映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ヴィオレッタ(2011年)

2014-05-21 | 【う】

★★★★★★☆☆☆☆

 自分が母親との確執を経験しているせいだろうけれど、つい、こういう作品は見てしまう。とはいっても、娘の立場に極端に感情移入するわけでもなく、結構、冷静に見ているつもりなんだけど。

 こないだ『8月の家族たち』で、娘たちがようやく母親に対して声を上げられるようになってきたことは良いことだと思っている、みたいなことを書いたばかりで、いきなり矛盾することを書くようだけれども、昨今、よく耳にする「毒親」という言葉が、私は嫌いである。一応、私も、スーザン・フォワード著「毒になる親」は読んだし、そこには共感できる部分もあったし、救われる部分もあったのは間違いない。だから、あの本に罪はないと思うが、「毒親」という言葉がネットで無責任に拡散し、言葉だけが独り歩きしている感が非常に強く、掲示板などでも「毒親」という言葉を見ると、「もう、いい加減にしてくれ」と言いたくなる。

 先日、某全国紙に、久田恵さんが「母娘問題 それぞれの自由な生き方へ」というタイトルで、昨今の安易な「何でも母親が悪い」的風潮を批判的に書いておられたが、おおむね同感だ。

 確かに、親のことで死ぬほど苦しんでいる人は少なくないはず。でも、思うにまかせぬ現状を「親のせいにしているだけ」の「毒親」大合唱の人々に、私は、いささか食傷気味だ。こういう親の子は、自分が親に毒されていることに気付いてはいても、それを解毒することをしようとしない。なぜなら、恐ろしいから。解毒=親からの自立=親との激闘を経なければ達成できない、という図式が、もう体で分かっているからである。中毒状態が苦しいけれども楽だと思ってしまうのだ。

 でも、それは大きな間違いだ。行動を起こすエネルギーを思うと卒倒しそうだからネットに愚痴を書きなぐっている人々には、そんなことしている時間はもったいない、と心の底から言いたい。1日も早く、自分の人生を取り戻さねば。人生には時間の限りが必ずあるのだからね。親に拘って生きるのも人生なら、親を心に封印して孤独な自由を生きるのも人生なのだ。どちらがより充実したものになりそうか、これ以上書くまでもない話。 

 と、前置きが長くなり過ぎたけれども、本作も、母親と娘の葛藤話。これはまあ、かなりヒドイ母親である。なんつったって、自分の名声・名誉のために、年端もいかぬ我が娘を裸にして写真を撮って、世間にばら撒いたんですからねぇ・・・。一応、アートだと世界的に評価もされる半面、容赦ない批難にさらされたのも当然だろう。

 本作は、しかし、母親の告発映画ではないように感じた。ポスターの惹句からは、告発ものっぽいイメージを受けるが、この監督エヴァ・イオネスコは、おそらく自分のために、そう、「解毒」のために本作をどうしても撮らざるを得なかったのだろうと思う。これは、もの凄くそう思う。なぜなら、母親に対する愛情を感じる描写も多々あったから。もちろん、これで解毒完了というほど単純なものではないと思うが、これはかなり大きなハードルだったに違いない。

 なにしろ、ヴィオレッタを演じたアナマリア・ヴァルトロメイが美しい。でも、体はまだまだ少女。このいびつさ。そして、背景の安っぽいゴシックアート。なんだか、ちょっとホラーっぽいと思ってしまったのは私だけかな。

 母親を演じたイザベル・ユペールはさすが。狂気じみた人を演じるのが、この人は本当に上手いと思う。当然、美しい。娘を愛していたのは本当だろうが、おそらくは、自己愛の方が強かった女性なのだと思う。自分の次が娘なのだ。でも、それってそんなに責められることなんだろうか。人間、誰だって自分が可愛い。そういう母親の子どもがもれなく不幸とも言い切れないだろうし。結局、母娘の相性に拠るところが大きいのではなかろうか。

 本作のラストは思わせぶりで、その後のこの母娘の成り行きが気になる。なので、パンフレットを買ってみたけれど、それについての言及は一切なかった。完全な和解はなかったのだろうな。そして、エヴァさんは、多分、一生、解毒を続けるのだろうと思う。そう、この中毒に完全治癒はないのである。いかに毒を薄めるか、これにエネルギーを注ぐ。でもそれは悪いことばかりではない。エヴァのように創造につながることだって多々あるのだから。

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