の「人形」っぷりに、あまり自覚的なようには見えなかったわけです。
 逆に自覚していたのだとしても、父親の人形、夫の人形の立場に甘んじてきたのはノラ自身であり、自身もそれが楽だったからその役に徹してきたんだろうから、途中で逆ギレするのは自分勝手すぎるんじゃないの、という気がしました。
 子供を簡単においていける感じも引っかかりました。私自身は子供があまり好きじゃないし、だからあまりにも母性礼賛なものを見せられると鼻白むんだけれど、でもノラはあまりにも子供に対して冷たすぎるのではないでしょうか? 愛のない夫に産まされたのだとしても、育てられないと言われたことがプライドを傷つけたのだとしても、物のように捨てていけるなんて…別の命、人格に対する愛情というものが感じられなさすぎです。
 つまりノラはプライドが高いというか高慢というか、自分のことしか好きじゃない、そういうわがままな幼い嫌な女なのでは?

 宮沢りえは出ずっぱりの舞台をとても上手くこなしていて、本当にノラに見えましたし、だから演技の問題ではないのだと思うのです。では演出の問題なのだろうか? ノラに対して多少のシニカルな視線がある、というのはあるとは思うんですよね。
 男もダメかもしれないが女だってダメなところもあるぞ、ということなのかなあ?
 どうも読後感…じゃない、観劇後の感覚がスッキリしない、不思議な舞台でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする