映画 ご(誤)鑑賞日記

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哀しみのトリスターナ(1970年)

2021-01-28 | 【か】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv12129/

 

以下、wikiよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 16歳で親を失ったトリスターナ(カトリーヌ・ドヌーヴ)は、老貴族のドン・ロペ(フェルナンド・レイ)の養女となる。若いトリスターナを、娘ではなく女としてみるようになるドン・ロペ。二人は事実上の夫婦となる。

 最初はドン・ロペの言うことを何でも聞いていたトリスターナだが、次第に自我に目覚めはじめる、そんなある日、トリスターナは若い画家オラーシオ(フランコ・ネロ)と出会い、恋に落ちる。

=====ここまで。

 ドヌーヴさま、27歳のときの作品です、、、。監督はブニュエル。3年前の『昼顔』と同じ顔合わせ。


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 フランス映画の古いのは苦手といいつつ、ブニュエル作品は何となく見ようかな、、、と思ってしまう。独特のヘンな感覚をまた味わってみたいと思う、不思議な監督だ……。


◆トリスターナの人生

 期待に違わぬヘンな映画ではあるが、でもまあ、これまで見たブニュエル作品の中ではかなりマトモな映画ではないかと思う。だって、一応ストーリーがあるもんね。

 ブニュエルの脚フェチぶりは本作でも健在。何しろ、トリスターナは脚の病気が原因で、脚を片方切断してしまうのだから。そして、その後、義足を付けたり外したりするシーンがあり、ときには、特に意味もなく外された義足が放置されているショットが映されているあたり、そこまで脚にこだわる理由は何ですか?? とブニュエルさんに聞きたくなるわ。

 おまけに、本作で義理とはいえ、娘を我が物にしてしまう狒々爺ィを演じているフェルナンド・レイは、『ビリディアナ』(1961)でも、若く美しい姪のビリディアナを薬で眠らせて犯そうとする伯父の役だった。またかよ、、、とフェルナンド・レイ氏はこの役をもらったときに思ったんじゃないかなぁ?

 『ビリディアナ』では、姪を犯すことをためらった伯父は自ら首を吊って死を選んだが、本作のドン・ロペは、厚顔無恥を地で行く狒々爺ィぶりで、見ていてキモいし腹が立って仕方がなかった。遺産を食い潰すだけで自らは何も産み出さず、エラそうに能書きを垂れながら、義理の娘を欲望の捌け口にしているという、文字通りのクソ爺ィ。

 しかし、この映画での面白さは、むしろ、トリスターナが片脚を失ってから、ドン・ロペとの力関係が逆転するところにある。この逆転ぶりが見事で、かつ鮮やかなんだが、それで見ている者が溜飲を下げることはなく、当然、カタルシスもない。なぜなら、トリスターナが本当に失ったのは、人を愛する心だから。タイトルどおり“哀しい”。

 終盤、トリスターナが、死にそうなドン・ロペを見捨てて、医者に電話をかけた振りだけするシーンを見て、『女相続人』(1949)を思い出していた。どちらも、尊厳を踏みにじられた女性の哀しい人生が描かれており、ラストは自ら孤独を選ぶ。それも、決然とね、、、。

 これを、トリスターナのドン・ロペに対する復讐と捉えるか、それとも、尊厳を取り戻すための選択と捉えるか。私は後者と感じたのだけど、それは、これまでのトリスターナの人生が急速巻き戻しのように映るラストで確信した。一瞬、ブニュエルらしからぬノスタルジーかと勘違いしそうになったけど、あれは、彼女の人生はこれしかなかったんだ、ということなんじゃないか。自分が非力だった一時期はドン・ロペの支配下に甘んじたけれど、その後、オラーシオと駆け落ちしたのも、駆け落ちからドン・ロペの下に戻ってきたのも、全ては彼女の意思で、ドン・ロペはあっけなく支配されることになった。トリスターナの人生に“もしもあのとき……”はないのだ。

 そういう意味では、こないだ見た『ラ・ラ・ランド』とは対照的。本作は“尊厳ある生き様”という人間の本質的な問いに切り込んでいると思う。


◆男の下半身問題。

 みんシネで本作の感想を読んだけど、『女相続人』でもあった「女は怖い」という文言が、本作でも書かれていた。

 書いている人は漏れなく男なんだが、この映画を見た結論が、「女」は「怖い」と感じる人って、単純に男の下半身の衝動に甘いだけでしょ。トリスターナがああなった理由を遡れば、ドン・ロペがあんなことを彼女にしたからなわけで。そこは棚上げで、トリスターナがドン・ロペを見捨てたとこだけを切り取って「怖い」だもんね……。中には、ドン・ロペの行為を「愛ゆえ」などと信じて疑っていない人もいて、そらそーゆー見方をする人にしてみりゃ、トリスターナは怖いでしょーよ、、、。

 そういう感想を抱く人たちには、あれが男女逆でも同じこと言えるの?って聞きたい。醜い老女が美少年を慰み者にし、美少年が長じた後、見殺しにされたとしたら? 老女の行為を「愛ゆえ」なんだから可哀想、、、と思うかしらね?

 男だと愛になり、女だと好色になる、、、これいかに。

 大体、「女は怖い」って言うけど、男も十分怖いですよ。一体どれだけの女性が男の性欲の犠牲になっているのか。腕力・体力では、大抵の場合、女性は男性には敵わない。女性が夜遅く一人歩きしていて、どれだけ周囲に用心しながら歩いていると思っているのか。それで、性被害に遭えば「そんな時間に無防備に一人で歩いているのが悪い」と被害者が責められるのだからね。安易に「女は怖い」などと寝言を言っている暇があったら、男の下半身をコントロールする教育をしろ、って話。

 自活できないトリスターナに、養う側のドン・ロペが関係を迫れば、16歳で世間知らずのトリスターナは訳も分からず応じてしまう、この構図は、セクハラ、、、いや、性的虐待そのもの。このドン・ロペの行為が弁護される余地など1ミリもない。時代が違うなどは理由にならん、卑劣そのもの。

 あの歳までお気楽にやりたい放題生きられたんだから、ドン・ロペは十分幸せな人生だったでしょ。どこが可哀想なんだか(呆)。


◆その他もろもろ

 ドヌーヴさまは相変わらずの美貌なんだけど、さすがに16歳には見えない、、、。髪型とかで頑張っているけど、ちょっとなぁ。あと、痩せすぎかも。……でも、中盤からはその美貌が説得力を持ってくる。

 本作は、セリフが上からスペイン語で音声が被せてあるらしく、トリスターナのセリフはドヌーヴさまの肉声ではないみたい。確かに、ちょっと、ドヌーヴの声より甲高い感じがしたような、、、。

 あと、ところどころで、大きな鐘楼の鐘に代わってドン・ロペの首がゆらゆらと揺れているシーンが挟まれるのだが、あれがかなり気味が悪い。トリスターナの深層心理的なものだと思うが、つまり、若い頃から彼女はドン・ロペのことを嫌悪していたのだ。

 オラーシオを演じていたフランコ・ネロはちょい出だったけど、やはりオーラを放っていた。渋いイイ男。

 教会とか、結婚とか、、、一応、宗教関係の描写もあるけれど、ブニュエルにしては珍しくその色合いは薄い。だから、逆に私にとっては見やすかった。

 

 

 

 

 


『昼顔』より本作の方がグッとくる。
 

 

 


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