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「竹下村誌稿」を読む 89 榛原郡 25

(散歩道のコメザクラ)

午後、金谷宿大学、古文書に親しむ(経験者)講座の、今年度最後の講座。何とか2年目も終えることができた。四月からの新年度は二人増、一人減で12人の学生さんに落ち着いた。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

郡領は、郡司とも郡公とも称し、国司の下に属し、郡の政務を行なう長官なり。而して、その職掌は、大領、小領は郡内を撫養し、郡事を撿察し、主政は郡内を糺判し、文案を審査し、稽失を勾(とら)え、非違を察し、主帳は郡事を受けて上抄し、文案を勘署し、稽失を撿出し、公文を読み申すと見ゆれば、郡政の一班を知るべし。
※ 撫養(ぶよう)- かわいがってやしなうこと。撫育。
※ 撿察(けんさつ)- 調査。
※ 糺判(きゅうはん)- 誤りをただし、以後、誤りのないように指導すること。
※ 稽失(けいしつ)- 失敗すること。滞ること。
※ 非違(ひい)- 法に背くこと。非法。違法。
※ 上抄(じょうしょう)- 上へ注釈すること。
※ 勘署(かんじょ)- 考慮・作成して署名すること。
※ 撿出(れい)- 調べ出すこと。


この時、本郡に郡領たりしは、何人なりしか明らかならず。しかも郡領の任官も、康平の頃(1058~1065)までは、朝野群載に見えたれども、その後の事、詳らかならず。思うに中古、国郡の制を布かれたる当時は、これが実行を見たるも、漸く降りて朝綱の弛(ゆる)むに伴い、地方の政務挙がらず、尋(つい)で封建の世となりては、郡は行政上の区割とほとんど没交渉の有り様となりたれば、郡政の事伝わらず。従いて本郡行政の沿革も、知り易からずといえども、庄園時代となり、前に述べたる質侶、初倉、相良の三庄に、分かれし以来の概要を述ぶれば、
※ 朝綱(ちょうこう)- 朝廷の規律。

質侶庄
郡志に、院政時代、一たび皇家の庄園となりしもの、大治二年(1127)、鳥羽天皇の中宮侍賢門院の御願に因りて、円勝寺建立の事ありしより、これが庄園として寺家に施入せられ後、鎌倉の始め、板倉兼信地頭職に補せられしが、故あってこれを廃せしより、殆んど地頭不入の姿となるが如きも、応永三十三年(1426)に至り、清和院をして領家職半分の事を掌(つかさど)らしむ。されど、常時地方の権利は、早くすでに、今川氏の手に帰したるものゝ如し。

となせり。

本庄は、今川氏の勢力範囲に、ありし年代短きに非ずとするも、その間の消息詳らかならざるも、氏真没落後は武田氏の権利に属し、後山内一豊の領地となりしもの凡そ十年、徳川氏に帰するに当たり、幕領あり、私領あり、旗下の知行ありて、領主も一定ならず。犬牙錯綜すといえども、掛川藩領に属せるもの多きが如し、なお本稿質侶庄の条、併せ照らすを要す。
※ 犬牙錯綜(けんがさくそう)- 犬の牙のように両国の境界が入り交じること。
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